『太平記』(145)

2月12日(日)晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は京都の西郊まで追い立てられて、3度も切腹の準備をしたが、細川定禅の活躍で事なきを得た。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。そして楠正成の謀で、いったん都から撤退した。足利方を油断させて徹底的な打撃を与えようというのである。そうとは知らず、宮方の軍が撤退したので、敗走していた足利方は、また都に戻った。

 比叡山に戻った楠正成は、次の朝に、2,3人のものを選んで律僧の姿にさせ、京都へと送り込んだ。この当時、律宗の僧は、時衆の僧と同様に、葬礼に従事していたのである。律宗の僧に成りすました者達は、ここかしこの戦場で、死骸を探し回った。足利勢の武士たちが怪しんで、その理由を尋ねると、僧たちは、悲しみの涙を抑えながら、昨日の合戦で、新田義貞様、北畠中納言様、楠正成様以下、宮方の主な大将が7人も戦死されたので、供養のためにその死骸を探しているのですと答えた。
 足利尊氏をはじめ、足利家の執事である高家、外戚である上杉家の人々は、これを聞いて、「どうも不思議な話だ。敵の主だった大将たちが一度に戦死してしまったとは。それだからこそ、勝ち戦であったのに、宮方の兵たちは都から撤退したのだな。大将たちの首はどこかにあるだろう。探し出して獄門にかけ、都大路でさらし者にしよう」と、敵味方の死骸を探し回ったが、それと思しき首は見つからない〔もともと、戦死したというのが嘘だから、見つかるはずはないのである〕。
 そこで、何とか首がほしいと思うのあまり、少しばかり似ていると思われる首を2つ、獄門の木にかけて、新田義貞、楠正成とそのそばに書き付けた。京都には憎らしい皮肉屋が何人もいたのだが、そのうちの誰であろうか、これを見て、その札のそばに「これはにた頸なり。正成にも書きたる虚事(そらごと)かな」(第2分冊、472ページ、これは新田義貞に似た首である。正しげ(本当らしく)書いた嘘である」と秀句(たくみな洒落の句)を書き付けたのであった。

 さらに楠は、同じ日の夜半ばかりに、従者たちにたいまつを2千か3千ほど灯させて、大原、鞍馬の方に向かわせた。京都からもその様子が見えて、どうやら比叡山の敵は、大将が戦死したので、今夜みなあちこちに落ち延びていくらしいと判断して、将軍にその旨を報告する。尊氏もその通りだと思ったのであろうか、それであれば敵の兵たちが落ちのびないように、方々に軍勢を向かわせろと命じる。そこで、鞍馬路に3千余騎、大原に5千余騎、勢田へ1万騎、宇治は3千余騎、右京の嵯峨、仁和寺の方面までも敵を討ち漏らさないように千騎、二千騎と兵を派遣して、兵力が派遣されていない方面はないほどに分散して配置した。ということで、京都市内に残っている兵力は大きく減り、残っている兵たちもそれほど用心をしてはいない様子であった。

 そうこうしている間に、宮方の兵たちは、明け方から比叡山から修学院の方角に向かう西坂を下りて、八瀬、藪里(左京区一乗寺の辺り)、鷺森(左京区修学院の鷺森神社)、下松(左京区一乗寺下り松町)に陣を取り、大将たちが皆一手に固まって、30日の卯の刻(午前6時ごろ)に二条河原に押し寄せて、あちこちに火をかけて、鬨の声をあげた。
 京都市内に残っていた兵たちはこの襲撃に慌てふためいた。もともと全軍がそろっていた時でさえ、劣勢になって退却させられた宮方の軍の来襲である。しかも、味方の軍勢のかなりの部分を各方面に分遣して、兵力は手薄になっている。敵が攻めて来るとは夢にも思っていなかったので、その狼狽ぶりは普通以上のものである。西北の丹波路の方角をめがけて逃げていくものもあり、あるいは西南の山崎方面に逃げるものもいた。中にはただ生き延びようという気持ちだけで、頭を丸めて僧侶の姿になる者もいた。宮方の軍は深追いを避けたのだが、後ろについて逃げてきている味方の軍を敵が追いかけているものと錯覚して桂川とその周辺でもはやこれまでと自害してしまったもの数知れず。それだけではない、乗り捨てられた馬があちこち走り回り、脱ぎ捨てられた鎧・兜などの武具が散乱して足の踏み場もない。

