『太平記』(171)

8月14日(月)雨が降ったりやんだり

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬に都を奪回した足利方は、後醍醐天皇方の武士たちが立て籠もる比叡山に攻め寄せた。にらみ合いが長引くと、北陸、東北地方から宮方に加勢する大軍が到着する恐れがあるので、早めに攻め滅ぼそうとの意図からである。大手の軍勢は琵琶湖の湖岸に兵を進め、搦め手の軍勢は比叡山を西から昇って押し寄せた。主だった武将は東の方面を固めていると見た足利方は、西の方面から攻勢をかけるように連絡し、高師久の率いる軍勢が西から攻勢をかけ、後醍醐天皇の寵臣であった千種忠顕が戦死した。足利方は比叡山の主峰である大比叡のあたりまで攻め寄せた。

 ここに足利方の数十万の軍勢の中から備後の国の住人、江田源八泰武と名乗る武士が現われ、洗皮の大鎧(あらいがわ=鹿のなめし皮で縅した大鎧、略式の胴丸・腹巻などに対して正式の鎧)に五枚甲(錣=しころ、鉢から垂らす首おおいの板が五段からなる兜)の緒をしめ、4尺6寸の太刀に血をつけて、まっしぐらに打ってかかる。これを見て杉本の山神大夫定範という悪僧が、黒糸で縅した鎧に、竜頭の細工を正面の飾りとして付けた兜をかぶって、大きな臑(すね)あてをして3尺8寸の長刀を両手でしっかり握り、激しい足づかいをして、他人を交えずに立ち向かう。(互いに物々しいいでたちをしているだけあって、なみなみならない武勇の持ち主ではあったが)源八は長い間坂を上り、これまで何度も敵と切り結んできたので、腕の動きも鈍り気力も失われていたのであろうか、ややもすると受け太刀になっていったのを、定範はしてやったりと、長刀の柄をとり延べて、源八の兜の鉢を割れよ砕けよと、重ねうちに打った。源八は兜の吹き替えしを目の上まで切り下げられて、兜をかぶりなおそうと顔を上げたところに、定範が長刀を投げ捨て、走りかかってむずと組む。2人が力を込めて踏んだ足に押されて、山の斜面の土が崩れ、二人ともそこで踏ん張ることができず、組み合いながら、山腹を覆う笹薮の中を上になり下になり転げ落ちていったが、途中から離れ離れになって、それぞれ別の方角の谷底へと落ちていった。

 このほかの僧兵たちや、一般の僧侶までもが袈裟の袖を結んで肩にかけた動きやすいいでたちで、武器を手にして向かってくる敵に走りかかり、命を塵よりも軽いものとする勇敢さで防戦に努めたので、足利方の軍勢は数では勝っていたのに進みかねて、四明岳から雲母坂への降り口のあたりで、上を見上げて、一息休めて待機していた。〔防戦する比叡山の僧侶たちは必死であるが、寄せ手の足利方はあまりやる気がない。よく見られるパターンがここでもみられる。江田源八がそうだったように、足利軍は重い武具を身につけて山を登ってきたうえに、戦闘を重ねてきたので、疲れているということもある。〕

 この間、大講堂の鐘を鳴らして事態が急であることを知らせたので、横川(よかわ)の西の篠(ささ)峰の防御を固めようと前日に横川に向かっていた宇都宮勢の500余騎が、全速力で西谷口に駆け付けてきた。皇居を守護して東坂本に陣を構えていた新田義貞が、6千余騎を率いて四明の上に駆け上り、宇都宮配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団を進ませ、新田一族の江田、大館を魚鱗(先頭を細くして敵陣を突破する魚の鱗型)の陣形で四明岳の上から下へ一気に攻め立てたので、寄せ手の20万騎の兵は、水飲(雲母坂の中途にあった比叡山に登る人のために湯水を提供した場所)の南北の谷へ追い落とされて、人馬ともに重なり落ち、深い谷が死者で埋まって平地になるほどであった(これは誇張であろう)。

 寄せ手は、この日の合戦に、大手の軍勢から言ってきたように簡単に勝つどころか、負けて押し戻されてしまったので、目算が狂い、水飲からさらに下がったところに陣を取って、敵の隙を窺った。義貞は、東坂本よりも、西坂の方が大事だと考えて、比叡山の主峰である大比叡に陣を取り、終日戦い続けたので、両軍ともに自陣を破られず、西坂の合戦は、にらみ合いのまま休止状態となった。

