『太平記」(150)

3月19日(日)晴れのち薄曇り

 建武3年(1336)、京都を占領していた足利方の軍勢は比叡山を根拠地としていた宮方の軍勢の反攻を防ぐことができず、正月30日に京都から撤退した。摂津へ落ちのびる途中、尊氏は供をしていた薬師丸に光厳上皇から院宣を頂いてくるように命じた。持明院統の上皇の院宣を手に入れることで、後醍醐天皇に対抗しようとしたのである。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州に落ちた。2月2日、京に戻った後醍醐天皇は、25日、建武の年号を延元に改めた。
 わずかの軍勢で筑前多々良浜に上陸した尊氏は、宗像大宮司の館に迎えられた。宮方の菊池武俊が尊氏方の少弐の城を攻め落とし、さらに多々良浜に攻め寄せた。尊氏は敵味方の軍勢の違いに一度は自害しようと思い詰めたが、直義に諫められて考え直す。運が味方したのであろうか、尊氏軍は100倍に余る菊池軍を退け、菊池軍の搦め手の松浦・神田の軍勢は尊氏軍に降伏、菊池軍は肥後の国に引き返した。

 戦闘の常として、勝ちに乗じると鼠が虎となり、勝機を逸すると虎も鼠となるといわれるが、尊氏はこの勝利に気を能くして、一族の一色太郎入道道祐(範氏)、仁木義長を派遣して、菊池の居城を攻撃させた。いったんは勢いに乗っていた菊池であるが、劣勢になるとひとたまりもなく、1日も持ちこたえることができずに、山奥へと逃げ籠もったのである。

 次に尊氏軍は、肥後の八代の城に押し寄せ、この城を守っていた名和長年の家臣の内川彦三郎を攻め落とす。さらに多々良浜の合戦に参加していて、重傷を負っていた阿蘇大宮司八郎惟直は、肥前の小杵(おつき)山(佐賀県小城市の天山)で自害してしまった。その弟である苦労は、道に迷った挙句に、土地の農夫に生け捕りにされてしまった。同じく宮方の武士である秋月は、大宰府まで落ちたのだが、そこで一族20余人が、戦死してしまった。九州の宮方の有力武将がこのように一斉にうち滅ぼされたために、九州と壱岐・対馬の武士たちは、皆こぞって尊氏に付き従ったのである。

 これは菊池が不覚をとったというわけではなく、直義の謀が功を奏したというのでもないと『太平記』の作者は記す。ただ、よい果報をもたらす前世での善行が現われて尊氏が天下の主となるべく、神々がその真意を尊氏に加えたので、九州での戦闘に勝つことを出て、九州さらには中国地方を制圧することが出来たという。

 さて、九州の武士である松浦(まつら)、神田(こうだ)たちが、尊氏方が少数であったのに大勢であると錯覚して降伏した問うわさが広まってきたので、尊氏は、主だった家臣である高、上杉の人々に向かって、次のように述べた。「言葉の下に骨を消し、笑みの中に刀を研ぐというのが、このごろの人の心である。それで、原田対馬守は少弐入道の婿であったのに、策略をめぐらし、義理の父である少弐入道を討ち果たしたという最近の例がある。これを見ても、松浦、神田は、ひょっとして叛心を抱いていて、そのために一兵も損なわないままに乞うふうしたのではないかと、不審に思われるところがないでもない。というのは、まことの信心があるときには、神仏がそれに応えて奇蹟を表すことがあるといわれてきたことではあるが、味方の軍勢はそれほどの大ぜいに見たということも、現代のような末世ではありそうもないことであり、信用できない。方々もその旨を心にとめて油断しないようにしてほしい」。

 すると、末席にいた高駿河守(師茂。尊氏の執事である師直、師泰の弟)が進み出て申し上げる。「まことに人の心を推し量るのがむずかしいことは、天よりも高く、地よりも厚しといわれてきたことではありますが、このような大事業に取り組もうとお考えになるときは、そのように人の心を不審に思われてばかりいると、速やかな成功を遂げられなくしてしまうでしょう。さらに味方の軍勢が多く見えたというのは噓ではなかったと思われます。このような不思議の先例は数多くあると聞いております。
 昔、唐の玄宗皇帝の時代に安禄山が反乱を起こした、皇帝の左将軍である哥舒翰が安禄山方の将である崔乾祐と潼関というところで戦った際に、黄色い旗を掲げた兵が10万余騎、突然現れて官軍の陣に加わりました。崔乾祐はこれを見て、敵は大軍であると思ったので、兵を引いて四方に逃げ散ってしまったといいます。その日、皇帝の使いが、先祖を祀る廟所である宗廟に詣でてみると、そこに置かれていた石人という石でできた人形たちの両脚が泥で汚れていたり、その体に矢が刺さっていたりしたので、さては黄色の旗を掲げた兵10万余騎は、宗廟の神が、兵隊の姿になって、反乱軍を退けたのだと、皆疑うことなく思ったということです。
 また、わが国では壬申の乱の際に天武天皇と大友皇子が天下を争われたのですが、備中の国二万郷(にまのさと、岡山県倉敷市真備町上二万・下二万)というところで、両軍が決戦を行いました。天武天皇の御軍勢はわずかに3百余騎、大友皇子の御軍勢は1万余騎でした。軍勢の多少を見ると、戦わずして勝敗は明らかだと思われたのですが、どこから来たともわからぬ兵2万余騎が、天武天皇の味方に現れて、大友皇子の軍勢を敗走させました。これがもとでその場所を二万の里と名付けたと言います。
 『源平盛衰記』によりますと、周防内侍がこのことを歌って
 君が代は二万の里人数そひて絶えず備ふる御調物(みつぎもの)かな
(第2分冊、506ページ、帝の御代は、二万の里人が二万人もの数で絶えず貢物を捧げるめでたい御代であることよ。)
と詠んだそうです。
 と中国と日本の故事を引き合いに出して、尊氏の武運が天意にかなったものであることを申し上げると、将軍もその場にいた人々もみな大喜びをしたのであった。

 岩波文庫版の脚注を詳しく見ていくと分かるが、この師茂の発言はかなりいい加減なものである。まず、潼関の戦いでは安禄山の反乱軍の方が勝って、哥舒翰は戦死したというのが歴史的事実であり、石人が兵隊となって表れたというのは後世の説話だそうである。壬申の乱の際に備中で両軍が衝突したというのも、後世にできた伝説であろう。「君が代」の歌は、周防内侍ではなくて、小侍従の歌だそうである。
 思うに、師茂はもっと素朴な発言をしたのであろうが、『太平記』の作者が勝手に尾ひれをつけ、その尾ひれがことごとくいい加減なものであったというのが真相であろう。『太平記』第9巻に、丹波の武士である久下弥三郎時重が尊氏のもとにはせ参じた時に、その旗の紋、笠符に「一番」と書いてあるのを見て、尊氏が不審に思うと、師茂の兄である師直が源平の合戦の際に久下の先祖が頼朝のもとへ一番に駆け付けたためにこれを紋にしていると答える場面があったが、師直だけでなく、その兄弟も武家の故事に通じていたことが推測される。

 以上で『太平記』15巻は終わる。岩波文庫版の第2分冊をこれで読み終えた。今回は150回なので、1巻につき10回というペースで進んできたことになる。『太平記』は全40巻(ただし第22巻が欠けているので、実際は39巻)なので、まだ前途遼遠である。吉川英治の『私本太平記』は第16巻の楠正成の戦死、山岡荘八の『新太平記』は第20巻の新田義貞の死までで打ち切られているが、私としては紹介のスタイルを変えることはあっても、最後まで物語を追い続けていきたいと思っている。

『太平記』(149)

3月12日(日)晴れ

 建武3年(1336)、京都を占領していた足利方は比叡山延暦寺に落ち延びていた宮方の軍勢の反攻を防ぐことができず、正月30日に都から撤退、2月6日に摂津手島河原の戦闘、7日には湊川一帯の戦闘で大敗し、足利尊氏・直義兄弟は大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちのびた。
 一方2月2日に、京に戻った後醍醐天皇は25日、建武の年号を延元に改めた。わずかな軍勢で筑前多々良浜に上陸した尊氏は、宗像大宮司の館に迎えられた。尊氏が九州に落ち延びたのは、少弐入道妙恵(貞経)を当てにしてのことだったが、その少弐の居城である内山城は宮方の菊池武俊の攻撃を受けて落城、少弐の一族郎党の大半は戦死したのであった。

 少弐の城が落城したので、菊池の率いる軍勢はますます勢いを増して、尊氏の軍勢が留まっている多々良浜へと押し寄せた。尊氏は、香椎宮(福岡市東区香椎)から菊池の軍勢の様子を探ると、敵は4,5万騎もあるように思われ、味方はわずかに300余騎にすぎず、その大部分は馬にも乗らず、鎧兜も身に着けていないという状態であり、到底勝ち目はないと判断して、もはやこれまでと自害を決心する様子であった(尊氏という人は、すぐに前途を悲観して腹を切ろうとするところがある)。
 その様子を見た弟の直義が兄を堅く諫めて、次のように述べた。「合戦の勝負は、必ずしも軍勢の大小には左右されないことを思い起こしてほしい。漢の高祖が滎陽(けいよう)で楚の項羽の軍勢に包囲されたもののわずか28騎でかろうじて脱出して、最後は項羽の100万騎を破って天下を統一した例がある。わが国では源頼朝が石橋山の合戦で敗れて土肥の杉山の洞窟に隠れた時にはわずか7騎の武士が従うだけであったが、その後平家を滅ぼして征夷大将軍の位についた例もある。これらは天のあたえる運命を待って、眼前の事態に処した例である。敵は大軍ではあるが、味方も300余騎はそろっている。ここにいる武士たちは、今までわれわれに随行して、われわれの存亡の行方を終わりまで見届けようと思っている者達ばかりなので、一人も敵に後ろを見せる事は無いだろう。300騎の武士たちが、気持ちを一つにして戦えば、敵がいかに大軍であろうとも、退却させることができないとは言えないだろう。自害はひとまず思いとどまってほしい。直義がまず、先頭に立って一戦を試みるつもりである」。このようにいって、直義は香椎宮から出発していった(こういうときに必ず、直義が意見をして、尊氏を励ますのだが、実際に戦闘になると、尊氏の方が能力を発揮するのが皮肉である)。

 直義には足利一族の仁木義長、高一族の大高重成、南宗継、高師久(師直の弟)、高師冬(師直の養子)、尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟である上杉憲顕、足利一族の畠山国清、同じく細川顕氏(四国の兵を率いて活躍した細川定禅の兄)、大友氏泰、島津四郎(第10巻に登場する北条高時を裏切って宮方に降参した武士であろうか?)、曽我時助、白岩彦太郎、八木岡五郎左衛門、美濃の土岐一族の饗庭新左衛門といった武士たちが主だった面々で、総勢250騎、この軍勢で3万余騎の敵と戦おうという所存で、自分の命を塵芥のように軽く思う、その心のほどはあっぱれである。

 直義は、旗の先端を下げて戦闘態勢に入る様子を見せながら、香椎宮の社壇の前を通り過ぎたのであるが、その折に、烏が杉の葉を一枝くわえて、直義の兜の上に落とした。直義は、すぐに馬から降りて、これは神仏が我々を守ってくれるというめでたいしるしであると恭しく礼拝して、杉の葉を左側の鎧の袖に刺したのであった。
 両軍が近づいて、鬨の声を挙げようとするとき、敵の軍勢が圧倒的に多いのを見て、臆病風に吹かれたのであろうか、大高重成が、急に「それがしは、尊氏将軍のお側に控えている武士たちがあまりにも少ないので、身辺の警護に向かいます」といって、引き返して帰っていった。直義はこれを見て、そういうことならば、初めから将軍のもとに留まっていればよいのに、敵を見てから引き返すというのはその魂胆があまりにも見え透いている。やれやれ、大高の5尺6寸(約170センチ)の太刀を5尺(約150センチ)切り捨てて、剃刀にした方がましである(その剃刀で頭を丸めて坊主になれ)と笑いながら言い放つ。

 そうこうするうちに、菊池は、5千余騎の兵を率いて、多々良浜の西から近づいて、この頃の合戦では開始の合図として双方が鏑矢を射交わしていたのであるが、その鏑矢を射放つ。直義のほうでは、あえて返答の矢を射るなということで、そのまま鳴りを潜めていたのであるが、はるかかなたの雲の上から、誰がいたのかはわからない白羽の鏑矢が、敵の上を鳴り響いて、飛んでゆき、どこに落ちたかはわからないままであった。直義の率いる武士たちは、この様子を見て、これはただのことではない(神仏が我々の軍勢を守っているらしい)と頼もしく思ったので、勇気凛々、運を天に任せて戦闘に臨んだのである。

 両軍がにらみ合って、まだ戦闘を開始しないところに、菊池方から、誰とは知らず、抜け駆けをしてきた武士がいる。足利方の祖が左衛門、白岩彦太郎、八木岡五郎という3人の武士が、3人とも馬に乗らず、鎧兜も身につけないというありさまではあったが、太刀ばかりを頼りにして先頭に立っていたが、ちょうどいいカモがやってきたと思ったので、白岩がこの敵に走り向かって、飛びついて斬りつける。白岩が太刀を振り回したので、馬が驚いて左手へそれたところを、「してやったり」と鎧の先端を蹴り返した。白岩があまりに近くくまで寄っていたので、馬上の敵は太刀で斬りかかることができずに、腰の短刀を抜こうとしたが、鞍を馬に固定させる腹帯が延びていたのであろうか、鞍とともに逆さまになって落馬してしまった。白岩は落馬した敵の武士を抑え込んでその首をとる。馬が離れたところにいたのを、曽我左衛門が走り寄って、自分のものにする。死んだ武士が身につけていた鎧を、八木岡五郎が手に入れて、自分のものにする。白岩の手柄で、立派な武士が2人出来上がり、3人ともに敵の中に攻め入る。

 既に名前が出てきた仁木義長に加えて、山名時氏(以前から書いているが、山名氏は新田一族であり、新田義貞と行動をともにするものが多かったが、このように尊氏に従う者もいた)、宍戸朝重、岡部三郎左衛門宗綱、饗庭六郎らが、味方を見殺しにするな、続けと叫んで、3人に続き、大軍の中に駆け込み、乱戦を続ける。仁木は近づいてきた敵5騎を斬って落とし、6騎を負傷させ、さらに敵の中に踏みとどまって、斬りあいで曲がってしまった刀を左足で踏んづけて元に戻しては斬りあい、またまがったのを押しなおして切り結び、命の続く限りと戦い続ける。
 そうこうするうちに直義は、150騎の軍勢に魚鱗の陣形をとらせて、大軍の中に突っ込ませる。菊池の軍勢は兵員の数では100倍もあったのだが、時の運に見放されたのであろうか、前陣が戦っても、後陣が続かず、味方が劣勢になっても、力を合わせようとすることがない。足利方のわずかの軍勢に追い立てられて、一陣の5千余騎の軍勢は、多々良浜の遠浅の干潟を20町以上退却したのであった。(この時代の1町がどのくらいの距離であったのかははっきりしないが、1町≒100メートルと考えておけばよいのではないか)。

 菊池の軍勢の搦め手として加わっていた松浦、神田の武士たち(長崎県・佐賀県の武士たち)が、どうしたことであろうか、足利方の軍勢は300騎にも満たなかったのに、3万騎はあると錯覚し、すっかり怖気づいてしまって、一戦も交えずに、足利方に降伏してしまった。菊池はこの様子を見て、前途ますます多難であると判断し、足利方の主力との決戦を回避して、急いで本拠である肥後の国に引き返してしまった。

 存亡の際に追い詰められていた尊氏・直義兄弟であったが、決死の覚悟で戦ったことで、戦局を逆転することができた。これまでの経過を見ていても、将兵の大半はあまり戦意がなく戦局を傍観して、有利になった方に味方しようという例が多い。尊氏・直義の部下でも、大高重成のように兵力の差を見て臆病風に吹かれた武士がいたことを『太平記』の作者は書きとどめている。これが当時の武士のありのままの姿であったと考えた方がよいようである。尊氏・直義兄弟は九州で再起するという所期の目標を達成できるだろうか。それはまた次回。

『太平記』(148)

3月5日(日)晴れのち曇り

 建武3年(1336)正月27日、足利尊氏・直義兄弟の軍に都を追われ、比叡山延暦寺を拠点として犯行の機会をうかがっていた宮方の軍勢は、15日に続いて京に攻め入り、勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけて、足利方の油断を誘い、30日に、足利方を京から攻め落とした。京から退却する途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に後醍醐天皇に対応するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちた。
 2月2日、京に戻った後醍醐天皇は、25日、建武の年号を延元に改めた。

 一方、京都における数回の戦闘に敗れた足利尊氏は、2月13日に兵庫から船で九州に向かったのであるが、それでもまだ7千余騎の兵が従っていた。しかし備前の児島(現在の倉敷市児島)に到着した際に、「京都から討手が下ってきたら、三石(岡山県備前市三石)あたりで食い止めろ」と、一族の尾張左衛門佐(=斯波氏頼)に命じ、地元備前の武士である田井、飽浦、松田、内藤とともにこの地に留まらせた。さらに、細川定禅、その従兄弟の頼春はもともと四国から都に上ってきた武士なので、讃岐に残した。中国地方の武士たちも、尊氏一行に別れを告げて自分の本拠地に戻っていったので、筑前国多々良浜(福岡市東区多々良)の港に到着した時には、従う軍勢は500騎に満たない有様であった。

 これまでの戦いで矢種は射尽してしまい、兵庫から船に乗る際に馬は乗り捨て、鎧・兜などの武具は脱ぎ捨ててしまった。気力は弱り、軍勢の勢いも衰えていたので、「天涯望郷の鬼とならんずらんと、明日の命をも憑まねば、あぢきなく思はぬ人もなかりけり」(第2分冊492ページ、僻遠の地で故郷を慕う亡霊になるのではないかと、明日の運命も頼りにできないと、嘆かわしく思うものばかりであった)。どうにも情けない様子である。

 宗像神社の宮司である氏俊のもとから、使者がやってきて、今、いらっしゃる辺りは場所が狭くて、軍勢の宿にはならないので、恐れながら、自分の屋敷にお入りくださり、しばらくこの間のご窮屈な思いから解き放たれ、休息をおとりになって、くにぐにに将軍の命令書を出されて、軍勢を集められてはいかがでしょうかと言上する。それで、尊氏は、ただちに宮司の屋敷に向かった。

 翌日、少弐入道(=貞経、法号は妙恵)のもとに使いを立てて、頼りにしていると知らせると、妙恵は承知いたしました。私の命のある限りは、味方として忠義を尽くしましょうと言って、嫡子である少弐太郎頼尚に若武者300騎を率いさせて、将軍のもとに向かわせた。

 肥後の豪族である菊池掃部助武俊は、もとからの宮方で肥後国にいたが、少弐が足利方に味方するという情報を得て、途中で討伐して追い散らそうと思って、3千余騎の軍勢を率いて、水木の渡(福岡県太宰府市水城を流れる御笠川の渡し)へと向かった。少弐太郎はこれに気付かずに、小舟七艘に乗り込み、自分はまず対岸に着いた。

 少弐の主だった家来である阿瀬籠(あぜくら)豊前守はまだ渡らないで、渡し舟が戻ってくるのを待っていたところに、菊池の兵3千余騎が、三方から押し寄せて、少弐の軍勢を川の中に追い落とそうとした。まだ渡らずにいた阿瀬籠以下の150余騎は、とても逃れられないところである。退却したとしてもどこまで逃げられるだろうかと、玉砕を覚悟して、菊池の多数の軍勢の中にかけいって、一人も残らず戦死してしまった。少弐太郎は、川の向かいでこれを見たけれども、大きな川を中に隔てて、船に乗らないと渡ることができないので、なすすべもなく、これまで頼りにしていた一族郎党が、敵の手にかかって全滅していくのを見捨てて、尊氏の方に向かったのであった。

 菊池は、初戦に勝利したので、幸先がよいと思っい、その軍勢を率いて、少弐入道妙恵が立て籠もっているうち山城(太宰府市内山)に押し寄せた。妙恵は主戦力となる郎等を、みな子息の頼尚につけて、尊氏の方に向かわせていた。阿瀬籠豊前は、水木の渡で戦死してしまった。四郎に残る軍勢は、わずかに200人にも足りないので、菊池が大軍を率いて包囲してきたのに対し、合戦をしようにもできない状態である。しかし、城の要害がよかったので、切り立った崖の下に敵を見下ろして、数日間にわたって防戦を続けた。

 菊池は、前線で戦う兵を交代させながら、夜昼十方から攻めたが、城中の戦死者は少なく、矢種もまだ尽きていないので、攻め落とすのにはまだ4,5日はかかるかと思っていたのであるが、少弐入道の婿で原田対馬守という武士がいて、この人物がにわかに心変わりして、本丸を占拠し、新田の中黒の旗を掲げて、自分は考えるところがあり、宮方に味方することにした。同意いただけるやいなやと舅の妙恵入道のもとに使いを送る。妙恵はこれを聞いて、一言の返事もせず、「苟も生きて義なからんよりは、死して名を残さんには如かじ」(第2分冊495ページ、 かりそめにも生きながらえて節義をなくすより、死んで名を残す方がよい)といって、持仏堂に走り入り、腹をかき切って倒れた。これを見て、少弐の家の子郎等162人、堂の前の大庭に並んで、一斉にえいと声を出して、一度に腹を切る。その声は天にまで響くかと思われた。

 妙恵の末子に宗応蔵主という禅僧がいたが、堂の蔀や引き戸を踏み破って、薪とし、父親の死骸を葬って、
  万里碧天月白く風清(すず)し
  為に問ふ恵公行脚の事
  白刃を踏翻して身を転じて行く
(第2分冊、496ページ、遥かな青空に月が白く風はさわやかである。父の恵公の死出の旅路に思いをいたし、私も白刃を踏み身を翻して父とともに行く)と静かに火葬の仏事をして、その炎の中に飛び入って、同じく死んでいったのである。

 尊氏は少弐妙恵を頼りにして九州に落ち延びてきたのだが、その少弐が菊池に討たれてしまった。前途多難な様相である。尊氏の武運はどのように展開するのであろうか、それはまた次回。

『太平記』(147)

2月26日(日)晴、温暖

 建武3年(1336)正月9日に、京都を守っていた新田義貞の軍が足利尊氏軍に敗退したために、後醍醐天皇は都を離れて比叡山に臨幸された。天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、中国・四国の兵を率いて三井寺に進出していた細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、足利方を追い散らしたが、細川定禅の活躍で新田軍を追い戻した。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけて足利方を油断させて、30日に総攻撃をかけ、京から攻め落とした。摂津へ落ちる途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に、後醍醐天皇に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちていった。

 1月30日に足利方の兵が都から敗走していったので、2月2日に後醍醐天皇は比叡山から京都に帰還されて、花山院を皇居にされた。この花山院というのは、もともと清和天皇の皇子であった貞保親王の邸宅で、なでしこや萩が多かったのでこの名がついたとのことで、冷泉天皇、花山上皇もここに住まわれたことがある。その後藤原道長の孫で関白になった藤原師実の次男家忠に始まる花山院家が伝領してきた。いまの京都御苑の中にあったとのことである。元弘元年(1331)に後醍醐天皇が内裏を脱出して奈良に向かおうとされた際に、天皇に扮して比叡山に向かったのが花山院師賢であった(『太平記』では2巻にこのことが記されている)。

 2月13日に、手島河原、湊川の合戦に勝利した新田義貞が、朝敵である足利方を九州へと追いやり、降伏してきた武士たちに寛大な処分を行い、都に帰還してきた。その様子は、堂々として立派なものであった。足利方から降伏してきた1万余騎の武士たちは、もともと笠符(鎧の袖や兜につける、敵と味方を区別する布切れ)につけていた足利方の二引両(輪の中に二本の横線を引いた紋)の中の白いところを塗りつぶし、新田側の中黒(輪の中に太く黒い一の線を引いた紋)にしていたのであるが、墨の濃淡のために、元の足利の紋がはっきりとわかったからであろうか、翌日、五条辻(五条大路=現在の松原通と西洞院通が交差する辻)に高札を立てて、狂歌を書き付けたものがいた。
 二つ筋中の白みを塗り隠し新田新田(にたにた)しげの笠符かな
(第2分冊、484ページ、足利の紋の中の白いところを黒く塗り隠して、新田らしく見せかけた笠符であることよ。新田と似たをかけている。) 新田と足利がよく似た紋を持っているのは、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、強い方に従っている武士たちにとっては好都合であった。
 なお、余計な話を書くと、松平→徳川氏の紋は三つ葉葵であるが、松平一族が彼らの主張するように新田氏の一族である得川(世良田)教氏の子孫だとすると、中黒の紋でなければおかしいという意見がある。

この間、都の周辺で戦われた戦いの様子について、後醍醐天皇は大いに満足されて、すぐに臨時の除目(観を任ずる儀式)を行われ、義貞を左近衛中将(天皇を警護する左近衛府の次官。従四位相当)に叙せられ、その弟の義助を右衛門佐(内裏西側の門を警護する右衛門府の次官。従五位相当)に任じられた。

 天下の吉凶が必ずしも年号のために影響されるというわけではないのであるが、建武という年号には「武」という文字が含まれていて、物騒だという批判があったことから、2月25日に年号が改まって、延元となる。つい最近、朝廷が反乱軍のために危地に陥ったのであったが、間もなく平穏に戻り、天下がまた太平となったので、「この帝の徳は天地の真意にかなっている。今後はずっと、安泰であろう」と、臣下の者達は、いつの間にか危機的な状況を忘れて、自制心をなくしていったのは、その心映えにおいて愚かであったと『太平記』の作者は論じている。

 さて、天皇が都を捨て、比叡山に臨幸されるという大きな災いの異変が、もとに復して、天皇が行う天下の政務が新たに始められたので、その結果、いやな思いをする人、喜ぶ人が出てきた。特に賀茂社の神主職は神官の中でも重要な職務であり、恩賞として職に補すことには一定の順序があり、めったなことでは更迭されることはないのであるが、足利尊氏が松下貞久を解任して森基久を任命し、それが20日余りで宮方が都を回復すると、今度は貞久が復帰した。その後、大覚寺統と持明院統の治世が変化するたびに人事は転変した。
 その理由というのは基久に美しい娘があり、持明院統の後伏見法皇と大覚寺統の後醍醐天皇がまだ2人とも若かったころに、この娘を争った結果、後伏見法皇が勝ったという経緯があり、後醍醐天皇が基久を恨んで、自分が権力の座に就くと、解任したのであった。その後、何度も基久と貞久が入れ替わり、とうとう基久は世の無常を感じて出家したのであった。
 神主が出家するというのも奇妙な話だが、この時代の宗教観からすれば不思議な話ではなかったのである。例えば『方丈記』の著者である鴨長明も神主の職をめぐるいざこざから出家したのである。後醍醐天皇の京都復帰に関連して、この話が取り上げられているのは、『太平記』の作者が天皇の政治に必ずしも賛同していなかったことを示しているようである。そして物語は、九州へと敗走していった尊氏のその後の様子に焦点を移す。

『太平記』(146)

2月19日(日)晴れ、温暖

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけ、細川定禅の率いる中国・四国の兵たちを寺に入れた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、足利軍は大敗したが、細川定禅の活躍で宮方を撤退させた。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけた宮方は、30日、油断した足利方を京から攻め落とした。摂津へ落ちる途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に、後醍醐天皇に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。

 京都から丹波路を落ちていった尊氏であるが、味方の主だった軍勢が兵庫の湊川に集結しているという知らせを受けて、湊川に到着した。これまで規制を失っていた軍勢が、気力を取り戻して、あちこちから集まってきて、間もなくその軍勢は20万騎に達した。この軍勢ですぐに京都へと攻め上れが、宮方の軍勢は京都を支えることができないはずであったが、湊川の宿に特に何をすることもなく3日もとどまっていたために、抑えとして八幡に残しておいた甲斐源氏の武田信武は、敵の中に孤立して支えきることができず、宮方に降伏してしまった。もともと新田方に属していて、大渡・山崎の合戦で降伏して足利方になっていた宇都宮公綱も足利方の反攻を待ちきれずに、新田方に戻ったので、宮方の軍勢はますます大勢になって、龍や虎のような威勢をふるう様子であった。

 2月5日、顕家卿、義貞朝臣は10万余騎を率いて京都を出発し、その日、摂津の国の芥川に到着した。この知らせを聞いた尊氏は、そうであれば道中で迎え撃てと弟の足利直義に16万の軍勢を率いさせて、京都へと向かわせた。

 そうこうするうちに、両軍の軍勢は思いがけずも2月6日の巳の刻(午前10時ごろ)に、手島河原(箕面川の豊島河原)で遭遇した。互いに旗を進めて、東西に陣を張り、南北に軍勢を配置した。北畠顕家がまず2度攻め寄せ、有利に戦いを進められなかったので退却し、続いて宇都宮が、新田方への忠節の証を示そうと200余騎を率いて攻勢に出る。これまた戦死者を出して後退したので、入れ代わって義貞の弟の脇屋義助が2,000余騎で攻め寄せる。足利方では足利一族の仁木、細川、畠山の各氏と家老の高一族が、前日の敗北の恥をすすごうと、命を捨てて戦う。宮方では新田一族の江田、大館、里見、鳥山がここを突破されればもう後に引く場所はないと命を顧みずに防戦に努める。このようにお互いに必死に戦ったのであるが、ついに勝敗の決着がつかないまま、その日の戦闘は終わった。

 楠正成は、宮方の主力から遅れて京都を出発したのであるが、合戦の様子を観察して、ひそかに自分の率いる700余騎を神尾(かんのお、兵庫県西宮市甲山町の真言宗寺院神呪=かんのう寺、甲山大師)の北の山から回らせて、目を凝らしても見えないような暗闇の中で、夜襲をかけた。(他本は、「神尾」を「神崎」と記しているようである。だとすると尼崎市の神崎になる。) 直義の率いる足利方の軍勢は、昼間の合戦が一日中続いたので疲れているうえに、急に背後から夜襲をかけられ、慌てふためいて、一戦も戦わず、兵庫を目指して退却していく。義貞は、これを追って西宮に進み、直義は味方の軍勢を立て直しながら、湊川に戻って陣を構える。

 同じ2月7日の朝、凪いだ海を見渡すと、はるか沖の方から大きな船が500艘、追い風を帆に受けて近づいてきた。どちらに味方する軍勢であろうかとみているほどに、200余騎は、舵を取り直して、兵庫の島に漕ぎ入れた。残る300余艘は、帆を張ったままにして西宮に漕ぎ寄せた。これは豊後(大分県)の大友、長門(山口県西部)の厚東、周防(山口県東部)の大内らが足利方に加勢しようとしてやってきたのと、伊予(愛媛県)の土居、得能が宮方にはせ参じようとしてやってきたのと、これまでは方向が同じなので、一緒だったのが、今日は二手に分かれて、それぞれが味方しようとする方に向かったということである。

 両軍ともに、まだ戦っていない新しい軍勢が到着したので、お互いに兵を進めて、小清水(兵庫県西宮市越水町)で向かい合う。足利方は数において勝る大軍ではあったが、これまで戦ってきた兵は、新手の軍勢に戦わせようと、戦う様子を見せない。大友、厚東はまた、必ずしも自分たちだけの重要な合戦ではないと思っていたので、それほど勇み立つ様子もない。宮方はというと、比べてみるほどのこともない小勢であったが、これまで戦ってきた兵は、他人事の合戦ではない、我が身の存亡にかかわることだと思い、新たに加わった土井、得能は、今日の合戦でふがいない戦をしては、(土井・得能を含む)河野一族の名折れになると、競い立っている。ということで、両軍がまだ戦わないうちから、結果の兆しは両軍の気勢に現れ、勝敗は何となく見えているように思われた。

 そうはいっても、新手の軍勢の決まりとして、大友、厚東、大内らの軍勢2,000余騎が足利方の先頭で進んだ。土居、得能はこれを見て、彼らとの戦いは他に譲れない自分たちの仕事だと、3,000余騎の軍勢を前面に並べて、矢を1筋ずつ射交わす時間もないほど急に、一斉に刀を抜いて攻め入る。大友、厚東、大内は一太刀切り結ぶと、さっと左右へ分れてしまった。土居、得能はそのまま敵の後ろの方まで駆け抜けて、直義が控えていた湊川に迫っていく。「葉武者どもに目な懸けそ。大将に組め」(第2分冊、481ページ、雑兵どもを相手にするな。大将に取り組め)と指示して、風のごとく散り、雲のごとく集まり、鬨の声をあげて懸け入り、懸け入っては戦い、千騎が一騎になるまでも退却するなど、互いに声を交わして戦い続けたので、直義は、これでは敵わないと思ったのであろうか、また兵庫を指して退却していった。

 何度戦っても、味方の軍勢がはかばかしい戦果をあげないという様子を見て、これはどうもだめだと思ったのであろうか、尊氏も、気力が屈した様子であった。そこへ豊後からやってきた大友貞宗が現われ、現在の状態では有利な合戦ができるとは思われません。我々が昨日やってきたのは、そうなるべき(九州へといったん退却すべき)運だと思われます。幸いに船も多くありますので、九州へと退却なさいませ。九州の有力大名である少弐貞経が味方なので、九州の武士たちはそれに追随してくるでしょう。そうして軍勢を多く集めれば、すぐに大軍を動員して、京都を攻めて攻略するのは簡単になるでしょうといったので、尊氏も納得して、すぐに大友の船に乗り込んだ。

 書軍勢はこれを見て、将軍が船に乗り込んで落ち延びようとされていると騒ぎ立て、とるものもとりあえず、乗り遅れまいと慌てて船に駆け寄る。船はわずかに300余艘であり、乗ろうとする兵は20万騎を越えている。1艘に1,000人ばかりが乗り込んだ船はその重さで沈んでしまい、乗っていたものは1人も助からない。残った船は、これを見て、それほどは人を乗せまいと、纜を解いて舟をこぎだしてしまう。乗り遅れたる兵たちは、武具や衣装を脱ぎ捨てて泳いで船に乗り込もうとするが、船の上からそれを発ち、なあ義なたで切り殺し、払い落とす。結局、乗り込むことができず、浜辺に帰った者は、自害をして、その死骸が波に揺られることになった。

 尊氏は、かつて平家が一時都を築こうとした福原冴えも支えきれず、船の上から渚を照らす月と、海岸に寄せる波に涙を添えて傷心の想いにふけりながら、筑紫へと落ちてゆく。義貞は、勝利の手柄を立てて、降参した数万人の武士たちを引き連れ、都に帰っていく。悲しみと喜びがたちまち所を変えて、現実も夢のようである。

 楠正成が足利直義の軍勢を奇襲で破るところなど、義経が福原の平家を奇襲で破る場面を思い出させる。尊氏が福原を離れる場面の描写も、『平家』を意識した筆致である。
 とにかくこれまで、足利方は数の上では優勢なのだが、士気が上がらず、宮方は数においては劣勢だが、士気が高いという状態が続いている。しかし、それ以上にこの時代の特色を表しているのは、その時々で有利な方に従いながら、保身を図っていくそのほか大勢の武士たちではないかと思う。さて、足利方が去った後、京都はどうなっていくのか、それはまた次回。
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