森本公誠『東大寺のなりたち』(3)

7月13日(金)午前中は雲が多かったが、午後になって晴れ間が広がり、気温も高くなる

 著者は主にイブン=ハルドゥーンの著作の翻訳や研究で知られるイスラム史家であるが、1949年に入寺し、東大寺別当・華厳宗管長をつとめたこともある東大寺の僧侶でもある。これは、その著者が70年近く寺の中で修行を続け、その中での見聞を踏まえて書いた、東大寺の成立史である。書物は以下の6章から構成されている:
第1章 東大寺前史を考える
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
第3章 宗教共同体として
第4章 廬舎那大仏を世界に
第5章 政争のはざまで
第6章 新たな天皇大権の確立
 東大寺の前身は、聖武天皇が幼くして亡くなったその子・基親王の菩提を追修するために建立した山房であり、この参謀は現在の法華堂(三月堂)の原型と考えられる。さらに他の堂宇を加え、やがて金鍾山寺という寺院となり、さらに大養徳(大和)国金光明寺として大和の国の国分寺であるだけでなく、全国の国分寺の総元締めとしての地位を与えられるようになった。
 聖武天皇はもともと中国の政治にならって、経史に基づく徳治主義的な統治を目指したが、相次ぐ天変地異と人々の苦しみを見て、その限界を感じ、仏教、特に華厳経の教えに近づくようになった。

 天平6年(734)に聖武天皇は干ばつによる不作の連続で飢饉が起こり、民が罪を犯してしまうような事態に至った。その全責任は自分1人にあるという詔を出し、罪人たちに大赦を与えられた。
 この時代、国家の繁栄の要諦を冨民に置くという国家観が支配的であり、それを制度的に支えていたのが班田収授法である。土地は国家のものであり、国家は農民に土地を分け与えて(班田)、耕作ができるようにする。ところが班田収授法が施行されて数十年もたつと、人口増のためであろうか、公民に班給すべき口分田が不足してきた。そこで土地の開墾を促すための施策として、養老7年(723)に「三世一身法」が出され、開墾事業がこれによって進んで問題はある程度解決されたかに見えたが、根本的な解決には至らなかった。このような土地問題に加え、自然災害や疫病の流行が人々を苦しめ、重大な政治的課題となったのである。
 天平7年(735)には天然痘が流行し、全国で死者が続出した。穀物も不作で、天皇は困窮者の救済を目指す詔を発して、社会的な弱者に手をさしのべられた。しかし、なお、不運は続き、翌天平8年(736)も凶作となり、諸国各地で逃亡者や浮浪人があふれた。律令では離村者は本籍地に連れ戻すのが原則であったが、中には連れ戻そうにも、戸籍から削除されている浮浪人もいた。聖武天皇は浮浪人について、この8年の2月に、公民籍に編附することを停止し、別途、現住地での名簿に登録してよいと改めた。公民とは別個に、浮浪人を一つの身分として公認したのである。ただそこで問題になるのは、彼らにどんな正業を用意するかであった。本籍地に編附されていなければ口分田を分け与えられないからである。

 しかし、それでも災厄は終わりを告げなかった。天平9年(737)に再び天然痘が流行し、4月に参議の藤原房前が没した(房前は、不比等の次男で、北家の祖である)。天皇は5月に詔を出されて、またも米穀支給と減税措置などの措置を講じられた。それでも災厄は続き、7月には参議藤原麻呂(不比等の四男で京家の祖である)、次いで右大臣藤原武智麻呂(不比等の長男で、南家の祖である)が亡くなった。8月には中宮大夫兼右兵衛率(かみ)で橘諸兄の弟である橘佐為、続いて参議藤原宇合(うまかい、不比等の三男で、式家の祖。『懐風藻』に最多の漢詩を残し、『常陸国風土記』の編纂者であったのではないかと論じる人もいるなかなかの文化人である)が亡くなった。高校の日本史で習ったことを記憶されている方もいらっしゃると思うが、藤原氏の4兄弟がすべて没したのである。聖武天皇は8月13日の詔でこの不幸は「まことに朕の不徳の致すところである。百姓の正業が成り立つように、天下の今年の田租と公私の出挙稲の滞納額を免除する」(61ページ)と指示された。現代に直して言うと、税金を取らないだけでなく、滞納分も追徴しないということである。

 餓死者や病死者が出れば田は荒れ、そうなれば田租も減少するし、農民に貸し付けた稲も戻ってこない。中央政府は天平6年に通達を出し、国家が所有している官稲を国司に無利息で貸し出し、国司はその稲を農民に出挙、すなわち利息付きで貸し付けてもよいとした。そのような官稲は、各国の郡ごとに設けられている正倉に備蓄されていた。農民からとる利息が国司の収入となることを認めたうえでの措置であった。このような政策は天災による痛手をいやすために、農民を督励するよう地方行政官である国司に奮起を促すことを目的としていたが、それが実際に効果を上げ、農民たちに利益を与えたかは疑問である。
 とにかく、聖武天皇は窮民救済の具体策を次々に推し進められる一方で、神仏に頼るために様々な宗教的な行事を行った。この年、10月26日には、大極殿において、『金光明最勝王経』の講説を元日朝賀の儀に準じて盛大に催し、それ以後、天然痘の流行は下火になったのである。

