『太平記」(150)

3月19日(日)晴れのち薄曇り

 建武3年(1336)、京都を占領していた足利方の軍勢は比叡山を根拠地としていた宮方の軍勢の反攻を防ぐことができず、正月30日に京都から撤退した。摂津へ落ちのびる途中、尊氏は供をしていた薬師丸に光厳上皇から院宣を頂いてくるように命じた。持明院統の上皇の院宣を手に入れることで、後醍醐天皇に対抗しようとしたのである。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州に落ちた。2月2日、京に戻った後醍醐天皇は、25日、建武の年号を延元に改めた。
 わずかの軍勢で筑前多々良浜に上陸した尊氏は、宗像大宮司の館に迎えられた。宮方の菊池武俊が尊氏方の少弐の城を攻め落とし、さらに多々良浜に攻め寄せた。尊氏は敵味方の軍勢の違いに一度は自害しようと思い詰めたが、直義に諫められて考え直す。運が味方したのであろうか、尊氏軍は100倍に余る菊池軍を退け、菊池軍の搦め手の松浦・神田の軍勢は尊氏軍に降伏、菊池軍は肥後の国に引き返した。

 戦闘の常として、勝ちに乗じると鼠が虎となり、勝機を逸すると虎も鼠となるといわれるが、尊氏はこの勝利に気を能くして、一族の一色太郎入道道祐(範氏)、仁木義長を派遣して、菊池の居城を攻撃させた。いったんは勢いに乗っていた菊池であるが、劣勢になるとひとたまりもなく、1日も持ちこたえることができずに、山奥へと逃げ籠もったのである。

 次に尊氏軍は、肥後の八代の城に押し寄せ、この城を守っていた名和長年の家臣の内川彦三郎を攻め落とす。さらに多々良浜の合戦に参加していて、重傷を負っていた阿蘇大宮司八郎惟直は、肥前の小杵(おつき)山(佐賀県小城市の天山)で自害してしまった。その弟である苦労は、道に迷った挙句に、土地の農夫に生け捕りにされてしまった。同じく宮方の武士である秋月は、大宰府まで落ちたのだが、そこで一族20余人が、戦死してしまった。九州の宮方の有力武将がこのように一斉にうち滅ぼされたために、九州と壱岐・対馬の武士たちは、皆こぞって尊氏に付き従ったのである。

 これは菊池が不覚をとったというわけではなく、直義の謀が功を奏したというのでもないと『太平記』の作者は記す。ただ、よい果報をもたらす前世での善行が現われて尊氏が天下の主となるべく、神々がその真意を尊氏に加えたので、九州での戦闘に勝つことを出て、九州さらには中国地方を制圧することが出来たという。

 さて、九州の武士である松浦(まつら)、神田(こうだ)たちが、尊氏方が少数であったのに大勢であると錯覚して降伏した問うわさが広まってきたので、尊氏は、主だった家臣である高、上杉の人々に向かって、次のように述べた。「言葉の下に骨を消し、笑みの中に刀を研ぐというのが、このごろの人の心である。それで、原田対馬守は少弐入道の婿であったのに、策略をめぐらし、義理の父である少弐入道を討ち果たしたという最近の例がある。これを見ても、松浦、神田は、ひょっとして叛心を抱いていて、そのために一兵も損なわないままに乞うふうしたのではないかと、不審に思われるところがないでもない。というのは、まことの信心があるときには、神仏がそれに応えて奇蹟を表すことがあるといわれてきたことではあるが、味方の軍勢はそれほどの大ぜいに見たということも、現代のような末世ではありそうもないことであり、信用できない。方々もその旨を心にとめて油断しないようにしてほしい」。

 すると、末席にいた高駿河守(師茂。尊氏の執事である師直、師泰の弟)が進み出て申し上げる。「まことに人の心を推し量るのがむずかしいことは、天よりも高く、地よりも厚しといわれてきたことではありますが、このような大事業に取り組もうとお考えになるときは、そのように人の心を不審に思われてばかりいると、速やかな成功を遂げられなくしてしまうでしょう。さらに味方の軍勢が多く見えたというのは噓ではなかったと思われます。このような不思議の先例は数多くあると聞いております。
 昔、唐の玄宗皇帝の時代に安禄山が反乱を起こした、皇帝の左将軍である哥舒翰が安禄山方の将である崔乾祐と潼関というところで戦った際に、黄色い旗を掲げた兵が10万余騎、突然現れて官軍の陣に加わりました。崔乾祐はこれを見て、敵は大軍であると思ったので、兵を引いて四方に逃げ散ってしまったといいます。その日、皇帝の使いが、先祖を祀る廟所である宗廟に詣でてみると、そこに置かれていた石人という石でできた人形たちの両脚が泥で汚れていたり、その体に矢が刺さっていたりしたので、さては黄色の旗を掲げた兵10万余騎は、宗廟の神が、兵隊の姿になって、反乱軍を退けたのだと、皆疑うことなく思ったということです。
 また、わが国では壬申の乱の際に天武天皇と大友皇子が天下を争われたのですが、備中の国二万郷(にまのさと、岡山県倉敷市真備町上二万・下二万)というところで、両軍が決戦を行いました。天武天皇の御軍勢はわずかに3百余騎、大友皇子の御軍勢は1万余騎でした。軍勢の多少を見ると、戦わずして勝敗は明らかだと思われたのですが、どこから来たともわからぬ兵2万余騎が、天武天皇の味方に現れて、大友皇子の軍勢を敗走させました。これがもとでその場所を二万の里と名付けたと言います。
 『源平盛衰記』によりますと、周防内侍がこのことを歌って
 君が代は二万の里人数そひて絶えず備ふる御調物(みつぎもの)かな
(第2分冊、506ページ、帝の御代は、二万の里人が二万人もの数で絶えず貢物を捧げるめでたい御代であることよ。)
と詠んだそうです。
 と中国と日本の故事を引き合いに出して、尊氏の武運が天意にかなったものであることを申し上げると、将軍もその場にいた人々もみな大喜びをしたのであった。

