『太平記』(201)

3月13日(火)晴れ、温暖

 建武4年(南朝延元2年、1337)、足利尊氏・直義兄弟は持明院統の光厳院、光明帝(前年8月に即位)を擁して京都を抑え、京都での幽閉から脱出した後醍醐帝は吉野の金峯山寺で兵を募り、後醍醐帝から東宮恒良親王、一宮尊良親王らを託され、北国で再起を図るように命じられた新田義貞は敦賀の金ヶ崎城にこもっていたが、高師泰や今川頼貞らが率いる大軍に包囲されて身動きが取れなくなっていた。
 正月11日、南越前の杣山城を本拠とする瓜生兄弟に大将として擁立されていた脇屋義治(義助の子、新田義貞の甥)は、新田一族の里見伊賀守を大将として金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、高師泰・今川頼貞の軍に敗れ、大将の里見と瓜生兄弟のうち2人が戦死した。瓜生兄弟の老母は、義治の前で涙ながらに兄弟の戦死を誉れとする由を述べた。一方、後攻めを失い兵糧不足に陥った金ヶ崎城では、2月5日、新田義貞・脇屋義助らが城を脱出して杣山に入ったが、金ヶ崎への後攻めの機会はなかなか訪れなかった。3月6日、将兵の食糧がなくなり、身動きができなくなった状態の金ヶ崎城は寄せ手の総攻撃を受けて落城した。一宮尊良親王、新田義顕らに加えて、城中の兵たちも自害した。

 後醍醐帝が義貞に北国へ向かえと命令された理由の一つは、越前一宮である気比大神宮の大宮司一族が金ヶ崎城を築いて、宮方の武士を迎え入れる用意をしているからであったが、その城が落ち、また大宮司である気比弥三郎も尊良親王や新田義顕に殉じて死んでしまった。弥三郎の長男の気比大宮司太郎は、前年の10月に小笠原貞宗が城を浜際から攻めた際に武勇のほどを見せた怪力の持ち主で、しかも水泳の名手であった。そこで彼は東宮=恒良親王を小舟にお乗せして、櫓や櫂が見つからなかったので、舟の纜を自分の褌の腰に巻いた部分と結びつけ、海の上30町(1町は約109メートル)を泳ぎ、敦賀湾をはさんで金ヶ崎の対岸にある蕪木の浦(福井県南条郡南越前町甲楽城(かぶらき))へと到着した。このことを知っている人は誰もいなかったので、宮を背負って杣山に落ち延びることは、極めて容易であったはずなのに、太郎はそうしなかった。

 というのは、一宮をはじめとして、城中の人々が一人残らず自害したのに、自分1人が逃げて生きながらえれば、世間の物笑いになるだろうと思ったのである。そこで東宮を漁師のみすぼらしい家において、「これは、日本国の王にならせ給ふべき人にてわたらせ給ふぞ。いかにもして(なんとしてでも)、杣山へ入れまゐらせてくれよ」と申しおいて、蕪木から取って返し、元の海上を泳いで渡って、父弥三郎太夫が自害して倒れ伏しているその上に、自分で自分の首を掻き落として、片手にひっさげながら、大肌脱ぎ=上半身裸になって死んだ。
 気比大宮司太郎の最期は異様で、果たして自分の首を切り落とした後に、それを片手でひっさげることができるだろうか疑問に思われるのだが、彼の怪力や勇武を際立たせるための筆の運びであろうか。そのように彼の怪力や勇武が強調されればされるほど、彼の知恵の浅さも際立ってくる。あるかどうかもわからない世間のそしりを気にして、自分で杣山につれていかなければならない東宮を、信頼できないし、信頼すべきでもない漁師に託している。いくら彼が声を大にしてそのように言っても、漁師には漁師の生活や考え方があるから従うとは考えられない。本人は自己満足のうちに死んだかもしれないが、太郎の判断ミスは歴史に大きな影響を及ぼすのである。

