『太平記』(162)

6月11日(日)曇り

 建武3年(延元元年、1336)、九州から東上してきた足利尊氏の軍船が兵庫沖に姿を見せた。また、陸路からは尊氏の弟である直義の率いる軍勢が押し寄せる。予期していた以上の大軍に来襲を迎えて、新田義貞は軍勢の手分けを行い、弟の脇屋義助を経島に、一族の大館氏明を燈籠堂の南の浜に配置し、自らは和田岬に陣を張って足利軍に対抗しようとした。京都から応援に派遣された楠正成は、期するところがあって湊川の西に自分たちだけの小勢で陣を張った。
 新田方の武士である本間重氏が遠矢を射て、その腕前を示し、両軍の戦闘が開始された。足利方の細川定禅の率いる四国勢が紺部(神戸:生田神社の近く)の浜に上陸しようとしたのを、和田岬付近を固めていた新田軍は阻止しようと東へと移動し、その移動した後に足利尊氏の率いる九州・中国の軍勢が上陸、楠正成は大軍の中に孤立した。

 正成は弟である正氏に向かって次のように述べた。「敵が我々の前後をふさいで、味方とは陣が隔たってしまった。もはや逃げる場所はないと思われる。こうなったら、まず前にいる敵を一散らし追い払って、その後で後ろの敵と戦おう」。正氏は、そのとおりだと賛同し、自分たちの率いる700余騎を縦に整列させて、大軍の中へと懸け入った。〔原文には「七百余騎を前後に立てて」(第3分冊、77ページ)とある。軍勢の大小を考えれば、正成が兵法にかなった魚鱗の陣形をとることは容易に想像できるが、乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)のこの時代には、それほどはっきりした陣形は実際には採用されていなかったという説に従い、このように解釈してみた。もっとも実際には、魚鱗の陣形と考えていいようである。〕

 足利直義の率いる武士たちは、楠の紋である菊水を記した旗に出会ったのを、(功名を立てるよい機会だと)幸運に思ったので、正成の軍勢を取り囲んで打ち負かそうと考えて、思い思いに激しく攻撃したが、正成、正氏はもともと名高い融資であるから、小勢ではあったが、少しもひるむことなく、東西南北に軍勢を移動させて、襲い掛かる敵を追い散らし、強敵に出会ったら、馬を並べて走らせて組討して馬から落とせ、格下の敵だと思ったら、一太刀打ち込んで追い払えと指示し、わき目も降らず、何度も何度も攻撃を懸けた。正成、正氏兄弟がひたすら念頭に置いていたのは、足利直義に近づいて、これと組内をして、その首をとろうということである。直義も大軍を率いる名将ではあるが、楠の武勇には劣るので、正成の率いる700余騎に圧倒されて、須磨の上野まで後退した。〔尊氏が優柔不断な性格であるのに対し、直義は果断であったとされる。しかし、いざ戦場に出ると、尊氏の方が優れた武将ぶりを発揮する。ここが不思議なところである。〕

 直義は、どうしたことであろうか、馬の脚の蹄の上のところを射られて、馬が前足を引きずって軍勢から遅れ始めた。そこへ楠の兵たちが近づいて、今にも討たれてしまいそうな様子であった。あわやというところで、高師直の家来である薬師寺十郎次郎公義が、ただ一騎戻ってきて、馬から飛び降り、二尺五寸(約75センチ)の短い長刀の柄の先端をもち長く差し伸ばして、襲い掛かる敵の馬の鬣の下の左右平らな部分や、馬の胸から鞍にかける紐を切り落とし、突き落とし、7,8騎ほどの敵を落馬させたので、その間に、直義は馬を乗り換えて、はるかに逃げのびてしまった。〔この薬師寺公義は岩波文庫版の脚注によると、歌集を残した歌人だそうで、筆が立つので自分の武勲を記録に残すことができたのであろう。他にも、直義を助けたものの、その功名が埋もれてしまった武士がいたかもしれない。〕

 直義の軍勢が正成に追い立てられて後退していくのを、兄の尊氏は遠方から眺めて、「大将が後退しているのが見えないのか。おのおの方、控えの新しい軍勢を入れ替えて反撃せよ。直義を戦死させてはならない」と命令を下す。これを聞いて、尊氏に従って、上陸してきた武士たちが我も我もと戦闘に赴こうとした。足利一族では吉良、石塔、渋川、荒川、小俣、今川、一色、岩松、仁木、畠山、外様の武将では豊後の大友、長門の厚東、周防の大内、美濃の土岐、播磨の赤松、下総の千葉、下野の小山、常陸の小田・佐竹らの武士たちが、それぞれ手勢の中から精鋭を選んで、7千余騎の軍勢を組織し、湊川の東へと進んで、楠の退路を断とうとした。