 岩波文庫版の脚注を詳しく見ていくと分かるが、この師茂の発言はかなりいい加減なものである。まず、潼関の戦いでは安禄山の反乱軍の方が勝って、哥舒翰は戦死したというのが歴史的事実であり、石人が兵隊となって表れたというのは後世の説話だそうである。壬申の乱の際に備中で両軍が衝突したというのも、後世にできた伝説であろう。「君が代」の歌は、周防内侍ではなくて、小侍従の歌だそうである。
 思うに、師茂はもっと素朴な発言をしたのであろうが、『太平記』の作者が勝手に尾ひれをつけ、その尾ひれがことごとくいい加減なものであったというのが真相であろう。『太平記』第9巻に、丹波の武士である久下弥三郎時重が尊氏のもとにはせ参じた時に、その旗の紋、笠符に「一番」と書いてあるのを見て、尊氏が不審に思うと、師茂の兄である師直が源平の合戦の際に久下の先祖が頼朝のもとへ一番に駆け付けたためにこれを紋にしていると答える場面があったが、師直だけでなく、その兄弟も武家の故事に通じていたことが推測される。

 以上で『太平記』15巻は終わる。岩波文庫版の第2分冊をこれで読み終えた。今回は150回なので、1巻につき10回というペースで進んできたことになる。『太平記』は全40巻(ただし第22巻が欠けているので、実際は39巻)なので、まだ前途遼遠である。吉川英治の『私本太平記』は第16巻の楠正成の戦死、山岡荘八の『新太平記』は第20巻の新田義貞の死までで打ち切られているが、私としては紹介のスタイルを変えることはあっても、最後まで物語を追い続けていきたいと思っている。

日記抄(3月12日~18日)

3月18日(土)晴れのち薄曇り

 3月12日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
3月12日
 ニッパツ横浜球技場でJ2第3節:横浜FC対ザスパ草津群馬の対戦を観戦する。開幕の松本山雅戦にくらべると観客がかなり減り、前売り券を確保する必要もなく、老人割引で入場した。前半40分にゴール前でこぼれたボールを三浦カズ選手がけりこんであげた1点を守って、横浜が1-0で勝利し、3位に浮上した。試合後の談話でカズ選手が、イバ選手の近くにいればボールが転がってくることがあると思って、その機会を待っていたと話していた。決めるべき時に決めたカズ選手は立派だが、チャンスを作ったイバ選手の活躍も見落とせないのである。

3月13日
 NHK「ラジオ英会話」は”Harvey and Shirley Downsize"(ハーヴィーとシャーリー、身の回りを整理する)の2週目:”Getting Down to Business"(具体的な話に入る)で、ハーヴィーとシャーリーの老夫婦は家を売って身の回りを整理し、小さなマンション(small condo)とRV(recreational vehicle、キャンプ用で部屋やキッチンのついた車)を買うことにした。そこでRVを売ると言っているアリゾナ州トゥーソンに住む知り合いのゲーターに電話を掛ける。
How about knocking down the price a bit? (どうかね、少し値引きをしないかね?)
Sorry, buddy, I'm not budging on the price. (悪いんだけどねえ、値段に関しては一歩も譲りませんよ。)
Would you consider free delivery of the RV? (RVの無料配達を検討していただけるかな?)
You drive a hard bargain! (強気の交渉をするねえ!)

3月14日
 「ラジオ英会話」の続き。ハーヴィーはガレージセールをしようと提案する。
Let's have a garage sale. (ガレージセールをしよう。)
In the middle of winter? No one will show up. (冬のさなかに? 誰も来ませんよ。)
Sure they will. People love a bargain! (来るとも。掘り出し物が嫌いな人はいないよ!)
I'm not so sur about that. (それはどうかしらね。)

3月15日
 the Ides of March. ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が暗殺された日であることは昨年のこのブログで書いたはずである。確定申告に出かける。グズグズしていて、申告が最終日近くになるのは例年通り。昨年に比べると税務署にやってきている人が少なく、書類提出までそれほど時間がかからなかった。

 「ラジオ英会話」の続き。ハーヴィーとシャーリーの夫婦はいよいよガレージセールを始めるが、帝国よりも早く、お客がやってくる。シャーリーの紅茶セットに目を付けた女性が、45ドルで売ると聞いて
Could you come down in price a little? (価格を少し下げてもらえるかしら?)
交渉の結果、35ドルで買い取ることになり、2人は
Thanks for your business! ((お買い上げ)ありがとうございました!)
と声をそろえる。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Money Matters"(お金のこと)の4回目。お金を大切にすることを子どもたちにどうやって教えるかについての議論が交わされるが、一人が
What do you think is the best way of explaining the growing gap between rich and poor to children? (貧富の差が広がっていることを子どもたちに説明するには、どうすれば一番いいと思いますか?)と問いかける。
That's a tricky one. (それは難しい問題ですね。)

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Knowledge is of two kinds: We know a subject ourselves, or we know here we can find information upon it.
-- Samuel johnson (English lexicographer and author, 1709 - 84)
(知識には2種類ある。ある事柄を自分自身が知っているということと、それにかかわる情報をどこで見つけられるかを知っているということだ。)
 lexicographerは「辞書編集者」。ジョンソンが独力で英語辞書を編纂した次第は上記の言葉を含む、いくつかのエピソードを引き合いに出しながら、面白おかしく、加島祥造『英語の辞書の話』に記されている。加島さんのこの本を読んだ後、ある講習会の講師をしていて、「知識には2種類ある」という話をしたのはもう40年近く前のことになってしまった。加島さんは最近は「タオ」についての著書で知られるが、大学の英語の先生をしていただけでなく、クリスティの『ナイルに死す』など英語ミステリーの翻訳者であり、『荒地』派の詩人でもある。実は、城米彦造とともに、私が目標にしている詩人である。

3月16日
 「ラジオ英会話」の続き。ガレージセールで今度は、ハーヴィーの運転台付き芝刈り機(riding mower)に目を付けた客がいる。350ドルという値段を聞いて、
Is that your final offer? (それが最終提示価格?)
I'll throw in the garden tools. (おまけに園芸用具を付けます。)
It's a deal! (それで決まり!)

 「実践ビジネス英語」の続き。若者たちにお金の大事さを教える最良の方法として、1人がこんな意見を述べる。
If you ask me, one of the best ways to teach young people the value of money is for them to have part-time or summer jobs. (私に言わせてもらえば、若い人たちにお金の価値を教える最良の方法の1つは、アルバイトや夏の間だけの仕事をさせることです。) 私が接した学生たちの経験をまとめると、若者たちにとってアルバイトは、自分とは異質の人間との出会いという性格が大きいように思う。
 Too many people are ignorant about basic financial matters. (資産管理の基本的なことを知らない人が多すぎます。)というのはそのとおりで、私などもそのために苦労している。しかし、学校で金利や株式市場というようなことについて教えるのは、ある業界の一方的な宣伝の注入になる恐れや、宣伝できなかった業界からの猛反発を招く恐れがある。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は”La vin (1) Partage et convivialité ~La vérité est dans le vin ~”(ワイン(1) 分かち合い、共に楽しむこと~真実はワインの中に~)という話題を取り上げた。
En France, on dit qu'il ne faut jamais boire seul, mais uniquement quand on est accompagné. Et rien n'est plus vrai lorsque l'on parle de vin. (フランスでは、決して一人で飲んではいけない、誰か一緒に飲む人がいるときにだけ飲むものだ、と言われる。ワインについて言えば、これ以上正しいことはない。)
 La vérité est dans le vin. というのはラテン語の《In vino veritas.》という表現をフランス語にしたものだという。「酒の中に真実がある」というのは、「ワインを飲むと、人は、素面では話せないようなことも話す」という意味だと解説されていた。これは大プリニウスが『博物誌』の中で述べていることを、ことわざ風に言い換えたもので、酔っぱらうと本性が現われるというようなことだと別の本に書かれていた(まあ、大体同じことである)。

 『日刊スポーツ』に俳優の渡瀬恒彦さんの訃報が出ていた。72歳。まだ活躍できる年齢であっただけに惜しまれてならない。実は、兄さんの渡哲也さんにくらべると、渡瀬さんの映画は見ていない。渡瀬さんが再婚された時に、お相手が新潟市の内野の人だという話を聞いて、身近な感じがしたことを思い出す。内野の酒である<鶴の友>でも探して、ご冥福を祈るとするか。

