フローベール『感情教育』(5‐6)

2月17日(土)晴れたり曇ったり

これまでのあらすじ(1~4)
 1840年の秋、帰省のためセーヌ川をさかのぼる船に乗った18歳の青年、フレデリック・モローはアルヌーという画商と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。フレデリックには、シャルル・デローリエという高校時代の友人がいて、地方の公証人事務所の書記をしているが、パリで一緒に生活しようと約束している。没落しかけた旧家の跡取りであるフレデリックと退役した軍人の子であるでローリエは、育ち方も性格も違うが、親友同士なのである。
 パリに出たフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズや、知り合ったばかりのアルヌーを尋ねるが軽くあしらわれるだけである。もともと夢想家で芸術に関心があるので、法律の勉強に身が入らないが、出世主義者のマルチノンや、おとなしい貴族のシジーなどの友人ができる。
 1841年にパリで暴動が起きた際に、警官に拘束された青年デュサルディエを助けようとしたことから、フレデリックは同じ法学部の学生であるユソネと知り合う。演劇に関心のあるユソネとフレデリックは意気投合しただけでなく、ユソネの手引きで彼はアルヌーの経営する新聞社に出入りするようになる。そしてアルヌーの家で開かれた晩餐会に招かれたフレデリックはアルヌー夫人と再会し、恋心をさらに募らせる。実は彼が初めて晩さん会に招かれた日に、父親が管理していた財産を手に入れたデローリエがパリに出てきたのであった。
(5)
 フレデリックのアルヌー夫人への思いを心配したデローリエは、彼の気を紛らわせるべく友人たちを集める、マルチノン、シジーのほか、アルヌーのもとに出入りしている画家のペルラン、デローリエの友人で社会主義者のセネカル、さらにユソネがデュサルディエを連れてくる。
 なかなか勉強に集中できないフレデリックは、デローリエの応援にもかかわらず2度目の試験に落第する。一方、マルチノンは合格して輝かしい未来を約束されるようである。
 試験を再受験するという名目でパリにとどまったフレデリックは、アルヌー夫人を思って悶々としている。何とか気持ちを変えさせようとデローリエが社交的な踊り場に彼を連れ出す。シジー、ユソネ、デュサルディエが一緒である。ユソネが二次会の段取りをつけたが、フレデリックはアルヌーが来ている気配を察して彼を探しに出かける。愛人のヴァトナと一緒だったアルヌーはフレデリック一同を愛想よく迎える。ヴァトナとデュサルディエが知り合いだったことがわかる。シジーやユソネが相手を見つけて去って行った後、フレデリックとデローリエは相手の女性が見つけられないまま取り残される。

 「二人の友は歩いてかえった。東風が吹いていた。おたがいに口をきかなかった。デローリエは新聞社長の前で《はえなかった》ことを残念に思っているし、フレデリックは憂鬱に沈みきっていた。やっと口をひらいて、あんな踊り場は馬鹿馬鹿しいといった。
 「誰のせいだい? もしきみがあのアルヌーのそばへゆくのでおれたちと離れなかったら!」(123ページ)
 確かに、ユソネが《ダマエギ侯爵夫人》と話をまとめかけたときに、フレデリックがアルヌーのところに出かけてしまったために、話がご破算になってしまったのは事実である。しかし、恋愛に幻想を抱かないデローリエと、恋愛への幻想に浸りきっているフレデリックとのこの点での距離は、極めて大きいし、客観的に見ればデローリエが自分の価値観に基づいてフレデリックの世話をしようとするのは見当はずれのおせっかいも甚だしいのである。

 二人は、議論にならない議論を続けた後、突然、デローリエが言う。「今度、通りがかりに出会った女をぼくが《ものに》するかどうか、百フラン賭けるかい?」(124ページ)
 デローリエは、背の高い娘に話しかけ、とうとう、娘は彼の腕にすがることを承知する。デローリエと娘は歩道を行きつ戻りつして、デローリエとフレデリックの住まいに向かう。「デローリエはそばにいられては邪魔だ、きみも同じようにしたらよかろう、という意味を明らかにみせた。」(同上) 追い出される格好になったフレデリックは《こちらには、あんなのより百倍も貴重な、もっと気高く強い恋があるのだのに》何か怒りに似た気持ちに駆り立てられて、アルヌー夫人の家の前まで来てしまった。」(125ページ)
 家の前までやってきたところで、何事も起きるわけがなく、そのままフレデリックは夜のパリの街を当てもなくさまよい続ける。

 夜が明けて、家に帰ってみると、デローリエは女を返してしまっていた。午後になってシジーがやってきて、昨夜の首尾の仕上げをしたいという。デローリエは、フレデリックに自分の薬が効いたと思い込んで上機嫌になる。
 フレデリックはデローリエがクレマンスという娘と仲良く外出したりするのを見ると、侘しい気分になったりするが、その一方で自分がアルヌー邸に出かける前にいそいそとしているのをデローリエがやっかんでいるのに気付いていなかったのである。

 ある夕方、ユソネがフレデリックに連絡してきて、次の土曜日がアルヌー夫人の誕生日なので、祝宴に出席してほしいという。ところがフレデリックが自分の住まいに戻ると、ダンブルーズ夫妻から同じ日に晩餐に招待したいという招待状が届く。こういう正体は受けなければいけないと、それを見たデローリエが承諾の返事を書いてしまう。現実主義者の彼は、それが自分の成功に結び付くかどうかという観点でのみ社交的な付き合いを評価するのである。
 それでも、アルヌー夫人には誕生日のお祝いを送らなければならないと考えたフレデリックはちょうどいい贈り物として175フランする象牙彫りの小さな柄のついた、玉虫色の絹の日傘を見つける。手元不如意のフレデリックは、デローリエから借金をしてその日傘を買う。

 運のいい偶然が起きて、ダンブルーズ家で身内の不幸があり、招待が延期になる。そこでフレデリックはアルヌーの新聞社に出かけるが、アルヌーは彼を待つことなく、郊外の別荘に出かけていた。フレデリックが店のものと話していると、ヴァトナ嬢がやってきて、アルヌーと会えないのを残念がり、その結果、彼女が書いた手紙をフレデリックが彼のところに届けることになる。
 別荘についたフレデリックは、アルヌーに手紙を渡す。アルヌーはできるだけ早くパリに戻らなければならなくなりそうだという。アルヌー夫人の誕生日に招かれた客たちが集まってくる。それぞれが何か贈り物を用意してきたが、ユソネは何も持ってこないで済ました。フレデリックも自分の贈り物を渡した。祝宴は楽しく進んだが、アルヌーは9時半ごろに馬車でパリに戻ると言い出す。一同は、別荘の周囲を散歩しながら、議論に興じる。

 こうして人々が戸外に出て、それぞれ相手を見つけて話をするようになったということは、フレデリックにとってもアルヌー夫人と話をする、思いを打ち明ける好機となるわけである。さて、フレデリックはどのように自分の想いを伝えるのであろうか。
 
 

エラスムス『痴愚神礼賛』(8)

2月16日(金)晴れたり曇ったり

 鈴の房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして登場した痴愚の女神が自賛の演説を展開します。自分こそが世の中を明るく、楽しいものにしてきたのに、そのことが忘れられている。自分で自分を礼賛する演説をしなければ、だれも自分の偉大さに気づかないだろうというのです。彼女はまず、人生そのものが男女の愚かな営みによって始まるのだといい、その人生も馬鹿げた戯れがなければ、つまらないものだと主張します。友情も結婚も相手の欠点に気づかないからこそ長続きするのであるし、国家を支えているのは愚かなおとぎ話でしかないと指摘します。学芸は虚栄心によって発展してきたし、人間の精神の大部分を占めるのは情動だとも論じます。理性的であろうとしても、付き合いにくい人間だとして他人から遠ざけられることは必定だといいます。

〔31〕
 女神は高いところから人間の世界を見下ろしてみればわかるように、「人間の一生というものは、なんとまあ数々の厄災に見舞われていることでしょう」(77‐78ページ)と述べてその生涯に付きまとう苦難の数々を列挙します。痴愚の女神(エラスムスの創作で、ギリシア・ローマ神話にはこんな神様は登場しません)は異教世界の存在ですから、「そもそもどんな罪を犯したがゆえに、人間たちはこんな目に合わねばならないのか」(78ページ)ということは説明しません(キリスト教世界の人間であるエラスムスと、多くの読者にとってそれは自明なはずのことです)。昔から、賢明であるがゆえに、これらの厄災と向かい、結局は自殺を選んだ人間は数えきれないと彼女は言います。しかし、もっと多くの人間は「一つには無知なために、また一つには思慮が浅いために、それにしばしばもろもろの悪が存在することを忘れて、ときには幸福が生まれることを期待して」(79ページ)生き続けています。「生きてゆくことへの嫌悪感なんぞは、きれっぱしほども持ち合わせていないのです。」(同上)
 そして男女を問わず、年をとっても愚かな快楽に身を任せ続けている人間が多いと指摘します。「愚かではあるが至極楽しい生活を送るほうがいいか、それとも、世にいう首を吊るための梁を探すほうがいいか」(81ページ)と問いかけます。他人からバカなことをしていると指摘されても、本人がそれでいいと思うのならば、いいじゃないかというのです。

〔32〕
 この主張に対し、「痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである」(82ページ)と哲学者たちは反論するだろう。しかしこれは「痴愚こそはまさしく人間の性(さが)にかなっている」(83ページ)ことを無視した議論だと女神は一蹴します。
 あるいは人間だけに学問をする能力が備わっていることをどう受け止めるのかという議論もなされるが、学問は幸福のために役立つどころかその障害になるとさえいいます。そして学問は悪霊によってでっち上げられたのだという説まで開陳します。
 「本当のところ、黄金時代の素朴な人々は、なんの学問も身につけずに、自然の導くままに、本能にまかせて生きていたのです。争いやもめごと、犯罪のない社会に法律は必要がないように、難しい学問は必要なかったのだというのです。しかし、「この黄金時代の純粋さが次第に失われてゆくにつれて」(85ページ)悪霊たちが学問を作り出し、それが次第に力を増したのだと説明しています。学問は人間たちの頭を悩ますだけのものであると女神は極言します。〔ギリシア・ローマ神話では、大昔にはこの女神が言うような「黄金時代」があった、その後人間は堕落を重ねて現在に至るという一種の下降史観が有力でしたが、女神はそれを取り入れています。これは、18世紀の啓蒙思想における進歩史観とは対照的なものであることに注目しておきましょう。〕

〔33〕
 女神はさらに言葉を続けて、「しかしながらこれらの学問のうちで、一番役に立つとされているのは、常識、つまりは痴愚に最も近いものなのです。」(85ページ)と述べます。何事も常識に従っておけば安全だというわけでしょうか。世間の人は役に立たない理屈ばかりこねまわしている学者先生をそれほど尊敬はしないが、実際に役に立つ存在である医者だけは大事にされているといいます。「学問・技芸は痴愚に類すること近いほど、幸福をもたらしてくれるもので、あらゆる学芸・技芸などとはなんのかかわりも持たずに済み、ただ自然の導くままに生きている人たちこそが、はるかに幸福なのです。・・・自然は虚飾を嫌いますから、何であれ技芸によって損なわれていないものほど、成功を収めるのです。」(86ページ) 何事も自然に任せればいいというのです。〔もっともこの「自然に」という言葉は案外曲者で、何が「自然な」ことであるのかは人によってかなり意見の異なることではないかという気がします。〕

〔34〕
 そして女神は聴き手の関心を動物の世界に向けさせ、自然に従って生活を営んでいる蜜蜂たちの幸福と、「人間に近い感覚を持っているため、人間と一緒に住むことになったのですが、人間と同じ悲惨な目にあって」(87ページ)いる馬とを対比します。あらゆる動物の中で、人間だけが定められた境遇に満足せず、それを踏み越えようとして、かえって不幸になっているのだと主張します。

〔35〕
 愚か者=「できるだけ動物の本性と愚かさに近づき、人間の分際を超えるようなことは何一つ企てたりせぬ人たち」(89ページ)こそが、「もっとも不幸ではないように思われます」(同上)と女神は断じます。「愚か者たちは、自分自身がいつも陽気で遊びたわむれ、歌ったり笑いこけたりしているだけではなく、どこへ姿を見せようとも、ほかの人たちに楽しさと、冗談と、戯れと、笑いとを振りまいてくれます」(90ページ)とその役割を称賛します。だから彼らは他の人々からも愛される存在だといいます。

 痴愚女神の矛先は、今回は学問や学者に向けられる部分が多かったのですが、これを書いているエラスムス自身が学者であったということを忘れてはなりません。エラスムスの本意は、学問こそが人々を幸福にするものであるというところにあるわけですが、女神の弁舌があまりにもさわやかで、ひょっとしてエラスムスもある程度はそう思っていたのではないかと思わせるようなところがあります。知と無知の関係は相互的なところがありますから、エラスムスも苦笑しながらこの部分を書いていたのかもしれないと思ったりします。

書庫の見張り

2月15日(木)晴れ

書庫の見張り

ねずみは
本が大好きで
大好きで
大好きだといっても
本をかじるのが大好きで、
書庫の人間が気付かない
穴の奥から
機会をうかがっている

書庫の持ち主にとって
本は読むためのものだから
かじり取られては困る
本をチーズかジャガイモのように
かじり散らされては困る

そこで投入するのが
ねこ2匹
ねこには猫のカンがあり
ねずみの気配を嗅ぎ付けては
勇み立っている

本といえば
枕にして寝るだけだった
ねこたちが
大役に就く
それが大役だと思っていないのが
いいところ
ねずみが出ないように見張っていればいいのだからね――と
キャット・フードの袋をあける・・・

小川剛生『兼好法師』(9)

2月14日(水)晴れ

 『徒然草』の作者は卜部兼好、仮名を四郎太郎といい、金沢流北条氏に仕えて鎌倉と京都を往復しながら雑用を務めていた侍であったが、金沢貞顕が六波羅探題北方に補せられた延慶3年(1310)ごろから京都に定住したものと考えられる。また同じころ出家遁世したが、それは身分秩序のくびきから脱して、一方で権門に出入りし、他方で市井に立ち混じり、時々の用を弁じるための手段であった。彼は最初、六波羅周辺で活動していたが、おそらくは金沢流北条氏と上級貴族である堀川家の接近から、貴顕と交わるようになり、仁和寺の周辺に生活拠点を移した。そして経済活動により得た土地を後宇多院ゆかりの寺院に寄進することで歌壇デビューを果たした。鎌倉幕府滅亡後も高師直のような有力武士、三宝院賢俊のような高僧のために祐筆として働いた。(以上第1章~第5章の要約)

 第6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」は歌人としての兼好の活動をたどる内容である。小川さんは「兼好は生前も死後も歌人として知られていた。兼好はまず歌壇という歌人社会で認められ、名声を得ていった。歌人の伝記は常に歌壇での位置を定めて記述することが必要である」(170ページ)という。和歌の歴史、さらに文学史に興味のある人にとっては面白いが、そうでなければどうでもいいようなことがここでは問題になっている。あらかじめ説明しておけば、「破天荒な家集」というのは、兼好が自分の詠んだ和歌を集めて編纂した家集が当時のほかの歌人の編纂した家集とかなり異なる、いかにも『徒然草』の作者らしいものであったということであり、「晩年の妄執」というのは、彼が『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』、『風雅和歌集』という3つの勅撰和歌集に連続してその歌をとられた「三代作者」であったが、晩年に編纂中であった『新千載和歌集』にその歌がとられて、「四代作者」としてその感性を見届けることができないという無念さを抱いていたということである。

 兼好の歌道の師は二条為世(1250‐1338)である。為世は『徒然草』230段にも登場して「藤大納言殿」と呼ばれている。俊成―定家―為家―為氏―為世と続いた御子左家嫡流の生まれで、父の代から二条を称した。『新後撰和歌集』、『続千載和歌集』の2つの勅撰和歌集の単独選者となり、大覚寺統の天使や幕府将軍の師範となるなど、世俗的な栄誉を一身に集めた歌人である。さらに彼の娘の為子は後醍醐天皇の兄の後二条天皇の女房であったが、まだ東宮であられたころの後醍醐天皇の寵愛を受けて、尊良親王(『太平記』で恒良親王とともに新田義貞に奉じられて北国の金ヶ崎城で苦難に満ちた戦いを続けられている「一宮」である)、宗良親王らの子どもを産んだ。宗良親王が天台座主であったことは『太平記』にも記されている。宗良親王は建武新政後は還俗されて、南北朝時代には南朝のために奮戦されたが、また、優れた歌人であったとの評価も受けている。為子についても、『増鏡』は「集にもやさしき歌多く侍るべし」(講談社学術文庫版、下、69ページ、『続千載集』にも優雅な歌が多く入ったようだ)と記している。

 この二条為世の二条派と対立したのが、彼の従弟である京極為兼(「ためかぬ」と読むのが正しいそうである)の率いる京極派である。(さらに年少の叔父である冷泉為相(ためすけ)とは、家領をめぐって争った。) 

 古典和歌は与えられた題に即してその意図を満たすように詠む題詠が主流であった。つまり、古今集以来の伝統の中で定着されてきた題材と着想を忠実に守り、その中で自分なりの表現を探ろうとするものである。為世の二条派は古典和歌の範疇で新しい美や感動を発見せよと教えたのに対し、京極派は自由な発想や古歌にとらわれない表現を尊んだ。それ故、近現代では京極派の評価のほうが高くなっている(歴史学者の今谷明さんが京極為兼の評伝を書いているのはこの点で興味深い)。
 二条派の型にはまった表現は、それ故に新興の武士たちにはとっつきやすいものであった。『二条派の教えのように、よく知っている古歌に学んで、その表現を借りて新しい題意を詠むこと、特に古歌の部分的引用によりその内容を効果的に想起させる技法(本歌取り)がよほどわかりやすいし、何より中世の大多数の作歌層にとって安心して参入できる。鎌倉時代以来、武士が和歌を好み、その作品が一見没個性的である理由は、これで説明がつく。また古今集を知ることが歌詠みにとって何より肝要であることも理解できるであろう」(175ページ)。
 逆に言うと、京極派の主張は、十分な作歌訓練を積んできた廷臣・女房にしか浸透しなかったのである。二条派が大覚寺統と結びついたのに対し、京極派は持明院統と結びつき、歌道における対立は政治的な色彩を帯びたが、京極派が優勢な勅撰集は為兼が選者となった『玉葉和歌集』と、花園院が編纂された『風雅和歌集』だけである。伊藤敬によると、「『風雅集』には多くの女性家人が男性に伍していて華麗である」(伊藤『新北朝の人と文学』、50ページ)。ところがその後の勅撰和歌集になると女性歌人の割合も歌数も減っているという。伊藤はこれを宮廷内で女性が一定の役割を演じていた王朝の残影がみられる時代から男性優位の乱世への時代の変化とみるが、二条派と京極派の違いとみることもできるだろう。

 為世は門弟の指導に熱心であり、廷臣ばかりでなく、武士や僧侶、あるいは格別の出自を持たない地下にも及んだ。そして、特に優れた地下門弟4名を四天王と称した。四天王には出入りがあるが、『正徹物語』が記す頓阿・慶運・淨弁・兼好というのが最も一般的である(小川さんは「地下」の門弟と記しているので、二条良基を四天王に加える説がそのことから誤りであると断定できる)。なぜ四天王が活躍したか。「和歌を詠むためには、まずは最低限、題と本意を知らなくてはいけないし、そのためには詠草の添削が繰り返される。しかし、一般の門弟がこまごまとした指導を為世や為定に期待することは非現実的である。また歌道師範も自ら権威を安売りするようなことはしない。庶子を代理にするのも一法だが、この時代はすぐに一家を立てようとする野心を抱くので信頼できない。そこで活躍したのが、師範にあくまで忠誠を誓った地下門弟である。」(175‐176ページ) こうして入門・初心のものは四天王から手ほどきを受けて腕を磨き、また身軽な身の上であった四天王は地方を遊歴して二条派の勢力を拡大するために尽力もしたのであったという。
 兼好はほかの3人に比べると遅く二条派の催しに加わっているが、おそらくは頓阿らを介して為世に入門したということであろう。為世が選んだ『続千載集』にはもっとも若年の慶運を除く3人が入集し、その後、彼の歌人としての活動は本格的なものとなる。

 「破天荒な家集」がどのようなものであったのかに行き着く前に本日分を終えるのはあまり気分のいいものではないが、それでもせっかく書いた原稿が途中で消えてしまうよりはいいと思う。二条派と京極派の対立とよく似た事態は現在でも起きるわけで、文章を書くのに「思ったことを自由に書きなさい」などという指導法よりも、手取り足取り具体的に書き方を教えるほうが人気が高いというのは、大学の卒業論文などにも当てはまるのではないかという気がする。

『太平記』(197)

2月13日(課)晴れ、バスの車窓から雲に半ば隠れてはいたが富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峯山寺(こんぷせんじ)に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の角質から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが、再起を期して北国に向かったものの、越前金ヶ崎城で足利がtに包囲されている新田義貞たちの軍勢に伝わった。包囲軍に加わっていた武士たちの中で、瓜生保は宮方に心を寄せる弟たちに合流する意志を固め、包囲軍を率いる高師泰を欺いて本拠地である南越前のそま山に帰り、新田義貞の弟脇屋義助の子義治を大将として挙兵した。師泰は能登、加賀、越中の兵6千人に出動を命じ、そま山を攻めたが、瓜生は策を設けてこれを撃退した。

 北国から都に向かう街道が一部でも遮断されると、金ヶ崎城を包囲している足利方は、背後に敵の接近を許すことになり、甲状腺にも不都合が生まれるであろう、早いうちに、そま山に立てこもる宮方の軍勢の勢いが国中にいきわたらないようにしないといけないと考えて、足利一族で越前の守護である斯波高経は、北陸道7カ国の中から4カ国の軍勢3千余騎を率いて、11月21日に蕪木(かぶらき、福井県南条郡南越前町甲楽城=かぶらぎ)の海岸から越前の国府(越前市国府)に戻った。瓜生はこの情報を得て、敵に少しも脚を休ませては勝利はおぼつかないと、11月29日に3千余騎で押し寄せ、1日1夜の戦いの末、ついに高経の立てこもっていた新善光寺の城を攻め落とす。この時に討ち取られた足利方の300余人と、生け捕りになった130人の首をはねて、帆山河原(越前市帆山町を流れる日野川の河原)に並べてさらした。
 岩波文庫版の脚注によると、斯波高経が越前の国府に戻ったのは11月28日とする異本もあるようで、そのほうが前後の関係から見て適切である。先ほど調べて見たのだが、新善光寺城のあとは、越前市京町の正覚寺の境内に今でも残っているようである。

 この勝利の後、脇屋義治を大将とする宮方の勢いは近隣に行き渡り始め、平泉寺(勝山市平泉寺町にあった天台宗寺院。白山の供僧寺院として栄えた。明治以後は神社になっている)、豊原(坂井市丸岡町豊原にあった天台宗寺院、豊原寺)の衆徒、越前や近国の地頭御家人たちが引き出物を捧げ、酒肴を携えて、日ごとに大勢集まってきたが、義治はひどく興ざめた様子に見えた。

 それを不思議に思った瓜生兄弟の1人である義鑑房がその前に出て、「勝利が続いて目でたい時節であるのに、何故勇ましげなご様子をお見せにならないのですかと」と問うと、義治は「見方が2度の戦いに勝利して、敵を多く滅ぼしたのは、喜んでいいことではあるが、恒良親王や尊良親王の宮様方を始め、おじである義貞、父である義助以下、新田家の人々が金ヶ崎上で敵の方位を受けているので、さぞ兵糧につまり、戦いに苦しんで、片時も安心して入られないだろうと思いやると、珍味佳肴を口にしても味なく、酒宴に臨んでも楽しい気分にならないのだ」と答える。義鑑房は恐れ入って、「そのことであれば、ご安心下さい。このところ吹雪が激しくて、長距離の徒歩の行軍は難しいのですが、天気が少しでも晴れることがあれば、その時は必ず後詰の兵を派遣することにするので、それをお待ち下さい」という。そして義治が大将としての立派な見通しを備えていることに感涙を流さずには居られない。

 瓜生と共にそま山の軍に加わっていた宇都宮と小野寺(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺に住んだ武士)は、この問答を聞いて、栴檀は双葉よりかんばしというが本当だと感心した。義治は本当に立派な人物であり、金ヶ崎城にこもる味方の様子を明け暮れ気遣っているところが頼もしい限りである。こうなれば、出来るだけ早く金ヶ崎の後詰を実行しようと、兵を集め、楯を作らせて、雪がそれほど降らない日には出発しようと待ち受けたのであった。

 義治は第17巻に義助と義顕がそま山から金ヶ崎に退去する際に、義鑑房が宮方の兵を挙げるときの大将にしたいと請い受けてひそかに預かった人物であり、その時13歳で義助がそれまでずっと身辺においてかわいがっていたと記されているが、ここではなかなかの分別を見せている。数え年で13歳ということは未だ中学生になるか、ならないかという年齢であり、現代に引き寄せて考えれば、酒を飲んだり、酒宴を楽しんだりするような年ではないことも視野に入れる必要があるかもしれない。
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