 この年の年末に天皇は大倭国を大養徳国と改称した。基金や疫病の流行とともに、聖武天皇の気がかりであったのは人心であったと著者は推測する。この改称には、「災異に打ちひしがれ、あるいは生きる気力を失った天下の民をいかにして救えばよいかという天皇の苦悩が滲み出ている」(64ページ)という。天皇は物心両面を視野に入れた国家的事業を模索されてきたが、その結果として2つのプロジェクトを構想された。一つは、全国に釈迦を本尊とする国分寺を建立して、民に仏教思想を啓もうすることであり、もう一つは、新たな都を作り、その都の国分寺に廬舎那大仏を造立することであった。
 「天皇は胸中の構想を具現化するために遷都を決断した。莫大な費用を覚悟しなければならないが、人々は動かす12月ことができる。国力の疲弊した直後での遷都が無理な計画であり、失政だったことは、天皇がのちに自覚するところである。」(64‐65ページ)
 しかし、疫病が流行した後で、都を移そうとするのは、比較的理解しやすい発想である。むしろ巨大金銅仏を造立することのほうが問題ではないかと思うのだが、著者は東大寺の内部の人であるから、そういう風に考えないということであろうか。

 恭仁宮に遷都した天平13年(741)2月14日に、聖武天皇は国分寺・国分尼寺建立の詔を出された。その趣旨は、①天平7~9年の干ばつ・飢饉・疫病による極度に疲弊した天下万民の精神的支柱になることを目指して、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する。②立地は人々が集まりやすい勝地を択ぶ。③国分寺は寺号を「金光明四天王護国之寺」とし、20人の僧侶を置く。国分尼寺は寺号を「法華滅罪之寺」とし、10人の尼僧を置く。④毎月の六斎日は海も山も禁猟とする。
 国分寺の建立をめぐっては最近、須田勉さんの研究が出ているので興味のある方は、そちらをご覧ください(この書物の巻末の参考文献には挙げられていないので、注意を要する)。森本さんが重視しているのは、国分寺・国分尼寺が地域住民が参集しやすい場所を選んで建てられていること、国分寺の僧侶の定員が決まっているので、それらの僧侶の教育が必要となるはずであることの2店である。六斎日というのは1か月の中の8・14・15・23・29・30の6か日のことでこの日は、潔斎して心身を清浄に保つことが求められる。「国分寺建立は単に国家鎮護のためばかりでなく、一般の人々に対して、仏教思想を啓蒙する役割があった。つまり天皇は国分寺を人間教育の場にしようとしたのであった。」(68ページ) 人々が参集しやすい場所を選んで建てられたことの理由の一つがこの点に求められる。

 国分寺・国分尼寺の創設とともに聖武天皇が構想したもう一つのプロジェクトは、新都を建設して、そこに廬舎那大仏を造立するというものである。しかし、それ以前に処理しなければならない問題があった。それは口分田と墾田が混在する中で、墾田が荒廃しているという事実で、改めて国家が土地問題に取り組む必要があることを認識させるものであった。そこで、天平15年(743)に聖武天皇は墾田永年私財法を発布した。これにより公地公民という律令の定めた原則が崩され、墾田の私有権が認められたのである。この結果、公民籍を持たない浮浪人が墾田の所有者となる道が開けたことを森本さんは強調している。

 その後、聖武天皇は近江の紫香楽宮に行幸され、天平15年10月15日に廬舎那大仏造立の詔を出された。仏法の威霊の力をもって国家を平穏に保とうというのである。国分寺の本尊が釈迦仏であるのに対し、総国分寺の本尊は廬舎那仏であるのは、聖武天皇の仏教観に基づくものだと説明されていて、それはその通りなのだが、なぜそうなのかは、もう一つはっきりと説明されていない。聖武天皇が華厳経における菩薩に自らをなぞらえていて、その菩薩を導く廬舎那仏にすがろうとしているのだということのようであるが、今一つすっきりしないところがある。
 もちろん、天平(745)4月27日に、大規模地震が発生し、このため、聖武天皇は周囲の勧めに従って都を平城京に戻した。しかし、それでも大仏の造立はあきらめず、平城京の東山麓にある大倭国金光明寺→東大寺において造立事始めの儀を行ったのである。
 森本さんは東大寺の大仏造立には浮浪人対策の大規模事業という意義があるとしているが、国分寺・国分尼寺の建立についての同様の意義があるはずである。それにしても、多くの国分寺が場所や建物が変わっても、現在まで続いているのに、国分尼寺のほうはほとんど廃絶しているということは、考えさせる問題ではないかと思う。
 華厳経というのは、日本よりも、(特に新羅時代の)朝鮮で重んじられた経典で、それが大仏造立の理論的な根拠になっているというのは興味深い問題である。(日本の仏教信仰の中で、一般にもっとも重んじられてきた経典は法華経である。) この問題、大仏と新羅の関係については、この本のもっと後のほうで考察されているので、その時にまた触れることにしよう。

 

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(4)

