本村凌二 マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』

6月19日(月)晴れ、気温上昇

 6月18日、本村凌ニ マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』(祥伝社新書)を読む。古代ローマ史の研究家で馬事文化にも詳しい本村さんと、アメリカ人の日本文化研究家であり、『吞めば、都』という著書で知られるように居酒屋に詳しく、またジャズピアニストでもあるというマイク・モラスキーさんの対話。インターネットにより大量の情報が出回る中で、「居心地のいい場所」としての「穴場」(この対話では、酒を飲む場所というふうに限定しても構わないようである)が急速に減少しているという危機感を軸に、日本とアメリカについての比較文化論的な議論が交わされる。東京郊外のある穴場スポット=居酒屋で知り合ったというお二人が、それぞれの専門的な知識と多方面にわたる趣味とを背景に、縦横無尽に文明批評を展開している。

 まずどこを自分の「穴場」とするかは個人個人によって違うものであり、だからこそ、自分で店に入ってみて、ときには失敗をしながら、見つけていくものだということ。最近は、個人経営の店が減ってチェーン店が増えているので、個性をもった――自分の個性に合ったー―店を見つけるのがむずかしくなっているという話が第1章「ネット時代の飲食文化」では展開される。私見によれば、共通メニューのチェーン店でも、それなりの個性が生まれている場合もあり、特になじみの客になってくると、対応も変化する例もあるから、その点ではお二人よりも私のほうが楽観的に物事を見ているのではないかと思う。

 第2章「映画ヒーローの日米比較」は本村さんとモラスキーさんの選んだ映画ヒーローのリストが出ていたり、『ゴジラ』の上映内容が日本とアメリカで違っているという話が出てきたり、自分の意見と違うところを突っ込んでいくときりがなくなりそうである。映画の話は、この章に限らず展開されていて、お二人の映画好きぶりも相当なものと推測される。第3章「ギャンブルと文化」は競馬の話が主になるが、アメリカでは1988年に「インディアン賭博規制法」が成立して、ネイティヴ・アメリカンの居留地にカジノの設置が許可されたという話が注目される。「静かだった森に突然、異空間が出現し、住民の日常とは全くかけ離れた時間が流れる、まさに、異様な光景でした。」(90ページ) 日本の最近の立法などを視野に入れるともっと早く知っておけばよかったという気がする。

 第4章「地域性の彩り」では、地域によって多様な特色をもっていたアメリカの大衆音楽がラジオの出現によって地域性が薄められたという話から始まり、言語の地域的な差異、さらに階級的な差異に話が展開する。経験に基づく知見の展開が内容に制裁を与えている半面で、専門的な視角の不足も目に付く箇所である。さらに話が笑いにおよんで、本村さんが小津安二郎の映画の子どものユーモラスな描き方に触れているのが印象に残る。小津の子どもの描き方は私も好きである。第5章「街に生きる」は、都市計画と市民生活の問題、その中で東京がいくつかの小区画から構成されていて、それぞれの区画内を歩き回ることができるという指摘が興味深い。街づくりには経済的な効率を図るという側面と、それ以上に一貫した街づくりの理念を求めるという側面とがある。異種混合の世界に飛び込んで、そこを自分にとっての「穴場」にしていく勇気が求められるという。

 さまざまな話題が自由奔放に取り上げられているが、実は触れられていない問題、避けられている問題はそれ以上に多いのである。そうした話題の選択にも「穴場」の持つ二面性、《勇気》をもって探し当てる必要があるということと、その中に《逃避》して閉じこもってしまっていいのだということが現れているようでもある。比較文化論には様々な可能性が秘められていて、この対談はその可能性の1つを示しただけではあるが、ここで取り上げられた問題のどれか1つを詳しく検討してみるだけでも質量ともにかなりの仕事ができるのではないかと思われる。 

『太平記』(163)

