日記抄(8月6日~12日)

8月12日(土)午前中曇り時々小雨、午後になって晴れ間が広がる

 8月6日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
8月6日
 広島に原爆が投下されて72年。広島で被爆した子どもたちの文集『原爆の子』を原作とした関川秀雄監督の『ひろしま』(1953)二女教師役で出演された月丘夢路さんが今年亡くなられたが、月丘さんは宝塚時代に先輩であった園井恵子と『南十字星』という映画で共演している。稲垣浩監督の『無法松の一生』で吉岡夫人を演じたことで映画史に名を残した園井は、戦争中、丸山定夫率いるさくら隊に属し、各地を巡演中に広島で被爆して、その後間もなく死去した。月丘さんが園井の思い出を語っている記録があれば目を通してみたいと思う。『ひろしま』と競作の形になった『原爆の子』を監督した新藤兼人さんが『さくら隊散る』という映画を作っていることも記憶されてよい。

 関内駅の近くのミュージック・ステージ・イライザで別府葉子トリオのライヴを聴く。イライザというのはミュージカル『マイ・フェア・レディ』のヒロインの花売り娘の名であるが、前売り券を買った際にそのことを忘れていたのは不覚であった。そうでなければもっと早く会場を見付けていたかもしれない。40年前に死んだ父が最後に勤めた会社が関内駅の近くに今もあるので、この一帯には多少の親近感はあるのだが、実際に歩いてみないとわからないことが多い。

8月7日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の「文化コーナー」ではバスティーユ広場を話題として取り上げていた。
La place de la Bastillle tire bien évidemment son nom de la forteresse et prison dont la prise, le quatorze juillet 1789, marque le début de la Révolution française.
(バスティーユ広場は、フランス革命の始まりの1789年7月14日に襲撃された場所、つまり城塞で牢獄だったバスティーユから名前が取られている。)
 広場には、現在、円柱が立っているが、これは1789年のバスティーユ襲撃の記念碑ではなく、1830年の7月革命の3日間の記念碑である。バスティーユ牢獄が取り壊された後、ナポレオンが記念碑を建てようとして、できたのは石膏の像で、ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』で、少年ガヴローシュが寝床にする場所として描かれているそうである。
La construction de la colonne remonte à 1840.
(7月革命記念碑の建築は1840年に遡る。)
 私が現在読んでいるフローベールの『感情教育』の物語の発端が1840年で、間もなく1848年の革命が描かれている部分に差し掛かるはずである。
 「この広場はフランスでデモがある時に、その出発点になることもあり、歴史の重みを感じさせる場所です」(『まいにちフランス語』8月号、32ページ)と記されている。京都でメーデーなどの際に出発点になっていたのは二条城前の広場であったが、二条城は徳川慶喜が大政奉還を上表した場所である。私は、デモ中にそんな歴史を思い描いたことなど、一度もない。

 東海林さだお『猫大好き』(文春文庫)を読み終える。表題になっている「猫大好き」は「ぼくが小学生のころから現在に至るまで犬と猫とを切らしたことがない」(219ページ)という長い経験と観察に基づいて、ネコとイヌを対比したエッセーで、両者のしっぽの使い方の違いなど興味深い。「摘録 断定調日常」というのは永井荷風の『断腸亭日乗』のもじりだろうが、ご本家の文体の巧みな模倣などという芸を見せているわけではない。「東京駅で一日暮らす」は先日見た川端康成原作、川島雄三監督の映画『女であること』の中で、家出した久我美子が東京ステーションホテルに泊まっている場面を思い出させた。丸谷才一さんと川村二郎さんからエッセーをほめるはがきが同じ日に届いたので舞い上がっている「人生最高の幸せな一日」が収められている一方で、長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の国民栄誉賞受賞の様子を細かく描く「国民栄誉賞イン東京ドーム」の冷徹な目の光り方にも著者の個性を認めることができる。

8月8日
 NHKラジオ『ワンポイント・ニュースで英会話』でミシェル・オバマ前大統領夫人が夫の在任中、公式の行事の場で自分の衣装には注目が集まったのに、大統領が8年間同じタキシードを着続けていたことには誰も気づかなかったと発言したという話題が取り上げられていた。トランプ大統領の場合には、どういうことになるだろうか。