 土岐阿波守(不詳、美濃の土岐一族は大半が足利方に加わっている中に、17巻で義貞とともに北国へ赴いた武士の一人として土岐出羽守頼直の名が挙げられている)、新田の家臣である栗生左衛門(脇屋義助と新田義顕が金ヶ崎に戻る際に活躍し、さらにその後小笠原貞宗の攻撃を受けた際にも手柄を立てた)、同じく矢島七郎(上野国群馬郡矢島郷に住んだ武士で、小笠原貞宗の攻撃を受けた際に活躍した)の3人も一緒に腹を切ろうとして、岩の上に立ち並んでいたのを見かけた、新田義貞の執事であった船田義昌の子である経政が「新田一族の運河、ここで尽きたと思ったのであれば、ここで皆が討ち死にするべきであろうが、総大将である義貞・義助のご兄弟は杣山にご健在であるし、公達も3,4人あちこちに散らばって生き延びておられる、まだ名分がうすなわれていない以上、我々1人でも生き残って、大将や公達のために御用を務めるのが、長い目で見れば忠義というものではないか。これという深い考えもなしに一緒に自害して、敵に得をさせて何になるか。こっちへ来なさい。もしや生き延びられるかどうか、試しに隠れてみよう」といったので、3人もこれに同意して、船田の跡について、はるか磯の方へと下って行った。遠浅の波を分けて半町ばかり行くと、磯を打つ波に削られて、大きな岩穴ができているのを見つけた。「ちょうどいい隠れ家だ」と言って、4人ともにこの穴の中に隠れて、3日3夜を過ごした。どんな気持ちでこの時間を過ごしたのであろうか。

 城の大将である新田義顕のところに戦況の不利を知らせ、東宮らの脱出と義顕らの自害とを促した由良(新田の家来で、群馬県太田市由良町の武士)、長浜(武蔵の丹党の武士)は再び木戸口に取って返して、のどが渇けば自分のけがの傷口から流れてくる血を飲み、疲れて力が出なくなってくると、前に倒れている死人の肉を食べて、主人たちが腹を切る時間稼ぎのために戦っていたが、安間(あま)六郎左衛門(淡路=兵庫県南あわじ市阿万の武士)が走ってきて、「いつ勝機があるかと思って合戦を続けているのか。大将はもはや自害されましたぞ」と言ってきた。「そういうことならば、どうせ助からない命だから、敵陣に紛れ込めば、もしかすると大将の近くに行くことができ、しかるべき敵と刺し違えて死ぬことができるかもしれないから、そうしよう」と、生き残っていた50人余りの兵が、3か所の木戸を同時にあけて打って出た。城を囲んでいた寄せ手3,000人はこの決死の兵にたじたじとなって後退し、城兵たちは寄せ手の中に紛れ込むことができ、大将である高師泰の陣に近づくことができた。いかんせん、城から出た武士たちの様子は、やせ衰えてやつれ果てていたので、他の武士と比べて一目で見分けがついてしまう。足利方の兵は見分けがつくので、彼らとは距離を取り、結局一人もしかるべき敵を討取るに至らず、全員があちこちで戦死してしまった。

 金ヶ崎城にこもっていた将兵の数830人、その中で敵に降参して命を助けられた者12人、岩の中に隠れて生き延びたものは4人、その他の814人は、腹を切ったり討ち死にしたりしてしまった。今に至るまで、その怨霊がこの地に留まって、月が曇り雨が降って暗い夜は、食を求めて叫ぶ亡霊の声が悲しげに響き、人をぞっとっせるという。
 唐の詩人陳陶(812?‐885?)は安史の乱(755-763)に遭遇して、漢の時代、匈奴と戦い敗れて捕虜となった李陵の軍に託して戦争の悲惨さを歌った隴西行という詩を作った。それは
  匈奴を払はんと誓ひて身を顧みず
  五千の貂錦(ちょうきん)胡塵に喪(ほろ)ぶ
  憐(あわ)れむべし無定河辺の骨
  猶是れ春閨(しゅんけい)夢裡の人
(岩波文庫版、第3分冊、253ページ、匈奴=北方の蛮族の征伐を誓ってわが身を顧みず、漢の李陵の率いる五千の兵士は胡の地の塵となった。憐れむべきは無定河(陝西省北部を流れる川)のほとりに散った兵士たち、今なお故郷で待つ妻の春の夜の夢に現れる。貂錦というのは貂の皮の帽子と錦の服、それを身につけた兵士ということで、ここでは後者の意味である。陳陶は晩唐の詩人であり、安史の乱には遭遇していないのだが、『太平記』の作者の頭にはそういう年代の違いは入っていなかったのであろう。それにしても陳陶というあまり知られていない詩人の詩がこんなところで引用されているのは、不思議である。

 夜が明けて、蕪木の浦から、皇太子恒良親王が潜んでおられるとの密告があったので、今川頼貞が迎えに出かけて身柄を引き取った。
 前夜、金ヶ崎で討ち死に、自害をした首854を並べて、首実検をしたところ、新田一族の首には、越後守義顕、里見義氏の首だけがあって、義貞と義助2人の首がなかった。さてはきっとその辺の海底に沈んでいるのかというので、海人を潜らせて調べてみたが、まったく見つからなかったので、司馬孝恒が、東宮のところへやって来て、「義貞、義助2人の死骸が、どこにあるともわからないのですが、どうなっているのでしょうか」とお尋ねしたところ、東宮は、まだ年若く、考え深くない年ごろではあったが、彼らが杣山にいると敵に知らせたならば、すぐさまここから攻め寄せるに違いないとお思いになられたのであろう、「義貞、義助2人は、昨日の暮ほどに自害したが、その家来の者どもが将士の詰所の中で、火葬にすると相談していた」と仰せられた。孝恒は「それでは、その死骸がないのももっともなことである」と納得して、死体を探すのをやめた。とりあえず、杣山の敵は大したことはないので、こちらから仕掛けなくても、今すぐに降参してくるだろうと、しばらくは攻撃を延期したのであった。

 宮方の拠点の一つであった金ヶ崎城が落城した。気比大宮司太郎の超人的な働きでいったん落ち延びかけた恒良親王がその太郎の判断ミスで足利方にとらえられたのは宮方にとっては痛い失点である。東宮が義貞・義助の行方について斯波高経を欺くだけの頭の働きを見せているだけに、この点は惜しい。北国の宮方は大将たちは残っているが、宮様方を失い、大義名分の色が褪せてしまったのが、今後の不安を感じさせる。 

『太平記』(200)

3月6日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は、京都を脱出して吉野に向かい、吉野金峯山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の報せが越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方について金ヶ崎包囲に加わっていた越前杣山の瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地に戻り、脇屋義助の子・義治を大将として挙兵した。23日、高師泰は加賀・能登・越中の兵を杣山に向かわせたが、瓜生の奇襲により敗退した。29日、瓜生は斯波高経の新善光寺城を攻め落とした。建武4年(南朝延元2年、1337)正月11日、脇屋義治は里見伊賀守を金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、高師泰・今川頼貞の軍に破り、大将の里見と瓜生兄弟は戦死した。瓜生の母は、義治の前で涙ながらに兄弟の戦士を誉とする由を述べた。一方、後攻めを失い兵糧に窮した金ヶ崎城から、2月5日に新田義貞・脇屋義助らが脱出して杣山に入った。そして金ヶ崎包囲軍の後攻めを行おうとしたが、なかなか実行に移せぬまま時が過ぎた。

 金ヶ崎城の正面に陣取っていた兵たちが、高師泰のところにやってきて、「この城は、きっと兵糧に窮して、馬を食べている様子です。はじめのうちは、城内に馬が40頭から50頭飼われていると見えて、いつも湯で洗ったり水をやったりしていましたが、近ごろは一頭も引き出していません。ぜひ、攻撃をかけてみてはどうでしょうか」と進言した。
 そこで3月6日の卯の刻(午前6時ごろ)から、大手・搦手から10万余騎が、切り立った崖の下や、その手前にある堀の陰から城に取りつき始めた。

 城中の兵たちは、これを防ぐために、木戸のあたりまでよろめき出たけれども、走り木(攻め寄せてくる敵を倒すため、城柵の上から落とす丸太)を使うだけの力も残っておらず、弓を引くこともできなかったので、ただ無意味に櫓の上にのぼり、塀の陰に集まって、苦しそうに息をしているだけであった。寄せては、この有様を見て、「思っていた通り城は弱っていた。日の暮れぬうちに攻め落とせ」といって、乱杭、逆茂木を引きのけ、塀を打ち破って3重に構えている二の木戸まで乱入した。

 新田の家来である由良(群馬県太田市由良町出身の武士)と武蔵七党のなかの丹党の武士である長浜(埼玉県児玉郡上郷町長浜の武士)の2人が、大将である新田義顕の前にやってきて申したのには、「城中の兵、数日の(実際はもっと長期の籠城の)疲れによって、矢の一本も満足にいることができません。その一方で敵はすでに、1,2の木戸(縄文)を破って攻め近づいてまいりました。今はどのようにお考えになろうと、勝ち目はありません。皇太子さまを小舟にお乗せして、どこかの浦へと落ち延びさせ、その他の人々は一か所に集まって、御自害あるべしと存じます。それまでの間は、我々が攻め口にまかり向かって、敵を防ぎましょう敵に見られたくない道具類は、みな海に捨てて流してしまってください」と申して、離れていこうとした。しかし、あまりにつかれて足もたたないので、二の木戸の脇に射殺されて横たわっている死人の腹の肉を切って、20余人の兵たちは、一口ずつ食べ、これを力にして戦った。
 ここに出てくる長浜という武士は岩波文庫版の脚注によると丹党に属する武士だというが、史料の裏付けがあるのだろうか。安田元久『武蔵の武士団』に丹党について、〔鎌倉幕府の〕「御家人としてもあまり目立たない存在であったようである。それぞれの本領は児玉等の書士の所領と隣接・錯綜するばかりでなく、比較的山間の地に位置するものも多くて、在地領主としての規模もあまり大きくはなかったものと推定される」(安田、前掲、199ページ)とあり、丹党、また児玉党に属する様々な武士の一族を列挙しているが、長浜氏についての言及はない。

 搦手を守っていた河野通治は攻め込んできた敵を防ぎ、一時間ほど戦っていたが、力を使い果たし、あちこちに手傷を追ってこれ以上戦うことが無理な状態になり、ともに戦っていた32人とともに、持ち場から退却せずにその場で腹を切って、南枕に倒れた。南枕というのは成仏を拒む死に方である。 
 新田義貞の長子で、義貞が去った後は城の大将であった義顕は、一宮尊良親王に向かい、「合戦はこれまでと思われます。我々は弓矢取り(武士)の名誉を惜しむ家のものなので、やむなく自害をいたそうと存じます。宮様のお身柄については、たとえ敵の中にいらしても、敵がお命をお奪いするようなことはよもやないと存じます。そのようにご承知おくください」と申し上げた。
 すると、一宮(尊良親王)は、いつもよりご快活なご様子でニコリとされて、「主上(後醍醐帝)が京都にお戻りになったときに、私を持って宮方の軍勢の頭と、お前を股肱之臣とされた。その股肱之臣がいなくなってしまえば、元首は持ちこたえることができるだろうか。(両者は一心同体である。) それで、私も命を白刃の上に縮めて、この恨みをあの世で晴らそうと思う。そもそもどのように自害をすればよいのか(知らないから、教えてくれ)」とおっしゃる。この言葉に感激した義顕は涙を抑えて、「かやうに仕るものにて候ふ」といったなりすぐに、左の脇に刀を突き立て、右の小脇のあばら骨3枚かけて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置き、うつぶせに倒れて死んだ。

 一宮はすぐにその刀を手に取られて、ご覧になると刀身と柄の境目にまで血が流れてぬらぬらとして掴みにくいので、御衣の袖を何重にも巻いて刀の束をきりきりと握りしめ、雪のように白い肌をむき出しにされて、胸元のあたりに突き立てて、義顕が倒れているうえに倒れこまれた。
 後醍醐帝の側近で一宮に従っていた公家の一条行房、武田五郎、里見時義、気比神宮の大宮司であった気比氏治、太田賢覚など、一宮の御前にいた人々は、「こうなった以上、宮様のお供をいたしましょう」といって、前にあった土器(かわらけ)で刀の刃を研いで、一斉に念仏を唱え、一度に皆腹を切る。これを見て、庭に控えていた兵380人、お互いに差し違え差し違え、重なり合って死んでいった。

 第9巻の近江の国番場で六波羅探題であった北条仲時以下400人以上の武士たちが野伏に道を阻まれて進退窮まり、集団で自害する場面、第10巻の鎌倉が陥落して、北条高時をはじめとする幕府の関係者870人余が自害する場面と並ぶ凄惨な場面である。これまでは武士たちは自害しても、皇族・貴族は自害することはなかったのが、ここでは皇族と貴族も切腹して自害している。皇族や貴族も武士と変わらずに戦うというのが宮方の習わしになってきているということでもあろうか。一宮尊良親王は、当時の歌壇の大御所二条為世の外孫であり、自身も歌人でいらしたのだが、歌とは別の道を選ばれることになった。森茂暁さんは『太平記の群像』で「『太平記』は尊良のいさぎよい最期をくわしく描く」(角川文庫版、35ページ)と記しているが、気の毒な一生を送られた方だという印象がぬぐえない。
 一宮は自害されたが、東宮の安否がまだ不明である。まだまだ残されている人々がいて、その動静については次回に。 

『太平記』(199)

2月27日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月(史実は12月)、足利尊氏・直義兄弟によって京都の花山院に幽閉されていた後醍醐帝は脱出して吉野に向かい、金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の報せが東宮恒良親王、一宮尊良親王を奉じて新田義貞が立てこもっている金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方について、金ヶ崎城の包囲軍に加わっていた越前の豪族瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地の杣山に帰り、弟の義鑑房がひそかに預かっていた脇屋義助の子・義治を大将として挙兵した。高師泰は杣山に能登・加賀・越中の6千の兵を派遣したが、瓜生の奇襲により敗退した。11月29日、瓜生は足利一族で越前守護の斯波高経のこもっている新善光寺城を攻め落とした。明けて建武4年(南朝延元2年、1337)正月11日、脇屋義治は里見伊賀守を金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、待ち構えていた高師泰・今川頼貞の軍勢に撃退され、大将の里見と瓜生保・義鑑房の兄弟は戦死した。

 敗軍の兵たちは杣山に帰りつき、負傷者、戦死者の数を調べてみると、里見伊賀守、瓜生兄弟、甥の七郎のほかに、討ち死にしたものが53人、負傷者が500余人であった。前回、金ヶ崎の後攻めに向かった兵の数は5千余人と記されていたが、本郷和人さんが『壬申の乱と関ケ原の戦い』で指摘しているように、この時代の兵数は1桁少なく見積もったほうがいいので、向かったのは1千人足らずと思われ、過半数が死傷したことになる。多くの将兵が近親を失い、嘆き悲しむ声でいっぱいであった

 ところが瓜生兄弟の母親である尼公はあえて悲しみの様子を見せなかった。そして大将である義治の前に出かけ、「この度敦賀に向かって攻め寄せたこの者どもが、ふがいなくも、里見殿を戦死させてしまいました。さぞふがいないとお思いでしょうと、ご心中お察し申し上げます。ただし、これを見ながら、保とその兄弟が、みな無事で帰ってきたということになれば、一層情けなさが募ったのでしょうが、保と、義鑑房、甥の七郎の3人は里見殿の最後のお供をして戦死し、残りの弟3人(源琳、重、照)は大将のために生き残ってまいりましたので、それが悲しみの中の喜びだと思っております。本来、大将である義治様を世に出し申すため、この攻撃を計画したのですから、自分の一族が千人・万人と一度に討たれても、嘆くべきことではありません」とさすがに涙を抑えかねてはいたが、自ら杓をとって義治に勧めたので、消沈していた杣山の将兵も、戦死者を嘆いていた人々も、みな憂いを忘れて勇気を奮い起したのであった。

 さて、この逸話ののち、『太平記』の作者は、義鑑房が討ち死にした時、弟3人が死なばともにと戻ろうとしていたのを強く押しとどめたのは、昔の中国で忠義のためにあえて生き延びた人の例を模範にしたからであるとして、『史記』「趙世家」に出てくる程嬰と杵臼の説話を長々と語っているが、語られているのは原話とはかなり違った内容だそうである。

 金ヶ崎城を包囲している足利方の軍を背後からついて包囲網を破ろうとする後攻めの計画が失敗したので、起死回生を願っていた籠城軍は頼みの綱が切れて、がっかりしてしまった。籠城が長引くにつれて兵糧が乏しくなってきたので、敦賀湾の魚を釣ったり、海藻をとったりして飢えをしのいでいた。短い期間であれば、それで済んだであろうが、攻城戦は長引いているし、いつ戦闘が始まるかもわからない、あまりにも兵糧に窮したので、大切に養っていた乗馬を毎日二頭ずつ刺し殺して、めいめいの朝夕の食事にあてた

 後攻めをするものがなければ、この城はもはや10日、20日と持ちこたえられないだろう。総大将のご兄弟(新田義貞、脇屋義助)がひそかにこの城を脱出されて、杣山に入城され、加勢する軍勢を招集されて、再度後攻めを行って包囲網を破ってほしいものです」と場内の者たちが口々に勧めたので、その意見に同意して、新田義貞、脇屋義助、北国まで随行してきた公家の洞院実世(後醍醐帝の近臣で、『園太暦』の記者である公賢の子)らが、土地の地理に詳しい河島維頼(これより)を案内者として、上下7人で2月5日の夜半、城をこっそりと抜け出し、杣山に落ち着いたのであった。

 杣山では瓜生兄弟の生き残りである源琳、重、照の兄弟と宇都宮泰藤がこれを迎えて大いに喜び、「再度金ヶ崎に向かって、前回の雪辱を果たし、金ヶ崎城内の瀕死の状態の味方の軍を蘇生させようと、さまざまに思案を巡らしたが、季節は春を迎え、暖かくなるとともに山の雪も消え、北国の武士たちはますます足利方に参集して、騎馬の兵だけで10万騎を超える様子である。義貞のもとにいるのはわずかに500余人、士気は衰えず盛んであるとはいえ、馬も武具も十分に調達できず、ああしようか、こうしようかと、悩みながら20日余りを過ごしているうちに、金ヶ崎ではもはや馬も食い尽くして、食事ができないということが10日ばかりになったので、軍勢は身動きもできなくなってしまった。

 北国で再起を図ろうとした義貞の軍勢は、越前の入り口の敦賀にくぎ付けにされて再起どころではない。包囲軍が戦功をあげようとしゃにむに攻め寄せてくるというのであれば、反撃の可能性もないことはないが、包囲が長引いている。足利方の武士たちは、大義名分よりも、優勢な方につくという機会主義的な動機に支配されているから、勝利が確実にならないと動こうとしないようである。その態度が、籠城軍をより苦しめることになるというのも皮肉である。北国を含め、諸国の情勢は足利方に有利で、宮方としては奥州で兵を集めている北畠顕家が頼りということになりそうである。
 

『太平記』(198)

2月20日(火)晴れ、温暖

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利方によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが新田義貞の立てこもっている越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方につき、金ヶ崎城の包囲軍に加わっていた南越前の瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地の杣山に帰り、脇屋義治(義助の子)を大将として挙兵した。23日、高師泰により杣山攻めに派遣された能登・加賀・越中3か国の兵は、瓜生の奇襲により敗退した。さらに瓜生は29日、金ヶ崎包囲から戻っていた越前守護斯波高経の新善光寺城を攻め落とした。

 明けて建武4年(南朝延元2年、1337)正月7日、新年の椀飯(おうばん=正月の祝宴の行事)を済ませて、11日には雪が降りやんで晴天が広がったので、義治は新田一族の里見伊賀守(名は不詳)を大将として5千余人の兵を金ケ崎城の後詰として敦賀に派遣した。ここで「~人」という表現をしているのは、積雪のため騎馬での進軍が難しかったためであろうと思われる。その軍勢は吹雪に出会った際の用意をして、鎧兜の上に蓑笠を着け、踏沓(ふぐつ=雪の上を歩くための藁沓)を履いた上にさらに橇(かんじき)を履いて、雪深い山の中を8里踏み分け、その日は葉原(敦賀市葉原)まで進んだ。
 杣山から後詰の兵が差し向けられるであろうことは、高師泰もかねてから予期していたことであり、敦賀の港から20町(2キロ強)ほど東に極めて好都合な要害(とりで)があったので、そこに今川駿河守頼貞を大将として2万余人を差し向けて、あちこちに楯を垣のように並べ、今か今かと敵襲を待ち構えていた。

 夜が明けたので、まず一番に(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱して杣山に走った)宇都宮泰藤が紀氏と清原氏の流れをくむ300余人の武士たちを率いて足利方の先鋒と戦う。敵陣に至る坂の中途にいる足利方の千余人の武士たちを遠くの峰に追い上げて、そのまま二陣の敵に襲い掛かろうとしたが、両側の峰の上から矢を射かけられて、北の峰に退いた。
 宇都宮の率いる紀清両党の兵は、これまで何度も登場してきた歴戦の勇士たちで、足利方の兵が後退したのは正面衝突を避けてのことと思われる(足利方のほうが兵力は多いし、坂の上にいるというのは地理的に有利であるが、それでも逃げている)。そして山の上から矢を浴びせるという戦法を取って、この軍勢を退却させた。

 二番手として、瓜生、(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱した)天野、(『今昔物語集』の「芋粥」の説話で有名な藤原利仁の子孫である)斎藤、下野の武士である小野寺らの軍勢が切っ先をそろえて攻め上がり、守っていた今川頼貞の陣が3か所ほど打ち破られて退却したのと交代して、控えの新しい軍勢として高師泰の率いる3千余人が戦列に加わった。このため、瓜生、小野寺の軍勢が劣勢になり、追い立てられて、宇都宮の軍勢と合流しようと北の峰のほうに向かう。その様子を見た大将の里見伊賀守は見苦しい、引き返せということで、敵の側面から攻撃を仕掛ける。

 足利方は、里見こそが大将であるとみていたので、他の軍勢には攻めかかることをせずに、里見を包囲して討とうとする。それを見た瓜生保と義鑑の兄弟は、戦況を見極めて、我々が戦死しないと、味方の軍勢は助かりそうもないと判断した。味方を逃がすために勇敢に戦って、武名を残そうというのである。そして2人で敵陣に割って入ろうとする。
 瓜生保の弟の林二郎入道源琳、瓜生重(しげし)、照(てらす)の3人はこれを見て、すでにはるか後方に退却していたが、ともに討ち死にしようと引き返す。その様子を見た義鑑は、「日頃何度も言い聞かせてきたことをいつの間に忘れたのだ。我々2人が戦死するのは、一旦の負け、兄弟がすべて戦死してしまえば、永世の負けだということを。深い思慮がないのは情けないことよ」と声を荒げて思いとどまらせようとしたので、3人の弟たちはその通りだと思い、少し立ち止まっていたその間に、大勢の敵に兄たちとの間を遮られてしまい、里見伊賀守、瓜生保、義鑑房は3人ともに戦死してしまった。

 葉原から深い雪を分けて、重い鎧が肩に食い込んで疲れた者たちは、数時間の合戦に入れ替わって戦う軍勢もなく力を使い果たしていたので、引き返して敵と戦おうにも力が出ず、退却しようにも足の力が抜けてしまっていた。そのため、あちこちで進退窮まって、そのまま腹を切ってしまったものは数知れない。幸いにして逃げ延びることができた兵も、その途中で弓矢、鎧、兜を捨てぬものはほとんどいなかった。それで足利方の将兵たちは、「以前に国府(越前市)、鯖並の戦闘で自分たちが捨てた物具を、今になってみな取り返した」と笑ったのであった。

 瓜生兄弟の軍は厳冬の積雪の中の行軍で力を奪われているうえに、周到に準備をして待機している足利方の軍勢と対決することになった。要害の地を抑えられているために、奇襲攻撃をかける余地もなかったようである。後詰めの戦が失敗して、金ヶ崎城の包囲を破ることが難しくなり、北国方面での戦闘の帰趨がほぼ決してしまった。もともと足利方のほうが兵力は多いので、宮方としては自分たちの士気の高さだけが頼りというところがある。この戦いでも、高師泰以外の足利方の武将たちのやる気のなさは歴然としている。森茂暁さんが『太平記の群像』で書いているところでは、一族の中で「軍事的性格をもっとも色く帯びていた」(角川文庫版、174ページ)役割を演じた人物であり、武将としての能力には段違いのものがあったようである。それに比べると、今川頼貞は精彩に欠ける。頼貞の従弟の貞世(了俊)が『難太平記』という本を書いて、南北朝の動乱における今川氏の役割が『太平記』では過小評価されていると論じていることはよく知られているが、岩波文庫版の第1分冊の解説を見る限り、了俊が問題にしているのは、彼の属する遠江今川氏の業績であり、頼貞らが属する駿河今川氏のほうについてはどうも関心がなかったようである。了俊は頼貞を直接に知っていたはずだから、そういうことも影響しているのかもしれない。
 瓜生兄弟の軍に加わっていた斎藤という武士が、藤原利仁の子孫であるということは書いたが、源平の合戦の際に白髪を黒く染めて戦った斎藤実盛もこの一族である。大将を務めた里見伊賀守の名はわからない由であるが、里見氏は新田一族であり、同じく新田一族の山名氏の大部分が足利方に走ったのに対し、宮方にとどまっている。そして、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で描いているように、何とか戦国時代を乗り切るのである。

『太平記』(197)

2月13日(課)晴れ、バスの車窓から雲に半ば隠れてはいたが富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峯山寺(こんぷせんじ)に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の角質から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが、再起を期して北国に向かったものの、越前金ヶ崎城で足利がtに包囲されている新田義貞たちの軍勢に伝わった。包囲軍に加わっていた武士たちの中で、瓜生保は宮方に心を寄せる弟たちに合流する意志を固め、包囲軍を率いる高師泰を欺いて本拠地である南越前のそま山に帰り、新田義貞の弟脇屋義助の子義治を大将として挙兵した。師泰は能登、加賀、越中の兵6千人に出動を命じ、そま山を攻めたが、瓜生は策を設けてこれを撃退した。

 北国から都に向かう街道が一部でも遮断されると、金ヶ崎城を包囲している足利方は、背後に敵の接近を許すことになり、甲状腺にも不都合が生まれるであろう、早いうちに、そま山に立てこもる宮方の軍勢の勢いが国中にいきわたらないようにしないといけないと考えて、足利一族で越前の守護である斯波高経は、北陸道7カ国の中から4カ国の軍勢3千余騎を率いて、11月21日に蕪木(かぶらき、福井県南条郡南越前町甲楽城=かぶらぎ)の海岸から越前の国府(越前市国府)に戻った。瓜生はこの情報を得て、敵に少しも脚を休ませては勝利はおぼつかないと、11月29日に3千余騎で押し寄せ、1日1夜の戦いの末、ついに高経の立てこもっていた新善光寺の城を攻め落とす。この時に討ち取られた足利方の300余人と、生け捕りになった130人の首をはねて、帆山河原(越前市帆山町を流れる日野川の河原)に並べてさらした。
 岩波文庫版の脚注によると、斯波高経が越前の国府に戻ったのは11月28日とする異本もあるようで、そのほうが前後の関係から見て適切である。先ほど調べて見たのだが、新善光寺城のあとは、越前市京町の正覚寺の境内に今でも残っているようである。

 この勝利の後、脇屋義治を大将とする宮方の勢いは近隣に行き渡り始め、平泉寺(勝山市平泉寺町にあった天台宗寺院。白山の供僧寺院として栄えた。明治以後は神社になっている)、豊原(坂井市丸岡町豊原にあった天台宗寺院、豊原寺)の衆徒、越前や近国の地頭御家人たちが引き出物を捧げ、酒肴を携えて、日ごとに大勢集まってきたが、義治はひどく興ざめた様子に見えた。

 それを不思議に思った瓜生兄弟の1人である義鑑房がその前に出て、「勝利が続いて目でたい時節であるのに、何故勇ましげなご様子をお見せにならないのですかと」と問うと、義治は「見方が2度の戦いに勝利して、敵を多く滅ぼしたのは、喜んでいいことではあるが、恒良親王や尊良親王の宮様方を始め、おじである義貞、父である義助以下、新田家の人々が金ヶ崎上で敵の方位を受けているので、さぞ兵糧につまり、戦いに苦しんで、片時も安心して入られないだろうと思いやると、珍味佳肴を口にしても味なく、酒宴に臨んでも楽しい気分にならないのだ」と答える。義鑑房は恐れ入って、「そのことであれば、ご安心下さい。このところ吹雪が激しくて、長距離の徒歩の行軍は難しいのですが、天気が少しでも晴れることがあれば、その時は必ず後詰の兵を派遣することにするので、それをお待ち下さい」という。そして義治が大将としての立派な見通しを備えていることに感涙を流さずには居られない。

 瓜生と共にそま山の軍に加わっていた宇都宮と小野寺(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺に住んだ武士)は、この問答を聞いて、栴檀は双葉よりかんばしというが本当だと感心した。義治は本当に立派な人物であり、金ヶ崎城にこもる味方の様子を明け暮れ気遣っているところが頼もしい限りである。こうなれば、出来るだけ早く金ヶ崎の後詰を実行しようと、兵を集め、楯を作らせて、雪がそれほど降らない日には出発しようと待ち受けたのであった。

 義治は第17巻に義助と義顕がそま山から金ヶ崎に退去する際に、義鑑房が宮方の兵を挙げるときの大将にしたいと請い受けてひそかに預かった人物であり、その時13歳で義助がそれまでずっと身辺においてかわいがっていたと記されているが、ここではなかなかの分別を見せている。数え年で13歳ということは未だ中学生になるか、ならないかという年齢であり、現代に引き寄せて考えれば、酒を飲んだり、酒宴を楽しんだりするような年ではないことも視野に入れる必要があるかもしれない。
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