6月18日(日)曇り、昼頃から雨が降り出す

 建武3年(延元元年、1336)4月末に、九州に逃れていた足利尊氏・直義兄弟が大宰府を発って東上、安芸の厳島明神で光厳院の院宣を得ると、備後鞆の浦で軍勢を手分けして、尊氏が海路を、直義が陸路を進んで都を目指した。中国地方での優勢を固めようとしていた新田義貞は直義軍の攻撃を受けて、摂津兵庫まで後退した。劣勢を挽回すべく、後醍醐天皇は楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。5月25日、足利尊氏の軍勢が海路兵庫につくと、新田方の本間重氏が遠矢を射て、戦闘が開始された。
 尊氏に合流していた細川定禅率いる四国軍は摂津の紺部の浜(現在の神戸市中央区)に上洛を図り、それにつられて新田軍は東へと移動、新田軍が陣を構えていた和田岬に尊氏の率いる九州・中国軍がやすやすと上陸し、湊川に陣を構えていた楠正成は敵中に孤立、陸路から迫ってきた直義軍と戦い、直義を危地に陥らせるなど奮戦したが、尊氏軍が直義軍に援軍を派遣、ついに楠兄弟は七生朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。

 正成戦死を知った新田義貞は、早馬を仕立てて京都にこの旨を報告、京都の朝廷は鎌倉幕府の大軍を退け、倒幕に大きな功績を残した正成が命を落としたことに大いに驚いたが、新田がなんとか敵を食い止めてくれるだろうと頼りに思ったことであった。

 ということで、尊氏、直義の兄弟がそれぞれの軍を合わせて、西から新田義貞の軍勢に戦いを挑む。義貞、義助の兄弟はこの様子を見て、紺部の浜から上陸してきた敵は、旗の紋を見たところ、四国、中国の武士たちと判断される。湊川の方面から攻めてくる軍勢こそ、足利兄弟と思われる。これこそ願うところの敵である」と、脇の浜(神戸市中央区脇浜町の海岸)から取って返し、生田の森を背にして、その率いる4万余騎を3手に分けて、敵を三方から迎撃しようとした。〔楠正成・正氏、新田義貞・脇屋義助、足利尊氏・直義、3組の兄弟がこの戦いに参加しているのが注目される。血は水よりも濃し、一族一門の団結のきずなの基本的な結びつきは兄弟の関係であったのである。戦いの継続とともに、兄弟は他人の始まりという時代が訪れる…〕

 新田軍、足利軍ともに勢いをつけようと、それぞれ一斉に鬨の声を上げる。まず、一番に、新田方からは大館氏明と江田行義が3千余騎を率いて、足利一族の仁木、細川、斯波、渋川の6万余騎の中に駆けこみ、火を散らして戦って、二手に分かれてさっと退却する。
 次に、宮方からは中院中将定平(戦闘に加わっているが、もともと村見源氏の公家である)、新田一族の大井田、里見、鳥山の武士たちが5000余騎を率いて、足利譜代の家臣である高、尊氏・直義兄弟の母親の実家である上杉、尊氏の盟友佐々木道誉、赤松一族の軍勢8万余騎の真ん中に駆け込み、1時間ほど黒煙を立てて戦闘を続けた。
 3番目に、義貞の弟の脇屋義助、宇都宮公綱、菊池武重、伊予の河野一族である土居、得能らの1万余騎の軍勢が、足利直義〔図らずも義貞と尊氏の弟同士の対決となった〕と足利一族である吉良、石塔、畠山、小俣、一色の10万余騎の中に突っ込み、天を響かし、地を動かし、両者入り乱れての乱戦を展開したが、戦死者が多く、両陣ともに退却して、いったん休息の時間をとった。

 この様子を見て、新田義貞は「控えの新しい軍勢は既になくなってしまったが、戦いはまだ決しない。これは大将たる私が自ら出陣すべき場面である」と2万余騎を左右に進め、尊氏の20万余騎の中にかけ入り、戦闘を開始する。いよいよ両軍の首将同士の対決である。一方が宮方の総大将で、新田家の嫡流の武将であり、もう一方は武家方の首将で、足利家の正統の武将である。ということで、名実ともに両軍を代表する存在として相争うべき存在である。ということで両方の軍勢が激突して激しい戦いが展開された。しかし、新田軍は軍勢の数において劣るので、命を捨てて勇敢に戦ったとはいうものの、ついに壊滅状態になり、残る軍勢はわずかに3千余騎、生田の森の東から丹波路を通って、都の方へと敗走する。

 足利方の軍勢は勢いに乗って、敗走する新田軍に襲い掛かる。しかし、総大将である義貞はこれまでの戦いでもそうしてきたように、味方の軍勢を無事に逃がすために、敗走する軍勢の後陣に引き下がって、戻っては戦い戻っては戦いしていた。そうこうするうちに義貞の乗っていた馬が矢を3筋まで受けて、進めなくなったので、乗馬の乗り換えをしようと思って待っていたが、味方の軍勢はこれを知らなかったうえに、義貞から見える味方の兵もその時は遠くにいたので、義貞を馬に乗せようとする人がいないという状態であった。