8月9日
 NHK『ラジオ英会話』ではsibling rivalry (兄弟姉妹間のライバル意識)が話題になったが、"Today's Dialog in Another Situation!”で桃太郎の弟のいも次郎なる人物が登場した。栗次郎とか、柿三郎とかならば思いつくが、いも次郎というのは想像力の相当な飛躍がある。おとぎ話の時代の日本には、サツマイモもジャガイモもなくて、いもというと里芋がヤマノイモだったというのを知ってか、知らずか。

 同じく『実践ビジネス英語』では
Something like 80 million people around the world have roots in the Emerald Isle.
(世界各地にいるおよそ8千万人がエメラルド島(=アイルランド)にルーツがある)
という話が出てきた。現在、アイルランドに住んでいる人よりも、先祖がアイルランドから他の国に移住してきたという人の方が多いのである。

 神保町シアターで小津安二郎の『麦秋』を見る。鎌倉に住む7人家族が、ずっと独身だった長女の結婚を機に解体していく話。これぞ小津安二郎という映画作りもさることながら、昭和26年(1951)の作品なので、自分の子ども時代の思い出を重ね合わせてみてしまう。7人家族の味噌っかすの二男坊が私と同じ年か、1歳上ということになるらしい。女学校時代の仲良しグループの中で、ずっと独身のままの原節子と、淡島千景が私たち未婚だから「ねーえ」という場面が、この2人の実人生と重なって見える。秋田に嫁ぐことに決めた原節子と、淡島千景がお互いに東北弁の使い比べをして、女学校時代に一緒だった佐々木さんの話し方を思い出せばいいというのは楽屋落ちで、小津の助監督から独立して、東映に移って時代劇を作った佐々木康が東北弁が抜けなかったことが念頭にあるようである。

8月10日
 『実践ビジネス英語』の昨日の話題の続きで、アイルランドで自分のルーツを調べる場合に最初にすべきことは、国立図書館の教区記録のウェブサイトを見ることであるという。実は、ダブリンのこの図書館に出かけて、入館証を発行してもらったことがあり、その時、手続きの窓口がアメリカ人用と、そうでない外国人用に分れていたのを思い出す。

 神保町シアターで小津安二郎の無声時代の作品『学生ロマンス 若き日』を見る。赤倉スキー場でロケをして撮影した、大学生の生態を描くコメディ。小津作品ではこういう若い時代の作品のほうが好きである。
 高橋治『絢爛たる影絵』(文春文庫、現在は岩波現代文庫に入っている)を読み返しながら、小津作品の特徴や魅力について考える。淀川長治が自分は庶民だから、鎌倉で暮らしている小津よりも、溝口の方が好きだというようなことを言ったのは、一首の煙幕ではないかと思えるのは、松竹蒲田時代の小津は下町の人情を描く映画を多く作っていたと高橋が述べているからである。むしろ高橋がいうように、蒲田時代の小津は既成のスターが出演する映画を作らせてもらえず、個性的なキャラクターをうまく生かすことで作品を支えてきた「いわば小津はノースター映画の専門家だった」(高橋、82ページ)というのがスター大好きの淀川の個性と合わなかったのではないかと思われる。その後、スター俳優を使うようになっても、小津は「のびのびと」演技させるようなことはしないで、自分の型に嵌めて演技をさせようとした(そのことで、彼から離れていった助監督の1人が今村昌平である)。
 小津の映画を見てはこの本を読み、読んでは映画を見ると、実にいろいろなことを教えられ、考えさせられる。

8月11日
 横浜FCはアウェーで徳島ヴォルティスと対戦、1-2で劣勢だったが、後半のロスタイムにイバ選手が右足でゴールを決めて追いついて引き分けたそうである。順位は依然として6位。イバ選手が利き足の左でなく、右で決めたというところにまだ望みはあるという気がする。

8月12日
 NHKラジオ「朗読の時間」の谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』の11~15回の再放送を聴く。品子のもとに引き取られた老雌猫のリリーがいったんは彼女のもとを逃げ出すが、戻ってきて、すっかり仲良くなる。品子は、ダメ男の庄造と別れてせいせいしている半面で、自分の女としての価値を認めさせて復縁したいという気持ちもある。それがネコとの関係にも反映しているようでもある。

亀田俊和『観応の擾乱』(2)

8月11日(金)雨が降ったりやんだり

 《観応の擾乱》は、室町幕府初代将軍足利尊氏と、その執事であった高師直と、尊氏の弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。この戦乱は観応元年(南朝正平5,1350、この本は基本的に北朝の年号を使っているが、両方の年号を併記した方が便利だと思うので、ここでは両方を併記する)10月から、南朝正平7年(北朝観応3,1352、ここでは珍しく南朝年号を採用しているが、そのことが両者の力関係の変化を示している)に終わったと考えられているが、戦乱で明らかになる室町幕府内での確執は貞和4年(南朝正平3、1348)ごろから始まっており、戦乱の一部とみなすことのできる戦闘は文和4年(南朝正平10、1355)ごろまで続いている。
 この戦乱のために南北朝の対立は長期化し、皇統の合一を遅らせたという側面もあるとはいうものの、初期の室町幕府の珂アm鞍幕府を模倣した体制が変化し、室町幕府独自の権力構造が生みだされたのは、この戦乱の結果であったと著者は論じる。室町幕府にとって、観応の擾乱が持つ政治史的・制度史的意義は計り知れないというのが著者の評価である。

 第1章「初期室町幕府の体制」で、著者は観応の擾乱を理解する前提として、室町幕府の成立の経緯とその中での政治の様相を、足利尊氏、足利直義、高師直がその中で果たした役割に焦点を当てながら描き出している。今回は、室町幕府の成立の経緯と、その初期の体制が尊氏・直義の「二頭政治」であったという通説に対し、直義こそ「事実上の最高指導者であった」と亀田さんが主張している部分を取り上げる。

 1 「三条殿」足利直義――事実上の室町幕府最高指導者
 室町幕府発足の大きなきっかけとなったのは、建武2年(1335)に勃発した中先代の乱である。鎌倉幕府最後の得宗であった北条高時の遺児時行が信濃国で挙兵して建武政権に対して起こした反乱である。鎌倉幕府を「先代」、室町幕府を「当代」と称した場合、時行は「中先代」ということになるので、この名称がある。
 当時、建武政権は関東地方に鎌倉将軍府と呼ばれる地方統治機関を設置しており、後醍醐天皇の皇子である成良(なりよし)親王を名目上の首長として、足利直義が執権として東国を統治していた。ところが関東地方に侵入した時行軍は直義軍に連戦連勝し、7月25日には鎌倉を占領してしまう。そこで弟の危機を救うべく、足利尊氏が8月2日に出陣、今度は足利軍の連戦連勝で、同月19日に鎌倉を奪回し、時行は敗走する。

 尊氏は後醍醐の帰京命令に従わず、旧鎌倉幕府将軍邸に邸を新築して居住し、反乱鎮圧に功績があった武士に対し建武政権には無断で恩賞として所領を給付した。これは尊氏側から見れば、中先代の乱の戦後処理を進め、北条氏残党を完全に鎮圧するための必然的な措置であったが、後醍醐側は、それを建武政権に対する謀叛と解釈し、11月19日に尊氏・直義兄弟を朝敵と認定し、新田義貞を大将とする官軍を出動させる。当初尊氏は、後醍醐天皇と戦う意思はまったくなく、寺にこもって恭順の意志を表明していたため、直義が主将として官軍と戦おうとした。ところが直義は官軍に連敗を続け、見かねた尊氏がついに挙兵、12月11日に箱根・竹ノ下の戦いで建武政権軍を破る。今度は形勢が逆転して、尊氏軍が東海道を攻め上り、建武3年(1336)正月に京都に侵入した。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠城して足利軍に対抗、両軍の激闘は続いたが、奥州から北畠顕家の援軍が到着したために建武政権軍が優勢となり、童月30日に足利軍は京都を撤退して九州まで落ち延びた。

 しかし3月2日の筑前国多々良浜の戦いで後醍醐方の菊池武敏軍に奇跡的な勝利を収めた足利軍は、4月3日に再び京都を目指して東上を開始する。5月25日の摂津国湊川の戦いでは名将楠木正成を敗死させ、29日に直義隊が先鋒として入京した。後醍醐天皇は正月に続いて2度目の正月に続いて2度目の比叡山籠城を行い、足利軍との熾烈な戦闘を続けた〔当ブログで連載している『太平記』は目下、このあたりの戦闘の記述に差し掛かっている。〕 この間、8月15日に持明院統の光厳上皇の院政が始まり、弟の豊仁親王が即位して光明天皇となった。〔厳密にいうと、光明という諡号が贈られたのは崩御後の話である。〕 こうして後に北朝と呼ばれる朝廷が発足した〔発足時点では、光明天皇の方が後醍醐天皇よりも南に皇居を構えられていたわけである。〕

 その後、戦局は次第に足利軍に有利になり、追い込まれた後醍醐天皇は10月10日に、足利尊氏と講和し、比叡山を下りた。11月2日には、後醍醐が光明へ三種の神器を授ける儀式が行われた。同月7日、新しい武家政権の基本法典である『建武式目』が制定された。これをもって室町幕府が発足したとみなすのが定説である。
 ところが12月21日、後醍醐天皇は大和国吉野へ亡命し、自分こそが正統の天皇であると主張した。〔「三種の神器」を持たずに逃げ出しているので、この主張は弱い。〕 南朝の登場であり、これから60年間にわたり南北朝の内乱時代が続く。
 建武5年閏7月2日(南朝延元3年、この年に北朝は改元して暦応元年、1338)、後醍醐の皇子恒良(つねよし)親王を奉じて越前国へ下向し、幕府軍に抵抗していた新田義貞が、同国藤島の戦いで戦死した。これが大きな契機となって、8月11日、北朝から尊氏は征夷大将軍、直義も左兵衛督(さひょうえのかみ)に任命された。その直後から、直義の幕政にかかわる活動が開始される。これをもって、室町幕府は一応完成したのである。

 「幕府が成立する頃、尊氏は直義に政務を譲ろうとした。直義はこれを再三辞退したが、尊氏の強い要望に断り切れずに受諾した。以降、政務に関して尊氏が介入することはまったくなかったという。」(4ページ) これは尊氏側近の武将が貞和5年(南朝正平4年、1349)ごろに完成したと考えられる『梅松論』に記された逸話である。著者は、『太平記』よりもこちらの方が史料的な信頼性は高いという評価も付け加えている。
 室町幕府発足の経緯からもうかがわれるように、観応の擾乱に至るまでの尊氏の政治に対する姿勢は、基本的に消極的であった。「実際、『梅松論』の記述を裏付けるように発足当初の室町幕府の権限の大半は直義が行使している』(5ページ)。
 そのような権限の第1は、所領安堵である。所領安堵とは、武士が先祖代々相伝し、実効支配を継続する所領の領有を承認する皇位である。所領安堵の手続き・審査は安堵方という機関で行われ、直義自らが出席する評定という機関で最終的に承認されて、下文(くだしぶみ)と呼ばれる文書が発給された。
 表情は、鎌倉幕府の時代に執権・連署が主催した最高意思決定機関で、特定の日付で定期的に開催され、それら特定の日付を「式日」と称した。
 直義主導下の幕府を最も象徴すると言っても過言ではないのが、直義が管轄した所務沙汰(荘園・諸職の紛争を調停する訴訟)の判決文である裁許下知状で、これまで93通発見されているという。
 多数現存する直義の裁許下知状を検討すると、武士に荘園を侵略された寺社や公家による提訴の事例が非常に多く、訴人(原告)の多くは、係争地を正統な根拠によって代々領有していることが一般的で、そのために訴人が勝訴する確率が非常に高かった。所領安堵・所務沙汰裁許に顕著にみられるように、直義の政治は基本的に現状維持を最優先する特徴があった。
 また、全国の武士に戦争への動員を命じる軍勢催促状は、幕府が発足すると直義が一元的に発給した。また合戦で手柄を挙げた武士に、その功を感謝する感状を発給したのも直義であり、彼は武家の棟梁に必須である軍事指揮権も掌握したのである。 しかも直義は、御家人の統制機関で京都市中の警察も担当した侍所も管轄した。
 さらに直義は、将軍家の安泰を祈祷する祈願寺の指定、北朝の光厳上皇が発給した院宣を承認する院宣一見状、武士が希望する官職を北朝に推薦する官途推挙状の発給など広範な権限を行使したのである。

 このように尊氏は、直義に政務を譲ったのだが、完全に隠居したわけではなかった。
 尊氏が行使した数少ない権限に、恩賞充行(おんしょうあておこない)がある。これは、合戦で軍忠を挙げた武士に、褒美として敵から没収した所領を給付する行為である。恩賞充行の手続き・審査を行ったのは恩賞方という機関で、これは尊氏が管轄したが、その開催は不定期であった。一方、尊氏の下文は直義のものよりも尊大な形式で記されており、彼の立場が直義よりも上であることが示されていた。
 また尊氏は守護の任命も行った。この時期に尊氏が行使した権限は恩賞充行と守護職補任の2つだけだったのである。

 初期室町幕府の体制は尊氏・直義の二頭政治であったという佐藤進一の説がこれまで定説となってきた。しかし、尊氏と直義が権限を均等に二分したのではなく、直義に大きく偏重している状況は「二頭政治」とは言いにくい。むしろ『梅松論』の記事をそのまま受け取って、初期室町幕府は直義が事実上の最高権力者として主導する体制であったと考えるべきではないかと著者は主張する。ではこの体制をどのように表現すべきか。
 桃崎有一郎の研究によると、この時期の直義は「三条殿」あるいは「三条坊門」と呼ばれることが最も多かった。後年の室町幕府では、首長の邸宅所在地である「室町殿」がその地位を表す名称として使用された。それを踏まえると、直義の地位を三条殿とするのは当然のことで、三条殿体制は、必ずしも将軍とは限らない人物が最高権力者として幕政を主導し、住居の名称で呼ばれる点で、足利義満以降の室町殿体制の先駆的な形態であったと評価できると論じている。

 以上、亀田さんは、室町幕府の初期における体制は、通説が主張してきたような尊氏・直義の二頭政治ではなくて、直義が実質的な最高権力者である体制であったことを強調しているのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(25-2)

8月10日(木)曇り時々雨、変わりやすい空模様

 1300年4月13日の正午に、ベアトリーチェに導かれて、煉獄山頂から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪問し、彼を出迎えた魂たちと、信仰と教会、地上の政治などの問題について議論を交わす。至高天から土星天へとのびている「ヤコブの階段」を上って、恒星天に達したダンテは、そこでキリストとマリアの天国への凱旋を目にする。そして、彼が自分の見聞を地上で語るのにふさわしい人物として、3つの対神徳を備えているかを、それぞれの徳を代表する魂から試験されることになる。第1の対神徳である<信仰>について使徒ペテロから試問を受けて合格した彼は、今度は同じく使徒大ヤコブから<希望>についての試問を受ける。ダンテが希望の徳を備えていることをベアトリーチェが証明したのち、彼は希望とは神の恩寵と生前の善行の両方のおかげで、死後、天国で永遠の至福に与ることへの希望であり、「詩編」の作者ダヴィデと、大ヤコブの書簡からこれを教わったと述べ、
「・・・そのために私は満たされ、
あなた方からの慈雨を私が人々に注ぎ込みます。」
(381ページ)と、地上に戻った後に、彼の体験に基づく叙事詩を書いて、希望の徳を広めるという決意を語った。

私が話している間、その烈火が包む生命の深奥で
閃光がきらめいていた、
突然、稲妻のように幾度も。
(同上) それは大ヤコブがこの答えを喜んで受け入れたことを示すものであった。そして、大ヤコブは希望が一体何を意味しているのかをさらに詳しく話すように求めた。
 ダンテは、希望については新約と旧約の聖書の中にさまざまに語られているが、
「・・・
イザヤは言っています。どの人も祖国では
二倍の服を身につけることになりましょう、と。
その祖国とはこの甘美な生のことです。

またあなたの兄弟はこの啓示をよりはっきりと詳細に、
白い衣について述べている箇所で
私たちに明らかにしています」。
(382-383ページ)と『イザヤ書』61.7の「その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける」という語句を典拠にして、祖国=天国での生こそが希望であることを述べ、『新約』の「ヨハネの黙示録」の中の「大群衆が、白い衣を身につけ」(7.9)という箇所で、この大群衆は天国に選ばれた人々で逢って、彼アrの天国での至福の在り方が説明されていると答える。

 この答えも受け入れられたが、
その後、ある光がそれらの間で烈しく輝いた。
もし蟹座にそれほどまで輝く水晶があったならば、
冬が昼間だけの一か月を持ったであろうほどに。

すると、喜ばしげな乙女が
何かの過ちゆえではなく、新婦にただ敬意を表するために
立ち上がって歩いてゆき、踊りに加わるように、

烈しく明るい輝きが、
燃え上がる愛に見合うように
愛に合わせて回る二人に近づいていくのを私は見た。
(383-384ページ) この新たに輝いたのは、十二使徒の一人(福音書の著者の1人で黙示録の著者である)ヨハネであり、3つの対神徳の中の残る<愛>を体現する存在である。そして彼らは三対神徳の輪を作って踊る。
 その姿をベアトリーチェはじっと見つめていた。
 「ヨハネによる福音書」21.23には「この弟子は死なないという噂が兄弟たちの間に広まった」という語句があることから、ヨハネは肉体を持ったまま天国に行ったと信じる人々がいた。ダンテはそれをここで確かめようとして誉阿h根の輝きを見つめ、一時的に視力を失ってしまった。その彼にヨハネの声が聞こえる。
「・・・
二つの衣をまとったまま祝福された僧院に
いらっしゃるのは、上にお帰りになった二つの光だけである。
このことをおまえたちの世界に伝えるがよい」。
(386ページ) 魂と肉体を持ったまま天国に還ったのはイエス・キリストとマリアだけであるという。とはいえ、視力を失ったダンテの動揺は小さなものではない。

ああ、私は心の中で何と動揺したことか。
彼女のそばに、そして至福の世界にいたにもかかわらず、
ベアトリーチェを見ようと振り向いた時に、

私は見ることができなかったのだから。
(386-387ページ) ダンテは3つの対神徳のうちの「信仰」に続いて、「希望」についての試問にも合格したが、目が見えなくなるなど、「愛」をめぐる試問には波乱含みのところがある。

 近代から現代にいたる聖書の批判的研究は、『新約聖書』の「福音書」が教会が伝承してきた作者によって記されたものではないことを実証的に明らかにしてきた。そういう目から見ると、『神曲』はいかにも中世的に思われるが、それでも誤った聖書解釈によりダンテが一時的に失明するなどの部分には、ダンテが彼の歴史的な制約の中で、『聖書』を合理的にとらえようとしていることが分かって、興味深い。魂と肉体とを持ったまま天国に昇ったのは2人だけだというが、旧約聖書に登場する預言者エリヤはどうかとか、どうも合理的に説明のつかない部分が残ることも否定できない。
 

シェルブールの雨傘

8月9日(水)晴れ、依然として暑し

 8月6日に、中区真砂町のミュージック・スタージ・イライザで行われた別府葉子シャンソントリオ(ヴォーカル&ギター:別府葉子、ピアノ:鶴岡雅子、ベース:中村尚美)の「サマー・ツアー2017」に出かけた。第1部では7曲、第2部では6曲、アンコールを含めて15曲が歌われた。これまでのコンサートで聞いた歌が多かった中で、第2部の最初に「シェルブールの雨傘」(作詞:ジャック・ドミー、作曲:ミシェル・ルグラン、訳詞:あらかわ・ひろし)が歌われたのが印象に残った。いうまでもなく、ジャック・ドミー監督の代表作である映画『シェルブールの雨傘』の主題歌である。

 別府さんのブログを読んでいて気づくのは彼女が映画が好きだということである。それもフランス映画が好きで、映画の字幕の翻訳者になろうと思ってフランス語の勉強できる大学に入ったという話も読んだ。今回のコンサートでも、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帳』という映画の話が出てきた。私は不幸にしてこの映画は見ていないのだが(「不幸にして」というのは単なる修辞で、実はそれほど不幸だとは思っていない)、昔のヨーロッパの(アメリカも多分同じ)社交界にはいろいろなしきたりがあって、舞踏会で踊る予約をした相手の名前を手帳に控えておくのもその一つである。ある女性が、年をとってから、その手帳に名前が記された男性を一人一人訪問してみるという話だそうである。別府さんは、それから先を話すとネタバレになってしまいますから…ということで話を打ち切った。ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、そしてデュヴィヴィエを(私の亡父が慶応ボーイだった)昭和10年代の日本の映画ファンたちは「フランス四大巨匠」と呼んでいた。私の父親が親しんでいたような古い映画にまで興味があるというのは相当なものである。

 さて『シェルブールの雨傘』は私が大学に入学した1964年に日本で公開された映画で、私の世代にとって懐かしい映画である。この映画は北フランス(ノルマンディー地方)の港町であるシェルブールを舞台に、愛し合う若い男女の男性の方がアルジェリア戦争のために兵役に取られてその中を引き裂かれて、それぞれ別の人生を歩むことになるが、偶然のことに再会し、それぞれの立場を理解して別れていくという話である。
 この映画を私はスクリーンで3回、TVで1回見ている。いつだったか、ラジオの『まいにちフランス語』で清岡智比古さんとレナ・ジュンタさんがこの映画を話題として取り上げたことがあって、爆笑コンビと称されるお二人がこの時はいやにまじめに話しているなと思った記憶が残っている。

 別府さんの歌を聴いて、映画の記憶がよみがえったのだが、特に気になったことが2つある。1つは既に書いたことだが、この映画がアルジェリア戦争を背景にしているということである。登場人物の運命に、アルジェリア戦争が何らかのかかわりをもっている映画として、アラン・レネ監督の『ミュリエル』とか、ロベール・アンリコ監督の『美しき人生』など、かなりの数の作品を取り上げることができる。先ほど触れたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の最後の作品である『悪魔のようなあなた』で、主人公のアラン・ドロンが記憶喪失になったのも、どうもアルジェリアでの戦争のためらしいというように、この戦争の影はかなり大きかったのである。つまり、日本と違ってフランスは第二次世界大戦終了後も、インドシナの独立戦争、アルジェリアの独立戦争という植民地の人々の独立を求める要求を抑圧する戦争を戦ったということであり、そのような戦争はその時代の若者にとって<過去>ではなく、<現在>の問題だったのである。フランス映画における<戦争>の問題を考える時に、このことは無視できないと思った。

 もう一つは、シェルブールの駅で出征していくニーノ・カステルヌオーヴォをカトリーヌ・ドヌーヴが見送るシーン。これはこの映画の中で一番印象に残る場面だと思うのだが、日本で出征兵士を賑々しく送り出す(NHKの朝ドラなどの戦争中の描写でよく出てくる)のと大変な違いである。見送るほうも、見送られる方も一人だけ。フランスは個人主義の国だといってしまえばそれまでだが、哀切さが心にしみる。
 『シェルブールの雨傘』はセリフを歌にするなどの実験的な工夫が施されているとはいえ、わかりやすい映画である。南と北の違いはあるが、同じ港町を舞台にしたマルセル・パニョルのマルセイユ三部作を思い出させるような物語の展開部分もある。その意味では、伝統的な<人情>が踏まえられている。これにくらべると、イプセンの劇を思い出させるようなアラン・レネの『ミュリエル』はきわめて難解である。『シェルブールの雨傘』のヒロインの母娘が金がないと騒いでいる一方で、ディオールの衣装を着ていることの非現実性を、アンナ・カリーナが批判したという記事を読んだことがあるが、本当のところ、アンナ・カリーナはこういう分かりやすい映画に出演したかったということではないかと私は勝手に想像している。(なお、私はアンナ・カリーナの方がカトリーヌ・ドヌーヴよりも好きである。念のため。)

 別府さんが8月6日に歌う歌の1つとしてこの歌を選んだことで、映画について、あるいはその社会的な背景について、いろいろと考えるきっかけになったと思う。そのことを私が8月9日に書き記していることの意味もくみ取っていただければ幸いである。
 

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(2)

8月7日(火)晴れ、台風は日本海岸の方を北上中とのことである。被害が出ないことを願う。

 1971年5月15日、司馬さんは伊丹を発って、空路、釜山に到着した。大阪育ちの司馬さんは、子どものころから韓国の人々やその文化遺産に触れてきたので、日本文化との共通性や異質性を考えながら、この国と文化についての関心を深めてきた。そして、両国の交流や対立の歴史の痕跡を訪ねるべく韓国を訪問したのである。

 釜山空港で入国手続きを済ませた司馬さんは、ガイドの任(イム)さんに迎えられる。彼女は少し前に、日本の実業界の要人たちの韓国旅行のガイドを務め、彼女の人柄に感動した彼らが東京に彼女を招待するという経験をしたばかりのところである。司馬さんが考えた旅行先は「あまり人のゆかない農村ばかり」(29ページ)ばかりだったので、旅行会社の社員が普通のガイドでは無理だと判断して彼女に依頼することになったようである。しかし、そのイムさんも、日程を知った時には驚いて、逃げ出そうかと思ったという。上品で底抜けに明るい性格の持ち主である彼女は、上海の日本租界の日本人女学校を卒業し、結婚後、少し遅れてソウルの名門梨花女子大学の英文科に入学した経歴の持ち主である。朝鮮動乱の時はまだ学生だったのだが、家族とともに釜山に逃れてきたが、その途中、北方軍の人の殺し方を何度も見て、その残忍さが今でも心に残っているという。

 宿舎に荷物を置いて、2人は韓国でいう壬辰倭乱(イムジンウエラン、秀吉の朝鮮の陣)のときに、朝鮮の勇将鄭撥(チョンバル)将軍が優先むなしく戦死した城跡を訪問し、さらに坂を上って、日本風の石垣が残っているところに出る。イムさんの説明ではここは倭城(ウェソン)といって、秀吉の派遣した毛利勢がここに城を築いたという。「なるほどそう言われてみると、本丸、二の丸、出丸などの跡らしい地形をなしている」(34ページ)。この本丸跡に、動物園が出来ていたが、それも廃止になってしまった。司馬さんはここで、50人ばかりの子どもたちに取り囲まれていた。彼らはここが倭城の跡であることは知らず、動物園の跡であることだけを知っている。
 「慶長の再役の時の毛利軍の大将は輝元の養子で安芸宰相と呼ばれた秀元であったが、秀吉の命令とはいえ、無名の師に従軍し、他人の国に攻めこみ、この海岸の山に大汗かいて大きな城を築き、結局は撤退し、その後が今は城跡というよりも「動物園」の呼び名で通っているというのは、何となくおかしくもあり、空しくもあり、ひるがえって考えれば、倭兵の居住跡が動物園などとは変なユーモアのようにも思える。」(35ページ)
 司馬さんは本当は、対馬藩(宗氏)が釜山に設けた倭館の跡を訪問したかったのだが、どうもうまく通じなかったが、それはそれでいいと考える。「それに対馬藩の倭館というのは釜山駅の近所だともきいたが、いずれにしてもあとかたもなく消えているもので、今は繁華な市街になっているのである。」(36ページ)

 それから司馬さんは対馬藩(宗氏)が日韓両国の板挟みになって苦労した歴史を振り返る。さらに近世から近代にかけての日韓中の国際関係についても触れる。旅行中でもそうした歴史的な知識の整理は続いているのである。文明開化の日本から洋服を着てやってきた人々を見て「…その形を変じ、俗を易(か)えたり・・・これすなわち、日本人と謂うべからず」(46ページ)と論難する。司馬さんが訪問したころの釜山の人々は、その多くが伝統的な服装をしていたという。「偉とすべきであろう」(47ページ)と司馬さんが敬意を払っているのも興味深い。(これは40年以上も昔の話で、今はそんなことはないはずである。私も10年ほど前にソウルを訪問したが、たいていの人が洋服を着ていたという記憶がある。)

 釜山の通りを歩いていて、司馬さんは戦争中の記憶がよみがえってきたように感じる。戦車隊の小隊長であった司馬さんは4両の中戦車とともに釜山駅を出発し、日本軍の演習用の廠舎に向かった。他の小隊の後をついていけばいいはずなのだが、貨車から戦車を下すのに手間取って他の小隊はみな出発してしまってから出かけることになった。ひどい方角オンチである司馬さんはどこをどうやって行けばいいのかわからず、仕方なく、時々車を止めて飛び降りては、道をゆく韓服の老若男女に、道をきいたりした。それで奇跡的に目的地に到達したのだが、「どうもあいつは防諜ということを知らん」と上官から苦情が出たらしい。

 「防諜もくそもないもので、この当時日本軍部そのものが暗号をアメリカに全部読み取られてしまっていて、しかも知らずに太平楽に戦争をしていたくせに、最末端のチンピラが道をきいたぐらいで叱ることもない」(50ページ)と司馬さんは、日本軍部の不合理性をここでも批判している。「当時の英軍幕僚のあいだで、「日本軍の中で一番馬鹿が参謀で、いちばん利口なのは現場現場の下士官ではなかろうか」という話が出たらしいが、真実をうがっているかもしれない」(同上)との意見も付け加えている。

 さらに下級士官以下に対しては、「すべての兵士はのろまで臆病だという前提から」(51ページ)、できるだけ兵士の安全を確保した装備を与え、丁寧にわかりやすく指示を出して、諸君の命は安全であるといい続けたアメリカ陸軍と、一兵に至るまでことごとく名人に仕立て上げようとした日本陸軍との違いを論じているのは、戦争体験のある人ならではの議論である。(司馬さんが学徒上がりの下級士官だったことも忘れてはならない。) 

 「韓(から)のくに紀行」という触れ込みで、むかしむかしの加羅、新羅、百済の旧跡を見て回るのかと思うと、近世から近代にかけての日韓の平和な時代と戦争の時代の交流史が前面に出てきている。司馬さんが戦車から降りて道をきくと、韓国の人々はみな親切に道を教えてくれたというところに何となくほのぼのとしたものが感じられるのだが、もちろん、戦争も戦車もないほうがいいのであって、平和な交流にはどのような可能性があるのかを考える方がいいわけである。
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