7月12日(木)曇りのち晴れ

 インドのベナレスのヒンズー教寺院の月天の額を飾っていた黄色いダイヤモンド――は「月長石」と呼ばれ、人類の世代が続く限り、3人のブラーフマンによって見守り続けられなければならず、この聖なる石に手を触れるものは、本人だけでなくその一族係累のものに災いが下るであろうといわれてきた。やがてこの宝石は、セリンガパタム(シェリーランガパトナ)のスルタンであるチッポー(ティップー)の手に入り、その短剣を飾っていたが、1799年5月4日にセリンガパタムが英軍の強襲を受けて陥落し、チッポ―が戦死した時に、英軍の将校であったジョン・ハーンカスルの手に入った。どのようにして手に入ったか、彼は語らなかったが、攻撃に同行した彼の従弟は、ジョンが兵卒たちの略奪を取り締まる役割を命じられながら、それに違反して宝石を強奪したのではないかという疑いを抱き、その旨を自分の家の記録に残す。

 ジョン・ハーンカスルはイングランドの貴族の次男であったが、この事件のために一族のものから除け者にされ、ダイヤモンドとともに帰国してからも孤独な生活を続けた。彼の妹のジュリアはヴェリンダー家に嫁いでいたが、死に際してジョンが甥であるフランクリン・ブレークに託して、月長石をジュリアの娘で、ジョンには姪にあたるレイチェル・ヴェリンダーの18歳の誕生日(1848年6月21日)に贈り物として与えた。ところが、その夜、月長石は所在不明となり、ロンドンのスコットランド・ヤードの刑事が載りだしてきても事件は解決せず…最後には死者まで出る…
 事件が一応「終わった」後の、1850年5月21日にフランクリンは、ヴェリンダー家の執事であるガブリエル・ベタレッジを訪問し、弁護士の勧めにより彼が事件の一部始終を語る証言集の編纂に取り組んでいること、既にある家の記録から月長石の略奪に関わる証言を得ていることを語り、宝石がヴェリンダー家にとどいてから紛失し、その後捜索が続けられた経緯を手記にまとめるようにベタレッジに依頼する。

 ジョン・ハーンカスルには3人の美しい妹があり、長女のアデレイドはブレーク家に嫁いで、フランクリンとその兄弟を儲け、次女のカロラインは銀行家のエーブルホワイトと身分違いの結婚をして、何人かの子どもを儲け、三女のジュリアはジョン・ヴェリンダー卿と結婚してレイチェルを儲けた。ベタレッジはもともとハーンカスル家に奉公していたのが、ジュリアがヴェリンダー家に嫁いだのをきっかけに、ヴェリンダー家で働くことになり、やがて土地差配人になり、さらに執事になったのであった。そして彼の娘のペネロープも成長して、レイチェルのお付きの女中となっていたのである。
 フランクリンは幼いころに、ヴェリンダー家で生活していたことがあるが、父親が公爵家の相続をめぐる訴訟に敗北したことがきっかけで、外国で教育を受けるようになり、さらにその後も外国を転々として生活をしていた。彼は陽気で社交的であるが、気まぐれで、あちこちで借金をつくってはいたが、人々から愛されて生活していたが、1848年にイングランドに戻り、しばらくロンドンの父親のもとに滞在していたが、5月24日(水)に、彼が翌日、ヨークシャーのヴェリンダー邸を訪問するという知らせが届く。ヴェリンダー邸の人々は、フランクリンの幼少時代のことしか知らないが、ベタレッジはいたずら好きでかわいいお坊ちゃんだったと記憶し、レイチェルは従兄が自分を手荒く扱ったことだけを覚えていた。

The Thursday was as fine a summer's day as ever you saw; and my lady and Miss Rachel (not expecting Mr Franklin till dinner-time) drove out to lunch with some friends in the neighbourhood. (Penguin Popular Classics, p.25)
(中村訳) 「木曜日はこれまでになくよく晴れて夏らしい日だった。奥さまとレイチェルお嬢さまは(フランクリンさまは夕食前にはお着きになるまいとお考えになって)近所のお友だちのところへ昼食によばれておでかけになった。」(31ページ)
 二人が出かけた後、ベタリッジはフランクリンを迎える準備に抜かりはないかを確認し、執事と兼任している酒庫の番人の役目を果たすべく(この仕事は他のだれにもさせたくないのである)、当家ご自慢のラツール(Latour)の赤ブドウ酒(原文はclaret=ボルドー産の赤ワイン)の瓶を取り出してきて、夕食までに冷え過ぎを和らげるため、あたたかい夏の空気(warm summer air)にあてておいた。
 物語の筋とは関係がないのだが、5月はsummerだと考えられていることが気になった。手元にある英英辞典のうち、Longman の辞書ではsummerについて、the season between spring and autumn, when the weather is hottestと説明しているのに対し、Collinsの方はwarmest season of the year, between spring and autumnとしている。イングランドでは気温についてhotという表現を聞くことはあまりなく、かなり気温が高くてもvery warmで済ませてしまうようである。だからhotというとむしろspicyという意味で使うことが多い。ラトゥールの赤ワインはボルドー・ワインの中でも一流の評価があるらしい。赤ワインは室温で飲むというのは、現在でも変わらないが、地下の酒庫に寝かしておくだけで、かなり冷えているので、陽に当てて温めようというのである。ところがだれか訪問者があるらしい様子で、ベタリッジは足を止める。

Going round to the terrace, I found three mahogany-coloured Indians, in white linen frocks and trousers, looking up at the house.
(中村訳=テラスのほうへまわってみると、まっ白いリンネルの上着とズボンをつけた、三人のマホガニー色のインド人がお邸を見あげていた。)(32ページ)
 3人のインド人たちのほかに、利口そうな(と中村は訳しているが、原文はdelicate-lookingでか弱そうな、とかかぼそそうなという意味ではないか) 顔つきで明るい色の髪をした英国人の少年がついていて、袋を持っていた。ベタリッジは、この3人が旅回りの手品師(strolling conjurers)で、袋を持った少年はその道具を持っているのだろうと考えた。3人のうちで英語が話せて、物腰も一番上品な1人が話しかけた言葉から、ベタリッジは自分の推測が間違っていないことを知った。彼らは、このお邸のご婦人方の前で手品をしたいが、お許し願えるかと尋ねたのである。

 この時、ベタリッジがインド人たちに対してとった態度とその説明が分かりにくい。彼は芸人に対して偏見を持つような人間ではないだけでなく、手品のような娯楽を楽しむのが好きだという。また肌の色が黒い人間に対して偏見を抱くようなこともないという。彼はヴェリンダー家の大事な食器を表に出しているままであったことに気づき、その英語を話すインド人の方が自分よりも物腰優れたことに気づいて、彼らに対し、奥様方は留守であるといって、引き払わせる。家の中が片付いていないので、客をあげたくないという気持ちであろうか。とにかく、インド人たちがおとなしく引き上げたので、ベタリッジは安心して、しばしの転寝を始める。

 ところが、彼は駆け足で近づいてくる足音にその眠りを破られる。近づいてきたのはほかならぬ彼の娘のペネロープである。彼女は、3人のインド人の手品師たちを今すぐ逮捕するようにしてくれという。その理由というのは、彼らはフランクリン・ブレークがロンドンからここにやってくるということを知っていて、彼に対して何か良からぬことを企んでいるように見えるということなのである。
 これを聞いて、ベタリッジは驚いて、眠気はどこかへ消し飛んでしまった。彼は娘にそんなことを言いだした理由をたずねた。

 ペネロープは(彼女の主人であるレイチェルが外出中なので)、門番(lodge-keeper)の娘と世間話(gossip)をしていた。lodgeというのは大邸宅の脇にある番小屋で、門番とか園丁とかが住んでいる。ところが、アガサ・クリスティーの時代になると、大邸宅の持ち主が自分の邸宅を貸し出して、自分自身は番小屋に住むという例が多くなってくる。
 二人の娘は、ベタリッジが追い出したインド人が例の少年を後ろに従えて出ていく姿を見つけた。先ほど指摘したことと関連するが、中村訳は「私の目には、ただかわいらしい利発そうな少年としかうつらなかったが、娘たちは、異国人たちに虐待されていると思い込み、お邸と道路を仕切っている生垣の内側を歩いてこっそり後をつけ、生垣の向こう側で、異国人たちが何をするかと見張った。すると、彼らは、これから述べるような奇怪な仕種をはじめたというのである。」(33ページ)となっているが、原文に当たってみると、Taking it into their heads that the boy was ill;-used by the foreigners - for no reason that I coulld discover, except that he was pretty and delicate-looking --the two girls had stolen along the inner side of the hedge between us and the road, and had watched the proceedings of the foreigners on outer side. Those proceedings resulted in the performance of the following extraordinary tricks.(Penguin Modern Classics, p.27)となっている。(少年が外国人たちに虐待されていると思い込んで、その理由というのは、私が見たところでは少年が小さくてか細いというだけのことしかなさそうであったが、2人の娘は我々と道路との間の生垣の内側をこっそりと歩いて、その向こう側で外国人たちがしていることの成り行きを見守った。その結果として以下に述べるような驚くべきトリックをやってのけたのであった。)

 delicateは、やはりここではfragileという意味で使われているとみるべきである。インド人たちのトリックがどのようなものかは次回に語ることにしよう。それから、作中人物は、この時点では誰も気づいていないが、読者はこのインド人たちというのが例の月長石を守る3人のブラーフマンであることに気づくはずである。少し先回りして書いておくと、少年というのは、このインド人たちがロンドンのどこかで見つけて連れてきた浮浪児らしいので、よほど贔屓目に見ないと「かわいくて利発」には見えないだろう、むしろ、2人の娘たちのように子どもが外国人に虐待されていると考えるほうが自然なのではないかと思う。人生経験豊かなベタリッジだが、少し寝ぼけている。若い娘2人の直感のほうが真相に迫っているというところが面白いところである。

トマス・モア『ユートピア』(9)

7月11日(水)晴れ、雲が多いが、依然として気温は高くなりそうだ。

 1515年、イングランド(当時の国王はヘンリーⅧ世)とカスティーリャ(当時の国王はカルロスⅠ世、神聖ローマ帝国皇帝としてはカールⅤ世)との間で起きた紛争の解決のため、フランドルに派遣された外交使節団に加わっていたトマス・モアは交渉の中断中にアントワープに赴き、この町の市民であるピーター・ヒレスの歓待を受けた。
 ある日、モアはヒレスから、世界中を旅してまわった哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。世界の様々な国々、特に新大陸の未知の国々の制度の見聞を含む彼の博識と経験とに感心したピーターとモアは、どこかの王侯の政治顧問となるように勧める。
 しかしラファエルは、王侯の顧問というのは阿諛や追従をこととする連中であり、その仲間入りをしたくはない、それに王侯の周辺で行われている会話は戦争で自国の領土を広げることや、民衆に重税を課して収奪することばかりで、平和と幸福を願うラファエルにはそんな会話に加わることは苦痛である。

 国王は自分自身の富を増すことよりも、国民を豊かにすべきであり、新しい税金を作り出したり、古い税金を復活させたりして国民から収奪することを考えるべきではないとラファエルが、どこかの王侯の前で言い、さらにユートピアからそれほど遠くないところに住んでいるマカレンス人たちの法を紹介したらどうなるだろうかと、彼は言う。「彼らの王は、いついかなるときも千ポンド以上の金、またはそれと同価の銀を彼の金庫に貯えるようなことはけっしてしないようにと、統治開始初日の盛大な祭礼における宣誓で義務づけられています。」(104ページ) なぜならば千ポンドあれば国王は国内の治安を保つことができるし、国王が金銭をため込むことで、臣民の間でそれが不足することはないようにすることが大切だからである。この金額は自国を防衛するには十分だが、外国を侵略するのには不足しており、戦争の予防のためにはこれで十分だというのである。
 脚注によればMacarensesはギリシア語のμακαριος(幸福な)、μακαρες(幸福な人々)からの造語。μακαρων νησοι(幸福諸島)はエーリューシウムであり、エラスムスの『痴愚神礼賛』で演説した女神の生まれた島である。なお、ペンギン・クラシックスのポール・ターナーの英訳ではHappilandと訳されている。

 ラファエルの意見は、近代における「夜警(だけに専念する)国家」という主張と共通するものかもしれないが、この意見を王侯の顧問会議で提出したらどうなるかと、彼はモアとピーターに問う。たぶん、彼らはきく耳をもたないだろうというラファエルに対し、モアも同意する。「親友のあいだのうちとけた会話でならこういう観念的な哲学(フィロソフィア・スコラスティカ)も不快ではないでしょうが、大きな権威をもって大事が論じられる、君主たちの参議会では、そんなものが問題になる余地はありませんよ」(105ページ) プラトンの主張を引き合いに出して、哲学者が君主の政治に参画すべきだといっておきながら、哲学的な主張が君主たちの参議会では取り上げられないだろうというラファエルの主張を追認してしまう。〔最近の「小さな政府」という主張は、ラファエルの言っていることと似て非なるものである。なぜならば、「小さな政府」を主張する人は、福祉の増大には反対しているが、軍備の縮小には消極的だからである。〕

 「君主たちのもとでは哲学の入り込む余地はないと私が前に言ったのは」(105ページ)そういうことだとラファエルは言う。モアは、少し角度を変えて自分の主張を繰り返す。「どんな命題も通用すると考えるような観念的な哲学なら入り込む余地はありません。しかしもう一つの、もっと社会の現実生活に合った哲学があります。」(105‐106ページ) つまり会議の席で空気を読みながら演技をして、人々の意見を変えさせるような働きを演じることはできないだろうかというのである。ラファエルはそんなことをしていたら、「他人の狂気を癒そうと努力しているうちに私自身が彼らといっしょに狂ってしまう」(106ページ)のが落ちだという。自分は真実だけを語る、演技にせよ、嘘は言わないというのである。

 参議会の議員たちには、「私の話は喜ばれず迷惑がられるかもしれませんが、なぜ、ばかげた、とほうもないものと見られなきゃならないのか、私にはわかりません。もちろん、もし私が、プラトンが『国家』のなかで仮想していること、またはユートピア人たちが彼らの社会で実行していること、これらについて語った場合、いかにそれが優れたものであろうとも――事実優れているのはたしかですが――風変りに見えるでしょう。」(107ページ) なぜ、風変わりに見えるのか。ヨーロッパ社会では各人に私有財産があるのに、ユートピアではすべてが共有だからだという。

 しかし、「もしも人間の歪んだ生活風習のために風変りに映ることをみな途方もなくばからしいとして捨てねばならないなら、キリストが教えたもうたことの大部分を、私たちはキリスト者たちの間でそっと隠しておかなければなりません。」(108ページ) ここには福音書の伝えるイエスの教えに忠実であろうとしているという意味での福音主義者(現代社会で福音主義者と呼ばれる人とは、区別されるべきである)であるモアが、ラファエルの言葉を借りて、彼の時代のキリスト教信仰の実態と聖書の教えとの乖離に人々を気づかせようとする意図が込められていると見るべきである。
 ルターが「95か条の提題」を掲出して宗教改革の口火を切ったのは1517年の10月31日、モアがラファエルと話をしたとされる年の翌翌年、『ユートピア』が発表された年の翌年のことである。誠に皮肉なことに、この1517年に、モアはヘンリーⅧ世のもとで、ラファエルがその実態を批判しまくった(ラファエルの口を借りて彼自身が批判した)参議会の会員に任じられるのである。モアとしては「もっと社会の現実世界に会った哲学」を実践に移す機会であったのかもしれないが、それは彼が考えている以上に困難な実践であったようである。

 ラファエルはモアに向かって言う:「あなたは、たとえすべてを改善することができなくても、とにかくうまくさばいて、できる限りの範囲で悪くならないように努力すべきだとお考えのようですがね。」(109ページ) そのような現実的な道は、モア自身を堕落させることになるだろうとさえいう。それに「あの紆余曲折の道では、どんなことであれ、改善まではなかなか行きつけません。」(109ページ) 自分の望ましいと思う生き方はできない、社会もよくならない、虻蜂取らずだというのである。

 こうして、ラファエルの話は一方で、彼が王侯に仕えてその政治を助けるという意思はないことをはっきりさせ、もう一方で彼が見聞したユートピアの、彼にとって理想だと思われる制度について語る方向に進んでゆく。

『太平記』(218)

7月10日(火)晴れ、暑い

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、軍勢を集めて白河の関を越え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の三男)の軍と利根川で戦って勝利した。北条時行(高時の次男)は伊豆で、新田徳寿丸(義興、義貞の次男)は上野で挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。
 建武5年(8月に暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の大軍が鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めて西上した。顕家軍とその跡を追って西上した足利軍は、美濃国墨俣川、青野原一帯で戦い、足利方は土岐頼遠と桃井直常の奮戦にもかかわらず敗れた。

 京都の足利幕府は、奥州勢が上洛してくるという情報を得ていたが、美濃には土岐頼遠がいるので、大軍が西上してきても、一支えはできるだろうと当てにしていたところが、頼遠が、青野原の合戦に敗北して、行方不明になった、あるいは戦死したといううわさが伝わってきたので、京都方の慌てぶりは一通りではない。

 ということになると、宇治、瀬田の橋を落して防御を固めて待ち受けよう、そうでなければまず西国の方に引き退いて、四国、九州の軍勢を味方に加えて、そこから敵に対して反攻を仕掛けようなど、意見がいろいろ出て、軍議の結果が一つの案にまとまらなかったのであるが、この頃、侍所の頭人であった高越後守師泰(尊氏の執事師直の弟)が、しばらく思案してから、次のように述べた。
 「昔から今に至るまで、都に敵が攻め寄せてきたときに、宇治、瀬田の橋を落して戦うという戦術をとって戦ったことは数知れずある。とはいうものの、この川(瀬田川→宇治川)で敵を支えて、都を守り抜いたという事例をいまだかつて聞いたことがない。これは、攻め寄せるほうの軍勢は後ろを味方にして勢いに乗り、防ぐ方は、かろうじて洛中を維持して気力をなくしているからだ。敗戦続きの不吉な例を踏襲して大敵を都の近くで待ち受けるよりも、戦に勝つその機を窺って、急いで近江、美濃のあたりに駆けつけ、戦いを畿内の外で決めるほうがよい」といかにも勇気に満ちた様子で、理にかなった戦術を説いたので、尊氏も直義も、その通りだと納得して満足したのであった。

 そう決まったら時を移さず向かえということで、大将軍には高越後守師泰、高一族の播磨守師冬(師行の子、師直の猶子)、足利一族の細川刑部大輔頼春、佐々木(六角)大夫判官氏頼(時信の子)、佐々木(京極)佐渡判官入道道誉、その子息の近江守秀綱、このほか諸国の大名53人、都合1万余騎が2月4日に都を出発して、6月の早朝に近江と美濃との境となっている黒地川(黒血川)に到着した。奥州勢も垂井、赤坂に到着したという情報が得られたので、ここで待ち受けようと、前方に関の藤川(藤古川)、後方に黒地川という2つの川のあいだに陣を取った。
 兵法上の常識としては、戦闘に際して山を背後に、川を前方にして陣を取るのが常道であるが、そうせずに、大河(というほどの川ではないが)を背後に陣を取ったのは、それなりの戦術であったのである。
 ということで、『太平記』の作者は足利方の陣構えは、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽とが天下を争ったときに、高祖側の大将韓信が採った嚢砂背水の陣の戦法に倣ったものだという。
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 そうこうするうちに、北畠軍10万余騎は、垂井、赤坂、青野原にあふれて、東西六里、南北三里に陣を張る。夜になって篝火を託様子を見ると、天の全ての星が落ちて、地上できらめているように見えた。この時、越前では新田義貞、脇屋義助兄弟が、北陸道の武士たちをうち従えて、天を動かし、地を治めるような盛んな勢いを見せていた。それで、奥州勢が近江と美濃の境の黒地に陣取る足利軍を追い払うのが難しいのなら、北近江を経由して越前に向かい、義貞と合流して、さらに比叡山に向かい、京都を北から見据えて、南方の吉野の宮方の軍勢と連絡を取り、東西から〔南北からというのが正しいと思うのだが〕京都を攻めれば、足利方は一日も持ちこたえられないと思われたのだが、顕家は、自分の功績が合流によって義貞に奪われるのではないかと嫉み心を起こしたのであろうか、北陸の宮方と合流することも考えず、黒地の足利方とも戦わず、急に士卒を率いて、伊勢から吉野の方に向かったのであった。

 その結果、これまで鬼神のように恐ろしいと評判であった奥州勢は、自分たちよりも少ない軍勢の黒地の足利方と戦いもせず、あらぬ方角に転進してしまい、しかも奥州軍の後から追いかけてきた足利方の軍が京都に到着したので、宮方は恐れるに足りないと、足利幕府の方では相手を侮り始めたのであった。

 かくして、『太平記』19巻は終わる。宮方の起死回生を狙って奥州からはるばる遠征してきた北畠顕家の企ては竜頭蛇尾の様相を呈してきた。それにしても、足利方が『太平記』では50万余騎、今川貞世(了俊)の『難太平記』でも30万余騎と記されている大軍を迎え撃つのに1万余騎の軍を派遣するというのは奇妙に思われる。それから、桃井直常、土岐頼遠が、北畠軍と青野原で戦ったと書かれている直後に、奥州軍が青野原と、そこから少し後退した垂井、赤坂辺に陣を張っているというのもおかしいといえばおかしい。前回紹介したように、本郷和人さんは、鎌倉からやってきた足利軍が猛スピードで進軍する奥州勢に追いついたこと、そして自分たちよりも大規模な軍勢に対し、小人数の軍勢の逐次投入をしたことの2つが合理的とは言えないと論じている。『太平記』では土岐頼遠に奥州軍が勝ったと記されているが、足利方の大将の一人であった今川範国の息子の貞世(了俊)が書いた『難太平記』には、足利軍が勝ったが、その功績は土岐頼遠に帰せられていて、今川家の武勲が軽んじられていると書かれている。さらに本郷さんは、『太平記』、『難太平記』よりも『保暦間記』の方が歴史的な事実を正確に記録しているとして、足利方が戦闘に勝って、北畠軍が伊勢に迂回することになったのだという解釈を示している。歴史的な事実がどのようなものであれ、このあたりの『太平記』の記述がどうも不自然な作為に満ちていることは否定できないようである。

 一つ付け加えておくと、京都から派遣された幕府軍の中に北近江を本拠とする佐々木(京極)道誉と、南近江を本拠とする六角氏頼が加わっていることが注目され、足利方が地の利を計算していることが見て取れる。特に京極氏は道誉の頃までは、伊吹山の南麓の柏原の清滝寺のあたりを本拠地としていた(道誉の代で、多賀大社の近くの勝楽寺城に移る)。『太平記』の作者は、高師泰の兄の師直とか、佐々木導誉とか、土岐頼遠のような婆沙羅大名たちを嫌っていたことは明らかで、彼らの武勇によって足利方が勝利を収めた青野原の戦いの歴史的な事実を歪曲してまでも、彼らの事績を歴史から抹消したいと思っていたと考えるのは、考えすぎであろうか。
 
 

フローベール『感情教育』(9‐3)

7月9日(月)午前中は雨が降ったりやんだり、一時激しく降ったが、午後は晴れ間が広がり、気温も上昇する。

〔これまでのあらすじ〕
 1840年に大学で法律を学ぶためにパリに出た18歳の青年フレデリック・モローは偶然のことからアルヌーという画商と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。夢想家で芸術好きのフレデリックにとって、法律の勉強は興味を惹かれるものではなかったが、アルヌー家に出入りしたり、大学の内外の友人たちと付き合うことによって次第にパリの空気になじんでいく。一度は落第したものの、大学も無事卒業し、地元出身の有力者であるダンブルーズの知遇も得て、さてこれからという時に、彼は実家の経済的困難を知り、母親の懇願に負けて郷里の法律事務所で働くことになる。しかし、1845年の末に、裕福な叔父の遺産を相続することになり、またパリに戻ることにする。
 パリの様子は変わり、友人・知人たちの態度も変わっていた。高校時代からの親友であるデローリエは弁護士と復習教師をしながら、政治的な言論で指導的な地位に立つことを夢見、アルヌーは画商をやめて、陶器業者に転業していた。アルヌーが発行していた美術新聞を引き継いだのは、フレデリックの友人の一人であるユソネで、デローリエはその新聞を政治的な発言の場として利用しようと考え、フレデリックに援助を依頼する。

〔第2部3続き〕
 フレデリックはデローリエ(とユソネ)が新聞発行の資金とするために1万5千フランを用立てることを約束していたが、ル・アーヴルの公証人から1万5千フランを送金するという知らせが届いたので、そのことを彼に知らせに出かける。知らせを聞いたデローリエは、(おそらくもう当てにしていなかったのであろうが)大喜びする。そしてユソネとは別れることにしたいといい、彼自身の政治論を饒舌に喋りまくる。政治を科学的に検討すべきであるという。
 その当時のフランスには3つの党派があるとデローリエは言う。「もっか持てる者、もはや持たざる者、これから持たんとするものだ。呆れたことに、三者とも権力をやみくもに崇拝するという点では、意見が一致しているんだからな。」(光文社古典新訳文庫版、410ページ、) 「もっか持てる者」は立憲王政派(オルレアン派とその統治を理論的に支えようとしたギゾーに代表される保守的自由主義者たち)、「もはや持たざる者」は正統王朝派(ブルボン派)とナポレオン派、「これから持たんとする者」というのは共和派と社会主義者ということであろう。この小説の登場人物では「もっか持てる者」を支持する、あるいはこのグループに属しているのはダンブルーズとマルチノン、「もはや持たざる者」はシジー、そのほかの面々は「これから持たんとする者」で、セネカルのようにはっきりと社会主義を打ち出している人物もいるが、大半は共和主義と社会主義の間を揺れ動いているように思われる。
 気の回しすぎかもしれないが、このデローリエの言い方は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の中のサンチョ・パンサの有名なセリフを反映しているようにも思われる。「おらの婆さまがいつも言っていたことだが、世界には二つの家族しかない、持てるものと、持たざる者とだ」(続編第20章)

 そういいながら彼は、共産主義思想の先駆者といわれるマブリ、哲学者・幾何学者のウロンスキー(ロンスキーとも呼ばれるそうである)、サンシモン主義者のアンファンタン、同じくピエール・ルルー、当時の社会主義者の中での大物であったルイ・ブランらの主張の矛盾点を逐一指摘する。ひどく実際的、現実的な意見を述べる。
 「フレデリックとしては大いに反論したいところだった。だが、友の考えがセネカルの理論とはだいぶかけ離れているように思えたので、すっかり寛大な気持ちになった。そうした方針では各所からうとんじられるぞ、と言いかえすにとどめた。」(光文社古典新訳文庫版、411ページ)。右も左も蹴っ飛ばせというのが、デローリエのスローガンだが、フレデリックには彼の意見が左の方に厳しいように感じられる。だから、彼はデローリエの主張に強くは反論しない。フレデリックもダンブルーズのもとに出入りしているくらいだから、左翼的な主張をする連中とは距離を置きたいと思っていることは確かである。
 
 右も左も蹴っ飛ばすということになると、右と左の両方から攻撃を食らうだろうというのがフレデリックの意見で、だれだってそう考えるはずだが、自分の考えと計画とに夢中になっているデローリエはそうは思わず、それぞれの党派の主張を論駁する根拠を与えてやるのだから、各方面からの支持を得て、新聞は大成功するはずだと主張する。フレデリックにも批評分を書いてもらうつもりだといい、社会通念を打破したうえで、自分たちの雑誌の基本的見解を打ち出し、それから日刊の新聞に切り替える。自分の主張が世の中に受け入れられ、新聞は成功するに違いないと語るデローリエの熱気にあおられて、フレデリックもだんだんその気になってくる。「友のことばに耳をかたむけているうち、フレデリックはしだいに若さをとり戻していくような気がした。長いあいだ部屋に閉じこもっていたものが、いきなり戸外につれだされたような感覚だ。相手の熱情に感化されたのだろう。/「そうだな、きみの言うとおりだ。ぼくは怠けてばかりいた」/「そうこなくっちゃ!」 デローリエはさけんだ。「それでこそふれでりっくだ」(光文社古典新訳文庫版、413ページ)
 彼らが若い熱情と昔の友情をとりもどし、「ふたりは立ったまま顔を見合わせ、ともに心を動かされて、今にも抱きあおうとした。」(同上)

 ところが、思いがけない出来事が起きた。
 「ひかえの間の戸口に女の縁なし帽が現れた。 /「ん、どうした?」デローリエが言った。/愛人のクレマンス嬢だ。/たまたま通りかかったら無性に会いたくなって。そう答えると、一緒におやつを食べるつもりで持ってきたお菓子をテーブルの上に置いた。」(光文社古典新訳文庫版、413ページ)
 クレマンス嬢は、フレデリックたちが第1部の5でダンス場である<アルハンブラ>に出かけた帰りに、彼と二人きりになったデローリエが、「これから最初に出会う女をものにしてみせる」といって、その時に出会い、その後、付き合い続けている背の高いやせた女性で、軍需品に金の刺繍を入れる仕事をしている。

 デローリエは自分は今仕事中なので、邪魔をするなとクレマンス嬢に冷たい態度を取り続けて、ついに追い返す。彼女に同情するフレデリックに向かい、デローリエは彼の暮らしぶりを見せて、自分は貧乏だし、愛人などは必要としていないのだという。そしてフレデリックは金が届き次第、デローリエに渡すことを約束して、2人は別れる。
 フレデリックが第1部の3で大学の授業に幻滅して、友人たちを訪ね歩き始めたときに、最初に出かけたのがマルチノンの下宿だったが、マルチノンは若い女性と同棲していた。だから、デローリエとクレマンス嬢の関係はそれほど珍しいものではなかったと推測できる。フレデリックやデローリエが<アルハンブラ>に出かけたときに、彼らには同行していなかったマルチノンが容貌のよくない五十がらみの女性と一緒にいるところが目撃される。デローリエはマルチノンが見かけによらず世間ずれしているという。物語全体を通じて、マルチノンの世渡りは、フレデリックはもちろんのこと、デローリエよりも上手である。それが女性関係にも出ているとみるべきであろう。デローリエは、マルチノンよりも自分の方が優れていると思っているから、そのあたりのことを素直に認めたがらないが、デローリエの冷たい態度は、彼の人格的な欠陥の現れとも受け取れる。

 さて、フレデリックはデローリエに金を渡し、デローリエの夢がかなうのだろうか。しかし、デローリエが思っている以上に、彼のクレマンス嬢に対するつれない仕打ちは、フレデリックに彼に対する不信の念を抱かせたのかもしれない。続きはまた次回。
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