 これを見た足利方の軍勢は、数百騎の兵が争うように殺到し、義貞を取り囲んで討ち果たそうとするが、義貞は弓を引き絞って、近づいてくる武士たちをめがけて矢を射る。その勢いのすさまじさに圧倒されて、足利方の武士たちは義貞を遠巻きにして矢ふすまを作り、遠矢を射かけるだけであった。その矢が雨のように降りそそぐ中、義貞は源氏の家柄に代々伝わる薄金という鎧を着て、これも源氏に代々伝わる鬼切という(渡辺綱が鬼の腕を着たとされる)名刀を抜いて、鎧をゆすって札(さね)の隙間をなくし、あるいは矢を鎧の左袖で受け止め、あるいは飛んでくる矢を刀で切り捨てて、防いだので、その体には矢を受けて傷つくこともなかった。〔前回の楠正成が11か所の傷を負うていたというのと対照的である。〕

 そこへ、遠くからこの様子を見つけた小山田太郎高家という武蔵小山田(現在の東京都町田市内)の武士が馬を全速力で走らせて駆け付け、馬から飛び降り、自分の馬に大将義貞を急いで乗せ、自分自身は徒立(かちだち)になって、追ってくる敵を防いでいたのだが、大勢の敵に囲まれ、ついに戦死してしまった。その間に、義貞は敗走する自軍に追い付いて、きわめて危険な状態を脱し、しばらくは安堵したのであった。

 『太平記』の作者は尊氏・直義と義貞・義助の軍勢の戦いを例によって過剰な言語を連ねて描写するが、実態としてはどの程度激しい戦闘が展開されたのかは疑問である。新田軍の兵力が急激に減ったのは、自軍の何倍もある足利軍の軍勢を見て恐れをなして逃げ散った武士たちが少なくないからではないかとも思われる。戦闘の様子を見て、どちらにつくかを決めるという武士たちが多いからこそ、自分たちの武勇をもって何とか劣勢を挽回しようと義貞は考え、確かに武勇のほどは発揮したのだが、それ以前に細川定禅の陽動作戦に引っかかって、軍勢を東に移動させ(楠を孤立させてしまっ)たのが大きな敗因であった。そのまま和田岬の陣を動かず、正成と呼応して戦っていれば、あるいは勝機が生まれていたかもしれない。もちろん、一番大きな敗因は両者の軍勢の規模であって、その意味では後醍醐天皇は楠正成ではなく、大軍を動員する力量のある北畠顕家を派遣すべきであった〔といっても、この時点で、顕家は自分の任地である東北地方に戻っていたはずである〕。新田軍主力の勇猛さや団結力はたしかに賞賛に値するのだが、尊氏・直義兄弟に加えて、高師直、上杉憲房、細川和氏、細川定禅、佐々木道誉、赤松円心と軍勢だけでなく、存在感を持つ武将の数でも足利方の方が有利であったことは否定できない。 

日記抄(6月11日~17日)

6月17日(土)晴れ、日中は暑かったが、日が暮れると涼しくなった。

 6月11日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
6月11日
 日産小机フィールドでプレナスなでしこリーグ・カップ2部第2節日体大フィールズ横浜対横浜FCシーガルズの対戦を観戦した。第1節でコノミヤ・スペランツァ大阪高槻に9-0で圧勝した日体大優勢と思われたが、シーガルズが序盤にあげた1点を守り切って勝利した。

 横浜ムービル5で、『今からちょっと仕事やめてくる』を見る。ブラック企業で働く若手社員が人生の意義について改めて考え直すという話で、脚本が甘いのではないかと思った。

6月12日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』は、今週、「パリ植物園」(Jardin des Plantes)についての会話を取り上げる。植物園といっても、中に動物園もある巨大な施設である。登場する女性がいう:
On peut aller à la ménagerie. (動物園に行けるわね。)
ménagerieは小さな動物園で、研究用、種の保存用の動物園という含みがあると解説されていた。