 足利尊氏は、その日、3年前に反鎌倉幕府の挙兵をした丹波の篠村を過ぎて、曾地(兵庫県篠山市曾地)の内藤三郎左衛門入道道勝の館に落ち着いた。その一方、細川定禅の率いる四国の武士たちは、山崎を過ぎて、摂津の芥川(大阪府高槻市芥川町)に到着した。
 親子兄弟、骨肉主従、互いにどこへ逃げたかを知らずに落ちのびてきたので、戦死したものを生きているかもしれないと期待をつなぎ、生きているものを戦死してしまったのだろうと嘆き悲しむ。とはいえ、将軍(足利尊氏)は無事でいて、追分の宿(京都府亀岡市追分町)を通過されたというはっきりとした情報が伝わってきたので、兵庫港川(神戸市兵庫区湊川町)に落ち延びていた軍勢の中から、急いで摂津の国に起こしください。軍勢を再結集して、やがて京都に攻め上ることにしましょうと連絡をしたので、2月2日、尊氏は曾地を発ち、摂津の国に向かったのであった。

 丹波から摂津に向かおうとするとき、尊氏は随行していた薬師丸という童子(のちに道有と名乗り、熊野山の別当となる)に次のように密命を下した。「今度の京都の合戦で、味方が戦うたびに敗北したのは、戦い方が拙かったからではない。よくよく事の核心を考えてみると、尊氏が朝敵であるということのために、味方の士気が奮い立たなかったのが原因である。それで、何とかして(もともと武家方に心を寄せられている持明院統の)光厳院様から院宣を頂いて、この戦いを大覚寺統と持明院統の帝と帝の戦いと名分を改め、合戦をしようと思う。貴殿(薬師丸)は日野中納言殿(日野資明)の顔見知りであるということなので、これから京都に帰って、(日野中納言を通じて)光厳院の院宣を頂くように取り計らってほしい」というのである。薬師丸は承諾して、三草山(兵庫県加東市)から尊氏一行と別れ、ただちに都に戻っていく。

 楠正成の計略に見事に引っかかって大敗を喫する足利方の軍勢の無様な姿が滑稽に描かれている。とくに偽首の話がおかしい。正成の偽情報を信じてしまったのは不覚というよりほかない。信じたいという願望が働いたのかもしれない。今度は、足利方は都から全面的に撤退を余儀なくされる。
 しかし、尊氏もやられっぱなしではない。自軍の敗因を冷静に分析して、持明院統の皇族・貴族たちと同盟し、再起を図ろうと次の手を打っている。(本来ならば、都を占領した時に持明院統の皇族と接触したかったのは、14巻19に語られているが、この時は持明院統の皇族とその側近の貴族はすべて比叡山に上ってしまっていたのである。) 今回足利方の敗北により、比叡山から皇族・貴族がまた都に戻ってきたので、かえって尊氏に好機が訪れたともいえる。建武2年(1335)に西園寺公宗の陰謀が失敗し、中先代の乱も鎮圧されたので、鎌倉幕府寄りであった持明院方は、新しい同盟者を探していた。しかも尊氏が接触を図っているのはこの派の一番の切れ者といってよい日野(柳原)資明である。これまでのところ、戦局は宮方有利で推移しているが、新しい動きが芽生え始めている。

『太平記』(144)

2月5日(日)曇りのち雨

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するために、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は中国・四国の軍勢を率いて三井寺に入っていた細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は窮地に追い詰められたが、細川定禅の活躍で事なきを得て、再び都を占領した。20日、尊氏・直義追討のため関東に向かっていた宮方の搦め手の軍勢が引き返して、東坂本の宮方の軍勢に合流した。宮方は27日に、再度京都への攻撃を開始し、吉田神楽岡に築かれていた足利方の城砦を攻め落とした。

 その一方で結城宗広、楠正成、名和長年ら3,000余騎は比叡山の西の麓から都へと進んでいたが、高野川と賀茂川の合流点付近で火を放った(この軍勢は高野川沿いに下ってきたと思われる。このあたり、岩波文庫版の脚注はどうもすっきりした記述になっていない)。尊氏はこれを見て、神楽岡の城砦を攻め落とした山法師たちが、今度は糺の森付近にいると思われる。山法師ならば(歩兵中心なので)騎馬の軍勢で追い散らすのは簡単である。急いでやっつけて来いと、上杉重能、畠山国清、斯波高経らの武将に5万余騎の軍勢を率いさせて差し向ける。〔ここでも尊氏は敵の軍勢の正体を見誤っている。〕
 楠は並ぶもののない勇気の持ち主であった上に、智謀第一という武将であったから一枚板の軽便な楯を500~600畳(楯は、畳と同じように数えるらしい)こしらえさせて、その板の端に留め金と掛け金をつけ、敵が攻めてきたときはこの楯を並べて、その隙間から矢を射かけ、敵が後退すると、きわめて強い騎馬武者たちに後を追わせる。足利方は進むことができず、5万の軍勢がわずか800騎の楠勢に追いまくられて五条河原まで後退してしまった。[楠の武勇と知略に加えて、京都は北の方が標高が高いので、北から攻める方が有利なのである。〕

 敵はこれだけかとみていると、北畠顕家が2万余騎を率いて東方の粟田口から攻め寄せ、車大路に火をかける。尊氏はこれを見て、北畠顕家が攻めてきたからには、自分自身が出向かないといけないだろうと、50万余騎(明らかに誇張がある)を率いて鴨川の四条・五条の河原に出て応戦、一進一退の攻防が続く。足利方は多数ではあるが、士気が低く、北畠勢は数的に劣るために、交代しながら戦うことができず、士卒が疲れてしまった。このために両軍ともに戦いあぐね、戦闘が低調になっていたところに、新田義貞、脇屋義助、堀口貞満、大館氏明が3万余騎を三手に分けて、双林寺、将軍塚、(岡崎の)法勝寺の前から新田の中黒の旗を50余なびかせて、二条河原から足利勢の横を駆け抜けて、敵の後ろを切ろうと攻め込んできた。

 足利方はこれを見て、「それ、例の中黒が来た」と、もともとその武勇を恐れていたので、市内に充満している大軍が慌てふためいて四方八方に逃げ散ってしまう。「四角八方に逃げ散ること、秋の木の葉を山颪の吹き立てたるに異ならず」(第2分冊、468ページ)と『太平記』の作者はその有様を木の葉に例えている。義貞は鎧を脱ぎ変え、馬を乗り換えて、ただ1騎、敵の中へ懸け入り、尊氏を探し出して討ち果たそうとしたのだが、尊氏の運が強かったのであろうか、見つけ出すことができなかったので、やむなく、軍勢を十方に分けて、逃げる敵を追わせたのである。

 その中で、新田一族の里見、鳥山の人々は、わずか26騎で、丹波路の方へ逃げていく敵が2,3万騎あるのを、その中には尊氏がいるだろうと考えて、桂川の西まで追っていったのであるが、大勢の敵軍に反撃されて、全滅してしまった。そういうわけで、十方に分れて追っていた宮方の兵どもも、むやみに長追いをすると危ないからやめようと、皆、京都市内に戻ってきた。〔里見氏は新田氏の祖である義重の子どもである義俊から始まり、この時代は一族として新田氏を支えていた。滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で描き出したように、なんとか戦国時代を生き延びたが、江戸時代の初めに断絶してしまう。〕

 日もすでに暮れてしまったので、楠正成が新田義貞の前に出て次のように進言した。本日の合戦は思いがけなく百万の敵を退けましたが、敵はそれほど兵力を損耗していません。また尊氏の行方も分かりません。味方の方が軍勢が少ないので、このまま都にとどまっていると、兵士たちは財宝の略奪に熱中してひとところにとどまっていることはないでしょう。そういうことだと、また敵が引き返してきて、手の施しようがなくなることは避けられません。敵に少しでも勢いを着けさせると後の合戦が面倒なことになります。今日はまず引き返して、1日馬の足を休め、明日あるいは明後日に、もう一度猛攻を加えれば、敵に打撃を当てて、遠くへ追い払うことができるでしょう。
 義貞はこの意見はまことにもっともであると思い、宮方の軍勢はみな坂本へと戻っていったのである。

 尊氏は、今回もまた丹波路まで退却しようと、寺戸(京都府向日市寺戸)のあたりまで後退していたのだが、京中には敵が1人もなく、皆引き返したという噂が伝わってきたので、また京都市内へと戻った。このほか、八幡、山崎、嵯峨、仁和寺に落ち延びていた武士たちも、これを聞いてわれ先に戻ってきたのは、どうもみっともないことであった。尊氏は、敵の軍勢が増えているわけでもなく〔実際には増えている〕、両者を比較してみれば、宮方の方が兵力は少ないのに、毎度追い立てられて、見苦しい負け方をするのは、尋常なことではない。我々が朝敵であるために、比叡山の僧侶たちに呪詛されているからであろうか」と自分の見通しや戦術の拙さを棚に上げて、余計なことを考えていたのは愚かなことであった。〔もちろん、この後の行動を見ていると、尊氏はそれほどのバカではなかった。〕

 さて、宮方は楠の進言を受け入れて、勝利したにもかかわらず、退却して、足利方を京都市内におびき寄せ、徹底的にたたくという作戦をとることにした。さて、この作戦はうまくいくであろうか。それはまた次回。
 

『太平記』(143)

1月29日(日)曇りのち晴れ、気温が上がる

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺(園城寺)を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅(じょうぜん)の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は一時は腹を切ろうとするまで追い詰められたが、細川定禅の活躍で事なきを得た。

 そうこうするうちに、尊氏討伐軍の搦め手として東山道から鎌倉に向かっていた忠房親王(承久の変で佐渡に配流された順徳上皇の曽孫)、尾張宮を将とする軍勢は竹下、箱根の合戦には、あらかじめの取り決め通りにいかず、間に合わなかったが、甲斐、信濃、上野の武士たちが参集したために、大軍となって鎌倉に入った。
 そこでその後の鎌倉の情勢を確認すると、新田義貞の軍勢は竹下の合戦に敗北して都に引き返し、それを追って足利尊氏が上洛した。その後、さらに北畠顕家卿が、尊氏の後を追って都に向かったということであった。ということは、どこかで新田が踏みとどまれば、そこで合戦があるに違いないと、鎌倉を出発して、西へと向かった。この軍勢に加わっていたのは、洞院実世、持明院基行、堀川光繼、園基隆、二条為次らの公家と、島津貞久、小田貞知(常陸の豪族)、美濃の武士である猿子(ましこ)・落合・饗庭(あえば)・石谷・纐纈(こうけつ)、伊木、信濃の武士である村上・仁科・高梨・志賀、備前の武士である真壁らを主だった顔ぶれとして、合わせてその軍勢は2万余騎となり、正月20日の夕方に東坂本に到着した。

 宮方の軍勢は、いよいよ勢いづいて、翌21日にも京都へ攻め寄せようという意気込みであったが、縁起が悪い日が続いているうえに、これまで強行軍で馬を進めてきたために、馬たちがすっかり疲れて動くことができなくなっていたので、攻撃に取り掛かるのを先延ばしして、27日に京都に攻め寄せるということに決めた。

 その27日がやってきたので、攻撃のために多少の余裕をもたせようと、明け方早くから楠、結城、名和は3,00余騎で、西坂本(比叡山の西麓、京都市左京区修学院のあたり)から下って、一乗寺下り松のあたりに陣を取る。顕家卿は、3万余騎の軍勢を率いて、大津を経て山科に陣を取る。新たに加わった洞院実世は2万余騎を率いて、赤山(せきさん)禅院(左京区修学院関根坊町)のあたりに陣を取る。比叡山の僧兵たちは1万余騎で、龍花越から鹿ケ谷(京都市左京区)へと出て陣を構えた。新田義貞・脇屋義助京大は5万余騎で、今道を通ってやはり修学院の方角へと向かった。大手、搦め手、合計して10万3千余騎、それぞれ明け方から陣を取ったけれども、敵に悟られないように、わざと篝火をたかせなかった。〔10万3千余騎というのは宮方としては最大の動員であるが、それでも足利方の軍勢の方が数の上で上回っていることを警戒しているようである。〕

 辰刻(午前8時ごろ)に合戦を開始するという取り決めであったが、血気にはやった若い僧兵たちは、武士に先んじられては面目が立たないと思ったのであろうか、まだ卯刻(午前5時ごろ)だというのに、神楽岡(左京区吉田神楽岡町の吉田山)へと押し寄せた。

 この岡には宇都宮配下の紀姓・清原姓の党の武士団が、城郭を構えていた。したがって、そう簡単には人が近寄って攻める手立てもなかったのだが、比叡山僧の道場坊祐覚、彼と僧房を同じくする同輩の僧たち300余人が、真っ先に城柵の門に押し寄せ、塀を隔てて戦ったが、高櫓から大きな石がいくつも投げかけられてきたので退却する。そこへ南岸円宗院という比叡山僧とその配下の僧兵500余人が、入れ代わって攻め立てる。城の中で守っている武士たちの中には、強い弓を弾くことで名高い兵が多かったので、走り回って矢を射かけてきたので、多くの僧兵たちが物の具を射通されて、これはかなわないと思ったのであろうか、皆持楯という携帯用の軽便な楯の影に隠れて、新しい軍勢が攻め寄せてくるのを待った。