 その翌日(6月7日)、西坂の戦いが思うように展開しなかったので、高師久は大津の大手の軍勢に向けて使者を出し、「敵の主だった武将たちは、皆大比叡に向かった様子です。急いで大手の合戦を始められて、東坂本を攻め破り、神社、仏閣、僧房、民家に至るまで、一軒残らず焼き払い、敵を山上に追い上げ、東塔と西塔(延暦寺は東塔・西塔・横川の3つの部分からなる)の両塔の間に攻め上って狼煙を上げられれば、大比叡に陣を貼っている敵も心乱れて、進退窮まり必ずや取り乱すだろうと思われます。そのとき、西坂より同じように攻め上るので、(お互いに力を合わせて)戦いの雌雄を一挙に決めましょう」と申し送った。
 足利一族の吉良、石塔、仁木、細川の人々は、これを聴いて、「昨日は既に、大手の勧めによって、搦め手の高家の一族が、烈しく攻め寄せた。今日はまた、搦め手の方からこの陣の合戦を勧められるのは当然のことだろう。黙って捨ておくべきではない」ということで、18万騎を三方面に分けて、他の中の道、湖岸の道、山際の道から、敵が夕日を受けて戦うようにしようと考えて、東坂の方面に攻め寄せた。(西の方に回り込んだということであろうと思われる。)

 義貞は自分の弟の脇屋義助を大将として東坂本の城に残していた。義助は東国、西国の強い弓の射手と、弓矢の名手を選び出して、土狭間(土塀にあけた矢を射る小窓)、櫓の上に配置し、土居、得能、仁科氏重、春日部時賢、名和長年以下の四国、北陸地方の勇猛な武士たちを2万余騎、比叡山の東の斜面の無動寺南の白鳥山のあたりに置き、水軍に慣れた地方の兵たちに、琵琶湖岸の和仁(大津市和邇)、堅田(大津市堅田)の住民たちをつけて5千余人を兵船700余艘に掻楯を付けて防備を固めたのを、琵琶湖の水面に浮かべた。
 これを見た足利方は、敵の構えが厳しくて、簡単には近づけないとは思ったものの、戦わなければ敵が退くわけがないということで、三方の寄せ手18万余騎が、敵の城砦に近づいて鬨の声を上げれば、城中の軍勢6万余騎も城の塀にあけられた狭間の板を叩いて、負けじと鬨の声を上げる。「大地もこれがために裂(わ)れ、太山もこの時に崩れやすらんとおびただし」(第3分冊、121ページ)と依然として大げさな表現を続けている。

 寄せ手はすでに東坂本の城の堀の前まで楯を差しかざして押し寄せ、雑草を引き抜いてそれで堀を埋めようとし、さらに枯れ草を積み上げて城の櫓を焼き落とそうとした。すると、城の側では300余個所の櫓、土狭間、出塀(だしべい=射撃や物見のために、城の塀の一部を外に突き出したもの)の中から、矢を雨が降るように射かけた。選びすぐった射手ぞろいなので、無駄な矢は一本もなく、寄せ手は楯の端や旗の下に矢にあたって倒れるものが多く、生死の境をさまようものが3千人を超えた。あまりにおオックのものが射殺されたので、携帯用の楯の陰に隠れて、少し浮足立ち始めた。そこを見澄まして、城の中から新田一族の脇屋、堀口、江田、大館の人々が6千余騎、3つの木戸を開かせて、一気に敵の中にかけ入る。
 白鳥山に配置されていた土居、得能、仁科、名和の勢の中から2千余騎が駆け下って、足利勢を横合いから攻め立てる。琵琶湖に浮かんでいた諸国の塀を載せた舟が、唐崎の有名な一本松のあたりに漕ぎ寄せ、差矢(さしや=矢継ぎ早に射る矢) や遠矢を絶えず、矢種を惜しまず射かけてくる。
 数の上で勝る足利方であるが、山と湖の両方から横矢を射かけられ、敵の軍勢の勢いにのまれて、敵わないと思ったのであろうか、また元の陣に引き返した。

 その後は、毎日兵を出して、矢軍(やいくさ)は仕掛けるものの(合戦を始めるという合図はするものの)、寄せ手は遠巻きに構えて近づこうとせず、宮方の兵は城を落とされないことをもって勝利と考えて、これといった合戦は行わないまま、時が過ぎていった。

 西坂の防備が手薄とみて、搦め手から攻勢をかけた足利方であったが、比叡山側の必死の守りと新田義貞の迅速な対応で所期の戦果を挙げることはできなかった。そこで大手から攻勢をかけるが、脇屋義助がしっかりとした防御態勢を築いていたためにこれまた失敗して、戦いは長期化する様相を見せてきた。義貞・義助兄弟の名将ぶりと、宮方の武士の勇敢さが、数において優勢な足利方を退けている。このまま、東北地方と北陸の武士たちを糾合して北畠顕家が救援に駆け付ければ、反攻の可能性も生まれようというものである。(こうなってくると、楠正成の献策を受け入れずに、彼を湊川で戦死させたのが惜しまれるところである。) 足利方は、長期戦になると裏切り者や、脱落者を出すおそれがある一方で、敵の消耗を待つことで戦局を有利に導くことができるかもしれない。両者ともに危ない橋を渡っている。膠着状態に陥りかけている戦局は、今後、どのように動いていくのか。

『太平記』(170)

8月7日(月)晴れのち曇り、依然として暑い

 建武3年(南朝延元元年、1336)5月27日に後醍醐天皇は再び比叡山に臨幸され、叡山の3千人の衆徒は、この年の春に足利方の軍勢を京都から追い出した経験があったので、今回も勝利を確信して天皇をかばい守ろうと態勢を固めた。もし、北陸地方や関東から援軍が到着すると、形勢が逆転する恐れがあると考えた、足利方の指導者たちは早めに比叡山を攻略しようと東西から大軍をもって攻勢をかけた。

 6月6日、足利方の大手(比叡山を東から攻略しようと向かっていた軍勢)の大将から、搦め手である西坂の寄せ手の方に使者が派遣され、「自分たちが当面している敵陣をうかがい見ると、新田、宇都宮、千葉、河野をはじめとして、主だった武士たちは、ほとんど東坂本を固めているように見受けられる。西坂の方は、険阻を頼りにして、公家の侍や叡山の法師で守っているらしい。一度相手に激しく仕掛けてみてはどうだろうか。(名だたる武将、武士がいないので)これといった合戦は決して起こらないだろう。思い通りに(比叡山の主峰である)大比叡に陣取っている敵を追い落とされて、東塔にある大講堂、文珠楼のあたりに軍を止めて、合図の狼煙を上げてください。こちらもそれに呼応して攻め寄せ、東坂本の敵を一人残さず、湖水に追い詰めて滅ぼすだろう」と連絡をする。

 西坂から攻め寄せる軍勢の大将であったのは、高一族の豊前守師久(師直・師泰の弟)であったが、この知らせを受けて、自分の率いる軍勢に向けて命令を出して次のように述べた。「山門を攻め落とそうとする各方面の合図が明日あるだろう。この合戦に際して一歩でも後退したものは、たとえこれまで抜群の忠勤があったものでも、それはご破算にして所領を没収し、追放処分とするであろう。一太刀でも敵に打ち込み、陣を破り分捕りを成功させたものは、凡下(侍身分ではない中間以下のもの)であれば侍に取り立て、侍であれば直接恩賞を与えられるように口添えしよう。だからと言って、一人で手柄を立てようと抜け駆けをしてはならない。また同輩の手柄を妬んで、危地に陥ったのを助けないというのもいけない。お互いに力を合わせ、共に志を一つにして、斬るとか射るとかのやり方をとらず、乗り越え乗り越え進むべきである。敵が退却すれば、体勢を立て直して戻ってくる前に攻め立て、比叡山の上に攻め上り、堂舎仏閣に火をかけて、一宇も残さず焼き払い、3千の衆徒の首を一つ一つ大講堂の庭で斬ってさらし首にして将軍(尊氏)から褒賞を受けたいとは思わないか」と、部下のものを励まして下知をしたが、(寺を焼き僧侶の殺害を命じる)非道のほどは何ともあきれたことであった。〔『太平記』の作者には神仏の霊力や、宗教者の力をまともに信じているところがあって、それが高師久のこの勇み足発言への非難となって表れている。〕 配下の軍勢は、この命令を聞いて、勇み進まないというものはいなかった。〔前回も書いたが、足利方の方が軍勢の数は多いが、そのかなりの部分が様子見で必死に戦おうとはしない連中であり、だから勇敢にたたかわせようとすると、恩賞の空手形を乱発することになる。最近出た亀田俊和さんの『観応の擾乱』を読むと、このような大義名分よりも身の安全、恩賞をくれる方になびくという武士の様子がよくわかる。これも前回に書いたが、山を登る軍勢よりも、上の方で待ち受けている軍勢の方が矢が遠くまで届くなどの有利な点がある。〕

 夜が既に明けたので、雲母坂の中腹の三石、松尾、水飲から軍勢を3方面に分けて、20万騎が太刀、長刀の切先を並べて、鎧の左袖をかざして、エイやという掛け声を出して道を上っていった。宮方ではまず一番に、中務卿である尊良親王(史実では式部卿の恒明親王であったと岩波文庫版の脚注にはある)の副将軍としてこの方面を守っていた千種忠顕と坊門少将正忠が300余騎で防戦に努めたが、松尾から攻め上ってきた敵に後ろをふさがれ、忠顕卿は悔しいがこれが最後の戦いとなると必死に戦ったけれども、ついに全滅を余儀なくされた。後醍醐天皇への忠節は比類なく、それに対する褒賞も抜きんでていて、天皇の深いご信頼を得ていただけに、その命を軽く思って戦死したのは哀れなことであった。〔前年に結城親光が討死(14巻第20)、この年の5月に湊川の戦いで楠正成が敗戦⇒自害し、今度は千種忠顕が戦死した。建武新政のもとで後醍醐天皇の朝恩を受けて成り上がった「三木一草」が立て続けに戦死している。なお、『太平記』第8巻では大軍を恃んで京都を攻めたものの六波羅勢に撃退された時の千種忠顕の臆病ぶりに児島高徳があきれ果てるという箇所がある。『太平記の群像』の中で森茂暁さんは「忠顕の生涯をふりかえってみれば、彼の運命は後醍醐天皇とともにあったといえる。忠顕は同天皇の手足として働いたが、彼の栄達はひとえに同天皇の信任に支えられていた。文字通りの寵臣といえよう」(森、前掲、89ページ)と忠顕について論評しているが、その忠顕を失うことで後醍醐天皇の身辺はいよいよ寂莫としたものになったと考えられる。〕

 忠顕が戦死する様子を見て、後陣を支えて防いでいた延暦寺の僧房である護正院、禅智房、道場房以下の衆徒7千余人は、一太刀打っては引きあがり、しばら支えてはひき退き、次第次第に退却していったので、寄せ手はいよいよ勢いに乗って、追い立て追い立て休まずに、比叡山に昇る険しい道である雲母坂を、途中の蛇池を左手に見ながら、大嶽まで攻めあがったのであった。

 そうこうするうちに、比叡山の院ごとに鐘を鳴らして、西坂は既に攻め破られたと東塔に属する谷間が騒ぎ出したので、年老いて歩行も満足ではない僧侶は、老人用の杖を突きながら、東塔の本堂である根本中堂、西塔の堂舎である常行堂・法華堂などに出かけて本尊とともに焼け死のうと悲しむのであった。また学問と仏への祈りをもっぱらとする学僧たちは、経典とその註釈を胸に抱いて逃げのびていく。あるいは荒法師の太刀や長刀を奪い取って、彼らに代わって命を捨てて敵と戦おうとする者もいた。

 戦況は足利方有利の展開であるが、『太平記』の作者が後醍醐天皇よりも、比叡山の堂塔や僧たちの運命の方に関心を向けているように読み取れることが興味深い。森茂暁さんは、『太平記』が、足利尊氏に光厳院の院宣を届けるなど、彼と密着しながら政治・宗教の面で活躍した醍醐寺(真言宗)の賢俊の存在をほとんど無視していることから、「やはり宗教色という点から見れば、天台宗の強い影響のもとに成立したと考えられるのである」(森、前掲、202ページ)と論じられているが、このあたりの描写にもそんな特徴が表れているといえよう。

『太平記』(169)

8月1日(火)曇り、午後から雷雨

 建武3年(南朝:延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上した足利尊氏、陸路を進んだ直義兄弟の軍は、兵庫で待ち受けていた新田義貞軍と戦った。義貞は、京都から応援に派遣された楠正成とともによく戦ったが、衆寡敵せず、正成は自害、義貞は京都に退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇は比叡山へと向かわれた。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に救われた。8月に豊仁親王が即位された。正成の首は六条河原にさらされたが、尊氏の厚情で、河内の妻子の許に帰された。正成の子正行は父の首を見て腹を切ろうとしたが、母は父の遺訓を聞かせて、自害を思いとどまらせた。

 今回から、『太平記』の第17巻に入る。
 延元元年(北朝:建武3年)5月27日に、後醍醐天皇は再び比叡山に臨幸された。比叡山の3千の衆徒たちは、この年の春にいったん京都を占拠した足利方を追い落とした記憶が残っていて、今度もたやすく足利方を破ることができるだろうと天皇を守り、盛り立てようとしていた。そして、北陸地方と奥州の宮方の武士たちの上洛を待ち受けているという噂であった。
 そこで、尊氏、直義、足利家の執事である高、尊氏・直義兄弟の母の実家である上杉の人々は、持明院統の皇族方が御所とされていた東寺(教王護国寺)に集まって作戦会議を開いた。宮方への攻撃を延び延びに先送りしていると、義貞勢に援軍が到着して形勢が不利になる恐れがある。いまはまだ義貞勢の数が少ないので、このうちに比叡山を攻撃しようと、6月2日、四方の手分けを決めて、敵の正面、側面、背後を攻めるべく50万の軍勢を比叡山へと派遣した。

 大手(正面)には足利一族の吉良、石塔、渋川、畠山を大将として、その勢5万余騎、大津、松本(滋賀県大津市松本)の東西の宿、園城寺(三井寺)の焼跡、志賀、唐崎、京都東山の如意が岳まで兵が充満した。搦め手として、比叡山の西側の修学院の方から、これも足利一族の仁木、細川、今川、荒川を大将として、四国、中国の武士たち8万余騎が向かった。比叡山の西麓である西坂本へは高一族のほか、足利一族の岩松、桃井を大将として30万騎、八瀬、藪里、松崎、赤山、降松、修学院、北白川まで兵が配置され、音無の滝、不動堂、白鳥から比叡山へと押し寄せた。

 比叡山の方では、足利方がこれほど早く攻めて来るとは予期していなかったのであろうか、道筋に見張りのものを立てることもせず、木戸や逆茂木を構えて敵襲に備えることもしていなかった。とはいうものの比叡山は険しい道の続く要害の地ではあったのだが、足利方の武士たちの馬はそのような岩場続きの路には慣れていた。
 折悪しく、比叡山に立て籠もる宮方の武士たちは、大将である新田義貞をはじめとして、千葉、宇都宮、土居、得能ら一人残らず、皆東坂本に集まっていて、山上には歩くこともできない長老の僧や、僧房にこもって学問に励む学僧しかおらず、兵力になるようなものは1人もいなかった。この時に、もし西の雲母坂から進んできた大軍が、休まずに進軍を続けて、比叡山の頂上まで登っていれば、山上も坂本も、防ぐ手立てを講じることができず、ひとたまりもなく陥落していたはずであるが、比叡山の鎮守の神である山王権現のご加護があったのであろうか、急に朝霧が立ち込めて、ごく近い距離でさえ見分けることができないほどであったので、味方の前陣が上げた時の声を、敵の防ぐや叫びの声と聞き違えて、後陣の多数の武士たちが続いて進まなかったので、漫然と時間を浪費してしまったのである。

 そうこうする間に、日吉山王七社の第一である大宮権現まで山を下りて、延暦寺の東塔・西塔・横川の僧徒の評議である三塔会合に出席していた僧徒が、山に戻ってきて、雲母坂の水飲峠にあった和労堂のあたりに集まり、ここを破られるか破られないかが勝敗の分かれ目であると必死に防いだので、攻め寄せてきた足利方の武士たちのうち、300余人が戦死して、前陣は無理に前進しようとしないので、後陣は益々進もうとする意欲を失い、雲母坂の途中の水飲み場所の木陰に陣を張って、掘割を仕切って垣のように楯を並べ、お互いに遠矢を射交わして、その日は無為に過ごしたのであった。

 西坂の方で合戦が始まったことを知らせるように、山中に鬨の声がこだましたので、東の志賀、唐崎の足利方の10万余騎は、東坂の西、穴生(大津市穴生)の前に押し寄せて、鬨の声を上げたのであった。

 ここで、敵の新田方の陣を見渡すと、無動寺谷の麓から湖の波打ち際まで、空堀を2丈(約6メートル)あまり掘り通して、要所要所に橋を渡し、岸の上に塀を築き、木戸、逆茂木で守りを固め、左右の石垣にまたがらせて作った渡櫓や、高く築いた高櫓を300余個所に設けていた。塀の上から新田の紋である中黒を記した旗が30本以上翻り、山を下ってくる風に吹かれて龍蛇のように見えた。その下に、陣屋を並べて、雨を防ぐために油を塗った幕を引き、鎧をさわやかに身につけた兵が2,3万騎、馬を後ろにつないで、軍勢ごとに並んでいた。
 無動寺谷の麓である白鳥の方を見ると、千葉、宇都宮、土居、得能、四国、中国の武士たちが、このあたりを守っている様子で、結城の左巴、宇都宮の右巴、千葉の月に星、河野の折敷に三文字、その他の旗が60本以上が梢越しになびいていた。その陰に兜の緒をしめた兵3万余騎が、近づくと敵の側面から襲い掛かろうと、馬の轡を並べて控えていた。
 さらに琵琶湖の方を見ると、西国、北陸地方、東海道の水上の戦いに慣れた武士たちと見受けられる紋を書き記した旗300本余りが見え、それぞれの舟に乗った兵を合わせると数万人余り、それぞれが弓戦の支度をして、戦いが始まれば側面から矢を射かけようと待ち構えている。

 寄せ手の方が大軍であったのだが、敵の勢いに気勢をそがれて、矢の届く距離にまで近づこうともせず、大津、唐崎、志賀の里の300か所あまりに陣を取って、遠攻めにしたのであった。

 持明院統の皇族を戴いて、大義名分を獲得した足利方であるが、依然として戦意は高くない。これまで何度も書いてきたように、出来るだけ自分の力を温存して、必死に戦うことはないという方が当時の武士としては普通の態度である。宮方は、比叡山の武力を頼りにして、戦いを続けようとしている。戦いの常として、高いところから低いところの敵を攻める方が有利であるが、山の上は武器や食料の補給がむずかしいという問題がある。しかも比叡山には普通以上の数の人間が集まっているので、長期戦になればなるほど、このあたりの事情は深刻になるだろう。その一方で、全国的に家督や領地をめぐる争いが頻発しているから、宮方に呼応して兵を挙げようという武士には事欠かないのも確かな事である。それで、宮方としては、戦いを長期化させることで、足利方の内部分裂を誘うという戦略にしか勝利の見通しはない。個別的な戦闘では有利な展開を見せる可能性のある宮方が、その優勢を長期的に持続できるかが問題である。 

『太平記』(168)

7月23日(日)曇り、時々雨

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から京都を目指して、海路から東上してきた足利尊氏、陸路を向かってきた直義兄弟の軍勢は、兵庫で合流し、彼らの攻勢をこの地で食い止めようとして陣を張っていた新田義貞と、彼を応援するために京都から派遣されてきた楠正成の軍勢と衝突した。楠正成は弟の正氏とともに足利直義の命を狙い、その心胆を寒からしめたものの、上陸してきた尊氏軍からの応援を得た直義軍の逆襲に次第に配下の兵たちを失い、まだ敵を打ち破って落ちのびることはできたが、一族郎等70名あまりで湊川で切腹して果てた。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇と多くの廷臣、武士たちが比叡山へ向かった。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に助けられた。尊氏はここで、持明院統の天子を擁立することで、朝敵という汚名から逃れることができた。(尊氏らの援助を得て、豊仁親王が即位される。光明天皇である。)

 湊川で戦死した楠正成の首は、六条河原でさらし者にされた。この年の正月に、正成は足利軍を欺く作戦として新田義貞、北畠顕家、楠正成ら宮方の有力な武将が戦死したといううわさを流し、だまされた足利方の方が戦死者の死体を探し回ったけれどもそれらしい首が見つからなかったので、少しでも似ている首を2つ選んで、獄門の木にかけ、新田義貞、楠正成の首と書きつけたという出来事があった(15巻)。それ以前にも正成は自分が死んだように見せかけて敵を欺くことがあった。これまでそんなことが続いていたので、今回もまた偽の首ではないだろうか。あの恐ろしい正成が、そう簡単に討たれてたまるものかと人々は噂しあった。その噂を受けて或る人が狂歌を読んで、落書きを残した。
 うたがひは人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頸(くび)
(第3分冊、103ページ、今度討たれた首は本物らしいが、正成ゆえに疑いが残る。疑いに討つ、正成に正しげ(本当らしい)を掛けている。)

 そののち、「正成の未亡人や遺児たちが、今一度死んだ正成の顔を見たいと思っているだろう」といって、子どもの正行のもとに首を送り届けた。まれにみる情け深い行為である。
 『太平記』の本文は「情けの程こそ有難けれ」(第三分冊、同上)と書いているが、森茂暁は『足利尊氏』(角川選書)の中で、正成は建武新政権のもとで尊氏の執事である高師直とともに武者所で働いており、師直を通じて尊氏とも相識であったのではないかと推測している。そして豊田武が掘り起こした文書をもとに、尊氏が湊川で戦死した正成のために供養を行ったこと、正成の「いさぎよさ」に内心敬服していたのではないかと思われるとの所説をも紹介している。(実際問題として、この時期の武士たちは、できるだけ戦闘に参加せず、勝敗の決着がつき始めたころに強いほうに味方したり、逃げたり、適当に降参したりと、自分が生き延びることにだけ必死になっている例が大部分であった。だからこそ、正成の生き方が『太平記』の作者によって賞賛されることにもなったのである。誉めるくらいならば、自分も同じように戦死すればいいという意見も出るかもしれない…) とにかく、尊氏は新田義貞や北畠顕家に示したような敵意を正成には抱いていないらしいと森さんは論じている。

 正成の未亡人と、正行は首を見て、今回の戦を前にして、正成が兵庫に向かう際に、言い残したことが数多くあったが、その中に「今度の合戦には、必ず討死すべし。正行をば、同じ道にもと思へども、後栄(こうえい=子孫の栄え)のために」(第3分冊、103-104ページ)といってあとに残していったことが思い出され、出陣したのを最後の別れと、覚悟してはいたけれども、そのとおりになってしまい、首を見ると、生前の面影は残っているが、目は閉じ顔色は変わって、変わり果てた姿になっているので、悲しみが胸に迫って、その場に泣き崩れるのであった。

 今年11歳になった正行は、父の首の有様、母の嘆きを見るも聞くも、やり場のない思いに、耐えられぬ気持ちで、涙を抑えつつ、持仏堂の方に向かったのを、母は気がかりに思って急いで後をつけてみると、父親が兵庫に向かおうとするときに形見に残していった菊水作りの刀を抜き、袴の腰を押し広げて、自害しようとしているところであった。
 菊水というのは楠氏の紋である。余談になるが、昔、神戸の湊川と、大阪の十三と、京都の新京極に菊水映画劇場、略して菊映という映画館があった。菊水の門の短刀について、岩波文庫版の脚注は、後鳥羽上皇がつくらせて臣下に与えたという「菊御作」の刀かと注記している。

 自害を企てた正行であったが、母親が泣きながら、父正成が正行を同行せずに故郷に帰らせたのは、自分の戦死した後に再起を図り、ふたたび朝敵と戦うべく備えさせるためであったはずだと説得したので、思いとどまったのであった。母親のあたえた教訓によって、正行はまた父の遺言を思い出し、武芸智謀を磨いて父の遺訓を実現する機会に備えるのであった。

 ここで16巻は終わる。林屋辰三郎は楠木正成・足利尊氏・佐々木道誉・細川頼之が『太平記』がたどった4つの時代をそれぞれ代表する人物であると論じている(林屋辰三郎『佐々木道誉』、178ページ)が、その1人が姿を消したことで、『太平記』はいよいよ次の時代への動きが急になってくる場面を描き出すことになる。楠正成(くすのき)、名和長年(伯耆→ほうき)、結城親光(ゆうき)、千種忠顕(ちくさ)という後醍醐天皇のお気に入りの(成り上がりの)人々を<三木一草>というのは、すでに紹介したが、楠は既に16巻で姿を消し、17巻では残る3人が姿を消すことになる。

『太平記』(167)

7月16日(日)曇り

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から東上した足利尊氏・直義兄弟の率いる軍勢は、中国地方から兵庫まで後退してここで一戦を交えようとしていた後醍醐天皇方の新田義貞と衝突し、新田軍はよく戦ったが衆寡敵せず、退却を余儀なくされた。このため、後醍醐天皇は廷臣や自分に従う武士たちとともに比叡山に向かわれた。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で、足利方の武士たちに助けられ、8月には豊仁親王が即位されることになる。これは持明院統の皇族を天皇に推戴することによって、朝敵となることを避けようという尊氏の考えによるものであった。
 もともと天照大神が伊勢に鎮座されてこの国の主となられたときに、日本に仏法が広まることで自分たちの力が失われることを恐れていた魔王たちに対して、自分は仏法には近づかないと約束され、それに感激した魔王たちが、天照大神の子孫である方々に反旗を翻すものがいれば、自分たちが滅ぼすと誓ったという経緯があった。そのような朝敵の例として、神武天皇の時代に巨大な蜘蛛がいて、人々を苦しめたが、官軍によって滅ぼされた。

 『太平記』の作者は、大蜘蛛の次に、天智天皇の時代に、藤原千方(ちかた)という朝敵が出現したという話を語る(藤原千方は、実在の人物で、既に15巻で大ムカデを退治したという説話の中に登場し、またこの後にも平将門を討伐したと語られる――これは歴史的事実である――俵藤太こと、藤原秀郷の孫であるから、大変な時代錯誤である。そもそも藤原という姓は、天智天皇の股肱の臣であった中臣鎌足が初めて与えられたものである)。
 千方は金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼(おんぎょうき)という4つの鬼を使っていた。金鬼は、その体が堅固にできていて、矢を射ても矢が突き刺されない。風鬼は、大きな風を吹かせて、敵の城を吹き破ってしまう。水鬼は、国隋を興して、敵を溺れさせる。隠形鬼は、その姿を消して、突然敵に襲い掛かる。こういう神通力をもつ鬼たちであったので、普通の人間の力では防ぐことができず、伊賀、伊勢の2つの国は千方の勢力範囲となってしまい、天皇のまつりごとに従おうとする者がいなくなった。

 ここに紀友尾というものが、天皇の宣旨を頂いて伊賀の国に下り、一首の歌を詠んで、鬼たちにそれを伝えた。
 草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲家なるべき
(日本の国土は草も木もすべて帝のものであって、鬼の住処などあろうはずがない。)
 4つの鬼は、この歌を見て、「ということは、我々が悪逆無道の家臣のいうことを聞いて、善政有徳の帝に背いたということは、天罰を逃れる場所がないということだ」といって、たちまちに方々に逃げ去ってしまった。そのため千方は勢いを失い、やがて友尾に討伐されたという話である。
 紀友尾というのは、紀貫之や友則の一族ということであろうが、岩波文庫版の脚注によると不詳だそうである。

 さらに、平将門の話が紹介される。朱雀院の時代に、平将門というものが、東国に下って下総国相馬郡(現愛の茨城・千葉両県にまたがる地)に都を立て、勝手に平親王と号して、独立政府のようなものを作り上げた。朝廷は軍を派遣して総力を挙げてこれを討伐しようとしたのだが、将門の体は鉄でできていて、矢を射ても突き刺さらず、劒や鉾で斬りつけても怪我をしない。そこで朝廷の諸卿が相談した末に、仏教の守護神である四天王の像を鉄で作り、比叡山にこの像を置いて、四天合行の法という四天王を本尊として行う修法を行わせたところ、天から白羽の矢が一筋下りてきて、将門の眉の間に立った。その矢が抜けずに将門が苦しんでいるところを、俵藤太秀郷が首をはねた。

 その首は、獄門にかけられたのだが、3か月というもの、目は開いたままで、顔色も生きている時のままで、常に歯ぎしりをして、「斬られてしまったわが五体はどこにあるのか。ここにやってこい。また首と一緒になってもう一戦戦おう」と夜な夜な呼び掛けていたので、聞く人はこれを怖がっていた。そのころ、藤六というものが道を通ったのであるが、このうわさを聞いて
 将門は米かみよりぞ斬られける俵の藤太が謀(はかりごと)にて
(将門の首は、俵藤太のはかりごとでこめかみから斬られた。こめかみと米を掛け、米と俵は縁語である。)
と詠んだ。(歌に感心した)首がにやりと笑ったのであるが、その瞬間に目はふさがり、屍は朽ち果ててしまった〔首のことを語っていて、首と切り離された屍のことは語られていなかったので、この記述は奇妙である。〕
 この説話、小学校5年生の時に、社会科の時間で先生が話されたのを覚えているのだが、どうも説明が十分でなかったような気がする。教師たるもの、しっかり予習すべきだという例として記憶に残っている(自分が教師をしていたころに、予習不十分な授業をずいぶんしたことを棚に上げている!!)

 朝敵となって滅ぼされたものはこれら3例だけではないと、『太平記』の作者はさまざまな人物の名を列挙する。岩波文庫版の脚注は『平家物語』巻五「朝敵揃へ」に類似していると記している。名前を列挙した後で、「悪は滅びる」とその末路をまとめている。作者がいいたいのは次のところであろう。

 以上のことがあって、尊氏がこの年の春に、関東八か国の多句の武士たちを率いて上洛したけれども、朝敵という汚名を着せられていたので、私的な望みに基づく武運はやはり長続きするものではなく、数度の合戦に敗北して九州に逃亡することになった。そこで今回はその先非を悔いて、一方の皇統(持明院統)をお立てし、朝敵征伐の院宣に従ったので、威勢に道理が加わり、偉業が道理のもとに達せられようとしていると、人々はみなこの挙を軽く見なかった。こうして東寺が上皇の御所となり、武将が城郭を構えて警護して防備を固めたので、人々は安心したのである。これは比叡山から敵が攻め寄せてきたのであれば、小路小路を遮って、縦横に合戦をするための備えとなるものであると、この城郭を構えたのであった。

 京都の北の比叡山は後醍醐天皇を支持しているが、南の東寺、醍醐寺は尊氏寄りの立場をとっている。比叡山は天台宗、東寺、醍醐寺は真言宗であるが、宗派というよりもそれぞれの寺院の僧侶たちの意向の方が大きく影響しているようである。後醍醐天皇が天皇親政の政治の復活を考えられていたのに対し、持明院統の皇族方は上皇の1人が<治天の君>として政治をとられるという平安末期→鎌倉時代の政治の在り方を理想とされていたようである。従って、持明院統を代表されるのは、光厳上皇であった(尊氏に院宣を下したのも、上皇である)ことを重視すべきである。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR