ジェイン・オースティン『エマ』(10)

4月24日(月)晴れ

これまでのあらすじ
 18世紀の終わりか、19世紀の初めごろのイングランド南東部サリー州ハイベリーの村が舞台である。この村の大地主の娘エマ・ウッドハウスは21歳になるが、美人で頭がよく村の女王的な存在である。ただ1人の姉イザベラが嫁ぎ、病弱な父親の世話をしながら暮らしているので結婚の意思はないが、長く彼女の家庭教師をしていたミス・ケリーが、村の有力者の1人であるウェストン氏と結婚した際に、その縁結びをしたと信じ込んで、他にも縁を結ぼうと考えはじめる。隣の教区の大地主であるナイトリー氏はエマの姉の夫ジョン・ナイトリー氏の兄であり、エマを子どものころからよく知っていて、そんなエマの思い込みをたしなめる。
 村にある寄宿学校の特別寄宿生であるハリエット・スミスと知り合ったエマは、かわいくて気立てのいい彼女が気に入る。ハリエットにはナイトリー氏の信認篤い自営農民のロバート・マーティンが思いを寄せ、求婚さえしたのだが、エマはもっといい結婚相手を探すべきだと言って、村の教区牧師であるエルトンと彼女を結びつけようとする。しかし、野心家のエルトンはハリエットではなくエマこそ自分の相手だと言い、エマに求愛を拒絶されると、保養地であるバースに出かけて、そこで出会ったオーガスタ・ホーキンズという財産家の娘と婚約する。
 ウェストン氏にはいまは亡き先妻との間に儲けたフランクという息子がいて、先妻の実家であるヨークシャーの名門チャーチル家で養われ、その財産を継承することになっていた。気難しいチャーチル夫人の意向をおもんばかって、なかなか父親に会いにやってこなかった彼がようやくハイベリーの村を訪問する。エマはチャーチルに好感を抱くが、友人としてはよいが、結婚すべき相手であるとは思わない。そう思いながら、フランクとは表面上親しい付き合いを続ける。しかしフランクにはハリエットの方がふさわしいのではないかと考える。ハリエットがジプシーに襲われた際に、フランクが彼女を助けるという事件が起きて、その思いはますます強くなる。しかし、ハリエットはエマに、自分が恋しているのはナイトリー氏であると言い、エマはナイトリー氏こそが自分の一番大事な人であることに気付く。
 村の昔の教区牧師の未亡人であるベイツ夫人にはジェイン・フェアファクスという孫がいて、なき父親の友人であるキャンベル大佐夫妻に育てられ、家庭教師になるべく教育を受けてきたが、事情があって、祖母のもとに里帰りしている。エマと同い年で才芸に秀でた美人のジェインを、エマはライバル視する。
 エルトンと結婚したオーガスタ→エルトン夫人は自己顕示欲の強い成り上がりで、エマに近づこうとして彼女に嫌われたので、ジェーンにまといつき、彼女に家庭教師の仕事を世話しようとする。彼女がエルトン夫人の説得に負けて、家庭教師の職に就こうとしたとき、チャーチル夫人の死で養家に戻っていたフランクから驚くべき知らせが届く。フランクとジェインは秘密裏に婚約していたのであり、チャーチル夫人の死後、フランクは結婚の許可を得たというのである。この話を聞いたナイトリーは、思わず、エマに求婚してしまい、エマは、彼を失いかけているのではないかと心配していたところだったので、求婚に応じる。

 ナイトリー氏と結婚の約束をしたエマではあったが、病弱な父親が生きているうちは彼と一緒に生活するために、結婚を思いとどまっておこうと考える。この婚約がハリエットにショックを与えたのではないかと考えた彼女は、ハリエットにロンドンに住むイザベラのもとにしばらく滞在することにしてはどうかと考える。ウェストン夫人からエマのもとに出紙が届き、そこにフランクからの手紙が同封されていて、彼がジェインとの婚約を隠すためにエマに近づいていたこと、それがジェインの気持ちを損ねて、婚約を破棄するという手貝が届いたが、チャーチル夫人の死がきっかけとなって結婚を認められた次第が記されていた。(第50章)

 エマのもとにやってきたナイトリー氏はフランクの手紙を見て、厳しい意見を述べる。その後で、彼がエマとの結婚後は、エマの父親であるウッドハウス氏の邸ハートフィールドに住むことで問題を解決しようと提案する。この提案にエマは同意するが、その一方で、ハリエットのことが心配でならない。(第51章)

 エマはイザベラに手紙を書いて、ハリエットのロンドンへの招待を実現させ、ハリエットはロンドンに向かった。エマはナイトリー氏との婚約を打ち明けるのは、妊娠が分かったウェストン夫人の出産後にしようと考える。少しばかりできた空白の時間を有効に使おうと、彼女はジェイン・フェアファクスと和解に出かける。ベイツ家にはエルトン夫人がいて、2人は自由に話ができなかったが、分れる際に、ジェインはエマに心からの感謝の気持ちを述べる。そしてチャーチル夫人の喪が明けたらすぐにフランクと結婚すると伝える。(第52章)

 ウェストン夫人は無事に女児を出産する。エマはナイトリー氏との結婚を父に認めてもらおうとする。ウェストン夫人、さらにナイトリー氏の説得があって、変化の嫌いなウッドハウス氏もようやく娘の結婚を承諾する。このニュースはやがて村中に広がり、多くの人がこの結婚を好意的に迎えたが、エルトン夫妻だけは否定的な感想を述べた。(第53章)

 姉夫婦がハリエットをともなってハイベリーに里帰りする数日前になって、ナイトリー氏がエマのもとを訪問する。そして、ハリエットとロバート・マーティンが婚約したと告げる。以前、この2人の婚約に反対したエマであったが、今回は2人の結婚を喜んで認めたのであった。父親とともにウェストン夫妻を訪問したエマは、そこでフランクとジェインに会う。エマはフランクのふるまいを許すが、「フランク・チャーチルに会えたのはうれしいし、心から友情を感じるけれど、ナイトリーさんの人格のすばらしさを今ほど強く感じたことはない」(中野訳、下、378ページ)と思う。(第54章)

 ハリエットに会い、またロバート・マーティンとも会って、エマはますます2人の結婚に賛成する気持ちが強くなった。9月末に2人はエルトン牧師の師式で結婚式を挙げた。ジェイン・フェアファクスはハイベリーを去って、ロンドンで暮らしており、11月に挙式する手はずになっていた。エマとナイトリー氏はその中間の10月に挙式したいと思っていたが、ウッドハウス氏がなかなか承諾しなかった。ところが身近である事件が起きて心配性のウッドハウス氏が身近に強い男性を必要に感じ、挙式に承諾するようになった。

 「ふたりの結婚式は、普通の結婚式とほとんど同じだった。花婿も花嫁も、派手に着飾ったり、見せびらかしたりする趣味はなかった。夫から式の様子を詳しく聞かされたエルトン夫人は、自分の結婚式よりはるかに劣ったみすぼらしい結婚式だと思った。 「白のサテンはほとんど使われていないし、レースのヴェールもほんの少しだけ。ほんとに哀れな結婚式ね! 姉のセリーナが聞いたらびっくりするわ」
 だが、そういう華やかさはなくても、この結婚式に出席した少数の真の友人たちの願いや、希望や、信頼や、期待は、新婚夫婦の完璧に幸せな姿を見て十分に満足させられたのである。」(中野訳、下、384ページ)(第55章)

 この物語では5組のカップルが結婚すると書いたが、それはウェストン夫妻(物語の終わりの方で子どもが生まれる)、エルトン牧師夫妻(ウェストン夫人が登場してからは見事な悪役ぶりを見せる。ご本人が悪役だと思っていないところが、これまたすごい)、ロバート・マーティンとハリエット(本来ならば、もっと早く結婚しているはずなのに、エマが余計な画策をしたので、延び延びになった。しかし、雨降って地固まるということもあるだろう)、ナイトリー氏とエマ、そしてフランク・チャーチルとジェインである。ナイトリー氏とエマはお互いに好意を持ってきたのだが、それが愛情だと気づいていなかった。ところが、フランク・チャーチルが現われてエマに気があるようなそぶりをしたことから、ナイトリー氏もエマも自分の愛情の向けられる相手について自覚を深めることになった。生真面目なジェーンはフランクのエマに対する言動に腹を立て、ついには絶縁するとまで言い出し、実際に手紙を送り返すという挙に出る。フランクとジェーンの秘めたる恋は、ナイトリー氏だけが気付いたのだが、注意深く読むと作者があちこちにそれらしき伏線を張っているのに気づくはずである。
 エマは欠点も多いが、それがかえって魅力になっているところがある。勘違い令嬢の巻き起こしたドタバタ喜劇となるはずのこの物語が、意外にまじめに展開してしまうのが、いかにも英国的ではないかと思う。もっと簡単に紹介するつもりだったのが、10回という長い紹介になってしまった。お付き合いいただいたことを感謝する次第である。

付記 エマの姉のイザベラが夫であるジョン・ナイトリーと住んでいるロンドンのブランズウィック・スクエアは実在の地名で、その近くをうろうろしたことがある。ジョン・ナイトリーは「弁護士」で、おそらくはbarrister(法廷弁護士)である。ハイベリーに事務所がある「事務弁護士」のコックス氏は、もちろんsolicitor(事務弁護士)である。翻訳者は、英国にこの2種類の弁護士がいることを知っていて、文脈から訳し分けているのだが、オースティン自身はこの2つの語を使っていないで、何となくそうだろうなあという書き方をしているのは興味深いことである。エマがコックス氏の2人の娘を「下品」だと言っていることに示されるように、昔は両者の間にはっきりした階級的な違いがあったが、現在ではそういうことはないそうである。ちなみに、シャーロック・ホームズものではsolicitorはよく登場し、事件の容疑者になったりもするが、barristerが登場するのは「ボヘミアの醜聞」と「ソア橋」の2篇だけ(本格的に登場するのは(「ソア橋」だけ)ではないかと思う。 

『太平記』(155)

4月23日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、大将の新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機会を逃した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明らが赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、その間に城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているままに、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく船坂峠に向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。宮方の軍は船坂峠の足利方を破り、江田行義は美作に侵入、脇屋義助は三石城を包囲、大井田氏経は備中に進出して福山城(岡山県総社市)に陣を構えた。

 そうこうするうちに九州に落ち延びていた足利尊氏は、多々良浜の合戦で奇蹟的な勝利を収めたのち、九州の武士たちが一人残らず味方に付き従うようになって大変な勢いである。〔もちろん、菊池氏のように宮方の武士はいるのだが、物語としての修辞上の綾でこのように書いているのである。〕その一方で、中国地方では宮方の勢力が強く、上洛の道を阻んでおり、東国の武士たちは宮方に心を寄せるものが多くて、尊氏の味方は少なかったので、安易に上洛を図るのは上策ではないと、正月の京合戦の経験から怖気随ていたので、将兵たちはあえて上洛しようという元気はなかった。

 そこへ、赤松円心の三男の則祐律師と、赤松一族の得平秀光が播州から筑紫に急ぎやってきて、「京都からやってきた敵軍が、備前、備中、美作に充満しておりますが、そのすべてが城を攻めあぐねて、気力を失い兵糧も尽きて着た頃ですので、大勢で上洛なされば、ひとたまりもなく自分たちを支えることはできないと思われます。もし京都に向けての出発が遅れ、その間に白旗城が攻め落とされてしまいますと、そのほかの城も宮方の攻勢をこらえることはできないでしょう。中国地方の4か所の要害(名義能山2か所と菩提寺と三石城の合計4か所)が敵の城になってしまいますと、味方が何十万の軍勢であっても、上洛されることは不可能になると思います。むかし趙の都邯鄲が秦の始皇帝の大軍に囲まれ、落城寸前のところを、魯仲連の策と楚や魏の救援で切り抜けたという例、また楚の項羽が秦の将軍章邯と戦った折に、黄河を渡河してから船を沈め、釜や甑(=蒸し器)を焼いて、兵士に退路がないことを示して決死の戦闘を促した故事に類する、決死の戦いをなすべき場面ではないでしょうか。天下をとるかどうかは、ただこの一戦にかかると思われます」と言葉を尽くして言上すると、尊氏もその通りに違いないと思い、4月26日に大宰府を進発、28日に追い風を得て船を進め、5月1日に安芸の厳島神社に船を寄せて、3日の間参篭したのであった。〔則祐と秀光の言葉の前半は、彼らの事実認識を述べていて、おそらくはこれに類することを発言したのであろうが、中国の故事については『太平記』の作者が自分の学のあるところを見せようと、勝手に付け加えたのではないかと思う。とは言うものの、あまり適切な例だとは思えない。〕

 その結願の日に、京都の醍醐寺の三宝院の賢俊僧正が京都から駆けつけて、持明院殿(『太平記』の作者は後伏見院としているが、史実としては光厳院)の院宣を尊氏に下した。この賢俊僧正というのは日野家の出身で、第15巻で尊氏が京都から落ち延びていく際に側にいた薬師丸(→道友)に日野中納言(日野資明)を通じて、院宣を得るように取り計らえと申しつけたその資明の弟である。尊氏は、院宣を拝見して、箱と蓋とがぴったり合うように念願がたちどころに的中したと喜んだのであった。後伏見院(法皇)は3月6日に崩御されていたのであるが、それ以前に下された院宣である。〔既に書いたように、実際には後伏見院の子である光厳院が下されたものである。この時代、天皇の在位期間は短く、その結果として複数の上皇がいらっしゃるのがふつうで、その中で政務をとられる上皇を治天の君と呼んでいた。後醍醐天皇のように天皇として在位したまま、政務をとられるというのはかなり例外的なやり方であった。〕

 尊氏は、厳島神社への奉幣を終えて、5月4日、厳島を出発、九州の軍勢に加えて、射よ、讃岐、安芸、周防、長門の武士たちが、500余艘の船を並べて軍勢に加わった。さらに7日に、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に到着すると、備後、備中、出雲、石見、伯耆の軍勢が、6,000余騎ではせ参じた。そのほか、諸国の武士たちが、招いていないのに集まって来るし、攻撃しなくても帰順するということで、止めるものがないような勢いでの進撃である。

 新田義貞は、備前、備中、播磨、美作に軍勢を分けて、それぞれの国の城を攻撃しているという情報が伝わってきていたので、尊氏は鞆の浦で陸路と水路に軍勢を分けた。陸路を進むのは足利直義を大将とする20万6千余騎の軍勢であり、尊氏は、足利一族の吉良、石塔、仁木、細川、荒川、斯波、吉見、渋川、桃井、畠山、山名、一色、加子(かこ)、岩松らをはじめとして40余人、足利氏の譜代の家臣である高の一党が50余人、尊氏・直義の外戚である上杉の一類が39人、外様の土岐、佐々木、赤松、千葉、宇都宮、小田、佐竹、小山、結城の一党、さらに三浦、河越、大友、厚東、菊池、大内ら160人、これらの棟梁の率いる軍勢が7560余艘の船に乗り込み、中でも将軍の御座船をはじめとする30艘は巨大な船であった。それらが思い思いに纜を解き、小さな船をつなぎとめて、帆を挙げ、船のヘリがこすれあうほどぎっしりと並んで、東へと向かったのである。〔足利一族として列挙されているうち、吉見は以前にも書いたが、頼朝の弟範頼の子孫、山名は足利一族ではなくて新田一族である。一方で、土岐と佐竹は足利氏と同じ清和源氏であるが、外様とされている。〕

 15日に、備後の鞆を出発したのであるが、その際に不思議なことがあった。尊氏は、館の中でしばしまどろんでいたのだが、その夢に南方から光きらめいた観音菩薩が飛来されて、船の先端にお立ちになっただけでなく、観音菩薩に従い行者を守護する28全身が、それぞれ武装した姿で菩薩をお守りしている様子である。尊氏は夢が覚めたのちに、これは菩薩の加護を得て、戦に勝つという瑞祥の夢であると思い、杉原紙を短冊の形に切って、自筆で大悲観世音菩薩と書き、船の帆柱ごとにそれを押しつけた。このように順風を得て、海路を行く尊氏の軍勢は備前の吹上(岡山県倉敷市下津井吹上)に、また陸路を行く直義の軍勢は備中の草壁庄(小田郡矢掛町)に到着した。

 九州で勢力を回復した尊氏・直義兄弟の反撃が始まろうとしている。ここで重要なのは尊氏が自らの軍事行動を正当化するために持明院統の上皇から院宣を得ていること、その仲介者が賢俊僧正であったことである。最近出版された森茂暁『足利尊氏』によると院宣を得たのは2月15日ごろのことだというから、『太平記』は必ずしも歴史的事実をそのまま書いているわけではない。また、院宣によって自らの行動の正当性を主張するというのは、『太平記』では尊氏自身の思い付きとなっているが、『梅松論』では赤松円心の入れ知恵とされているそうである。『太平記』は歴史そのままを書いているわけではないが、赤松円心・則祐や賢俊僧正を要所で登場させることで、これらの人々が果たした役割を物語っているということは言えそうである。
 尊氏・直義兄弟の東上に中国地方を攻略中の新田義貞とその軍勢はどのように対処しようとするか、というのはまた次回。

日記抄(4月16日~22日)

4月22日(土)曇りのち雨

 4月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回の補足:
4月14日
 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑦ 贋作師と声なき依頼』(双葉文庫)を読み終える。作者はこの前に『京都寺町三条のホームズ (6.5) ホームズと歩く京都』というシリーズのガイドブックのような作品を書いているというので、これから探して読んでみることにしよう。

4月15日
 川島真『中国のフロンティア――揺れ動く境界から考える』(岩波新書)を読み終える。中国、台湾とアフリカ諸国との関係、中国とASEAN諸国との関係、金門島から見た中国の対外関係など様々な切り口から中国の対外関係を考察している。1958年に中国から金門島に降りそそいだ無数の砲弾を鋳つぶして材料にしたという包丁業が、島の主要産業の1つになっているというあたり、中華「民族」の一筋縄ではいかない生命力を物語っているように思って読んでいた。

 横浜FCはアウェーで町田ゼルビアに0-1で敗れる。近くでの試合ではあったが、観戦していない。決勝点がオウン・ゴールによるものであったというのが残念である。

4月16日
 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ(6.5) ホームズと歩く京都』を読む。登場人物の肖像が描かれているのだが、ホームズこと家頭清貴の祖父「オーナー」の様子が中島誠之助さんにそっくりに描かれているように思われる。

 『太平記』との関連で中西妙子『光厳院』を読み返している。政治的な立場からではなく、和歌と禅の道から光厳院を描こうとしている書物である。日野名子の日記『竹向きが記』を王朝の日記文学の伝統の最後に位置する日記として読み込んでいるのだが、院と名子の関係が今ひとつはっきりしないところがある。この書物では後醍醐天皇の中宮になった西園寺嬉子が『とはずがたり』の著者である後深草院二条の娘ではないかという推測をしているのが気になるところである。最近、二条の生涯を描いた奥山景布子『恋衣 とはずがたり』が文庫本になっていて、読もうかどうか、迷っているのである。

4月17日
 NHK「ラジオ英会話」の”U R the ★!”の会話。
What did Kaguya-hime ask you to bring? (かぐや姫はあなたに何をもってくるように頼みましたか?)
A jewel from around a dragon's neck. (龍が首につけている宝石を)
That's a tall order! (それは難しい注文ですね!)
To put it mildly, yes. (できるだけ控えめにいっても、そのとおりです。)

「彩りの散歩道」では重要文化財の「外交官の家」の写真を紹介している。明治43(1910)年に明治政府の外交官・内田定槌邸として、アメリカ人建築家J.M.ガーディナーの設計により東京都渋谷区南平台に建てられた建物を、平成9(1997)年に横浜・山手に移築したものである。4月10日に「楽しいスケッチ」展を見た後、この建物の中にある喫茶室を利用したことを前回の記事では書き忘れていた。

4月18日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」には
Ci vediamo di fronte alla statua di Hachiko. (ハチ公前で待ち合わせしましょう。)
という文が出てきた。地方から東京に出てきて、ハチ公の銅像を見て、思っていたよりも小さいので驚いたといった知人がいたが、どのくらいの大きさだと思っていたのだろうか。イタリア語ではhは普通発音しないのだが、パートナーのお二人がきちんとhを発音されていたのには感心した。

4月19日
 『朝日』朝刊に島根県の出雲地方でブラジル人が急増しているという記事が出ていた。これも出雲の神様のご縁結びの結果だろうということである。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は今週から”Job interviews"というビニェットに入る。来月から正式に働き始める社員が事前の手続きのためにやってきたので、日本から派遣されている社員が、社内のことをいろいろと教えるように言われる。
I'd like you to get know each other and for you to tell him about any unwritten rules he should know.  (お互いのことを知って、彼が知っておくべきあらゆる暗黙のルールについて、あなたから教えてあげてほしいのです。) 現実にはあまりありそうもない設定だという気もする。

4月20日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の続き。新たに採用される予定の人物に対し、彼が応募の際に60社ほどに連絡したという話を聞いて、彼の相手をしている人物が思わず質問する:
Did you send your résumé to all of them? (それらすべての会社に履歴書を送ったのですか?)
résuméはもともとフランス語で、「要約」という意味である(日本でも「レジメ」は「要約」という意味で使われている)が、アメリカ英語では「履歴書」というのが普通の意味である。なお、British Englishでは「履歴書」のことをCV = Curriculum Vitae という。biodataという言い方も聞いたが、『ロングマン英和』によると、これはインド英語のようである。

4月21日
 「実践ビジネス英語」の話の続き。就職の面接の際にどのような質問をされるのかということで、
The first question was often, "Tell me about yourself" (最初の質問はたいてい、「自分のことについて話して下さい」でした。) 
I'd find it hard to know where to start if I was asked that. (もし私がそういうことを尋ねられたら、どこから始めたらいいのかがよくわからないと思うでしょうね。) 
 実際のところ、
It's important to keep in mind that the interviewer wants to know is why you've applied for, and why you think you're qualified. (面接担当者が知りたいのは、応募した仕事になぜ関心があるのか、そしてなぜ自分が適任だと思うのかということだけです。それを心に留めておくことが重要ですね。)
 これは業種や、企業の規模によって答え方が違ってくるだろうと思う。

4月22日
 NHKラジオ「高校生からはじめる 「現代英語」」は、”Diet passes Bill to Use Money in Dormant Accounts" (休眠預金)という話題を取り上げた。
A huge number of bank accounts have seen no deposits or withdrawals for 10 years or longer. Government officials say the money from such accounts is going up by about 100 billion yen each year. (10年以上にわたり預け入れも引き出しもない銀行口座がきわめて多くあります。政府の職員によれば、そのような口座の金は毎年およそ1,000億円ずつ積みあがっています。)
 1,000億円という金額が多いか少ないかは、この金額を他のどのような金額と比較するかによって答えが違ってくる問題ではないかと思う。

 ジョン・カスパード『秘密だらけの危険なトリック』(創元推理文庫)を読み終える。この作品については、機会を改めて論評するつもりである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第9節:横浜FC対ジェフユナイテッド千葉市原の試合を観戦する。横浜は今季初めて、ジョンチュングン選手を最前線にあげて試合に臨んだ。前半はこの新しい布陣が機能せず、ロング・パスを多用して攻撃陣を左右に広く展開させるジェフが優位に試合を運んだが、後半になると横浜の動きがよくなり、53分にイバ選手がゴールを決めると、55分には野村選手、61分にはジョンチュングン選手、さらに69分には再び野村選手と立て続けにゴールを決めてジェフを圧倒した。ハーフ・タイムの「世界の奥寺が斬る」のコーナーで奥寺さんが試合のカギを握ると言っていた、第二列の選手が後半になって活躍したことがこの結果に結びついた。それにしても、イバ選手の先制ゴールはすごかった。 

とも白髪

4月21日(金)曇り

とも白髪

バスの停留所で
時々出会う
白髪頭の
おばあさんを見かけた

今日は旦那さんと一緒で
お孫さんの顔を見に出かけるのか
ただの買い物か
おばあさんは穏やかな顔で
旦那さんは少し厳しい顔で
二人とも
白髪頭に風を受けて
並んでバスを待っている
黙ってバスを待っている

とも白髪というけれど
夫婦そろって
こんなに見事に白髪になることは
あまりなさそうだ

幸福を
無表情で包み込んで
とも白髪の夫婦が
二人でバスを待っている

付記 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手の数が23,000を超えました。お礼申し上げるとともに、今後もよろしくご愛読いただくことをお願いします。

北村季吟と松尾芭蕉

4月20日(木)晴れ、気温上昇

 『太平記』を批評した2つの俳句がある。
 平家なり 太平記には 月も見ず 其角
 歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 支考

 前者は『平家物語』には月見のような王朝の優雅な生活の姿が描かれているが、『太平記』は殺伐としている。『平家』の方がいいというもので、後者は花の名所として知られる吉野山ではあるが、歌集を読むよりも、『太平記』に描かれた吉野朝の苦難の姿の方が悲しく思われるというものである。『太平記』を殺伐とした戦闘の記録の連続として読むか、吉野朝の苦難と朝廷に忠義を尽くした武士たちの悲愴な姿を描いた文学として読むかは読み手の自由である。そのどちらを選ぶ、あるいは別の読み方を選ぶというのも自由である。

 興味深いのは、この2つの対照的な句の作者がともに芭蕉の有力な弟子だったということである。芭蕉の作品を読んでいると、彼が国文学の古典についてなみなみならない素養をもっていたということに気付かされる。それもそのはず、彼は俳諧を北村季吟(1624-1705)に学んだのであるが、季吟は『源氏物語湖月抄』などの著書を表した古典研究者でもあった。このことをめぐっては、『広辞苑』の編纂者であり、季吟の顕彰に努めた新村出が
 芭蕉には和学の恩師たりしこと先づ憶(おも)ひつつ大人(うし)を敬まふ
と歌っているそうである。

 季吟と芭蕉の師弟関係は、芭蕉が蕉風と呼ばれる俳諧の流派を形成したのちも続いていた。少なくとも季吟の方ではそう思っていたようである。元禄7年(1694)、芭蕉が没した時に、まだ健在であった季吟は芭蕉が葬られた義仲寺に
 氷(こお)るらむ足も濡らさで渡る川
と詠んで送った。季吟の長男である湖春も、追悼句を詠んだ
 また誰(た)そやああこの道の木の葉掻き
 湖春の友人で、柳沢吉保の家臣であった柏木素龍が、この句に
 一羽さびしき霜の朝鳥
と付けた。芭蕉の霊は、旧師からのこの追悼の句と、親友であった湖春の句をどのように受け止めただろうか。なお、素人の勝手な感想であるが、素龍の付け句が一番よくできているような気がする。

 徳川綱吉の寵臣であった柳沢吉保の名が出てきたが、季吟は元禄2年(1689)に歌学方として幕府に召し抱えられ、将軍綱吉に『古今和歌集』の切紙を献上したりしている。また自らが受けていた古今伝授を柳沢吉保に授けたりしている。漂泊の旅に生きた芭蕉とは対照的に、権力に親近する生き方をしたのである。このことをめぐって島内景二『北村季吟』に興味深い考察が展開されている(これまで書いてきたことも、大部分、島内さんの著書に書いてあったことである)。

 季吟は宗祇や細川幽斎らが抱いていた「正しい世の中をこの世に実現させる」という「政道のための文学」の伝統を継承していた。「応仁の乱で荒廃した日本文化を、もう一度正しい秩序に回復させ、為政者と被治者が君臣相和する社会を構築するためには、それらが理想的に行われていた王朝盛時の和歌や物語を学ぶ必要がある。そして、その研究成果は、現在の政治に役立てられねば何の意味もない。」(島内、103ページ) だからこそ、彼は柳沢吉保に古今伝授を行ったのである。平和と繁栄は、平和と繁栄の時代の文化を学ぶことによって、より具体的には一条天皇と藤原道長の時代の和歌と物語とを学ぶことによって実現できると考えたのである。

 芭蕉は権力とは無関係に生きようとした。このことを含め、「季吟から芭蕉への流れは、受け継がれた側面と、変容した側面との両方がある。季吟は、集大成の人であり、芭蕉は変革の人だった。ただし、「不易流行」をモットーとする芭蕉にとっての「不易」は、季吟から受け継いだわが国の古典的伝統と深くかかわっている。」(島内、104ページ)
 其角と支考という芭蕉の2人の弟子が、『太平記』をめぐって違った意見を抱いたのは、たぶん、芭蕉が弟子たちに古典文学を学ぶことを奨励はしたものの、あまり自分の意見を押しつけようとはしなかったからであろう。その点にも季吟と対比しての芭蕉の新しさが現われているように思うのだが、どうだろうか。  
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