6月13日
 『まいにちフランス語』で取り上げられた「パリ植物園」の話題の続き:
Le ménagerie du Jardin des Plantes est riche de 1200 animaux pour 180 espèces variées : mammifères, oiseaux et reptiles. (「パリ植物園」の中にある動物園には、哺乳類、鳥類、爬虫類あわせて180種類、1200もの動物がいます。) それほど多いとは思わないのだが、その中にはフランスでは珍しい、キノボリカンガルーやオランウータンも見られるという(オランウータンというと、ポーの「モルグ街の殺人事件」を思い出される方もいらっしゃるかもしれない)。この動物園はパリ5区にあり、1794年に開演した。現存している動物園ではウィーンのシェーンブルン宮殿にある動物園に次いで、世界で2番目に古いそうである。

 テレビ東京の『開運なんでも鑑定団』の本日のゲストとしてなべおさみさんが登場していたが、その紹介画面の中でも触れられていたなべさんの主演映画『吹けば飛ぶよな男だが』は山田洋次監督の作品中、初めて『キネマ旬報』のベスト・テン入りしたものである。鈴木清順監督の『肉体の門』で<黄色の女>を演じていた石井富子さんが、この作品で、犬塚弘が演じるうだつの上がらない下っ端のやくざの奥さんという新しい役どころを切り開いたことが特に印象に残っている。

6月14日
 またまた「パリ植物園」正式には「国立自然史博物館」について。この施設は17世紀にできた王立の薬用植物園が現在のパリ5区の場所に移動し、後に研究機関として発足したもので、フランス革命のさなかの1793年に博物館として一般に公開された。
Un des bâtiments les plus spectaculaires et les plus agréables du Muséum d'Histoire naturelle est la Grande galerie de l'évolution. (自然史博物館で最も目を引き、一番楽しい建物のひとつは「進化大陳列館」です。)
 進化論を唱えたことで知られるラマルクは、この植物園に務めていたが、生前、その学説を認められず、不遇であった(彼の学説に欠陥があったことも確かである)。「進化大陳列館」が人気を集めていることを彼が知ったら大いに喜ぶだろう。

 椎名誠『おれたちを笑え! わしらは怪しい雑魚釣り隊』(小学館文庫)を読み終える。ホームセンターで売っているプラスチック製園芸用品「若竹」を使って巨大テントを組み立てる話など、依然として新しい冒険・挑戦を繰り返す椎名さんの姿勢には大いに学ぶべきものがあるのではないかと思う。

6月15日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』でのソフトスキルをめぐる会話は、ソフトスキルの一種としてのチームプレーのための能力に話が及ぶ。
That's not something you can learn from a book or gauge with a traditional exam. (それは、本から学べるものでも、従来の試験で測れるものでもありませんからね。)
ここでgaugeという動詞は、「ゲージ」と発音する。番組では触れられなかったが、名詞として、鉄道の線路などの軌間距離という意味があり、その意味では「ゲージ」は日本語になっている。辞書にはgageという綴りも記載されているが、杉田先生も、ヘザーさんもgageという綴りを見たという記憶がないそうである。
 ソフトスキルをめぐる雑談は、結局次のような常識的な結論に落ち着く:
 In the end, it comes down to having the right combination of soft and hard skills. They're not mutually exclusive. (結局は、ソフトスキルとハードスキルをバランスよく兼ね備えることに行きつきますね。この2つは相いれないものではないのです。)

 吉田健一『舌鼓ところどころ/私の食物誌』(中公文庫)を読み終える。もともとこの文庫に別々に収められていた2冊を1冊にまとめて改めて刊行したもので、両方ともすでに読んだことがある。まだ、東京に数寄屋橋という橋があったり、新潟に東堀、西堀という堀があったころの全国食べ歩きの記録で、昭和20年代、30年代の雰囲気が濃く漂っているのが魅力的に思われる。東海道新幹線が開通したのが昭和39年のことであり、そのことによって駅売りの食べ物を買って食べる楽しみが減ったと記されていることが時代を感じさせる。

 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」の木曜日は”Heroes and Giants"と題して歴史上の重要人物を取り上げているが、本日は千利休が取り上げられていた。利休は茶の湯の理念や政治的な問題をめぐって豊臣秀吉と対立して、武士ではないのに切腹を命じられるのだが、その真相をめぐっては謎の部分があって、英語で説明するのは難しいなぁと思いながら聞いていた。<北野の大茶会>に代表される秀吉のパフォーマンスには好意的に評価できるところがあって、秀吉と利休のどちらが正しいとは簡単に結論は出せそうもない。とは言うものの、利休に一方的に切腹を命じたのはよくない。自分と意見の対立するものを抑圧するのは、抑圧する側の意見が客観的に見て正しい場合でも容認できることではない。

6月16日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「描かれた24人の美女」第20回は、ミラノのブレラ美術館にあるフランチェスコ・アイエツ(Francesco Hayez)の「キス」(Il bacio)という作品を取り上げた。接吻を交わす若い男女の姿を描いたこの絵には、イタリアの独立と統一をめぐる当時の動きを示す政治的な意味が隠されているという。
Hayez fu uno dei protagonisti della Milano del suo tempo, essendosi legato a due giganti della cultura italiana: lo scrittore Alessandro Manzoni e il musicista Giuseppe Verdi. (アイエツは当時のミラノにおける主要な人物の一人であり、作家アレッサンドロ・マンゾーニと音楽家ジュゼッペ・ヴェルディという、二人のイタリア文化の巨人とつながりをもっていました。)
 イタリアのリソルジメントと関連して、マンゾーニの『婚約者』や、ヴェルディの歌劇などの偉大な芸術が生まれたのだが、同じ時期のアメリカの南北戦争や、日本の明治維新と関連してどのような文化・芸術上の動きがあったのかというのは、大いに考える価値のある問題ではないかと思っている。

6月16日
 午後、日産フィールド小机でプレナスなでしこリーグカップ2部第3節横浜FCシーガルズ対スフィーダ世田谷の試合を観戦する。リーグ戦では0-1で負けた相手であるが、今回も序盤の好機を生かせずもたもたしているうちに、失点を重ね、1-3で敗れる。ニッパツの関係者らしい人が何人か私の後ろに座っていろいろと論評していたのが参考になった。
 夜、ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対モンテディオ山形の試合を観戦する。0-0の緊迫した展開が続き、後半のアディショナル・タイムの終わりの方で山形のカウンターから1点を失い、敗北。特にMF陣の消極的な競技ぶりが気になった。
 本日は男女ともに敗戦という最悪の結果となった。FCとシーガルズとでは試合内容のレベルが違うが、大事に行こうという姿勢が、もたもたしてボールを失ってしまうという結果につながるというところは両者に共通する問題点ではないかと思った。 

カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(3)

6月16日(金)晴れ

 イタリアのどこかにあるテッラアルバという村の領主であるメダルド子爵は、トルコ軍との戦いの際に、大砲の前に剣を抜いて立ちはだかり、砲弾を受けて左右まっぷたつに吹き飛ばされた。奇跡的に助かった子爵の右半身は故郷に帰って、領民たちを虐げ、悪行の限りを尽くす。子爵は村の羊飼いの娘であるパメーラを見初めて妻に迎えようとするが、パメーラは彼を避けて森で暮らすようになる。
 物語の語り手である<ぼく>は子爵の姉が密猟者と駆け落ちしてできた子どもで、両親を失い、城で育てられたが、主人の側にも使用人の側にも属していない自由な立場にあり、イギリス人の船医で、村に住み着いたトレロニー博士の研究の助手をして日々を過ごしていた。トレロニー博士は医者の仕事はせずに、奇妙な研究にばかり没頭していたのである。
 テッラアルバに子爵の左半身が戻ってくる。右半身と違ってひどく親切な様子である。そして、この左半身もパメーラに恋をしてしまったらしい。

 「はじめの半分は悪かったが、それと同じぐらい善い残り半分の子爵が帰ってきた、という知らせが広まると、テッラルバの生活は大きく変わった。」(113ページ) トレロニー博士はこれまでと違って、医者の仕事をはじめ、朝早くから往診に出かけるようになった。善い方の子爵はその往診の作業を助けたが、悪い方の子爵は邪魔をして回った。
 「こうしてぼくたちの村の生活は慈悲と恐怖のあいだを往きつ戻りつした。《善半》は(もう一方の《悪半》に対してぼくの叔父の左半身はこう呼ばれるようになった)今や聖人の列に加えられんばかりであった。」(116ページ)
 その間、パメーラは相変わらず森の中で生活していた。≪善半≫彼女のところにやってきて、乞食や孤児や身寄りのない病人たちのところから集めてきた衣類を彼女に選択させたり繕わせたりした。彼女にも善い行いをさせようとしたのである。そして彼女が洗濯ものを乾かすためにすっかり綱に張り渡すと、《善半》は彼女にタッソの叙事詩を読んで聞かせた。
 「パメーラには読書は何のたしにもならなかったから、草の上に横になって退屈しのぎに、虱をとったり(森のなかで生活しているとどうしても獣みたいになりがちだから)、お尻のかゆいところをかいたり、バラ色のはちきれそうな脚の線を眺めたりしていた。」(117ページ) パメーラが《悪半》を恐れながらも、《善半》に飽き足りない様子であるところに、作者のものの考え方を読み取るべきであろう。

 《善半》の人気が高まってきたのを知って、《悪半》は早急に相手を殺そうと考えた。そこで警官たちを招集して、《善半》を逮捕して死刑にせよと命じる。しかし、警官たちはクーデタを企てた。いまの半分の子爵をとらえ、監禁して、《善半》を新しい領主にしようとしたのである。しかし計画を知らされた《善半》が暴力に反対したために計画は失敗し、警官たちは処刑されてしまう。「《善半》は彼らの墓に花を運び、寡婦や遺された子供たちをむなしく慰めた。」(133ページ) 《善半》の思想や行為にも問題があることがはっきりし始める。
 メダルド子爵の乳母であったセバスティアーナは《善半》の善意に全く答えようとせず、彼に会うたびに彼をしかりつけた。「おそらく一種の母性本能から、またおそらくは人間の力にはかり知れぬ無意識の予感から、乳母はメダルドがまっぷたつに分かれてしまったことをあまり重視していなかったのだろう。」(134ページ) そして《悪半》のした悪事を、《善半》に対してしかりつけたのであった。
 次第に《善半》の善意の行動の限界や問題点が明らかになってくる。テッラルバの一角に癩患者達だけが住んでいる《きのこ平》という一角があり、そこでは「酒盛りが永遠に続いている」(49ページ)と噂されていた。しかし《善半》は彼らの体を治療するばかりでなく、その心まで治そうとしはじめた。「それゆえ、彼は常に来患者の中に分け入って道徳を説き、彼らの個人的な事情に鼻先を突っ込み、彼らの背徳行為に腹を立てて、お説教を繰り返すのだった。癩患者たちは《善半》に耐えられなくなった。《きのこ平》の楽しく放縦な時は終わった。片足の、ひょろ長い、神経質で、礼儀に厳しい、賢者気どりの、この半分の影のおかげで、誰も自分の好きなことができなくなってしまった。」(137ページ) 挙句の果てに、「ふたつの半分のうち、悪いほうより好い方がはるかに始末が悪い」(137ページ)とさえ囁かれるようになった。
 《善半》に対する賞賛が衰えていったのは、《きのこ平》の癩患者たちのあいだだけではなかった。次第に「非人間的な悪徳と、同じぐらいに非人間的な美徳との間で、自分たちが引き裂かれてしまったことを、ぼくたちは思い知っていった。」(138ページ)

 相反する心の持ち主であるメダルドのふたつの半身はともにパメーラを愛していたが、《悪半》は彼女を《善半》と結婚させ、その後で彼を殺して彼女を自分のものにするという計画を立てる。そしてかねてから手なずけていた彼女の母親を通じてこの提案を伝えるが、彼の意図を見抜いたパメーラは、《悪半》と結婚すると申し出る。それからしばらくして、彼女は《善半》とも結婚する約束をする。

 結婚式の当日、教会に《善半》はやってきたが、馬が足を痛めてしまった《悪半》は式に遅れてしまった。式が進んで、指輪の交換が終わった時に、《悪半》が到着し、《善半》に向かって剣を抜いてとびかかろうとした。しかし両者ともに、片足だったので、一本足で平衡をとりながら、戦うことは不可能だった。そこで、翌日の夜明けに改めて決闘を行うことにした。馬具商兼車大工のピエトロキョード親方が二人の決闘のための仕掛けを工夫し、二人はそれぞれ草原の上に円を描きながら戦い続けた。「そして左右の件かっくはばね用に跳びはねながら丁丁発止と渡り合った。が、剣尖は相手の体に触れなかった。突きを入れるたびに、刃は過たずに相手のひらめくマントに刺しこまれるが、どういうわけか、それぞれに相手の何もない側を、すなわちおのれ自身があるはずの側を、激しく突きたてるのだった。」(149ページ)
 さて、どのような結末が訪れるのだろうか。

 第二次世界大戦末期にドイツ軍に占領された北イタリアにおけるレジスタンスに参加したカルヴィーノは、その経験に基づいた最初の長編小説『くもの巣の小道』(1946)について、「ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』とスティーヴンソンの『宝島』とを一緒にしたような作品を書きたかった」と述べたというが、そのような作者の文学的な傾向はこの作品にも見て取れる。『誰がために鐘は鳴る』はスペイン市民戦争という現実の出来事を素材に正義の実現のために自分の命を犠牲にして戦う人間の物語であり、『宝島』は空想の中の、血沸き肉躍る冒険の物語だが、その結果として正義が実現するわけではない物語である。おそらく、その両者を人生の縮図として受け入れようとする矛盾に満ちた人生の認識が作者のものである。そこで、1人の人間の善と悪という簡単には一刀両断に区別することのできるはずがない分身が登場する。一方に歴史的な風土への写実的な描写があり、他方に子どもっぽい幻想と空想に満ちた物語の展開がある。2人の子爵の行為に苦しめられるテッラルバの人々は言う:
「大砲の玉が二つに引き裂いてくれたので、まだ助かった」と、人々は言いあった。「もしも三つに分かれていたら、わたしたちはどうなっていたか知れやしない」(138ページ) 空想の先にさらに空想がある。さらにその先に空想があるかもしれない。

 一見平易なおとぎ話に見えるが、その意味は複雑に入り組んでおり、物語の意味するところを簡単に言い切ることはできそうもない。実際に物語と取り組んで、その幻想と現実描写の入り混じった世界を味わってほしい。

 1回で論評を終える終えるつもりだったのが、パソコンの調子が悪くて3回に分けて取り上げることになり、物語の概要を詳しくたどりすぎたかもしれない。余計なことを書きすぎたのであれば、ごめんなさい。明日(6月17日)はサッカーの試合を2試合見に出かけるつもりなので、そのために更新が遅れるかも知れないことをご了承ください。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(21-2)

6月15日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて煉獄山の頂上にある地上楽園から天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を経て、土星天に達した。そこで彼は頂点が見えないほど高い一本の階段を見た。階段を伝って無数の魂たちが土星天に降りてきたが、その中のひとつの魂がダンテの傍に来てひときわ激しく輝いた。ダンテはベアトリーチェの許しを得て、この魂に質問する。彼はなぜ、ダンテのもとにやってきたのか。他の天では聞こえていた魂たちの合唱が土星天では聞こえないのはなぜか。魂は答える。肉体の聴覚をもっているダンテには、神に近いこの圏の魂たちの声は強すぎて耐えられないからである。この魂がダンテのもとにやってきたのは神の定めによるものである。そこでダンテは、さらに、その魂が神に選ばれた理由を質問した。

 その魂はまず、天上の世界にいる自分たちと神との関係からダンテに対する答えを説きはじめた。彼らは神から直接、神的な知と力である光を照射され、そのために彼らには、彼ら自身の力にさらに神の力が加わり、その高まったに認識力を意味する「視力」で神を見ている。
その御力が我が視力に加わり、
我を我以上に高めているため、
その流出の源である至高の本質を見ている。

そこから歓喜が来るがゆえに我は燃え上がっている。
というのも我は、我が視力に対し、それが明瞭なだけ、
己の炎の輝きを等しくしているからだ。
(322ページ) そして神を見ていることにより、神の視界ともいえる神の認識に触れることで彼らの喜びは増し、その喜びを示す彼らを包む輝きも強まる。そのため、彼らの輝きが強ければ、それだけ彼らの認識力も強い。

 しかし、その彼らの中で最も輝く魂(聖母マリアの魂)も、最上位の天使達である燭天使(セラフィム)達の中でももっとも認識力の強い天使も、神が彼を選んだ理由は理解できないと付け加えた。
なぜなら、おまえのたずねていることは、
永遠の掟の深淵に入り込み、
どのような被造物の視線からも隔てられているからだ。

ゆえに、必滅の者達の世界におまえが戻る時には、
そう述べ伝えよ。これほどの目標に向かって
足を進ませようなどとこれ以上思い上がらぬために。

人の知性は、ここでは輝き、地上ではくすむ。
それゆえ考えても見よ、天空に受け入れられたものでさえできぬことを
下界でどうしてできようか」。
(322-323ページ) 人間の知性は、天空では神の光、すなわち真理を受けて叡智となって輝く。そのような天空の魂たちが理解できないことが、地上の人間に理解できるわけがないという。

その言葉が私に限界を明らかにしたため、
私はその質問を離れ、引き下がり、
へりくだってその光にどなたか尋ねた。
(324ページ) すると魂は、
「イタリアの両岸に挟まれて峩々たる山々が立ち上がっている。
それはお前の祖国からそう遠くないところにあり、
雷(いかずち)さえはるか下で轟くほど高く聳え、

カトリアと呼ばれる山塊をなしている。
・・・」(324ページ)と、その履歴を語りはじめる。香取アさんはダンテの故郷であるフィレンツェから約120キロのところにある山で、標高1700メートル、その麓にベネディクト会系のカマルドーリ修道会に属する聖(サンタ)クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院があり、彼はそこで修道士となったという。そして簡素な食事だけで神を思惟する観想の生活を送った。彼の名はペトルス・ダミアーヌスであり、後年、ラヴェンナの別の修道院に引きこもった時にはペトルス・ペッカトール、つまり罪人ペトルスと名乗ったと答えた。

 ペトルス・ダミアーヌス(1007-1072)はラヴェンナの人で、若いころに法学等を学び、法律家として成功、財をなした後に世を捨て、30歳で聖クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院の修道士となり、1043年にカマルドーリ修道会総長、1057年枢機卿に就任し、世俗化する教会に批判的な立場から教会改革に参加し、使徒的教会への回帰を訴えた。しかし修道院への復帰を強く願い出て認められた後、ラヴェンナではなく、以前にいた聖クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院に隠棲した。ダンテが言及している、ラヴェンナの修道院とは、聖マリア・イン・ポルト教会のことであるとされる。この修道院はダミアーヌスとは別のぺトルス・ペッカトールと呼ばれる人物が設立したが、ダンテの時代には両者が混同され、彼がラヴェンナで『天国篇』を執筆していた時に、ペトルス・ダミアーヌスは世俗化する高位聖職者達に憤慨してこの修道院に隠棲したとする説が広がっていたと推測される。
 ラヴェンナはイタリア北東部のエミリア・ロマーニャ州にあり、西ローマ帝国の最後の首都であったこと、ダンテがその晩年を過ごしたことで知られる都市である。したがって、この都市の出身で教会の世俗化に対する批判を展開したペトルス・ダミアーヌスがここで登場するのは意味のあることである。

 天国のペトルス・ダミアーヌスは、自身の希望に反して枢機卿位につかされたと述べた後、その枢機卿位は悪人からさらに邪悪な人物へと引き継がれ続けていると語った。そして原始教会で活躍した使徒たちの清貧の上に教会が建てられたこと、原始教会が霊的な指導力を発揮したことを述べた。それに比べてダンテの時代の高位聖職者たちは、贅沢な生活のために自分では馬に乗れぬほど太り、またその権勢で周囲に人を侍らせてかしずかせ、「獣」、つまり悪魔と化してしまったと続けた。
だが今や、現代の牧者たちには、両側から支える従者、
彼らを乗せて運ぶ従者、彼らを後ろから押し上げる従者が
必要なのだ。それほどまでに重々しいのだ。

あの輩(やから)は大外套で乗馬を覆うため、
一つの皮をかぶった二頭の獣が進んで行くことになる。
これを看過されるとは、なんという忍耐であらせられるのか」。
(326ページ) 「重々しい」には、高位聖職者たちが贅沢で太っていることと、また彼らの尊大な態度の2つの意味が込められている。「二頭の獣」は馬と高位聖職者を表す。「獣」は「黙示録」などでは悪魔を意味している。ペトルす・ダミアーヌスは高位聖職者たちの神への冒涜のような行為に対する罰を神に願っている。

この声とともに、さらに多くの炎が
段から段へと降りてきて自転するのを私は見た。
そして回転するたびにそれらはより美しくなっていった。

それらはこの炎の周囲に来て留まると、
ここ地上では似ているようなものがないほどの
高い音で声を上げた。

私はそれを理解できなかった。その雷鳴はそれほどまでに私を圧倒した。
(326-327ページ) 高位聖職者たちの贅沢な生活を批判するペトルス・ダミアーヌスの声を支持するかのように多くの炎がその周りに集まる。神に近づいた土星天で発せられる声は、ダンテの認識を越えたものである。こうして第21歌は終わる。またペトルス・ダミアーヌスの世俗支配を皇帝権に任せ、教会は使徒的生活の上に精神の指導者であるべきだと主張していたが、これはダンテの政治思想に影響を与えたと言われる。ダンテが地上の人間に神意の理解はできないと執拗にいい続けているのは、当時の教皇や高位聖職者たちが神の名を借りて自らの勢力拡大の意志を正当化してきたからであったと翻訳者の原さんは解説している。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR