『太平記』(158)

5月14日(日)曇りのち晴れ間が広がる

 建武3年(1336、この年2月に「延元」と改元されたはずであるが、『太平記』の作者は旧年号を使い続けている)4月末に、宮方の攻撃を支えることができず、九州に落ち延び、そこで武士たちの支持を得て再起を図ろうとした足利尊氏は大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。(歴史的事実としては、尊氏が持明院統の院宣を得たのはもっと早い時期のことであり、厳島明神と院宣を結びつけたところに作者の足利方への配慮が感じられる。もっとも、足利氏は源氏であり、厳島神社は本来平家の守り神である。) 備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は戦線を縮小して敵の大軍に有効に対処しようと摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は楠正成に兵庫で義貞を支援するように命じた。これに対して正成は朝廷が都を放棄して、再び比叡山に立て籠もり、都に戻った足利軍を南北からゲリラ戦で苦しめて弱らせるという戦術を提言する。

 この正成の提言をもっともだとお考えになった後醍醐天皇は公卿たちに今後の戦術について協議させる。岩波文庫版の『太平記』が底本としているのは西洞院本であるが、この個所は『太平記』の様々な写本によって記述が異なる。なお、公卿たちの会議には天皇・摂政・関白は出席しない習わしであるが、建武新政時代にこの習わしが続いていたかどうかはわからない(私が知らないだけで、研究した人はいるのではないかと思う)。

 公卿たちの会議の後で、天皇が重ねて仰せられたのは、「朝敵を征伐するために、その印の刀を拝領して征伐に向かう将軍が、まだ本格的に戦っていないうちに、朝廷が都を捨てて、1年のうちに2度まで地方に行幸されるということでは、天皇の地位が軽いということがあからさまになってしまう。また官軍としての面目を失うことにいなる。尊氏がたとえ九州の軍勢を率いて上洛してきたと言っても、昨年の春、関東の8か国の軍勢を率いて上洛してきた時の勢いには及ばないであろう。戦いの始めから、敵軍の敗北の時にいたるまで、味方は小勢であったが、毎度敵を服従させないことはなかった。〔これは何度か書いてきたように、そのとおりである。しかし、今回は足利方は持明院統の院宣を得て、大義名分を獲得して戦いに臨んできている。〕 「これ武略の勝れたるにあらず。」(第3分冊、63ページ、武士の立てた戦略が優れていたからではない。)ということであった。これは正成が述べたことを真っ向から否定するものである。さらにそれに加えて、「ただ聖運の天に叶へる事の致す処なれば、何の子細かあるべき。ただ時を替へず罷り下るべし」(同上、ひとえに、帝(私)の運が天命にかなっていたための勝利なので、このたびの戦いにも何の支障があろう。即刻、罷り下るべきである)と仰せになった。〔足利方と持明院統の連携が成立し、足利方の士気が奮い立っていることに気付いていない様子である。〕

 正成が誠意をもって申し上げた献策が真っ向から否定されたのである。岩波文庫版の脚注によると、これを諸卿僉議の際の坊門清忠の発言とする異本もあるそうである。清忠は後醍醐天皇の近臣で、『太平記』第12巻では鎌倉幕府滅亡後も信貴山に留まって武装を解除していなかった護良親王に、後醍醐天皇の命を受けて僧籍に戻るように説得に出かけている。どちらにしても、もう少し言いようがあっただろうと思う。「聖運が天に叶」っているのであれば、正成を差し向けるのではなく、自分自身が出かけたらどうだと言いたくもなる。少なくとも、正成に対し、何か一言、あるいは褒賞の約束をして送り出すべきではなかったか。(あるいは実際にはそうだったけれども、『太平記』の作者がわざと書き落としたということもありうる。)

 自分の献策を全面的に否定された正成は、「この上は、さのみ異儀を申すには及ばず。且は恐れあり。さては、大敵を欺き虐げ、勝軍を全くせんとの智謀、叡慮にてはなく、ただ無弐の戦士を大軍に充てられんとばかりの仰せなれば、討ち死にせよとの勅定ござんなれ。義を重んじ。死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」(第3分冊、63ページ、これは敬語が使われていないので、正成の心の中の言葉と考えるべきである:この上は、むやみに異論を申し上げることはない。そうはいっても、一方では恐れが残る。大敵を策をもって懲らしめ、勝利を確実なものにするという謀は、天皇のお考えには無く、ひとえに忠義無類の武士を大敵に向かわせようとの仰せなので、つまるところは戦死せよという勅命であろう。義を重んじ、死を顧みないのは忠臣勇士の本懐とするところだ」と述べて、その日のうちに正成は500余騎の兵を率いて都を発ち、兵庫へと向かっていった。
 この言葉には一方でこれまで自分を引き立ててくれた天皇に対する恩義に報いようという気持ちと、その気持ちから発する自分の勝利のための戦術が用いられないこと、公卿たちの机上の空論に基づく自分への出動命令の思慮のなさに対しての怒りが交錯している。お公家さんたちの空理空論に死をもって抗議しようというのである。正成が戦死してしまえば(事実そのとおりになるのだが)、お公家さんたちは再び比叡山に逃れることになる。(だから初めから逃れておけばよかったと思っても後の祭りである。) 自分の将来についての割り切った気持ちと、朝廷や世の中の将来についての複雑な気持ちの両方が交錯する中で、正成は兵庫に向かう。

『太平記』(157)

5月7日(日)薄曇り

 建武3年(1336)春、いったんは京都を去って比叡山に本拠を置いていた後醍醐天皇方は、京都を占拠していた足利方に勝利したが、宮方の総帥であった新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した〔これは『太平記』にだけ記されていることで、歴史的事実とは言えないようである〕。その間、赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が円心の立て籠もっていた白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ城の防備を固めてしまう。白旗城包囲に時間をかけすぎると、足利方の反攻を許すことになるとの献策を受けて、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく播磨と備前の境の船坂峠に向かい、この動きに呼応して備前では和田(児島)高徳が挙兵した。
 京都、さらに近畿地方を追われて、九州に落ち延びていた足利尊氏・直義兄弟は九州の大半の武士を味方につけることに成功、京都での大敗の経験から上洛をためらっていたが、赤松円心からの使いの進めもあって4月の末に大宰府を発ち、中国地方に兵を進め、安芸の厳島明神に参篭した。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた〔『梅松論』には、尊氏が九州に落ち延びていく途中、備後の鞆の浦で院宣を受け取ったと記されている。おそらくこちらの方が歴史的事実に近いと思われる]。備後の鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は水陸の敵が一か所に集まるところで一戦交えようと、摂津兵庫を目指して退却した。

 そうこうするうちに新田義貞は備前、美作の味方の軍勢が合流してくるのを待ち受けようと、賀古川(加古川、兵庫県加古川市を流れる川)の西にある丘に陣を取り、ここに2日間滞在した。
 ちょうど梅雨の季節であったので、降り続く雨のため川が増水していた。そこで、あとから敵が追いかけてくることもあろうから、総大将をはじめ、主だった武将たちは船で向こう岸へ渡るべきだと人々が口々に進めたのだが、義貞は「なんの恐れることがあろうか。渡らないうちに敵が攻めてくれば、退路が立たれてしまっているので、決死の戦いを行うのに都合がよい。むかし、漢の高祖の家臣である韓信が、川を背にして趙の軍勢と決死の戦いをしたという故事の教訓はこれである。軍勢を渡し終わってから、義貞が後から渡るのに、何の不都合があろうか」と、まず戦いで馬が弱った軍勢、負傷者などを順々に渡河させた。

 そのうちに、一晩で水量が落ち、おりよく備前や美作の軍勢が集まってきたので、馬をいかだのように並べ泳がせて川を渡り、6万余騎が、同時に川を渡ったのであった。ここまでは義貞の率いる軍勢は10万余騎を数えていたのだが、尊氏・直義兄弟が上洛の兵を起こしたと聞いて、臆病風に吹かれたのであろうか、いつの間にか兵の数は減っていた。義貞が兵庫(神戸市兵庫区の辺り)に到着した時に、従っている兵はわずかに2万騎にも満たなかった。

 尊氏と直義兄弟が、大軍を率いて上洛を目指しているので、要害の地でこれを防ぎ戦おうと兵庫まで退却したという次第を、義貞が早馬を走らせて都へと知らせたので、後醍醐天皇は大いに慌てられて、楠正成を召され、「急ぎ兵庫へ罷り下り、義貞に力を合はすべし」(第3分冊、63ページ)とお申しつけになった。
 正成はかしこまって次のように申し上げた。「尊氏卿が、九州の軍勢を率いて上洛されてくるというのであれば、定めて雲霞のごとき大軍であるでしょう。味方のわずかでしかも疲れた軍勢をもって、敵の勢いづいた大軍と戦って、普通に戦ったならば、味方はきっと負けてしまうと思います。
 ああ、新田殿も京都に呼び戻されて、以前のように比叡山延暦寺に御臨幸あそばしませ。正成も(自分の本拠である)河内に馳せ下って、畿内の兵を集め、淀の大渡あたりの川の流れをせき止め、北と南の両方から(足利勢に奪われた)京都を攻め、(敵の補給路を断って)兵糧を欠乏させていけば、敵は次第にその数を減らし、味方は次第に多くなっていくのではないでしょうか。その時に、新田殿は比叡山から攻め寄せ、正成が搦め手の河内・摂津の方角から攻めていけば、朝敵を一戦で滅ぼすことが出来ようかと存じます。
 新田殿もきっとこの作戦をお考えでしょうが、(せっかく兵を進めてきたのに)遠征中に一戦もしないのはひどくふがいないと、人が噂をするのを恥じて、兵庫の辺で応戦されるのだと思われます。合戦はただ、とにもかくにも最終的な勝利こそ大事なのですから、遠い先のことまでのご思慮をよくよくお考えになり、結論をだされるべきだと思います。」
 天皇は「誠にも謂(い)はれあり」(第3分冊、62ページ)とお考えになり、公卿たちを集めて協議させたのである。

 大軍と正面から戦うのではなく、退却してゲリラ戦で相手を消耗させようという正成の戦術はローマ史に名高いクィントゥス・ファビウス・マクシムスがカルタゴの勇将ハンニバルと戦った際の戦術を思い起こさせる。正成がいうように、義貞も敵を京都に迎え入れておいて、ゲリラ戦で苦しめようという作戦を最善のものと考えていたかどうかは、この2人の武将の気質を考えると疑問である。現実主義者の正成にくらべて、武将としての意地にかけても兵庫で一戦交えようと考える義貞は、良くも悪くも伝統的な考えにこだわっているように思われる。(義貞は剛勇に加えて人間味に溢れた武将であるが、変な意地を張るところがあって、そこが欠点である。)

 なお、『梅松論』には、尊氏・直義が九州に落ち延びた時に、宮方の人々が喜ぶ中で、正成が「義貞を誅罰せられて尊氏卿を召かへされて。君臣和睦候へかし。御使にをいては正成仕らむ」(群書類従、第20輯、197ページ)と申し上げたので、周囲の人が驚きあきれていると、諸国の武士たちが心から尊氏に従い、その命令を実行しようとしているのは無視できないと述べたと記されている。正成がその時点、その時点で最善の策を考える武将であったことが推測できる。

 『梅松論』が出たついでに言うと、この書物で尊氏に持明院統の院宣をもらって自分たちの大義名分を得ることを献策するのは赤松円心である。(『太平記』では尊氏が自分の知恵でそうしたことになっている。) 『太平記』『梅松論』の記述を通じて、円心は非常に先を読む力のある、構想力のある武将として描かれている(正成と違って、その点があまり神秘化されて描かれていないので、余計すごみがある)。護良親王を不遇時代から助け、六波羅の軍勢といち早く戦ったのは彼であり、彼を敵に回したのは後醍醐天皇にとっての不運、逆に味方につけたのは足利尊氏にとっては大きな幸運であった。それもこれも、自分にとっては耳に痛い忠言でも聞き入れる度量があるか無いかの違いが出ているのかもしれない。

 正成は宮方がいったん京都を捨てて退却し、ゲリラ戦、持久戦に持ち込んで情勢を逆転させることを進言する。「悪党」出身の武士であった正成にとっては当然の行動であろうが、ぜいたくに遊び暮らしているお公家さんたちにとってはつらい選択になる。さて、どうなるか。 

『太平記』(156)

5月1日(月)晴れのち曇り、一時雨

 建武3年(1336)春、足利方に追われて比叡山に落ち延びていた後醍醐方は北畠顕家率いる奥羽・関東の軍勢の来援もあり、京都を奪回する。足利尊氏・直義兄弟は少弐氏をはじめとする九州の豪族たちを頼りにして西に落ち延びていくが、新田義貞は、勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で播磨の赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って城の防備を固めてしまう。白旗城の攻囲戦に手間取った義貞は、他の中国勢を早く味方につけようと播磨と備前の国境にある船坂峠へ向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。
 九州の武士たちのほとんどを味方につけた足利尊氏は、京都での敗北の経験から上洛を躊躇していたが、赤松円心からの使者の勧めで、4月末に大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭した。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。

 新田一族の大井田氏経は2千余騎の軍勢を率いて、備中の国の福山(岡山県総社市南部にあった山城)に進出して、この城に立て籠もっていたが、足利勢が登場するという情報を得て、この城はまだ十分に防備を整えていないのに、大勢の敵を迎えて防ぎこらえることはできる相談であるとは思えないという声があったのを、対象の大井田はしばらく思案して、「勝負は時の習い、時の運によるといっても、味方は小勢、敵は大勢で勝てる可能性は戦に一つもないだろう。とはいうものの、国を超え、都から遠く離れて、足利軍が上洛してくるのを防ごうというのでやってきた者達が、敵が大勢だからといって、噂を聞いただけで逃げることなどできるものではない。我々は前世における同じ業により現世で同じ報いを受けることになっていて、それがここで皆戦死するということではなかろうか。死を軽んじ名を重んじるものをこそ立派な人間というのである。おのおの方も討ち死にして、有名を子孫に残そうという覚悟を決めてほしいと部下たちを諫めたので、宇津宮氏配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団の武士たちをはじめとして、大井田に従っていた兵のすべてがそのとおりであると承諾して、討ち死にをひたすら覚悟したので、かえって今は心中さわやかに感じられた。

 そうこうするうちに、5月15日の宵から、足利直義が20万騎で勢山(倉敷市真備町の妹山)を越え、福山の麓4,5里の間に少しの土地も余さず、びっしりと立て込んで陣を取り、大篝火をたかせた。これだけの大軍の勢いを見せつけられれば、どんな鬼神でも、今夜のうちに城を捨てて落ちのびていかないということがあろうかと思われた。ところが福山城内では篝火をたき続けており、退却せずに踏みとどまっている様子なので、夜が明けるとすぐに、まず備中、備後の軍勢が3千余騎で押し寄せ、浅原峠(福山の南、総社市と倉敷市の間の峠)から攻撃をしかけた。この時まで、城中は鳴りを静めて音もたてない。さては、もう逃げだしたかと喜んで、鬨の声を上げると、城中は依然として音を立てない。「やはり敵は逃げたのだ」と喚声を上げて、城壁のように切り立たせた崖のすぐそばに千数男うとすると争って進むところに、城中の東西の上策の門に、太鼓を鳴らし、ただ一度だけ鬨の声を上げる。寄せ手の大軍はこれを聞いて、「新田の一族が大将になって立てこもっている城であるから、籠もっている軍勢が小勢だからというので、大軍の襲来の知らせを聞いただけで恐れて逃げ出すことはまさかしないだろうと思ったが、果たして、まだ場内に踏みとどまっているぞ。敵を小勢と侮って手始めの合戦を仕損じるな。四方を取り囲んで同時にせ御代と、諸国のぐ寧が城の四方のそれぞれ一方を受け持って、谷や峰一つ一つから道を探して攻め上ってくる。

 城内の兵は、すでに覚悟を決めて待っていたことなので、敵の大軍に囲まれても、少しも騒がず、ここかしこの木陰に、盾をつきならべて防御のための覆いとして、矢種を惜しまず散々に射かけてくる。寄せ手は稲や麻、竹や葦が群生するように隙間もなく立ち並んでいたので、射損じた矢は一本もないという様子である。寄せ手の方では敵に矢種を尽くさせようと、わざと矢を射かけないでいた。ここまで城の兵は、まだ一人も負傷したものがいない。それを見た大井田氏経は、まだ勢力が残っているうちに、これから突撃を試み、足利直義の人を一散らし懸け破ろう」と、500騎ほどの歩兵を残し、元気のいい馬に乗っている兵千四騎を率い、木戸を開かせ、逆茂木を取り除いて、北の方の山の尾根が下がってっくる先端からわめきながら駆け出してきた。この方面を責めていた寄せ手は、この勢いに押されて谷底に重なって落ちていったのである。

 大将である氏経は自分たちの近くにいる敵には目もくれず、東の離れ尾(周囲の山から孤立した山の尾根)に二引両の足利氏の紋を染め抜いた旗が見えるのは、直義の陣営だと思われる。真ん中に突っ込んで、直接に勝負を決しよう」といって、馬を懸け入らせ、長時間戦った。ところが直義になかなか出会うことができず、あれもこれも直義ではなかったと、大勢の中を駆け抜けて、はるかに後ろを振り返ると、敵は既に城を攻め落としたと見えて、櫓や掻楯(かいだて、垣根のように並べた楯)が放火されて燃えている。大井田氏経は部下の兵たちを集合させて、今日の合戦は、今はこれまでである。さあ、敵の包囲の一方を打ち破って、備前に帰り、播磨、三石の軍勢とお合流しよう」といい、板倉の橋(岡山市高松の辺りを流れていた川にかかる橋)を渡り、東の方へと落ちのびようとした。足利方はそうはさせじと2千騎、3千騎で、ここかしこの道をふさぎ、討ち果たそうとする。大井田配下の残っていた400余騎の兵たちは、これはもう逃れられないと覚悟を決めていたので、近づく敵に中に割って入り、十文字にかけ散らして、板倉川の橋から唐河の宿(岡山市北区辛川)まで、16度までも戦闘を繰り返した。ところが、思っていたほど宮方の武士で戦死するものは少なく、大将の氏経も無事で、虎口の死を逃れ、5月18日の早朝に、三石の宿に到着した。

 足利直義は、新田軍の先鋒である大井田が立て籠もっていた福山の城を攻略し、大井田を敗走させたので、事始吉しと大いに喜んだ。その日は1日、唐河の宿に逗留し、首実験を行ったが、生け捕り、討ち死にの首、1353人と記録された。(福山に立て籠もっていたのは2千余騎であり、400騎足らずが激戦を生き延びたということだから、数百人が行方不明になっている。) 直義は備中の一の宮である吉備津神社に参詣しようとしたが、戦の最中でもあり、死の穢れに触れることを憚って、祈願の文書だけを納めたのであった。そして次の日、唐河の宿を発ったが、兄である尊氏も船を進めて、順風に恵まれて東へと進んだのである。

 5月18日の夜になって、三石城を包囲していた脇屋義助が、兄である新田義貞に使いを送り、福山の合戦の次第を詳しく手紙で知らせた。義貞は「合戦の様子は立派であった。白旗、三石、菩提寺の城、どれもまだ攻め落とせないでいたところに、尊氏と直義が大軍を率いて船路と陸路から心を合わせて攻め上ってくるということである。水陸の敵に攻められることは疑いない。ここはすぐに中国地方での合戦を放棄して、摂津国辺に退却し、水陸の敵を一か所で待ち受け、京都を背後にして合戦すべきである。そちらからも急いで山里(やまのさと。兵庫県赤穂郡上郡町山野里)あたりに向かい、そこで合流しよう。美作に派遣した軍勢にもこの旨を伝達するつもりである」との返書を送った。

 こうして、5月18日夜半に、宮方の兵士は、皆三石の包囲を解いて、船坂峠を退却していった。三石城中の軍勢は、この機会を利用して、船坂峠に進出し、道をふさいで散々に射かける。
 月曇り、暗い山道で、前後もはっきりと見えないために、父親が倒れても子は気づかず、逆に子が倒れても父は振り向かないといった様子で、とにかく一足でも前に進もうとしていたのだが、九州の宮方の一族菊池の家来で原源五、源六という名高い剛勇の武士がいて、隊列の後ろにわざと残って、味方を落ち延びさせようと防ぎ矢を射かけた。しかし矢がなくなってしまったので、太刀の鞘を外して、菊池殿の家来の中で原源五、源六という剛勇のものが討ち死にするぞ。仲間がいるなら引き返せと大声で呼びかけた。彼らの仲間である菊池の若党がこれを聞いて、はるか先に落ち延びていたのだが、「俺はここにいるぞ」、「わしもここにいるぞ」と名乗って、戻ってきては戦い、戻ってきては戦ったので、三石城からやってきた足利方の武士たちも、さすがに近づくことはできずに、ただ他の峰に立ち並んで、鬨の声をつくるだけであった。その間に宮方の兵は、一人も戦死することなく、明け方には、山の里に到着したという話である。

 東上してきた足利軍が、新田軍の先鋒が立て籠もる備中福山城を陥落させ、新田軍は備中はもとより備前、美作、さらに播磨からも兵を撤退させた。新田義貞の作戦は摂津で足利軍の水陸からの攻撃に対処しようとするものである。(現在の神戸市の辺りは、山が海に迫っているので、大軍を迎え撃つのには適しているということであろう。)このような判断のもとになっているのは両軍の兵力の違いである。中先代の乱以後の尊氏と義貞の戦いをずっと見てきても、尊氏の方が兵力において勝っており、それを宮方が知略や武勇で打ち負かすという事例が多かった。義貞は宮方の長所を知りながらも、それがいつまでも効果をもち続けるとは思われないと慎重になっているのかもしれない。
 今回描かれたところでは、全体として足利方が優勢な展開であるが、『太平記』の作者が宮方の武士たちの知略や武勇を好んで語っているというのが、以上に述べたこととどのように関連するのか、興味深いところである。
 

『太平記』(155)

4月23日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、大将の新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機会を逃した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明らが赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、その間に城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているままに、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく船坂峠に向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。宮方の軍は船坂峠の足利方を破り、江田行義は美作に侵入、脇屋義助は三石城を包囲、大井田氏経は備中に進出して福山城(岡山県総社市)に陣を構えた。

 そうこうするうちに九州に落ち延びていた足利尊氏は、多々良浜の合戦で奇蹟的な勝利を収めたのち、九州の武士たちが一人残らず味方に付き従うようになって大変な勢いである。〔もちろん、菊池氏のように宮方の武士はいるのだが、物語としての修辞上の綾でこのように書いているのである。〕その一方で、中国地方では宮方の勢力が強く、上洛の道を阻んでおり、東国の武士たちは宮方に心を寄せるものが多くて、尊氏の味方は少なかったので、安易に上洛を図るのは上策ではないと、正月の京合戦の経験から怖気随ていたので、将兵たちはあえて上洛しようという元気はなかった。

 そこへ、赤松円心の三男の則祐律師と、赤松一族の得平秀光が播州から筑紫に急ぎやってきて、「京都からやってきた敵軍が、備前、備中、美作に充満しておりますが、そのすべてが城を攻めあぐねて、気力を失い兵糧も尽きて着た頃ですので、大勢で上洛なされば、ひとたまりもなく自分たちを支えることはできないと思われます。もし京都に向けての出発が遅れ、その間に白旗城が攻め落とされてしまいますと、そのほかの城も宮方の攻勢をこらえることはできないでしょう。中国地方の4か所の要害(名義能山2か所と菩提寺と三石城の合計4か所)が敵の城になってしまいますと、味方が何十万の軍勢であっても、上洛されることは不可能になると思います。むかし趙の都邯鄲が秦の始皇帝の大軍に囲まれ、落城寸前のところを、魯仲連の策と楚や魏の救援で切り抜けたという例、また楚の項羽が秦の将軍章邯と戦った折に、黄河を渡河してから船を沈め、釜や甑(=蒸し器)を焼いて、兵士に退路がないことを示して決死の戦闘を促した故事に類する、決死の戦いをなすべき場面ではないでしょうか。天下をとるかどうかは、ただこの一戦にかかると思われます」と言葉を尽くして言上すると、尊氏もその通りに違いないと思い、4月26日に大宰府を進発、28日に追い風を得て船を進め、5月1日に安芸の厳島神社に船を寄せて、3日の間参篭したのであった。〔則祐と秀光の言葉の前半は、彼らの事実認識を述べていて、おそらくはこれに類することを発言したのであろうが、中国の故事については『太平記』の作者が自分の学のあるところを見せようと、勝手に付け加えたのではないかと思う。とは言うものの、あまり適切な例だとは思えない。〕

 その結願の日に、京都の醍醐寺の三宝院の賢俊僧正が京都から駆けつけて、持明院殿(『太平記』の作者は後伏見院としているが、史実としては光厳院)の院宣を尊氏に下した。この賢俊僧正というのは日野家の出身で、第15巻で尊氏が京都から落ち延びていく際に側にいた薬師丸(→道友)に日野中納言(日野資明)を通じて、院宣を得るように取り計らえと申しつけたその資明の弟である。尊氏は、院宣を拝見して、箱と蓋とがぴったり合うように念願がたちどころに的中したと喜んだのであった。後伏見院(法皇)は3月6日に崩御されていたのであるが、それ以前に下された院宣である。〔既に書いたように、実際には後伏見院の子である光厳院が下されたものである。この時代、天皇の在位期間は短く、その結果として複数の上皇がいらっしゃるのがふつうで、その中で政務をとられる上皇を治天の君と呼んでいた。後醍醐天皇のように天皇として在位したまま、政務をとられるというのはかなり例外的なやり方であった。〕

 尊氏は、厳島神社への奉幣を終えて、5月4日、厳島を出発、九州の軍勢に加えて、射よ、讃岐、安芸、周防、長門の武士たちが、500余艘の船を並べて軍勢に加わった。さらに7日に、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に到着すると、備後、備中、出雲、石見、伯耆の軍勢が、6,000余騎ではせ参じた。そのほか、諸国の武士たちが、招いていないのに集まって来るし、攻撃しなくても帰順するということで、止めるものがないような勢いでの進撃である。

 新田義貞は、備前、備中、播磨、美作に軍勢を分けて、それぞれの国の城を攻撃しているという情報が伝わってきていたので、尊氏は鞆の浦で陸路と水路に軍勢を分けた。陸路を進むのは足利直義を大将とする20万6千余騎の軍勢であり、尊氏は、足利一族の吉良、石塔、仁木、細川、荒川、斯波、吉見、渋川、桃井、畠山、山名、一色、加子(かこ)、岩松らをはじめとして40余人、足利氏の譜代の家臣である高の一党が50余人、尊氏・直義の外戚である上杉の一類が39人、外様の土岐、佐々木、赤松、千葉、宇都宮、小田、佐竹、小山、結城の一党、さらに三浦、河越、大友、厚東、菊池、大内ら160人、これらの棟梁の率いる軍勢が7560余艘の船に乗り込み、中でも将軍の御座船をはじめとする30艘は巨大な船であった。それらが思い思いに纜を解き、小さな船をつなぎとめて、帆を挙げ、船のヘリがこすれあうほどぎっしりと並んで、東へと向かったのである。〔足利一族として列挙されているうち、吉見は以前にも書いたが、頼朝の弟範頼の子孫、山名は足利一族ではなくて新田一族である。一方で、土岐と佐竹は足利氏と同じ清和源氏であるが、外様とされている。〕

 15日に、備後の鞆を出発したのであるが、その際に不思議なことがあった。尊氏は、館の中でしばしまどろんでいたのだが、その夢に南方から光きらめいた観音菩薩が飛来されて、船の先端にお立ちになっただけでなく、観音菩薩に従い行者を守護する28全身が、それぞれ武装した姿で菩薩をお守りしている様子である。尊氏は夢が覚めたのちに、これは菩薩の加護を得て、戦に勝つという瑞祥の夢であると思い、杉原紙を短冊の形に切って、自筆で大悲観世音菩薩と書き、船の帆柱ごとにそれを押しつけた。このように順風を得て、海路を行く尊氏の軍勢は備前の吹上(岡山県倉敷市下津井吹上)に、また陸路を行く直義の軍勢は備中の草壁庄(小田郡矢掛町)に到着した。

 九州で勢力を回復した尊氏・直義兄弟の反撃が始まろうとしている。ここで重要なのは尊氏が自らの軍事行動を正当化するために持明院統の上皇から院宣を得ていること、その仲介者が賢俊僧正であったことである。最近出版された森茂暁『足利尊氏』によると院宣を得たのは2月15日ごろのことだというから、『太平記』は必ずしも歴史的事実をそのまま書いているわけではない。また、院宣によって自らの行動の正当性を主張するというのは、『太平記』では尊氏自身の思い付きとなっているが、『梅松論』では赤松円心の入れ知恵とされているそうである。『太平記』は歴史そのままを書いているわけではないが、赤松円心・則祐や賢俊僧正を要所で登場させることで、これらの人々が果たした役割を物語っているということは言えそうである。
 尊氏・直義兄弟の東上に中国地方を攻略中の新田義貞とその軍勢はどのように対処しようとするか、というのはまた次回。

『太平記』(154)

4月16日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、初戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って城の防備を固めてしまう。義貞は中国勢を味方につけるべく船坂峠へ向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。船坂峠、三石城にいた足利方は、その兵を割いて熊山に向かわせるが、撃退される。

 児島高徳らと打ち合わせて攻撃をかける日になったので、義貞の弟である脇屋義助を大将として、船坂峠の東の麓にある梨原(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原)まで進み、2万余騎を3手に分けた。一方の軍勢は、江田行義を大将として3,000余騎が杉坂へ向かう。杉坂というのは兵庫県佐用郡佐用町から岡山県美作市へ至る杉坂峠のことで、山陰道の要所である。この地方の菅原氏の一族の武士たちが守っているのを追い散らして、美作の国へと進むためである。もう一手は、新田一族の大井田氏経を大将として、菊池、宇都宮の武威たち5,000余騎を、船坂へと差し向けた。これは敵を遮りとどめて、この後で言及する搦め手の軍勢をひそかに敵の背後へと回すためである。最後に残った一帯は、この土地の地理に詳しい伊東大和守を案内者として、頓宮六郎、畑六郎左衛門尉、播磨国司の代官である少納言房範猷、新田の家来である由良新左衛門尉、小寺六郎、三津山城権守以下、わざと小勢を選りすぐって、300余騎を差し向けた。この部隊は馬の轡の手綱を結びつける部分である七寸に紙を通して馬の舌を抑え、嘶かないようにしていた。この兵たちが進んだのは三石の南の鹿が通る道である。〔できるだけ隠密裏に敵の背後をつこうという計略である。〕 足利方はこの道のことを知らなかったのであろうか、堀を掘ったり、逆茂木をおいたりして、敵の侵入を防ぐ手立てを講じていなかった。道の左右の木が生い茂って枝が邪魔であったが、そういうところでは馬を降りて徒歩で進んだりして、約6時間をかけて三石の宿の西へ出て姿を現した。〔三石の宿は船坂峠の西にある。前後の関係からすると、東の方に出る方が合理的なのだが、あるいは宿のさらに西側に城があったということであろうか。] 三石城にいたものも、はるか船坂峠から見下ろしていたものも、思いがけないところから軍勢が現われたので、熊山を攻撃していた軍勢が帰ってきたのだと思って、特に驚きはしなかった。

 300余騎の兵は、三石の宿の東の方の小社の前で小休止して、新田の中黒の旗を掲げ、東西の宿に火をかけ、鬨の声を上げた。三石城では、城内の軍勢の大半を船坂に差し向け、残っていた兵のかなりの部分が熊山に派遣されていたので、残っていた兵は少なく、戦意が低いうえに、防ぐ手立ても思いつかない。〔宮方の搦め手の兵300余騎は、三石城ではなく、船坂の攻撃に向かう。] 船坂を守っていた兵たちは、前後を敵に囲まれて、何もできない様子であり、馬、物の具を捨てて、城に続いている山の上に逃げ登ろうと騒いでいる。これを見て大手、搦め手の兵が厳しく攻撃を続けたので、逃げ場がなくなった足利方の兵たちは、あちこちに行き詰まって、自害をするものが100余人、生け捕りにされるものが50余人という有様であった。

 備前国一の宮である吉備津彦神社の神主で、国司の庁に在勤する役人でもあった大藤内美濃権守佐重というものがいて、彼もまた逃げ場を失って、切腹しようとしたのであるが、ふと思いついたことがあって、脱ぎ捨てた鎧をまた身につけて、乗り捨てていた馬に飛び乗って、向かってくる敵のなかを押し分け押し分け、播磨の国の方へと向かっていった。船坂峠を越えてやってくる大勢の兵たちは、お前は何者かと尋ねてきたので、自分は搦め手の案内者をつとめたものであるが、合戦の様子を新田殿に詳しく申し伝えるために、早馬で急いでいるのですと答えた。それで行合う数千騎の兵たちは、どうぞどうぞと道を譲って彼を通したのである。佐重は、総大将の侍所(軍奉行)であった長浜の前に跪いて、備前の国の住人、大藤内佐重が三石の城から降伏しにやってきましたと言ったので、総大将は神妙なりとこれを褒めて、軍勢の来着を記す名簿である着到に記載させた。佐重は、たくさんの敵を出し抜いて、その日限りだと思われた命を助けることができたのである。これもしばしの間の智謀だと、後になってほめそやされたのであった。

 このようにして要衝である船坂が破れたので、江田行義は3,000余騎を率いて美作国へと入り、奈義能山にある2か所の城、菩提寺城、合わせて3か所の城を包囲し、脇屋義助は5,000余騎で三石の城を攻撃、大井田氏経は2,000余騎を率いて備中の国に入り、福山の城(岡山県総社市南部にあった山城)に陣を構えた。

 宮方は、中国地方にいる味方の武士の援助を得て、要衝である船坂峠を突破して美作、備中まで進出した。もともと動員できる武士の数では劣勢なので、できるだけ味方を増やしたいのであろうが、戦線を延長していくのは必ずしも好ましいことではない。播磨では赤松円心が白旗城に立て籠もっていることも忘れてはならない。『太平記』の作者は大藤内佐重の「暫時の智謀」を記録しているが、同じようなことをして、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている武士はほかにも少なからずいたのではないかと思われる。次回は九州で勢力を養った足利尊氏・直義兄弟がいよいよ中国地方に反撃の手を伸ばす様子を取り上げることになる。
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