 楠兄弟はひるむことなく取って返し、新たに攻め寄せてきた多数の軍勢との戦闘に取り掛かる。対する足利方は、楠軍はすでに戦う力を使い果たした小勢で、新たに入れ替えもせず、ただ勇敢な気力だけで応戦してくるものだ。直接に対決せずに、こちらの軍勢を散開させて、敵を後ろへ突破させずに包囲して、戦力を消耗させようと決めて、正成の率いる軍勢が掛け合わせるとかけ違い、軍勢を開いて包囲した。楠はいよいよ気力を奮い起こして、その限りを尽くして、左に討ってかかり、右に取って返し、まえを破り、後ろを払う。足利方は、むやみに戦おうとしなかったのだが、楠軍は決死の覚悟を決めた小勢なので、足利方の中を駆け抜け、あちこちを走り回ったので、組討で落馬したり、斬り落とされたりしたものも多かった。人も馬も休むことなく、約6時間にわたり戦闘が続いた。その結果として、楠軍の人数は次第に減って、わずかに70余騎ばかりになってしまった。

 ここまで軍勢が減ってしまっても、まだ敵を打ち破って落ちのびることはできたが、楠は京都を出発した時から、死を覚悟していたので、一歩も退却しようとはせず、さらに攻撃と反撃を続け、あちこちで力の続く限り戦い、精も根も尽き果てたので、湊川の北の辺りに民家が並んでいた中に走り入り、腹を切ろうとして、鎧を脱いで自分の体を見ると、切り傷、射傷、11か所もあった。このほか、正氏以下70人余りの武士たちも5か所、10か所と傷を負っていない者はいなかった。

 楠の一族の主だった者たち16人、配下の武士たち50余人、思い思いに並んで、押し肌脱いで念仏を唱え、一度に腹を切った。正成、正氏兄弟も、すでに腹を切ったが、まだ息のあるうちに正成が弟の正氏の顔を見て、「臨終の一念次第で来世での生まれの善し悪しが決まるという。九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩)の中で、どこをおまえの願いとするか」と問うたのに対し、正氏は、笑って、「七たび生まれ変わっても、同じ人間界に生まれて、最後には朝敵を自分の手で滅ぼしたいと思います」といったので、正成は会心の笑みを浮かべて、「罪業は肌身にしみこんでいる。煩悩も時と場合による。来世は最後の一念で決まる。おまえは最もうれしいことを言ってくれた。さあ、つかの間の一生を終えて、すぐさま人間界に帰ってこの念願を遂げよう」と約束して、兄妹手人手をとって、刺し違えて並んで死んだのであった。

 九州の武士である菊池武朝(「菊池系図」によると武吉)は兄の使いで、この合戦の様子を見に来たのであるが、正成が腹を切る場面に遭遇して、この様子を見捨てて、おめおめとは帰れないと、自分の召し使っている下人に、急いで帰って兄にこの様子を報告しなさいと言って、その家に火をつけて、同じく自害をして炎の中に身を投じた。〔赤の他人に自分の家に押し入られて自殺され、さらに放火された家の持ち主が実に気の毒である。〕

 そもそも元弘のころからずっと、後醍醐天皇に信頼され、忠義を尽くし、功績を挙げた人々は少なくない。しかし、この乱が始まって以来、仁を知らない者は朝廷の恩を捨てて敵に属し、臆病な者は、一時的に死を逃れようとして降参してかえって刑罰を受ける。知恵のないものは、時世の変化を理解できずに、自分の進退に迷う中にあって、智仁勇の三徳を守って、大義の正道に殉じ、朝廷に武勲を立てることにおいて、古今を通じて正成に勝るものはいなかった。とりわけ、国家の興廃の機運を前もって察し、逃れられないところを逃れずに、兄弟ともに戦死したことは、帝の威光が武の徳を失う端緒ではなかろうかと、心配しない人はいなかった。

 京都を出発する以前に、正成が後醍醐天皇に申し上げていたように、わずかばかりの援軍で尊氏・直義の大軍に対抗できるわけがないのである。死を覚悟して戦場に赴いた正成は勇敢に戦って死んだ。『太平記』の作者は正成の人物像を賛美する一方で、その死が宮方にとって大きな打撃であったと論評している。戦闘に敗北したこと以上に、正成の死の意味は大きいのである。本来の大将である義貞の戦いぶりが、この後に語られることも、正成の存在の大きさを示すものではないかと思われる。

『太平記』(161)

6月4日(日)晴れ

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から東上してきた足利尊氏の水軍が兵庫沖に姿を見せた。また陸路からは尊氏の弟である直義の率いる大軍が押し寄せてきた。予期していた以上の大軍の来襲を迎えて、宮方の総大将である新田義貞は弟の脇屋義助を経島に、大館氏明を燈籠堂の南の浜に配置し、自らは和田岬に陣を構えて敵の来襲に備えた。応援に派遣された楠正成は自分たちだけで湊川の西の宿に陣を張った。
 戦闘開始に先立ち、新田方の武士である本間孫四郎重氏が沖合で魚をとらえていたミサゴを射て、その腕前を足利方に見せつけ、驚いた尊氏は、名乗るようにというが、本間は名乗るほどのことはないと、強弓を引いて遠矢を放って答えた。

 『太平記』の作者は、本間の矢が5,6町を射渡したと書いているが、これは誇張であろう。尊氏がこの矢を取り寄せてみると、「相模の国の住人、本間孫四郎重氏」と小刀の先で矢柄に書き記されていた。周囲の武士たちもこの矢を手にして、ああ恐ろしい、運が悪ければこの矢に当たって死なないとも限らない。この船の中の武士たちを狙っていて来るかもしれないと、早くも肝を冷やしている。
 本間は扇を掲げて、沖の方に手招きをして、合戦が始まろうとしている時なので、矢の1本でも惜しいと思う、その矢をこちらに射返してほしいと挑発する。尊氏はこれを聞いて、味方にはこの矢を射返すだけの腕前をもったものが誰かいるだろうか。これほどの大軍勢ということだから、東国の40余の武士団、九州の30余の武士団、そのほか、中国、四国、北国の武士たち、ほぼ余すことなくこの中にはいるはずだ。その中にはこの矢を射るほどのものが、射ないわけがないだろう。誰か射返して見せよという。しかし、皆固唾を吞んで声も立てない。
 尊氏の執事(家老)である高師直がかしこまって申し上げるには、本間が射かけてきた遠矢を同じ矢の狙い所に射返すことのできるものは、東国の兵のなかにはまだいるだろうと思いますが、佐々木筑前守信胤は西国一の弓を強く引く武士です。彼をお召しになって、仰せつけられるのがよかろうと思います。尊氏もうなずいて、尊氏の隣の船に乗っていた佐々木信胤を傍に呼ぶ。信胤は宇多源氏で備前の佐々木一族の武士である。(岩波文庫版の巻末の系図によると、『平家物語』に登場する佐々木兄弟の中の三郎盛綱の子孫ということである。)

 信胤は、召しに従って尊氏の船にやってくる。将軍は、信胤を近くに呼び寄せて、本間が射かけてきた矢を渡し、この矢を射返すことのできる武士がなかなか見つからない。射返してほしいと言ったのだが、信胤はかしこまって、自分にはできないということで採算辞退した。それでもたっての依頼であったので、ついに辞退することができず、自分の船に戻って、緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒をしめ、銀のつく(つがえた矢を固定する折れ釘状の金具)をつけた繫藤の強弓を、帆柱に当ててきりきりと押し張り、本間が射かけてきた矢をとり添えて、船の舳先に立ち、弓の弦を口につけて湿らせた様子は、いよいよ矢を射返すものと見えた。

 宮方に対して、足利方の武芸の腕前が劣るものではないことを示す、面目のかかった場面だが、よせばいいのにでしゃばり出てきた連中がいる。小舟を佐々木が弓をいよいよ射ようとしていた船の直前に漕ぎだして、讃岐勢の中から申し上げる。まず、この矢一つ受けて、弓の勢いのほどをご覧あれと声高に叫び、それと同時に鏑矢を1本射だした。佐々木もしばらくは弓を引かずに、この様子を見ていた。敵も味方も「あわや」と見守っていると、鎧の胴の最上部の板である胸板に弓の弦を打ったのであろうか、もともと力の弱い射手であったのであろうか、矢はひょろひょろと飛んで、敵の2町ほど前までも届かず、途中で勢いを失って海上に落ち、波の上に浮かび上がった。本間の後ろに控えていた新田勢の2万余騎は口々に「あ射たり、射たり」と本間がミサゴを射た時と同じことを繰り返して嘲笑った(本間に対しては賞賛の言葉であったのが、この讃岐の武士に対しては侮蔑の言葉であった)。この嘲笑がしばらく続いていたので、すっかり緊張感がなくなってしまい、これではなまじいても面白くない、取りやめよということになって、佐々木が遠矢を射返すことは中止された。

 このため、でしゃばり出た讃岐の武士は、味方の面目を失わせ、敵味方に笑われ憎まれたので、その恥をすすごうと思ったのであろうか、小舟一艘に200人ほどが乗り込み(小舟に200人も乗り込めるのか疑問である)、経島へ舟をこぎ寄せて、同時に磯へ飛び降りて、敵の真ん中に討ってかかった。これを迎えた脇屋義助の兵500騎が、これを包囲して、弓を持つ左手側と、馬の手綱をもつ右手側の両方から、近づいていき、手綱を回して囲んだ足利方の武士たちを射る。200余人の兵たちは、心は武勇にはやっていても、射ても少なく、しかも脇屋の兵は騎兵中心なのに対し、歩兵ばかりなので、騎兵の馬の蹄に追い散らされて戦いにもならず、結局全滅してしまった。彼らが乗ってきた船は乗る者もいなくなって、波間を漂うのであった。

 足利方の中の四国勢の大将である細川定禅はこの様子を見ていたが、後から続く兵がいなければ、多くの味方が撃たれてしまう。いまこそ戦う時だ。上陸するのに都合のよさそうなところに船をつけて、馬を追い下し、追い下し、上陸せよと命令を下す。そこで、大船700艘に乗っていた四国の兵たちが紺部の浜(摂津国八部郡神戸郷、現在の神戸市中央区の生田神社近くの浜)に上陸する。それよりも西の兵庫の経島付近の3か所に陣を構えていた宮方の5万余騎は、船に乗っている敵を上陸させまいと、船の動きを追いながら、上陸を妨げようと渚を東へ進み、あたかも船に乗った軍勢が陸上の軍勢を追い散らしているような様子に見えた。

 海上の四国軍と陸上の新田軍とがお互いに上陸地点をさぐりあいながら、渚伝いに駆け引きをしているうちに、東へと移動した新田軍と、ずっと動いていない楠正成の陣営との距離が開いてしまい、そのうえ、もともと新田軍が陣を構えていた兵庫の経島の船着き場は空になってしまった。そこで、九州、中国からやってきた兵船6千余艘が、和田岬に漕ぎ寄せて、同時に上陸したのであった。

 岩波文庫版の第2分冊の解説で兵藤裕已が述べているように、本間重氏が弓の腕前を見せる場面は『平家物語』の屋島の合戦の際の「那須与一」(巻11)ふう、さらに本間が自分の名を彫り付けた矢を射て、それを射返すように足利方に申し入れるのは、同じく壇ノ浦の戦いに先立つ和田義盛、仁井親清の「遠矢」(巻11)の逸話を踏まえているのだが、『平家』に比べて、『太平記』に早野富んだ距離の誇張がみられるという。
 しかもその後の足利方の対応は、すでにみたとおりだが、「『平家物語』の「那須与一」にほとんどそのまま依拠して、しかしいかにも『太平記』的な世界につくりかえている」(第2分冊、542ページ)という。那須与一が海上の的を射るのは、源氏の武運がかかった大事であるが、本間と佐々木の対決は、個人的な技量の優劣の問題でしかないと兵藤さんは言う。実際に、この後の事態の推移を見ていくと、本間は足利方に降参するし、佐々木は宮方に寝返る。『平家』の作者が念頭に抱いていた大きな歴史の動きのようなものは『太平記』の作者にはそれを信じたくても、見えないというのが本当の所であろう。

 すでに何度も登場している足利方の細川定禅の率いる四国軍が兵庫の東の方に上陸地点を求め、それにつられて新田軍が移動し、足利方の九州・中国軍の上陸を許してしまっただけでなく、楠正成を孤立させてしまう。源平の一の谷の合戦の場合、平家は福原にしっかりとした城砦を構えていたから、源氏は範頼軍と義経軍が東西から攻撃する形をとり、さらに義経はその中から精鋭を選りすぐって、北の方から奇襲をかけて攻略を図った。今回も、細川が東の方に上陸地点を探しているのは、新田軍を東西から挟撃しようという意図があったと思われる。東へ移動してきた新田軍と対決するのは細川定禅の率いる四国勢、また西からは足利尊氏の率いる九州・中国の兵が新田軍を追撃する、孤立している楠正成の軍勢は陸路を東上してきた足利直義の大軍と激突することになるということで、次回はいよいよ本格的な戦闘場面となる。 

『太平記』(160)

5月28日(日)晴れ

 建武3年(1336)4月末、足利尊氏は大宰府を発ち、5月1日に秋の厳島明神に到着、3日間参篭した。その結願の日、都から持明院統の光厳院の院宣がもたらされた〔『太平記』本文には、後伏見院が崩御の前に下された院宣とあるが、歴史的事実としては光厳院である。もっとも院宣がもたらされたのは、もっと以前のことだとされている〕。備後鞆の浦(広島県福山市)で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は義貞を応援すべく、楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。兵庫で正成を迎えた義貞は、足利の大軍と一戦を交えずに京都まで退却してしまうのは武将としての面目が立たないと語り、正成は兵法を知らない人々の評判を気にする必要はないと言い、お互いの気持ちを打ち明けあって夜を過ごしたのであった。

 翌朝、延元元年(延元は南朝の年号で北朝は建武3年=1336)5月25日、午前8時ごろ、暗い長雨の雲がようやく晴れて(太陰太陽暦で5月は梅雨の季節である)、風と波とがやや収まったちょうどその時に、沖の方に小さく風に漂う船がいえた。朝のうちに漁に出た舟か、海岸沿いの船路をたどる旅の舟かと眺めていると、次第に船の姿が大きくなり、漁船でも旅の船でもないことがわかる。舵を左右へと盛んに操り、楯を垣根のように並べ、櫓を備えて、大旗、小旗を立てた数万の兵船が、追い風に乗って帆を膨らませ、先がかすむほど波が果てしなく広がった中に、14・5里ほどの長さにわたって浪間が見えないほど密集して、こぎ進んでくる。それぞれの船が擦れ合うほど船首・船尾を並べているので、海上が突然陸地になり、船の帆陰に隠れて対岸の紀州の山も見えない。魏と呉が天下を争った赤壁の戦いや、元が宋を滅ぼした黄河の戦いの時の兵船の数もこれ以上ではなかったのではないかと、目を驚かして見ているところに、鹿嶋岡(神戸市長田区鹿松町)、鵯越(ひよどりごえ=神戸市兵庫区から北区一帯の地)、須磨の上野(神戸市須磨区の須磨寺=上野山福祥寺のある山)の一帯から、足利の二引両の紋、宇多源氏佐々木の四つ目の紋、片折違(かたすじかい)の紋、宇都宮・小山・結城の巴の紋、高氏の寄懸り輪違の紋を記した旗が6・700本風に吹かれて宙に舞いながら、その旗の多さによって知られる大軍の到来を知らせている。

 海上の兵、陸地の軍勢、予期していたよりもはるかに多く、噂をさらに上回るものであったので、宮方の兵は、三日他の軍勢の少ないのを改めて思い出し、戦う前から戦意を喪失してしまったのであった。とはいうものの義貞も正成も、大敵を見ると闘志を増し、小敵を見ても決して侮らないという後漢の初代皇帝である光武帝の精神を体得している勇者であったから、士気を失う様子はまったくなく、まず和田の岬の小松原(神戸市兵庫区和田岬の松林)に兵を進めて、静かに軍勢の手分けを行ったのであった。

 義貞の弟である脇屋義助を一方の大将として、一族23人、その配下の5千余騎を和田岬の近くの平清盛が築いた人工の島である経の島に配置する。新田一族の大館氏明が一族16人、3千余騎を率いて、これも平清盛が経の島の築造工事で死んだ人々を弔うために建立した燈籠堂の南の浜に控える。また一方には楠正成が、思うところあって自前の兵だけで700余騎、湊川(神戸市兵庫区湊川町)の西の宿に陣を張って、陸地の敵を迎え撃とうとする。総大将として新田義貞が2万余騎を率い、和田岬に陣幕を引いてそこを本営と定める。

 そうこうするうちに、海上の船が帆を下ろして磯近く漕ぎ寄せ、これに呼応して陸地の軍勢も旗を靡かせて進撃を開始する。遼仁たがいに攻め寄せて、兄である尊氏の率いる海上の兵船から太鼓を鳴らして、鬨の声を挙げれば、弟である直義の率いる陸の搦め手50万騎が、それを受け取って声を合わせて唱和する。その声が3度になったので、宮方の兵5万余騎も楯の板、矢を入れる箙を叩いて鬨を作る。敵味方の鬨の声が、南は淡路の絵島(兵庫県淡路市岩屋にある島で、月の名所として知られる)、鳴門海峡の奥、西は播磨路、須磨の板屋戸(神戸市須磨区板宿町の辺り)、東は摂津国生田の森(神戸市中央区生田神社の周辺)、四方三百里に響き渡って、天を支える綱である天維、大地の軸である坤軸も砕け傾くかと思われたのであった。〔1里を約4キロと定めたのはこの時代よりも後のことであるが、それにしても300里は誇張が過ぎる。『太平記』よりも少し前にイタリアで書かれた『神曲』の宇宙観はプトレマイオスの天動説に従ったもので、少なくとも地球が丸いということは認識しているのだから、時代遅れということで両者を同一視はできない。〕

 足利・新田の両軍がにらみ合いながら、まだ戦端を開かないときに、新田方の本間孫四郎重氏という武士が、黄色がかった河原毛(朽ち葉色を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒)の太ってたくましい馬に乗り、紅色の縅の革を下に行くほど濃く染めた鎧を着て、ただ一騎で、和田岬の波打ち際に出て、打ち寄せる波が馬の蹄を浸すほど前に出て、敵の様子をうかがっていた。
 この本間孫四郎というのは既に第13巻に登場し、出雲の塩冶高貞のもとから後醍醐天皇に献上された竜馬を見事に乗りこなしたという武士である。相模の国の、現在の神奈川県厚木市に住んでいた。
 すると一羽のミサゴ(海辺などに住むタカ科の鳥)が波をかすめて飛んでいったかと思うと、海中に潜り2尺余りの魚を1匹つかんで沖の方に飛んでいくのが見えた。弓の腕に自信のあった重氏は、重大な戦いを前に、このミサゴを射て自分の腕を敵味方の人々に見せてやろうと思った。
 当時の武士は矢を箙という入れ物に差していたが、その表側には2本の鏑矢を差す習わしであった。その鏑矢のうちの1本を抜き出して、自分の二所籐という2箇所ずつ一定の間をおいて籐をまいた大弓につがえて鳥の様子をうかがうと、その間にミサゴは波の上6・7百町(1町は約109メートル)ほども遠くを飛んでいる。そこで重氏は海の中に馬を乗り入れて追いながら、飛んで行く鳥を射た。鳥を殺すまでもない、命は助けてやろうと思ったのであろうか、鏑矢はミサゴの片方の翼の付け根を射切った。そして鏑矢は周防の豪族である大内弘幸の軍船の帆柱に、一揺れして突き刺さった。ミサゴは魚をつかみながら、尊氏の御座船の右手に並んでいた大友の船の屋形の上に落ちて、片翼をなくした鳥は慌てふためいて走り回っている。

 本間はこれを見て大声をあげて叫ぶ:「将軍が筑紫よりご上洛とのことで、定めて、尾道の遊女たちを多く同行させていらっしゃるでしょう。そのためにお肴を進上する次第でございます。」 敵・味方、陸・海の上からよく射たものだ、凄い腕前だとと称賛する声がしきりである。尊氏はこの様子を知って、敵の武士が自分の腕前を見せようとして射た鳥が、味方の船の上に落ちてきたのは吉祥である。ともあれ、この見事な腕前の持ち主は何者か、名前を知りたいものだ」と仰せになった。そこで、そばにいた小早川七郎(桓武平氏土肥の一族で安芸・備後の武士)が「比類なき腕前を披露されたことよ。さても御名字を何とおっしゃるのであろうか。承りたいものだ」と呼びかける。
 本間は、馬を渚の砂の上に引き上げ、弓を杖代わりにして、「大したものではないので、名字を申し上げても、誰もご存じないでしょう。とはいえ、弓矢をとっては坂東八か国の中に名を知る人もいらっしゃるかもしれません。この矢でご覧ください」と、五人がかりで張る強い弓に、十五束三伏の長い矢をつがえて、尊氏の紋である二引両の旗を立てた舟を目指して放つ。その矢は、海の上5・6町を通り越して、尊氏の船の隣の備前の佐々木一族である佐々木信胤の船端を矢竹がこすって、そのまま上に飛んで、屋形の外に立っている兵の鎧の草摺りの裏に突き刺さった。
 重氏が弓の名手ぶりを見せる場面であるが、ミサゴを射た時の7・8町(約800メートル)とか、今回の5・6町とかいうのは誇張も甚だしい。大学に務めていたころ、弓道部の練習風景を時々見るともなく見ていたので、弓がどの程度の距離を飛ぶのかはある程度分かっているつもりである。(そういえば、私が担任した学生には弓道部というのはいなくて、アーチェリー部というのが2人いた。) それから、重氏がもったいぶって名を名乗らないのはあまり好ましい態度ではない。このときの重氏の態度は、その後の彼の運命に影を落とすが、それはまた後の話である。
 重氏の腕前の披露を自分たちへの挑戦と見た足利方は代表者を選んで遠矢を射返すことになり、いかにも『太平記』的な物語が展開する。それがどのようなものかは、次回に譲ることにする。

『太平記』(159)

5月21日(日)晴れ、気温上昇

 建武3年(1336)4月末、都を追われて九州で再起を図っていた足利尊氏・直義兄弟は播磨の赤松円心の勧めで、大宰府を発った。途中、安芸の厳島明神に参篭、その結願の日に、都からかねて待ち望んでいた光厳院の院宣がもたらされた(これは歴史的な事実ではなく、院宣を得たのはもっと早い時期であったとされている)。備後鞆の浦(現在の広島県福山市)で軍勢の手分けを行った足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。ここで尊氏・直義の軍が合流するのを待ち受けて、一戦交えようという腹積もりである。
 この知らせを受けた後醍醐天皇は楠正成に兵庫に向かって義貞を助けるように命じた。正成は足利方の大軍を防ぎとめることは難しいので、再び天皇が比叡山に行幸されて、都を足利方に明け渡し、正成と義貞がゲリラ戦で足利方を苦しめ、形勢を逆転することを進言するが、この提案は退けられた。正成は死を覚悟して兵庫に向かうのであった。

 正成はこれが自分の最後だと思っていたので、長男である正行が11歳になって、父親のお供をしようとついて来たのを、桜井の宿(大阪府三島郡島本町桜井)で自分の本拠地である河内の金剛山に送り返すことにした。そして泣きながら、庭訓(父が子に与える教訓)を言い渡す。「獅子は、子どもを産んで3日経つと、はるかに高い岩のがけから、母親が子どもを投げる。投げられた獅子の子に獅子としての資質があれば、途中で身を翻して飛び上がって、死なないという。(今、自分は獅子の親が子どもを崖の下に投げるように、子どもの器量を試すべき時に来ている。獅子の場合は、生まれてから3日目であるが)おまえは既に10歳を超えている。いろいろなことがわかる年頃だと思うので、私のいうことをしっかり覚えていて、それを間違えず実行してほしい。
 今回の兵庫での戦いは天下分け目の合戦だと思うので、この世でお前の顔を見るのもこれが最後だと思う。正成がすでに戦死したという情報が広がれば、天下は必ず将軍(足利尊氏)のものとなるだろう。そうなったとしても、当座の命を助かるために、楠一族の長年の忠節を捨てて、武家方に降参するという不義のふるまいをするということがあってはならない。一族郎党のものが1人でも生き残っているうちは、楠一族の本拠地である金剛山に立て籠もり、敵が押し寄せてくれば、命を経偉人にさらして、名を後世に残すべきである。それこそがおまえの親孝行と思うべきである」と涙をぬぐいながら言い含め、父親は兵庫の戦場へ、息子は河内の金剛山へと別れていったのである。その様子を見守っていた人たちは、心猛々しい武士であっても、父子の心中を推し量って、鎧の袖を濡らさないものはなかった。
 この逸話は昔の教科書などに記されて、大きな影響力を持った。もう60年ほど前に死んだ私の伯母が、動物園でライオンの親子を見て、「獅子は万仞の石壁より、母これを投ぐれば」というけれども、実際にライオンを見ると、母親が子どもをとてもかわいがっていると言っていたのを思い出す。とはいっても、ネコ科の動物は高いところから落ちても、体勢を立て直してけがをせずに済ませることができるというから、この話もまったく嘘ではない。なお、正成・正行父子の桜井の宿での別れを歌った「青葉繫れる桜井の」という歌は、小津安二郎の映画『彼岸花』に出てくるので、私の耳に残っている。

 『太平記』の作者はこの後、秦の丞相であった百里奚が息子である孟明視が出陣する際に、自分は老齢であるので息子が帰還するころにはもう会えないだろうと言って泣いたという話を引き合いに出して、正成・正行親子の父子二代にわたる忠義を称賛する言葉を記しているのだが、自分の知識をひけらかしているだけで、却って、感動を薄めているのではないかという気がしないでもない。

 このような次第で、楠正成は兵庫に到着する。新田義貞はすぐに正成と対面して、後醍醐天皇のご意向がどのようなものかを訪ねた。正成は、自分の考えと、天皇のお言いつけの内容を詳しく語った。義貞は、(正成の都をいったん去って足利方に明け渡したうえで、ゲリラ戦で苦しめて、その士気をそいでいくという正成の戦術について理解を示しながら)、「このたびの戦で不利な立場に立った少数の軍勢で、勢いに乗った敵の大軍と戦おうとするのは、無理が多いというのは承知しているが、昨年、箱根・竹下の合戦で敗北し、そのまま都に落ち延びて、途中で敵を防ぎとめることができなかったことで、世の人々の嘲りを避けることができなかった。それだけでなく、このたび西国に派遣されて、敵の数か所の城の一か所も陥落させることができないうちに、敵の大軍の襲来を聞いて、一戦も交えず、京都までの長い道のりを逃げてしまったのでは、あまりにふがいないと思われるので、勝敗を度外視して、この一戦で忠義のほどを示そうと考えるばかりだ」という。

 正成は、「愚かな大勢のものが言い立てる意見は、一人の賢人の言葉に劣る」という言葉もありますから、兵法を知らない人々のそしりを必ずしも気に掛ける必要はありません。ただ戦うべきところを知って進み、退くべきところを見て退くのをよい大将というわけですから、「暴虎馮河して、死すとも悔いなからん者には与せじ(虎に素手で向かったり大河を徒歩で渡ったりして、死んでも後悔しないような無謀な者とは、行動をともにすべきではない/論語・述而)と孔子もその弟子である子路を戒めたものです。義貞様にあっては、元弘の初めに北条高時を鎌倉で滅ぼし、今年の春は、尊氏卿を九州に敗走させたこと、天皇の聖運とは言いながら、やはり貴殿の武士としての徳によるものではないかと思われませんか。合戦のやり方については誰も非難しません。さらにこのたび西国から京都に退却されていること、その戦術、いちいち合戦の道理にかなっていると思われます」と語る。
 この言葉を聞いて、義貞は顔色が明るくなり、二人で夜を徹して語り合ったのであった。「貴殿の言われることを聞いていると、義貞の武勲も、一概に軽くは見られていないのは、私にとって励みになることだ」と言い、その夜は数杯の酒を飲み交わしたのであった(本来ならば、もっと飲みたいところだったのだろうが、明日は合戦と思うと控えなければならない・・・というのが、両者の気持ちが酒飲みには余計によくわかる箇所である)。
 武士の面目を気にする義貞と、現実主義者の正成という性格の違いがある一方で、義貞は戦いで敗れた後のことを気にしているのに対し、正成はこの一戦に死を覚悟しているというまったく逆の内心の動きも知られる箇所である。治承・寿永の源平の争乱の際にも重要な戦場となった兵庫で、一戦交えるというのは義貞らしい決断ではあるが、勝機を見出すのはかなり難しい。狭い地形の中では軍勢の多寡よりも、士気や指揮官の戦術が物をいう可能性が高いが、そうはいっても、彼我の軍勢の差が大きすぎるのである。 

『太平記』(158)

5月14日(日)曇りのち晴れ間が広がる

 建武3年(1336、この年2月に「延元」と改元されたはずであるが、『太平記』の作者は旧年号を使い続けている)4月末に、宮方の攻撃を支えることができず、九州に落ち延び、そこで武士たちの支持を得て再起を図ろうとした足利尊氏は大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。(歴史的事実としては、尊氏が持明院統の院宣を得たのはもっと早い時期のことであり、厳島明神と院宣を結びつけたところに作者の足利方への配慮が感じられる。もっとも、足利氏は源氏であり、厳島神社は本来平家の守り神である。) 備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は戦線を縮小して敵の大軍に有効に対処しようと摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は楠正成に兵庫で義貞を支援するように命じた。これに対して正成は朝廷が都を放棄して、再び比叡山に立て籠もり、都に戻った足利軍を南北からゲリラ戦で苦しめて弱らせるという戦術を提言する。

 この正成の提言をもっともだとお考えになった後醍醐天皇は公卿たちに今後の戦術について協議させる。岩波文庫版の『太平記』が底本としているのは西洞院本であるが、この個所は『太平記』の様々な写本によって記述が異なる。なお、公卿たちの会議には天皇・摂政・関白は出席しない習わしであるが、建武新政時代にこの習わしが続いていたかどうかはわからない(私が知らないだけで、研究した人はいるのではないかと思う)。

 公卿たちの会議の後で、天皇が重ねて仰せられたのは、「朝敵を征伐するために、その印の刀を拝領して征伐に向かう将軍が、まだ本格的に戦っていないうちに、朝廷が都を捨てて、1年のうちに2度まで地方に行幸されるということでは、天皇の地位が軽いということがあからさまになってしまう。また官軍としての面目を失うことにいなる。尊氏がたとえ九州の軍勢を率いて上洛してきたと言っても、昨年の春、関東の8か国の軍勢を率いて上洛してきた時の勢いには及ばないであろう。戦いの始めから、敵軍の敗北の時にいたるまで、味方は小勢であったが、毎度敵を服従させないことはなかった。〔これは何度か書いてきたように、そのとおりである。しかし、今回は足利方は持明院統の院宣を得て、大義名分を獲得して戦いに臨んできている。〕 「これ武略の勝れたるにあらず。」(第3分冊、63ページ、武士の立てた戦略が優れていたからではない。)ということであった。これは正成が述べたことを真っ向から否定するものである。さらにそれに加えて、「ただ聖運の天に叶へる事の致す処なれば、何の子細かあるべき。ただ時を替へず罷り下るべし」(同上、ひとえに、帝(私)の運が天命にかなっていたための勝利なので、このたびの戦いにも何の支障があろう。即刻、罷り下るべきである)と仰せになった。〔足利方と持明院統の連携が成立し、足利方の士気が奮い立っていることに気付いていない様子である。〕

 正成が誠意をもって申し上げた献策が真っ向から否定されたのである。岩波文庫版の脚注によると、これを諸卿僉議の際の坊門清忠の発言とする異本もあるそうである。清忠は後醍醐天皇の近臣で、『太平記』第12巻では鎌倉幕府滅亡後も信貴山に留まって武装を解除していなかった護良親王に、後醍醐天皇の命を受けて僧籍に戻るように説得に出かけている。どちらにしても、もう少し言いようがあっただろうと思う。「聖運が天に叶」っているのであれば、正成を差し向けるのではなく、自分自身が出かけたらどうだと言いたくもなる。少なくとも、正成に対し、何か一言、あるいは褒賞の約束をして送り出すべきではなかったか。(あるいは実際にはそうだったけれども、『太平記』の作者がわざと書き落としたということもありうる。)

 自分の献策を全面的に否定された正成は、「この上は、さのみ異儀を申すには及ばず。且は恐れあり。さては、大敵を欺き虐げ、勝軍を全くせんとの智謀、叡慮にてはなく、ただ無弐の戦士を大軍に充てられんとばかりの仰せなれば、討ち死にせよとの勅定ござんなれ。義を重んじ。死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」(第3分冊、63ページ、これは敬語が使われていないので、正成の心の中の言葉と考えるべきである:この上は、むやみに異論を申し上げることはない。そうはいっても、一方では恐れが残る。大敵を策をもって懲らしめ、勝利を確実なものにするという謀は、天皇のお考えには無く、ひとえに忠義無類の武士を大敵に向かわせようとの仰せなので、つまるところは戦死せよという勅命であろう。義を重んじ、死を顧みないのは忠臣勇士の本懐とするところだ」と述べて、その日のうちに正成は500余騎の兵を率いて都を発ち、兵庫へと向かっていった。
 この言葉には一方でこれまで自分を引き立ててくれた天皇に対する恩義に報いようという気持ちと、その気持ちから発する自分の勝利のための戦術が用いられないこと、公卿たちの机上の空論に基づく自分への出動命令の思慮のなさに対しての怒りが交錯している。お公家さんたちの空理空論に死をもって抗議しようというのである。正成が戦死してしまえば(事実そのとおりになるのだが)、お公家さんたちは再び比叡山に逃れることになる。(だから初めから逃れておけばよかったと思っても後の祭りである。) 自分の将来についての割り切った気持ちと、朝廷や世の中の将来についての複雑な気持ちの両方が交錯する中で、正成は兵庫に向かう。
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