 ここに妙観院の因幡竪者(りっしゃ)全村という、比叡山全山に名高い勇猛な僧がいた。鎖帷子の上に、太い縅毛で荒目におどした鎧を重ねて、備前の長刀の鎬下りに勝負の葉の形をした太刀を脇に挟み、矢だけの太さは普通であれば大ぶりの鏑矢に使うほどの、生えて3年の竹をもいだまま節目を落とさずに削って、(刀剣の名産地として知られる備前の)長船製の刃渡り1.5センチの鑿ほどもある矢じりを矢にねじ附けたのを36本背負い(要するに仰々しい武器を見せびらかして自分の力を誇示しながら)、現われた。矢をもって弓を持っていないのは、この見るからに恐ろしい矢を自分の手で相手に投げつけて突き刺そうということである。

 切り立った崖の向かい側に、仁王立ちに建ち、鎧をゆすって矢が刺さらないようにしながら、名乗りを上げる。「先年、三井寺の合戦の首謀者とされて、越後の国へ流された妙観院の高(あら)因幡全村というのは、俺様のことである。城の中に籠もっている人々に、この矢を一つ受けてもらおう。ご覧あれ」と言いながら、例の矢を1本抜いて、櫓の小窓をめがけて、投げつける。すると、小窓の近くにいた武士の鎧の隙間を通して突き刺さり、その武士は櫓から落ちて、すぐに死んでしまった。これを見た城中の兵たちは、これは大変なことだ。普通の人間にできることではないと浮足立ってしまったところに、比叡山の護正院、禅智房などの僧房の若い僧兵たちが1,000余人が一斉に刀を抜いて攻めかかってきたので、宇都宮は神楽岡の城砦を捨てて、二条付近に陣を構えていた味方の軍勢に合流した。この武勇のために全村を手付きの因幡と呼ぶようになったという話である。〔京都で過ごした11年のうち、7年以上を神楽岡の麓で過ごしたので、このあたりに城砦を構えて防御するというのはよくわかる。全村の様子はいかにも猛々しく描かれているが、宇都宮はもう少し持ちこたえてもよかったのではないか。〕

 比叡山の僧兵たちが鹿ケ谷の方角から押し寄せて、神楽岡の城砦を攻めるという情報は、城砦を守っていた武士たちから伝わっていたので、尊氏は、すぐに城の加勢をせよと、一族の今川、細川の武士たちに3万余騎を差し添えて派遣したのであるが、城砦が早くも攻め落とされてしまったので、援軍としての役目を果たすことなく、なすところなしに鴨川を渡って京都に戻ってきたのである(この時代、鴨川の東は京都市内とは見なされていなかったのである)。

 これまで何度も書いてきたことであるが、足利方は兵力において勝っているが、宮方の方が戦意が高い。それに山の上から平地を攻める方が人も馬も勢いがつくので、有利である。さらに言えば、ここで比叡山の僧兵が活躍しているのが目立つ。地方出身の武士たちに比べると、彼らは京都とその周辺の地理にも詳しく、情報の伝達も容易であったと思われる。宮方は初戦に勝利してますます士気が上がり、足利方は何となくいやな気分になっているはずである。さて、この後の戦いはどのように展開していくか、それはまた次回に。 

『太平記』(142)

1月22日(日)晴れ、比較的温暖。

 後醍醐天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入ろうとした。兵力において劣る新田軍は、味方の軍勢の一部を足利方に紛れ込ませておいて、三方から京へ攻め寄せた。

 義貞の計略に気付かぬまま、足利尊氏は高師泰に将軍塚の上から都を窺っている宮方の兵を追い散らすように命じた。この方面には義貞の弟である脇屋義助、新田一族の堀口貞満、大館氏明、結城宗広らの武将が3,000余騎を率いて向かっていたのであるが、敵の襲来を知って、この軍勢の中から、弓を射るのに優れている武士たち600人を選び出し、馬からおろして、山の木を立の代わりにして、その陰から次々に矢をつがえて、どんどん放たせた。師泰の率いる武蔵・相模の武士たちは、ただでさえ山の斜面を登るのがつらくて苦労しているのに加え、上の方から射てくる矢に鎧を通されたり、馬を射られて倒されたりしたので、なかなか進むことができない。こうして、足利方が進むのをためらっている様子を見て、得たり賢し(してやったり)と、宮方の武士たちは一斉に刀を抜いて一気に攻め寄せたので、師泰の軍勢はそれを防ぐことができず、五条河原へと退却した。この戦闘で、足利方の有力な武士である杉原判官と曽我次郎左衛門が戦死した。

 そのまま京都の市中まで深追いをすると、宮方の武士たちが小勢であることが分かって、不利になるので、宮方の兵は山を下らずに東山にとどまって、その数を見せない。搦め手から戦闘が始まると、大手がそれに合わせて鬨の声をあげて、数的劣勢を隠そうとし続けた。『太平記』の作者は「官軍2万余騎と将軍の80万騎と、入れ替へ入れ替へ、天地を響かしてぞ戦うたる」(第二分冊、457ページ)と記しているが、宮方の方の2万騎はあるいは正しいかもしれないが、足利方の80万騎は多すぎる。「漢楚の八ヶ年の戦ひを一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になすとも、なほこれには及ぶべからず。」(同上、漢の劉邦とその項羽が8か年にわたって戦った際の両軍の軍勢を全部一時に集め、呉王夫差と越王句践が30度戦った際の両軍の兵を百倍にしても、これには及ばないだろう)というのも大げさな表現である。

 攻め寄せている新田勢は兵力においては劣るが、一致団結していて、攻め寄せるときは一度にさっと攻め寄せ、敵を攻撃し、退却する時は負傷者を中心に置いて、静かに退却する。一方守る法の足利方は、兵力は多いが、全体としての協調がなく、攻撃する時はバラバラで、思いもい勝手に戦っているので、正午ごろから午後7時ごろまでの65度の戦闘に、寄せ手の官軍がすべて勝利を収めたのであった。

 そうはいっても、足利方は負けてもその兵力が減ることなく、逃げても戦場から離脱するところまではいかず、当てもなく市中にとどまっていたところに、義貞の計略で敵に紛れ込んでいた50人単位の武士たちが、尊氏の前後左右に新田家の紋所である中黒の端を差し上げて、かく乱のための戦闘を始めた。こうなるとどちらが敵、どちらが味方であるかわからない。混乱に陥った足利軍はあちこちにわめき叫んで、同士討ちをはじめてしまう。尊氏をはじめ、吉良、石塔、高、上杉の武将たちは味方の武士たちが敵と一緒になって、後ろから矢を射かけてくるような混乱に陥ったと自覚したので、お互いに心を許さず用心しあって、高、上杉の軍勢は山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に向かって退却し、尊氏をはじめ、吉良、石塔、仁木、細川の人々は丹波路へと退却したのであった。

 宮方の軍はいよいよ勝ち戦の勢いに乗って、短兵急に攻め寄せていく。尊氏は、もはやこれまでと思ったのか、梅津(京都市右京区梅津)、桂川のあたりでは、鎧の草摺りを畳みあげて、腹を切ろうと腰の刀を抜くことが3度もあったが、運が強かったのであろうか、日が暮れて、追っては桂川のあたりから引き返したので、尊氏も、その率いている軍勢も、しばらく松尾(西京区松尾)、葉室(西京区山田は室町)に落ち着いて、休養を取ったのであった。

 さて、三井寺の攻防ではいいところを見せられなかった足利方の細川定禅は、自らが率いてきた四国の兵たちに向かって、次のように述べた。戦の勝負は時の運によることなので、負けたのは恥にはならないが、今日の敗戦は三井寺の合戦から始まったので、そこでの敗戦は当事者であったわれわれの失敗であり、非難を受けてもしかたのないところである。そこで、ここでは他の軍勢の助けを借りず、一花咲かせて、天下の非難を封じたいと思う。
 私が推測するところでは、新田の軍勢は終日の合戦にくたびれて、臨機応変に敵に対応できない状態になっているだろう。そのほかの敵兵たちは、都の人々の財宝に目をつけて、略奪に夢中になり、ばらばらになっているだろう。そのうえ、我々の味方である赤松貞範が、小勢しか引き連れぬまま下り松(京都市左京区一乗寺下り松町)で敵軍の中に孤立している。彼をむざむざと戦死させるのも悔しい限りである。そこで、蓮台野(北区にある船岡山の西の野原)から北白川に回って、赤松の軍勢と合流し、新田の軍勢に一泡吹かせてやろうではないかと提案すると、彼に従っていた讃岐の藤原氏(詫間・香西など)、橘氏(寒川・三木など)、大伴氏の武士たちは、賛同した。

 定禅は大いに喜んで、300余騎の兵を引き連れて、北野天満宮の北の一帯を過ぎて、上賀茂を経て、ひそかに北白川へと回った。糺の森のあたりで、300余騎を十峰に分けて、下り松、藪里、静原、松ケ崎、中賀茂の30か所以上に火をかけて、そこからすぐに立ち去り、一乗、二条の間で、三か所で鬨の声をあげた。定禅が推測していたように、新田方の軍勢は京都市内と、鴨川の以東に分散していて、一か所に集まっている兵は少なかったので、義貞と義助はふりを悟り、坂本を目指して引き返そうとするところに、統率が取れないままに退却を始めたので、北白川、粟田口辺で新田義貞の執事である船田義昌、大館左近蔵人、由良三郎左衛門、高田七郎左衛門以下数百騎が戦死してしまった。定禅は尊氏にこの戦果を知らせ、その知らせを受けて、山陽道・山陰道に退却をはじめていた足利方の軍勢がまた京都に戻ってきた。

 『太平記』の作者は義貞が兵力において劣勢であったにもかかわらず、その知略で足利軍を破り、敗走し始めた足利軍の中で細川定禅が反撃の謀を成功させてことをともに賞賛している。どちらも少数の兵力で、多数の軍勢を追い散らしたという点で共通するというわけである。足利方の軍勢は京都市内に戻ったが、依然として足並みがそろわないという弱点は克服されていないし、今回の戦闘には楠正成や名和長年、北畠顕家らは参戦しておらず、宮方の兵力はまだ残っている。いつでも東山方面から京都市内を窺うことのできる兵力を保持している限り、宮方は希望を持つことができるのである。とは言うものの、義貞の右腕であった船田義昌がここで戦死してしまったのは、宮方にとっては痛い損失であった。 

『太平記』(141)

1月15日(日)曇りのち晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家の率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の率いる足利方の軍勢と三井寺の衆徒の連合軍を追い落として伽藍に火をかけた。このため、藤原秀郷が竜宮城から持ち帰ったと伝えられる三井寺の梵鐘も焼け落ちてしまった。

 宮方の軍勢は三井寺の敵を難なく打ち破ったので、北畠顕家卿は東北・関東地方から東海道を西に上ってきて坂本に到着して、すぐに戦いに参加したために人馬は疲れている。一両日休んで、英気を養い、これからの戦いに備えるといって、坂本へと2万余騎の軍勢を引き上げた。〔北畠顕家は坂本に到着した時も、人馬を休めてから攻撃を始めることを主張していた。これに対し、もともと宮方の軍勢は少ないので、一気に攻めた方が有利であるという意見が採用されたのであった。〕
 新田義貞も、同じように坂本へ帰ろうとしたところ、彼の執事である船田義昌の一族である船田経政が馬を遮って次のように述べた。合戦の勝利を得るには、勝ちに乗る時、逃げていくのを追うよりほかの手段はないと思う。この合戦で生き延びて、馬を捨て、武具を脱ぎ捨てて、命からがら落ちのびていく敵を追いかけて、京都市内に押し寄せていけば、逃げて臆病風に吹かれている多数の武士たちに影響されて、残りの敵も戦う気力を失うのではなかろうか。そういう状態なので、官軍は敵の中に紛れ込んで、軍勢の多少を見せず(宮方の方が足利方に比べて軍勢が少ないことを隠し)、こちらの方では火をかけ、あちらの方では時の声をあげるというように、縦横無碍に敵をかく乱すれば、足利兄弟のそばに近づいて、勝負を決せずにはいられないだろう。逃げていく敵は、それほどの距離にはいないと思う。是非とも追いかけてみてはどうだろうか。
 これを聞いて義貞は、私もそのように考えていたところに、よく言ってくれた。ただちに追いかけようと、または他を直し、馬を進めて、新田一族50余人、その軍勢は合わせて3万余騎、馬に鞭を当てて、敗走する敵を追いかけていく。〔これまでも大体においてそうだったが、足利方の方が軍勢の数は多いけれども、士気は宮方の方が高いのである。もっとも、『太平記』の作者が記しているように、足利方の軍勢が80万余騎であったというのはどう考えても多すぎる。〕

 足利方は、宮方の軍勢のかなり前方を逃げているはずなのであるが、逃げているのは大勢の疲れ武者で、心は逸るけれどもなかなか足が進まない、追いかけるのは小勢ではあるが血気にはやった者たち、敵を追うとなると一層馬の足も早まってくるので、山科のあたりで追いついてしまった。新田の軍勢の由良、長浜、吉江、高橋が真っ先に進んで追っていたが、逃げているとはいえ敵の方が軍勢が多く侮ってはいけないというので、開けた場所で敵が大軍を引き返して応戦しそうなところでは、それほどは追いつめて敵を追わず、遠矢を射かけ射かけ、鬨の声をあげて威嚇する。道が狭くなっていて、しかも敵が戻ってくるのが難しい山道では、高いところから馬を懸けおろして、隙間もなく射落とし、切り伏せたので、足利方は反撃できず、我先に逃げていくばかりである。

 足利尊氏は三井寺で合戦が始まったという知らせを受けたのち、黒煙が上がるのを見て、どうやら味方が負け戦のようである、急いで援軍を送ろうと、三条河原に出て、勢揃えを行った。そうこうしているうちに、粟田口から、土煙をあげて、足利方の軍勢4・5万騎が敗走してきた。かなり手痛い負け戦であったと見えて、ほとんどみなが軽傷を負い、鎧の袖や兜の吹き替え氏に矢の3筋4筋が突き刺さっていないというものはいないほどであった。〔これまでの合戦の様子を読んでいると、新田勢が弓矢を活用しているのがよくわかる。『平家物語』に登場する那須与一のように、北関東には弓矢に秀でた武士が多かったということであろうか。〕

 一方、新田義貞は2万3千余騎の軍勢を三手に分けて、一手を将軍塚(京都市東山区粟田口花頂山町の華頂山上にある塚)の上にあげ、もう一手を真如堂(左京区浄土寺真如町にある天台宗寺院)の前から出動させ、もう一手を法勝寺(左京区岡崎法勝寺町にあった天台宗寺院)の後ろに向かわせて、二条河原に軍勢を進めて、合図の火をあげさせた。自らは花頂山に登って、敵の陣を見ると、北は糺の森から、南は七条河原まで、敵の軍勢が馬を隙間なく並べて密集して戦いに備えているのが分かる。

 義貞は、弓を杖にして立ち、命令を下した。敵の軍勢と味方とではその数がかなり違う。普通に戦うのでは勝ち目はなさそうだ。敵に顔を知られていない武士たちは、50騎ずつ隊伍を組んで、新田方の笠じるしをとり捨てて、旗をまいて敵の中に紛れ込み、しばらく機会を待て。将軍塚に上っている軍勢が、すでに戦闘を開始したと見たら、こちらも戦闘を開始するつもりである。そのときに、敵の中に紛れ込んだ武士たちは敵の前後左右に旗を差し上げて、敵陣をかく乱してほしい。そうすれば敵は慌てて同士討ちを始めるかもしれず、また退却する可能性も出てくるというのである。そして、たくましく強い兵50騎ずつを選び出して、26の一揆(武士団)がそれぞれ新田の中黒の紋を記した旗をまいて紋を隠し、笠符をとって袖の中に収め、三井寺から遅れて逃げてきた軍勢のふりをして、足利勢の中に加わる。

 敵方がこのような謀をめぐらしているとは、足利尊氏には思いもよらぬことであった。尊氏は主な武将たちに、新田は普段は平地での戦闘をこそ好むと聞いていたのに、山を後ろにして、すぐには攻め込んでこないのは、自分たちの軍勢が少ないことを敵に見せまいとしているに違いない。将軍塚の上に集まっている敵をそのままにして、いつまでも見上げていられるだろうかと、自分の執事である高師直の弟の師泰に、駆け上って蹴散らすように命令する。師泰はその命令に従って、武蔵、相模の軍勢2万余騎を率いて、双林寺(東山区の円山公園にある天台宗寺院、今は見る影もないが、昔は大寺院であった)と中霊山(東山区清閑寺霊山町にある山)から軍勢を二手に分けて東山を登っていく。

 数で勝ることで多少油断をしている足利方と、その数的劣勢をこれまでの勝利の経験と知略とで跳ね返そうとする宮方=新田方の戦いはこの後どのように展開するだろうか。今回登場する京都市内の地名は、私が大学→大学院時代を通じてなじんだものが多く、土地勘が働くので、読んでいて面白かった。前回、藤原秀郷のことを書いたが、柳田国男の『故郷七十年』の中に、柳田という姓の一族は藤原秀郷の子孫で、同じ秀郷流の宇都宮氏に仕えていたらしいと書かれている箇所があった。藤原秀郷が先祖だという言い伝えを持っている人たちはかなりの数に上るはずである。
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