3月17日
 「まいにちフランス語」”Le vin"の2回目。
Lorsque l'on dine chez soi, avec des amis, choisir la bouteille que l'on va déboucher est tout un art. (自宅で友人と一緒に夕食をとるとき、その夜開けるワインを選ぶのは、まったくアートといっていい行為だ。)
私の場合、そういうことはなさそうである。

3月18日
 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか〔下〕 権力・繁栄・貧困の起源』を読み終える。長期的な経済発展の成否にかかわる最も重要な要因は政治経済制度の違いであると論じるきわめて興味深い本である。最後の方で、ルーラ大統領時代のブラジルの経済的発展を肯定的に評価しているが、最近のブラジルでは、ルーラ時代の政治への反動が起きているようなので、今後の展開との関連も見ていこうと思っている。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Cleopatra"を話題として取り上げた。
Age cannot wither her, nor custom stale her infinite variety. (年齢を重ねても容色は衰えず、逢瀬を重ねても無限の変化は新鮮さを失わない。) というのは、彼女の美しさと魅力を表現したシェイクスピアの言葉だそうである。エジプトの女王であったが、マケドニア系ギリシア人の王朝であるプトレマイオス朝の出身である。しかし、彼女は先祖以来の伝統を破って、初めてエジプト語(コプト語のことであろうか。現在のエジプトで公用語になっているのはアラビア語である)を話したという。
She was educated in various subjects including mathematics and philosophy, and could speak around tn languages. (数学や哲学を含むいくつもの学問を学んでいて、およそ10言語を話すことができた。)
と、語り手は、彼女の知性の高さも忘れてはならないと述べているが、それゆえに自信過剰になっていた部分もあるのではないかという気もする。
 ご存知の方も多いと思うが、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』でシーザー(カエサル)がブルータスに殺される場面で、そこだけが”Et tu, Brute?"(ブルータスよ、お前もか?)とラテン語になっている。柳沼重剛によると、これはスエトニウスの『ローマ皇帝伝』(ラテン語で書かれている)の中で、このセリフだけがギリシア語で”Kai su, teknon?"(我が子よ、お前もか?)となっているのに対応させたものだという。当時の教養あるローマ人たちは、ギリシア語を読み話すことができた。とは言うものの、数か所に傷を負って死に瀕している時に、ギリシア語で叫ぶというのはすごい。「しかし教養もここまでくれば本物だともいえるし壮絶だともいえる。…これはただひたすらに凄い」(柳沼(1991)『語学者の散歩道』研究社、25ページ)と半ばあきれている。
 だから、カエサルにしても、アントニウスにしても、クレオパトラとはギリシア語で話していたと思われる。と、なると、たぶん、会話は押され気味だったのではないかと推測される。
 この番組でも触れられていたが、彼女とカエサルの間に生まれたカエサリオンという息子がいて、一時期母親とともにエジプトのファラオになっているが、オクタウィアヌスに殺されたらしい(はっきりしたことはわからない)。クレオパトラの娘は、生きながらえているので、大坂の陣の後の豊臣秀頼の子どもたちの運命に似たところがあると思う。 

呉座勇一『応仁の乱』(14)

3月17日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物はこの大乱の背景と結果とを含む全容を、同時代の興福寺僧である経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』、尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という2つの日記を基本的な史料として、明らかにするものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」は鎌倉・室町時代を通じて興福寺が事実上の守護であった大和という地方の特殊性と、室町幕府・京都との関係、史料の記述者の1人である経覚の経歴の前半について述べている。大和に隣接する河内は室町幕府の三管領家の一つである畠山氏の本拠であり、応仁の乱の直接の原因となった畠山義就と政長による家督争いと、その大和の武装勢力との関係についても触れられている。
 第2章「応仁の乱への道」は嘉吉の変(1441)による将軍義教の暗殺から文正の政変(1466)にいたる幕政の混乱とその中での主導権争い、それと関連して起きた有力大名家の内訌と合従連衡、その中でも特に畠山氏の家督争いの展開、そのような中で義教によって失脚させられた経覚が再び表舞台に登場し、興福寺の荘園からの年貢をめぐる問題の対処に活躍する姿も描かれている。
 第3章「大乱勃発」は、文正元年(1466)に軍勢を率いて上洛した畠山義就が翌年初めに、自身の武力と山名宗全の後ろ盾をもとに畠山氏の家督を奪い、政長を放逐する(文正2年の御霊合戦)が、政長を支持してきた細川勝元が年号が変わった応仁元年5月に京都市内で戦端を開く。勝元の陣営(東軍)には勝元、政長のほか、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢ら、宗全の陣営(西軍)には宗全、義就のほか、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが加わった。将軍義政を確保した勝元が幕府軍の地位を得て、先制攻撃を懸けるが、西軍は持ちこたえ、中国地方から大軍を率いて上洛した大内政弘の活躍で反攻に転じた。応仁2年(1468)に兄である将軍義政と対立した義視が西軍に投じ、西幕府が成立した。両陣営ともに、短期の決着を図っていたが、戦局が長期化したのは、両軍ともに陣を堀や井楼で防御したため、市中における戦闘が実質的に攻城戦となり、さらに味方の補給路を確保し、敵の補給路を遮断しようと、周辺地域に戦闘が拡大するようになったためである。
 第4章「応仁の乱と興福寺」では、戦争によって荘園からの年貢の取り立てが困難になる中で、興福寺の別当(寺務)に返り咲いた経覚と大乗院門主の尋尊が対策に奔走する姿を描いている。
 第5章「衆徒・国民の苦闘」は、興福寺・春日社と結びついた大和の国独特の武装勢力である衆徒・国民がこの戦乱にどのように対処したか、西軍優勢の中で、足利義政は西軍の有力武将である朝倉孝景の切り崩しに成功、朝倉が越前を抑えたことで、西軍の有力な補給路の1つが遮断されたこと、戦局が不利になる中で西軍は後南朝と結びつこうとするが、かえって西軍内での対立を招いたことなどが記されている。
 第6章「大乱終結」の前半では、疫病の流行や飢饉などにより、両軍の戦意が衰え、厭戦気分がみなぎってきたこと、和睦のための交渉が続けられたこと、文明4年(1472)に勝元、宗全ともに引退した(文明5年には、両者とも死去した)こと、西軍の補給路を遮断したことで東軍の優位が続く中、文明6年(1474)には細川・山名の和議が成立したものの、西軍の畠山義就と大内政弘はあくまで戦闘を継続しようとしたことが記されている。しかし、義政は政弘の懐柔に成功し、文明9年(1477)に政弘は幕府に降参、西幕府はなし崩し的に解体し、戦争は終結した。

 今回は第6章の残りの部分、応仁の乱終結後の大和の情勢について触れた部分と、第7章「乱後の室町幕府」の幕府による再建の取り組みを辿った部分を取り上げることにする。
 史料の1つである『経覚私要鈔』の記述者である経覚は文明5(1473)年に死去していた(勝元、宗全と同じ年のことである)。呉座さんは両者の日記を比較することから、その関心の対象や、記述者自身の性格をめぐり、次のように指摘している。
〔「天魔の所行」「寺社滅亡の基(もとい)」などと頻繁に乱世を嘆く尋尊と異なり、経覚は応仁の乱という戦争全体に関する感想を記すことはなかった。経覚の関心は政治や社会情勢ではなく、もっぱら自分と親交のある人々の動向に向けられた。」(199ページ) たとえば自分と親しい朝倉孝景が越前を制圧すると、彼が西軍から東軍に寝返ったということは不問にして(経覚は西軍びいきである)喜んでいる。これは「越前での合戦のせいで、河口荘からの年貢が入ってこないのではないかと心配する尋尊とは対照的である。」(200ページ)

 経覚の死後、尋尊は彼の日記などの諸記録を取り寄せた。2人の微妙な関係のために、尋尊は経覚の日記を見ることができなかったのである。「経覚が没した時、尋尊は既に44歳であった。多くの記録を調べ上げ、大乗院の歴代門主の中でも随一といってよいほどの博識となった尋尊にとって、いまさら経覚の日記から学ぶことはほとんどなかっただろう。それでも経覚の記録を即座に入手する尋尊の学究心には感心させられる。」(200ページ) 惜しいことに、おそらくは尋尊が知りたがっていた古い記録は文安2年(1445)に起きた兵火のために焼けてしまっていた。
 経覚はかなりの額の借金をしていたが、このようなこともあろうかとかねてから準備をしていた尋尊は借金取りを丸め込んだだけでなく、経覚が経営していた所領の回収に動き、成功している。「将来発生するであろう問題を予見し、事前に対策を練っておく尋尊の手腕は見事というほかない。大乱の傍観者と侮っていると、尋尊の本質を見失ってしまうだろう。」(204ページ)

 文明9年(1477)に大内政弘の降伏によって孤立した畠山義就は、9月22日に京都を出発して、野崎(大阪府大東市)にまで進出し、政長の重臣遊佐長直が守る若江城をうかがう構えを見せた。幕府側もある程度は予測していたであろうが、河内における義就の勢いは予想以上のものであった。政長に泣きつかれた義政は、朝廷に畠山義就治罰の綸旨を要請し、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の力で義就を討伐しようとするが、時すでに遅く、義就は河内を切り取ってしまう。
 このような軍事的進出は、義就の名望・魅力によるものが多いと呉座さんは論じている。「畠山義就の魅力は、軍事的才幹もさることながら、守護家に生まれた御曹司でありながら、権威をものともせず、実力主義を貫く点にある。」(206-207ページ) 山名宗全が室町幕府の秩序の枠内で行動しているのに対し、義就には「そもそも幕府の命令に従うという発想がない。…彼の本質は幕府の権力に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢にある。中央からの統制を嫌う地方武士たちが義就のもとに集まったのは、このためである」(207ページ)として、朝倉孝景や北条早雲とともに「最初の戦国大名」に数えてよい存在であると評価している。

 河内を制圧した義就はその矛先を大和へと向ける。おそらく義就と示し合わせて、京都にいた大内政弘が重臣に兵力を与えて山城国を南下させた。このため、筒井氏をはじめとする大和の政長方勢力は四散してしまった。尋尊は筒井順尊の代わりに、義就との太いパイプを持つ古市澄胤(第5章に登場した古市胤栄の弟)を官符衆徒棟梁に任じ奈良の治安を確保しようとする。筒井は復権を目指して策動を続けるが、大和での影響力を次第に失っていく。

 さて、第7章「乱後の室町場幕府」では、まず、応仁の乱によって将軍の権威が失墜したとはいっても、「足利義政も巷間言われるほどに無為無策だったわけではなく、幕府再建に努力している。その柱が寺社本所領返還政策である」(214ページ)と、寺社が守護に奪われた所領を元に戻す(「徳政」の一種)政策の再開について論じている。しかしこの政策は、実は寺社と守護の対立の中で、自力で守護勢力を排除できない寺社に将軍側近の武士たちを派遣して援助させることにより、将軍権力の強化を図ろうとするものであった。
 
 義政の子である義尚は文明5年(1473)に征夷大将軍となっていたが、文明11年(1479)11月22日に判始(はんはじめ)を行い、法的な責任能力を持った大人として政治に携わることができるようになった。しかし、父である義政が依然として政務をとり続けていたため、文明12年5月、突如本鳥を切って出家を図るなど不満をあからさまにした。
 周囲の人々になだめられて気を取り直した義尚は、摂政関白の経験者で当時一流の学者であった一条兼良(尋尊の父であり、第4章では奈良に「疎開」して優雅な暮らしをしていた)に政治の心構えを諮問し、兼良は政治意見書『樵談治要』を執筆、7月に義尚に献上した。しかし、そこにはきれいごとの建前論しか書かれておらず、実戦的・具体的な提言に乏しかった。「ちなみに兼良の息子の尋尊は、義尚の為政者としての資質に疑念を抱いており、義尚に理想の君主となるよう説く『樵談治要』を「犬の前で仏の教えを説くようなものだ」と皮肉っている。」(217ページ)
 文明13年(1481)正月、義政は隠居すると言い出したが、突然の引退表明だったために、周囲は困惑した。父親の当てつけ的な政権投げ出しに義尚は反発し、父親同様に年賀のあいさつを拒否して引きこもってしまうという異常事態となった。このため、義政を補佐していた日野富子が政務を代行した。「ただし、関所を乱立させたり高利貸を営んだりと私財の蓄積に狂奔する富子の評判は以前から悪く、長く続けられる政治体制ではなかった。」(218ページ) 文明14年(1482)7月に義政は正式に義尚に政務を委譲し、義尚の執政が開始された。とはいえ、義政はその後も幕府の最高権力者としての地位を維持し、義尚の権力を制約し続けたのである。

 大乱は終結したが、畠山義就のように幕府の権威に従わず、独自の行動をとり続ける武士がいる(というよりも、これからだんだん増えてくる)。寺社勢力は自分たちの権益を守るのに必死である。有力な大名たちは下剋上を恐れて領国に帰りはじめる。大名たちを抑えて自分の勢力を伸ばそうとする義政の努力は実らず、むしろ将軍の権威と権力は低下の一途をたどる。義政・日野富子・義尚とどうもすごい人たちばかりがそろった感じがあるが、彼らの個性ばかりに幕府の衰亡の原因を求めるべきではないだろう。『樵談治要』は『群書類従』に収められているそうなので、探して目を通してみようと思う。あるいはネットでも読めるかもしれない。
 今回は、『大乗院寺社雑事記』を通じて知られる尋尊の人間像や、戦国大名の先駆というべき畠山義就の個性など、呉座さんがこkの書物を書いていくうえで、大いに魅力を感じたであろう内容が含まれていて、読みごたえがあった。著者が史料をしっかりと読み込んで、その内容を整理していることが、この読みごたえを支えているように思われる。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(15-1)

3月16日(木)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に達する。ダンテとベアトリーチェを迎えて、火星は普段よりもさらに赤く輝いていた。ダンテが全身全霊を込めて自身の感謝の想いを神にささげると、赤い無数の星が、神を表す円と、キリストの受難を表す十字架を形作ってその中を動き回り、その十字架の上に磔刑のキリストの姿が輝くのが見えた。そして美しい響きで地獄と悪に勝利するキリスト、つまり復活のキリストをたたえる歌が聞こえてきて、その中に「復活」による「勝利」をキリストに祈願する言葉が聞こえてきた。

 火星天に到着したダンテは、これまでしてきたように、火星天で彼を迎えている魂に話しかけようとする。すると、歌がやむ。
晴れ渡って澄んだ静かな夜空に、
たまさか、突然の火が走ると
悠然と眺めていた目を引き、

移動した星のように見える。
ただその火が燃えだしたところでは
星は一つも欠けず、一方で火はすぐに燃え尽きる、

あたかもそれと同じ様子で
その天空に輝く星座の中から星が一つ
右に延びる翼からあの十字架の足の先まで走った。
(223-224ページ) 「突然の火が走ると」というのは流星を表している。十字架の上を流星のように走ってダンテのほうに近づいてくる魂があった。

 ダンテは、地獄と煉獄を経て地上楽園まで彼を案内したローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』の中の、アエネーアースが死んだ父アンキーセスと出会う場面を思い出す。
愛情にあふれたアンキーセスの影はこのように現れたのだ、
私達の最も偉大な詩神が信頼に値するならば、
エリジウムにあって息子に気づいた時に。
(224ページ) エリジウムはギリシア神話ではエーリュシオンと呼ばれている、英雄や善人が死後に赴くという冥界の中の楽土である。「偉大な詩神」はもちろん、ウェルギリウスのことである。『アエネーイス』によると、エーリュシオンはただ単に死後の世界であるだけでなく、未来の人間たちの霊を送り出す場所でもある。トロイア滅亡後東地中海世界の各地を流浪したアエネーアースは叙事詩の第6歌で、イタリア半島のクーマエに上陸し、この地に住む巫女のシビュラの指示に従い、将来の運命を知るために、冥界へと旅立つ。アエネーアースの父、アンキーセスは自分の子孫たちの運命を知り、アエネーアースが生きてこの冥界を訪問するのを待ち構えている。「さて、父アンキーセスは、緑なす峡谷の奥に/閉じ込められたのちに地上の光のもとへ旅立つ定めの霊たちを/一人一人入念に確認していたが、このときは身内の者たちが/すべてそろっているか点呼して、大切な子孫たち、/勇士たちの運命と運勢、品性と手腕を見ていた。/そこへ、草を分けてこちらに向かってくる人影を見た。/アエネーアスだった。気の逸るまま両手を差し伸ばした。/その頬には涙が溢れ出し、こぼれ落ちるように言葉が出た。」(ウェルギリウス『アエネーイス』、岡道男・高橋宏幸訳、京都大学学術出版会、西洋古典叢書、282ページ) 翻訳者である原さんは傍注で「ここで死後の楽園エリジウムにいるアンキーセスとアエネーアースは、ダンテの先祖とダンテの関係の予型になっている」と記している。

 近づいてきた魂はダンテに向かって言う:
「おお、我が血族よ。おお、惜しみなく
降りそそぐ神の恩寵よ。おまえに対してと同様に
空の門が二度開かれたのは、いったい誰のためであったろうか」。
(224ページ) この3行の原文はラテン語だそうである。ダンテ以前に「空の門が二度開かれた」のはパオロに対してであると傍注に記されている。
 ダンテの先祖の魂の言葉が始まると、ベアトリーチェの目がダンテに向かって輝く。そして魂の言葉に応じて、ダンテは自分の先祖らしい魂に対して、その名を尋ねようとする。

 さて、ダンテの先祖の魂はどのように答えるのであろうか。
 今回は、ダンテが自分の叙事詩の模範を重ね合わせようとしている『アエネーイス』の該当する部分にも注意しながら、読み進むこととなった。両者を読み比べてみると、『神曲』の方が整然としているが、キリスト教的な要素が強すぎて、あまりにも観念的だという印象を受ける。『アエネーイス』の方が人間的な要素が強く、現実的でもあり、共感できる部分が多い。文学や芸術は、後世の作品の方が優れているとは必ずしも言えない、人類の文明の発展を超越したところがあるのではないかと考えさせられるのである。

アリ・ブランドン『書店猫 ハムレットの休日』

3月15日(水)曇り

 3月14日、アリ・ブランドン『書店猫ハムレットの休日』(創元推理文庫)を読み終える。『書店猫ハムレットの跳躍』、『書店猫ハムレットのお散歩』に続くシリーズ第3作である。
 ダ―ラ・ペティストーンは大叔母の死後、彼女が経営していたニューヨークのブルックリンにある<ぺティストーンズ・ファイン・ブックス>という書店を譲られる。この書店には大学の教授だったジェイムズ・T・ジェイムズという店長のほかに、標準よりも少し大きな黒猫のハムレットがついていた。ダーラが店を引き継いでから、この1人と1匹にロバートという若い店員が加わって、店をやりくりしている。ハムレットは顧客に対しては気難しく、冗談半分に「猛猫注意」の張り紙を店に貼り出さるほどであるが、人間の言葉と考えていることがわかるかのように、これまでいくつかの事件で、ヒントになるような行動をしてきた。
 『書店猫ハムレットの跳躍』で起きた事件のために、元気をなくしていたハムレットであるが、『書店猫ハムレットのお散歩』ではダーラが出場した空手大会にいつの間にか紛れ込み、彼女の演武中にその動きをまねる動作をし、その映像がネットで拡散して一躍人気猫となった。

 今回はその人気のために、ハムレットは全米・キャット・ショーに特別ゲストとして招かれることになり、飼い主であるダーラ、その親友の私立探偵であるジャクリーン・”ジェイク”・マルテッリとともにショーが開かれるフロリダに赴くことになる。ちょうど、<ぺティストーンズ・ファイン・ブックス>は書店内にカフェ・スペースを設ける工事に取り掛かるところであり、旅行に出かければハムレットはその工事の音に神経をとがらせなくてもよくなる。さらにフロリダにはジェイクの母親であるナタリア・”ナッティ”・マルテッリが住んでいるというのも好都合である。とはいうものの寒いニューヨークから、温暖なフロリダへの道中、キャリー・ケースに押し込められたハムレットは不機嫌そのものであった。

 南フロリダのフォート・ローダーデールの空港に到着した2人と1匹は、迎えに来るはずのナッティを待つうちに、ヒスパニック(キューバ系らしい)のタクシー運転手ティノに出会う。彼のタクシーに車をぶつけかけた運転手がナッティであった。キャット・ショーの会場に隣接するホテルに到着すると、ほっとしたダーラがウトウトしたすきをついて、ハムレットは彼女がネコ用に指定したバスルームから脱走して、バルコニーの手すりの上を優雅に散歩する。前途多難である。

 ショーの参加者が多く泊まっているホテルのロビーでは来場者から注目されるのにまんざらでもない様子のハムレットにダーラはほっとしたのだが、ハムレットと一緒に食事をしていると、マーティニを飲んでいた年配の女性と、若い物乞いらしい女性との間にひと騒動が起きる。一方、母親と一緒にいたジェイクは、母親の住むマンションの管理組合でトラブルが起きているという。しかも管理組合の理事長であるビリー・ポープという人物はナッティの友人であるだけでなく、キャット・ショーの運営者でもあるという。住人の大半がビリーを疑う中で、ナッティーは彼が無実であると信じている。

 翌朝、ショーの会場であるコンベンション・センターに向かったダーラたちは猫の愛護を訴えるデモ隊に遭遇したりする。会場では猫の世話をするボランティアのミルドレッドに会う。特別ゲストのハムレットのためには小さな書店のような特別のスペースが設けられていた。この配慮に感心していると、近くで猫が逃げたという騒ぎが起きるが、すぐに逃げた猫は見つかる。ダーラはショーの運営委員会委員長で、ポープの娘だというアリシア・ティンプソンに紹介されたが、彼女こそ、レストランでのトラブルの当事者であったマーティ二・レディーであった。

 キャット・ショーでハムレットは自分の出番をきちんと終えるのか、ショーは成功するのか、デモ隊はショーにどんな攻撃を加えるのか、さらに、マンションの管理組合をめぐる疑惑は解明されるのか…、偶然に出会った運転手のティムの親戚があちこちにいたりして、ストーリーの展開には三題噺的なに強引なこじつけもみられるが、ショーの進行の中で次々に起きる”怪”事件にダーラとジェイクは次第次第に引き込まれ、例によってハムレットが手近な本の1冊を落としては、手掛かりになりそうな情報を示唆する。それよりも何よりも、ショーの描写の中で語られる猫の品種とその性質についての情報がなかなか面白い:
 「ロシアンブルーは数ある猫の品種の中でもかなり頭のいい猫なんですよ。ショーに出るのが嫌だったら、審査員の前で暴れれば早くケージに戻してもらえるとすぐに気がつく。ロシアンブルーのブリーダーに関して昔からよく言われることがあるんです。バカに育てなきゃならないってね。賢いのは、ショーに出すのがむずかしいですから」(135ページ)。昔、あるペットショップで売れ残っていたロシアン・ブルーを飼おうかどうかと家人と相談しているうちに、売れてしまったことを思い出す。

 もう一つ、この作品の魅力になっているのは、キューバ料理の描写である。例えば「付け合わせにブラックビーンズとライスがついたキューバン・サンドイッチ」は「ハムとローストポーク、スイスチーズ、ピクルス、マスタードをキューバン・ブレッドで挟み、押しつぶして焼いたこの伝統的なサンドイッチはパニーニを思い出させる」(276ページ)。作者であるアリ・ブランドンは現在、フロリダに住んでいるとのことで、フロリダはキューバからの移民が多いということもあるかもしれないが、そうした特色のプラスの面を大いに作品の魅力として生かしている。
 人生も残り少なくなってきて、フロリダに出かける機会はまずないだろうが、この本を読んでいると、合衆国の他のどこよりも、フロリダに出かけたくなるような気持ちにさせられる。この作品の世界を体験するだけでなく、1930年代にヘミングウェイが住んでいたキー・ウェストの小さな島にある家と、彼が飼っていた猫の子孫を訪問してみたいとも思うのである。
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Author:tangmianlaoren
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