『太平記』(192)

1月9日(火)朝のうちは雨が残っていたが、次第に晴れ間が広がり、気温も上がる。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、京都に還幸しようとした後醍醐天皇は、新田一族の堀口貞満の諫めに会い、自身は京都に戻るものの、東宮である恒良親王に譲位され、義貞とともに宮方に心を寄せる武士たちを頼って北国に向かい、そこで再起を期すように命じられた。10月10日、京都に戻られた天皇は直義に迎えられ、花山院に幽閉された。その際、神器を渡すように迫られ、偽の神器を渡した。北国に向かった義貞軍は木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。義貞の弟である脇屋義助と義貞の長男の義顕は南越前の杣山へ行き、瓜生保に援軍を求めたが、保は偽の綸旨に騙されて足利方となり、2人は引き返さざるを得なくなった。保の弟の義鑑房は、義助の子義治を大将として預かり、再起の機会をうかがうことにした。金ヶ崎を発つ時に3千余騎を数えた義助・義顕の兵は16人まで減っていたが、計略を用いて金ヶ崎城を包囲していた足利方の大軍を追い散らし、城に戻ることができた。

 杣山から引き返してきた16騎に欺かれて、金ヶ崎城を包囲していた軍勢が四方に逃げ散ったという噂が、京都にまで伝わり、尊氏は大いに怒り、直ちに大軍を向かわせた。
 越前の守護で足利一族の(斯波)尾張守高経は、北陸道の軍勢5千余騎を率いて、蕪木(かぶらぎ、福井県南条郡南越前町甲楽城(かぶらぎ))から金ヶ崎へと向かった。丹波守護で足利一族の仁木伊賀守頼章は、丹波、美作の軍勢1千余騎を率いて、(近江)塩津から向かった。但馬守護で足利一族の今川駿河守頼貞は、但馬、若狭の軍勢700余騎を率いて、小浜から向かった。〔頼貞は今川貞世=了俊の従兄である。〕 丹後守護の荒川三河守詮頼は、丹後の軍勢800余騎を率いて、疋壇(ひきた=敦賀市疋田)から向かう。阿波守護の細川源蔵人頼春は四国の軍勢2万余騎を率いて東近江から向かい、高越後守師泰は、美濃、尾張、遠江の軍勢6千余騎を率いて、荒血(あらち、愛発とも書く。滋賀県高島市マキノ町海津から敦賀市に抜ける峠)の中山から向かう。小笠原信濃守貞宗は信濃国の軍勢5千余騎を率いて、新道(福井県南条郡南越前町新道)から向かう。出雲守護である佐々木塩冶判官高貞は出雲、伯耆の軍勢3千余騎を集めて、兵船700余艘に乗って、海上から攻め寄せる。
 足利勢は合わせて4万余騎、山中には武士たちの詰め所を作り並べ、海には舟筏を汲んで並べ、金ヶ崎城の四方を厳重に囲み、ほんのわずかの隙間もない様子であった。

 金ヶ崎城はというと、三方は海に面して海岸は高く、岩は滑りやすかった。南東の方角には山があって、城よりも少し高く、寄せ手は山から城の中を眼下に見下ろすことができたが、崖は絶壁となり、その下の地面は低くなっていて、近づいてみると、城郭は雲の上かと思うような高さに見え、山から城にめがけて矢を射ても、非常に高い谷の底に落ちる。したがってどんな計略を用いて攻めても、切り立った崖の辺まで近づくすべもなかった。
 城内に立て籠もっている軍勢は小勢ではあったが、名将新田義貞とその一族が自分たちの総力を結集して籠城作戦を続けていた。一方、寄せ手は大勢で、しかも足利尊氏の一族がその力を誇示しながら向かってきたので、新田足利両家の争いは、この城の攻防戦にかかっていると、それぞれ気を引き締め、工夫を凝らし、戦いを休むことなく、矢に当たって傷を折ったり、石に討たれて骨を砕くものなど、日々ごとに選任、2千人を数えた。しかしそのような激闘を続けても、足利方は新田方の逆茂木(棘のある木でつくった防御の柵)の1本さえも破ることはできなかった。

 この様子を見て、小笠原信濃守は、屈強の兵800人を選んで、東の山の麓から、東南の角の尾根を横切って、楯をかざし並べて、登っていった。確かにこれは攻め破られそうな場所であったようで、城中の兵が300余人、二の木戸を開いて、同時に打って出てきた。両方の距離が縮まると、矢を留めて太刀戦になり、防ぐ新田方の兵は、ここで退却するとそのまま城中に相手が乱入すると危惧して、一歩も退かず戦う。足利方の兵はみっともなく退却してしまうと、敵味方の兵に笑われてしまうので、そうはさせまいと命を捨てて攻めかかる。

 城中の新田方の兵はさすがに小勢であったので、戦いの疲れの色が見え始めたところに、仮名が先入城の際に明暗を思いついた栗生左衛門が、緋縅の鎧に、龍の頭を前立て物にした兜を夕日に輝かし、6尺3寸の太刀に、柏木の棒の八角に削った1丈2,3尺(エメートル60-90センチ)あろうかと思う得物を振り回して、大勢の中に走りこみ、片手うちに散々に打って回った。それで寄せ手の足利方の兵、4,50人が振り飛ばされたり、なぎ倒されたりして、砂の上に倒れ伏し、目や鼻から血を流す。後に続く兵たちがこれを見て、浮足立ってないうち際に立ちどまっていたところへ、気比神宮の神官である気比弥三郎太夫の長男の太郎、上野の武士矢島七郎らがぬかりなく打ちかかってきたので、叶わないと思ったのだろうか、小笠原の率いる800余騎の兵は、一度にばっと退却し、元の陣へと帰ったのであった。

 この戦闘の様子を見ていた今川頼貞は、今日の合戦での敵方の戦いぶりは、攻め破られそうな場所であるからこそ、勝負の分け目であるとして城から出てきてたたかったのであろう。しかし、こちらは陸地から攻め寄せたので、足場が悪く、敵に追い払われてしまった。一つ、舟に乗って押し寄せて、攻撃してみようと考えて、小舟100余艘にとり乗って、前日に小笠原が攻めた海岸付近から上陸した。浜に寄せると同時に、鹿垣を一重破壊し、やがて、城の出し塀の下にとりつこうとしたとき、また常駐から全身を鎧で包んだ兵200よんが、一斉に刀を抜いて出てきたので、寄せ手も踏みとどまって、力戦したのであるが、城から出てきた方の武勇が勝り、しゃにむに進んできたので、寄せ手500余人は、追い落とされて、われ先に船に乗り込んで逃げようとした。

 遙に船を出して後をふりかえると、中村六郎という武士が、負傷して舟に乗り遅れ、磯の松の陰に隠れて太刀を杖代わりについて、「その舟戻ってこい」と招くのだが、あれやあれやとばかり声をあげるものの、助けようとする者はいなかった。ここに播磨国の住人野中八郎貞国という武士が、これを見て、「(中村が逃げ遅れたのを)知らずにいたのなら仕方ないが、味方の兵が舟に乗り遅れて、敵に討たれようとしているのを目の前に見ながら、助けないということがあっていいわけはない。舟をこぎ返せ。中村を助けよう」といったのだが、誰も耳を貸そうとしない。
 貞国は大いに怒って、自分が乗っていた舟の櫓を奪って、逆櫓(舟の舳先に櫓を立てて逆向きに漕ぐこと)にして舟を押し返し、遠浅のところから膿に入って、ただ一人中村が前に歩いていく。城の兵たちは、これを見て、「けがをして逃げ遅れているものは、おそらくは名のある武士であるからこそ、これを戦死させまいと、はるか遠くまで退却した敵が、また引き返して戦うのだろう。首をとれ」と、12・3人ほどの武士が中村の後ろに走りかかる。
 貞国は少しも騒がず、長刀の柄の先端部分を持ち長く使って、向かってきた敵1人両ひざを薙いで斬り据え、その首をとって長刀の切先に突き刺し、中村を肩に担いで、しずかに舟に乗った。敵も味方もこれを見て、「あはれ、剛の者や」と口々にほめたたえたのであった。

 その後は、寄せ手は大勢ではあるが、新田方の防備が固いので、攻めあぐね、こちらも逆茂木を引き、敵城に向かい合って作る櫓を高く築き、ただ徒に遠くから矢を射かけるだけの戦をして日々を過ごしたのであった。

 ずいぶん長く、内容も多岐にわたっていた第17巻であるが、ここであっけなく終わる。今回紹介した個所は、最後の野中八郎の活躍のように軍記物語らしい描写がふんだんに出てきて、あまり有名な箇所とは言えないのだが、結構読んでいて面白かった。
 

『太平記』(191-2)

1月2日(火)晴れ

 個人的なわがままで、失礼いたしました。続きを書いていきます。

 わずか16騎になってしまった脇屋義助、新田義顕の軍勢であったが、後詰の大軍と偽って金ヶ崎を包囲している足利方の軍勢の中を駆け抜けようという栗生左衛門の献策に従って、夜が明けてすぐに金ヶ崎包囲軍の中に突入した。その一番に進んだのは武田五郎という甲斐源氏の武士で、京都の合戦で右の腕を負傷して、まだ治りきっていないので、右手が使えず、太刀の柄を握ることができない。そこでやむなく杉の板をもって6尺(約1メートル80センチ)ばかりの木太刀を作り右の腕に括り付けて突撃する。二番手に進んできたのは、この作戦を提案した栗生左衛門で、帯副(はきぞえ≂予備のためにもう1本腰に差す太刀)がなかったので、深山に生える柏の周囲1尺ぐらいの木を、1丈2尺(約3メートル60センチ)に切って、金棒のように見せ、右の小脇に挟んで、大勢の中へかけ入った。〔ほとんどやけくその状態での敵中突破の試みである。〕

 これを見て、金ヶ崎を取り囲んでいた寄せ手の3万余騎の軍は、「さては、杣山から後攻めの軍勢が攻め込んできたのか」と言い、馬を、武具をと慌て騒ぐ。計略通り、三山寺に立てておいた旗が、木々の間を吹き抜ける風に翻るのを見て、足利方の攻囲軍は後攻めの軍勢が大勢だと勘違いをして、若狭、越前からやってきた武士たちは、楯を捨て、弓矢を忘れて、どんどん退却していく。城の中の軍勢の中から800余人が、これは好機だと、敦賀湾の浜を西へ進み、気比神宮の大鳥居の前に打って出たので、攻囲していた大軍は、慌てふためいてあちこちに逃げ散ってしまう。味方が退却してきたのを、敵が追いかけてきたのと勘違いして、立ち止まって同士討ちを演じたり、あるいは前を斜めに横切って逃げていくのを敵と思って、立ち止まって腹を切ったりする。2人、3里(約8キロ、12キロ)逃げてもまだ立ち止まらず、誰も追いかけてこないのに遠くまで退却しただけでなく、自分の本拠地へと帰っていった。〔例によって、足利方は数が多いが、戦意が低い。〕

 金ヶ崎城を十重二十重に取り囲んでいた敵兵が、一時の謀に追い散らされて、城の周辺に敵が一人もいなくなったので、これはただ事ではないと、城中の人々は大いに喜んだのであった。
 10月20日の早朝、入江や入江に臨む山に降る雪はやんで、海に浮かぶ苫葺きの小舟の上に月が照り、陣幕を風が靡かせて、色を変えない松の緑は無数の花を敷き詰めたように見えた〔大げさな表現!〕。このような興趣は都では出会うことができないような風流だというので、(東宮以下の宮様方の)お心をお慰めしようと、海岸の舟に灯をともさせて、龍頭鷁首(船首に龍の頭と、鷁(げき≂想像上の鳥)の首を付けた二艘一対の舟)になぞらえて、雪景色を楽しんでいただいた。東宮(恒良親王)、一宮(尊良親王)は琵琶を奏でられ、洞院実世は琴を弾き、義貞は横笛、義助は笙の笛、もともと越前の武士である河島惟頼が打楽器を鳴らして、蘇合という天竺伝来の雅楽曲の導入部分、万寿楽という百済伝来とされる曲の導入に続く部分を演奏し、激しく弦をかき鳴らし、勢いよく笛を吹く音、一人が歌い、三人がそれに和す声、やわらいでのびのびとして、上古の正しい楽の音にかなっていたので、天人が空から下りてきて、竜神も喜んで受け入れるほどの出来栄えであった。昔の中国の聖天子であった舜が作ったという「韶」を9度演奏したので、鳳凰が舞い降り、魚が跳びはねるようなことが起きても不思議はないという名演奏であった。〔例によって大げさな描写である。〕

 情趣を解することがない魚までもが、この妙音に感動したのであろうか、水中から跳びはねて、宮様方の乗られていた船の中に飛び込んできた。洞院実世がこれを見て、「昔、周の武王が八百の諸侯を率いて、殷の紂王を放伐しようと孟津を渡った時に、白魚が飛んで武王の舟に入った。武王はこれをとって、天に祭り、その結果、戦いに勝つことができて、殷の天下が亡びて、周が800年の天子の位を保った。今の奇瑞は、この故事と同じである。早くこれを天に祭り、祝うべきだ」と言われたので、調理人がすぐにこれを料理して、神への供え物として、恒良親王に奉った。
 恒良親王が杯を傾けられている時に、鳴吉(なるよし)の袖という遊女が、御酌をしていたのであるが、拍子を打って、「翠帳紅閨、万事の礼法異なりと雖も、舟の中波の上、一時の歓会これ同じ」と『和漢朗詠集』の中の歌を歌った。「翠(みどり)の帳(とばり)を垂れた紅に飾った閨(ねや)で尊い女性と夜を過ごすのとは、よろずの作法は異なるが、舟の中、浪の上で遊女と過ごす夜も、一時の楽しみに変わりはない」という意味の歌である。四季折々の楽の調子の真ん中を高い声でしみじみと歌ったので、東宮以下の宮宮も感動されただけでなく、武将や軍兵もみな一様に涙を流したのであった。

 義助、義顕の軍勢は16人まで減ったが、謀を用いて、無事金ヶ崎城に戻ることができた。しかし、城を出た時は3,000余騎だったのだから喜んでいる場合ではないと思うのだが、喜んで、舟遊びなどしている。大丈夫なのだろうか。
 16騎が後詰の軍勢と偽って名乗りを上げる時に豊原寺、平泉寺、金釼宮、白山本宮などの寺社が含まれているのが、この時代の北陸地方における宗教地図を示していて興味深い。まだ蓮如上人がこの地域に布教して、真宗王国を築く以前のことである。平泉寺というのはいまは神社になっていて、その社家から平泉澄、渉の父子が出ているのは、ご存知の方もあるだろう。剣=金釼宮は、石川県の神社だと解釈されているが、福井県の丹生郡織田(おた)町にも剣神社があり(越前二宮)、織田信長の先祖はここの神社の社家で、斯波氏に仕えて、尾張に移った後、頭角を現した。
 「東宮」(即位されて天皇になっていたという説もある)恒良親王は正中2年(1325)の生まれとされるから、まだ年少で、酒を飲んだり、遊女と遊んだりされるような年ごろではない。一宮の尊良親王は歌道の大御所二条為世の孫で、1306-08年ごろに誕生されたと考えられているから、舟遊びの主役はこちらの方であったと考える方が妥当である。舟遊びでは皇族、公家、武士が雅楽を合奏している。静御前が源頼朝の前で舞を舞ったときに、坂東武士が音楽を奏したという話があるから、武士の間でも楽器の演奏をたしなむ者は多かったのであろうが、どんな演奏ぶりであったのかは、興味深い。
 船の中に飛び込んだ魚が何であったのかははっきりしない。洞院実世の発言の中に「白魚」とあるのは、文字通り「白い魚」と解釈すべきで、それを根拠に「シラウオ」あるいは「シロウオ」と特定はできない。飛び込んだ魚が「白魚」であるとは、『太平記』の作者は語っていないのである。ということで、敦賀湾のサカナに詳しい方にこの点をめぐりご教示いただければ幸いである。

『太平記』(191-1)

1月2日(火)晴れ

 明けましておめでとうございます。本来ならば、昨日中に新年のご挨拶を申し上げなければいけなかったところですが、疲れて酔いが回ってしまい、気の利いたご挨拶が出来そうもなく、1日遅れとなりました。失礼の段、お許しください。
 13世紀から14世紀にかけて活躍したイタリアの詩人ダンテの『神曲』は、昨年読み上げたのですが、それよりも少し遅く、14世紀の日本で書かれた『太平記』の方はまだ全体の半分までも読み進んでおりません。とにかく、一歩、一歩前に進んで行くよりほかに読み通す道はありませんので、何とか読み続けていきたいと思っております。今後ともよろしくお付き合いください。

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月、都を逃れて比叡山に臨幸されていた後醍醐天皇と宮方の軍勢は、足利方に補給路を塞がれたために兵糧に窮していた。足利尊氏は天皇に密書を送り、京への還幸を促し、天皇は周囲のものと協議されることもなく、還幸の準備をされた。これを知った新田一族の堀口貞満が天皇を諫め、天皇はこれに応えて、東宮である恒良親王を即位させたうえで義貞に託し、北国で再起を期すように命じられた。10月10日、天皇は京に還幸されたが、天皇を迎えた足利直義により花山院に幽閉された。この時、北朝の天皇に神器を渡すように言われて、偽物を渡した。〔林屋辰三郎『南北朝』(朝日新書)の90ページ以下にこの経緯についての考察があり、「後醍醐天皇は、尊氏よりはるかに謀略的であった」(90ページ)、「天皇は3人で来た」(91ページ)と論じられている。〕 天皇に従っていた公卿たちは官を解かれ、僧侶や武士たちは処罰されたり幽閉されたりした。
 北国へ向かう新田軍は木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。その後、義貞の弟の脇屋義助は南越前の豪族瓜生氏を頼り、越後にむかおうとする義貞の子義顕とともに瓜生の杣山城の麓にある鯖並の宿で瓜生保に迎えられた。はじめは一行を歓迎していた瓜生保であったが、越前の守護で足利一族の斯波高経を通じて送られた偽の綸旨に騙されて、足利方となった。保の弟の義鑑房は、義助の子の義治を大将として預かり、後日を期した。瓜生の変心を知った武士たちの多くが離れていったために、小勢になった義助、義顕は金ヶ崎に戻ることにして、途中、今庄で足利方の今庄入道浄慶に道を阻まれたが、配下の由良光氏の忠誠心が淨慶を動かし、先へ進むことができた。

 とはいえ、淨慶に道を阻まれてこれ以上は進めないと思ったのであろうか、義助、義顕ノ200余騎に減っていた軍勢からさらに抜け出す武士が続出し、数えてみると16騎になってしまっていた。そのころ、敦賀にあった三山(深山)寺の辺りで行き合ったものに、金ヶ崎の城の辺りの様子を尋ねたところ、前日の朝から、諸国の兵2,3万騎で城を厳重に包囲、攻撃しているとのことであった。そういう事情であれば、どのようにして入城できるだろうか。(できそうもない。) これから東山道(近江から信濃の山間部を経て東国へ至る街道)を通って、こっそり越後に戻ろう。あるいは、今はこれまでなので、ここで腹を切ろうなどといろいろな意見が出てまとまらない中で、栗生左衛門という(現在の群馬県桐生市に住んでいた)武士が進み出て、次のように述べた。「どのような道を通っても、遠路越後まで落ち延びることは不可能だと思われる。下人を1人も召し連れていない旅人が疲れ果てた様子で通交していくのではだれもが、自分たちを落人だと思うだろう。また、おのおの方がここで腹を切るというのは粗忽の至りである。今晩はとにかくここに身を隠して夜を明かし、まだ明け方の時間を利用して、杣山の城から後詰(城攻めの敵をそのまた背後から攻めること)をするぞーと大声で叫び、敵の中にかけ入って戦えば、敵が慌てて道を開けるかもしれず、そうなったら入れ違いに城に入ればよい。またもし敵が動揺せずに、迎えうってくれば思う存分戦って、金ヶ崎の城の中にいる新田義貞の目に留まるような戦いぶりを見せた後に戦死すればよい。主君の目に留まり、思い出に残るような戦いをしてこそ武士というものである。」 この発言を聞いて、一同は賛同し、敵の眼から見て、自分たちが実際以上の大軍であるかのように見せようと、16人が鉢巻と上帯を解き、青竹の上に結びつけて旗のように見せ、あちこちに立てかけて夜明けを今か今かと待ち受けたのであった。

 一番鶏が時を告げるやいなや、16騎の人々は新田の中黒の旗を1流れ掲げ、三山寺の木陰から敵が城に向かい合って張っている陣営の後ろから駆け出て、「瓜生、富樫、野尻、井口(石川県金沢市富樫、富山県南砺市野尻、同市井口に住んだ武士、井口はいのくちと読む)、豊原(福井県坂井市丸岡町豊原の豊原寺、白山衆徒の一根拠地だった)、平泉寺(福井県勝山市平泉寺町にあった天台宗の大寺。白山信仰の修験道場として栄え、多くの僧兵を擁した)、剣(石川県白山市の金劔宮(きんけんぐう)。白山七社の一つ)、白山(白山市の白山本宮)の衆徒2万余騎で後詰に駆け付けたぞ。城中の皆さん、我らの勇敢な戦いぶりをご覧になって、後の世の上人になってください」と口々に叫んで、攻め寄せた。

 これから、全国高校サッカー選手権を見に出かけるので、いったん、中断させていただきます。悪しからず。
 

『太平記』(190)

12月25日(日)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、近江を押さえられた比叡山の宮方が兵糧につまった頃、足利尊氏は密書を送り後醍醐天皇へ京への還幸を促した。還幸を企てる天皇を、新田一族の堀口貞満が諫めると、天皇は義貞に東宮恒良親王らを託し、引っ込区で再起を期すよう命じた。10月10日、天皇は還幸したが、直義により花山院に幽閉された。北国へ向かう義貞軍は、木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。脇屋義助と義貞の長男である義顕は南越前の杣山へ行き、瓜生保に援軍を求めたが、保は偽の綸旨に騙されて足利方となり、保の弟の義鑑房が義助の子義治を大将として預かることになった。

 明けて10月15日、杣山の瓜生が頼りにできなくなったので脇屋義助は金ヶ崎に帰り、義顕は越後に下ろうとしたのだが、宿で勢ぞろいをしてみると、瓜生が心変わりをしたことを聞き知ったようで、いつの間にか姿を消してしまった武士が多く、前日までは3,500余騎と言っていた軍勢がわずかに250騎に減っていた。この軍勢で多くの敵がいる北陸路を越後までたどり着くのは無謀に思われ、この際は義助とともに金ヶ崎に戻って、船で越後に向かうのが得策であろうと、結局義助も義治も鯖並の宿からまた敦賀に戻ろうとした。

 鯖並から少し南の今庄(福井県安城郡南越前町今庄)には今庄九郎入道浄慶という武士が住んでいたが、北国街道を落人が多くやって来るというのを聞いて、通さないようにしようと、近辺の野伏(農民、浮浪民などの武装集団、第9巻で京から鎌倉に落ち延びようとした六波羅探題の一行が北近江で野伏の一群に行方を阻まれたことを思い出す)をあつめて、地形の厳しい場所に鹿垣(ししがき:鹿や猪よけの垣を戦場に用いたもの)を組み立て、要害に逆茂木(棘のある木の枝で作った防御の柵)を立てて、鏃(やじり)をそろえて待ち構えていた。 
 義助はこれを見て、「これはきっと今庄法眼久経という武士の一族に違いない。久経は宮方に属して後醍醐天皇の比叡山臨幸にも付き従ったものである。その一族であれば、さすがにこれまでの経緯を忘れていないものと思われる。誰か、近づいて事情を聴いてまいれ」と言いつけたので、(群馬県太田市由良町に住んだ武士で、新田の家来である)由良光氏がその名を受けて、ただ一騎馬を進めて近づいた。〔ここで道を塞いでいる淨慶は久経の子どもである。〕

 敵も矢の届く範囲を通り過ぎて近づいてきたので、光氏は、馬を止めて、「脇屋義助殿が、合戦の相談のために杣山の城から金ヶ崎に一時的にお出かけになっているのを、おのおの方はご存知で、このように道を塞がれたように見受けられる。もし1本でも矢を射かけるというようなことがあれば、朝敵となり、どのように罪を逃れることができるとお思いであろうか。早く弓をしまい、兜を脱いで、御通しください」と声高らかに宣告する。
 今庄入道は馬から降りて、「私の親である久経は宮方に属して戦場で忠節を尽くしており、その際に目をかけていただいていることはありがたく思いますが、淨慶は父とは離れて、斯波高経殿に属しております。それで、ここをそのままにしてお通ししてしまっては、斯波高経殿からどのようなおとがめを受けるかわかりません。それで、恐れながら(形だけでも)一戦交えるようにするつもりです。これまったく私の本意ではありませんので、もしお供の武士たちの中で名の知られた身分の高い方を引き渡していただき、その首をとって、一戦したという証拠として提出して、とがめを受けないようにしたいと思います」という。〔ずいぶん手前勝手な言い分だが、これが乱世の処世術というものであろう。〕

 光氏は義助のもとに帰り、今庄入道の言うところを復命すると、義助は進退に窮した様子で思案されていたのを、傍らで聞いていた義顕は「淨慶がいうところも、もっともな点がないわけではないが、これまで随行してきた士卒は、親子よりも重要な存在である。したがって、自分の命のために彼らを犠牲にするというわけにはいかない。光氏よ、もう一度淨慶に向かって、この旨を言い聞かせてみよ。それでも難しいことを言うようであれば、やむなく、我らも士卒もともに討死して、将士ともに道義を重くし、後の世に伝えるまでだ」という。

 光氏はまた淨慶のもとに出かけて、この旨を伝えると、淨慶はなお納得せずに、時間がたつうちに、光氏は馬から降りて、鎧の上帯を切って投げ捨て、「天下のために重要な仕事をされている大将が、自分の士卒の命を大事にしてご自分の命を捨てようとされているのだぞ。まして、忠義を重んじて命を軽んずべき家来の身分として、主人の身代わりに死なないということがあっていいわけはない。どうしても首がほしいというのなら、この光氏の首をとって、大将を通していただきたい」というや否や、腰の刀を抜いて腹を切ろうとする。その忠義の様子を見て、淨慶もさすがに感動をおぼえたのか、走り寄って、光氏が刀にとりつき、「ご自害はやめてください。大将のお気持ちも、家来の方の覚悟も、理にかなっていると思いますので、淨慶がどのような罪に問われても、無情なふるまいをして道を塞ぐようなことは致しますまい。どうぞ早くお通りください」と言い、弓矢をしまい、逆茂木を引きのけて、泣く泣く道の傍らに畏まった。

 義助、義顕の両大将は、大いに感動されて、「我々はたとえ戦場の塵に没すとも、もし新田家の中で天下に号令するものが現われたなら、これを証拠として名乗り出て、この度の忠義を世に顕わせ」と、金細工の装飾をほどこした刀を抜き出して、淨慶に与えた。
 光氏は、大将の危機を見て、自分の命を捨てて護ろうとする。大将は、士卒の忠義の志を無駄にしまいと、ともに戦死しようと決心した。淨慶は、敵の義を感じて、後の罪を顧みることがなかった。それぞれに理由のある判断であったので、これを聞きみる人々は、いずれも感心したのであった。

 『太平記』の作者は、三者三様に「義」を通したことを賞賛しているが、理念と現実の折り合いをどのようにつけるかという苦心は昔も今も変わらないということのようである。両者ともに正面からの戦闘を避けているところも、注目してよいところである。宮方の有力な武将である脇屋義助・義顕が大軍を保持できず、地方の武士に行く手を阻まれて、どのように底を突破するかに苦労しているところに、兵力において劣勢である宮方の苦境が集約されているように思われる。さて、義助、義顕は無事に金ヶ崎に到着できるのであろうか。それはまた次回。 

『太平記』(189)

12月18日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月、後醍醐天皇は足利尊氏の申し出に従って京都に還幸しようとしたが、その際に新田義貞に東宮である恒良親王を託し、北国で再起を期すように命じた。10日、京都に到着した天皇は、花山院に幽閉された。北国に向かう義貞軍は、木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。その後、大軍を一か所にとどめおくのは戦略上不都合であるとして、義貞の子義顕に2千余騎をつけて越後に向かわせ、弟の脇屋義助には千余騎を付けて瓜生(越前市瓜生町に住んでいた豪族)一族の杣山の城(福井県南条郡南越前町阿久和の山に築かれていた城)へと遣わすこととなった。金ヶ崎城が攻撃された際の後詰めとして働く援軍を求めてのことである。

 10月14日、義助、義顕は3千余騎を率いて、敦賀の津を発って、まず杣山へと向かった。杣山の城を本拠とする瓜生判官保、その弟の重(しげし)、照(てらす)の兄弟3人が、一行をもてなすためにさまざまな酒肴を運ばせて、鯖並(さばなみ、南条郡南越前町鯖波)の宿へとやってきた。兄弟はさらに5,6百人のものに兵糧を持たせて、義助たちの率いている軍勢に食事を与え、一生懸命に一行をもてなす様子は、まったく他心など持っていないように思われたので、大将も士卒も彼らを頼もしく思ったのであった。
 岩波文庫版の脚注に瓜生氏は嵯峨源氏であると書かれている。嵯峨源氏を名乗る一族の特徴は一字名を付けることで、この3兄弟もすべて一字名である。判官というのは検非違使判官で、源義経と同じ役職である。
 北陸本線に鯖波という駅があり、鯖波の宿というのもそのあたりのことと考えられる。越前(福井県)にはほかに鯖江という地名もあるが、ここで「鯖」というのは魚ではなく、「さんばい」の略で、田植え祭り、田んぼの神を意味するものと考えられている。

 献杯が順に下位のものに回って後、義助が飲んでいた盃を、瓜生判官に差す。判官が席を立って盃を3度傾けると、義助は彼に白幅輪の太刀(柄・鍔・鞘の縁を銀細工で飾った太刀)と紺糸で縅(おど)した鎧一両を与えた。瓜生は大いに面目をほどこしたのである。その後、新田一族とそれ以外の軍勢の人々があまりにも薄着であることをいたわしいと思い、とりあえず小袖を一着ずつでも仕立てて差し上げようと、倉の内から絹と綿の布を取り出し、急いでこれを裁ち縫わせたのであった。

 このようにしているところに、足利一族で越前の守護である斯波高経の方から、ひそかに使いが派遣され、先帝からのお言葉で、義貞の一族を追罰すべきであるという綸旨が発せられたと伝えてきた。瓜生判官は、これを見て、もともと心に深い思慮のある人物ではなかったので、これが足利方の謀略による偽文書であるとは気づくことなしに、勅命で勘当された武家方の敵に味方して大軍を動かすことになっては、天罰を受けないとも限らないと、たちまち心変わりをして、杣山の城へ戻って、木戸を閉じて新田勢との接触を断ってしまった。

 さて、判官の弟に義鑑房という禅僧がいて、鯖波の宿にやってきて、次のように述べた。「兄の保はどうも馬鹿なもので、尊氏が天皇に無理強いして発行させた命令書を、天皇の真意と誤解し、たちまちに心変わりをしてしまいました。義鑑がもし武士であれば、刺し違えてともに死ぬべきところではありますが、出家の身であり、殺生は仏のお禁じになっているところなので、黙っていなければならないのが悔しいところです。とはいえ、保が事態の推移を慎重に見守り、説得に応じるようなことがあれば、最終的には味方にならないとも限りません。そこで、義貞・義助のご子息は大勢いらっしゃるので、そのうちのお一人をここに留め置くことにしてください。 義鑑が懐の中に入れてでも、衣の下に置いても匿い続けますので、時機が来れば、挙兵して金ヶ崎の後詰をいたしましょう」と、言葉も途絶え途絶えになりながら、涙をはらはらとこぼしていたので、義助と義顕はその様子を見て、噓を言っているとはないだろうと、疑いの心を起こさなかった。

 そこで席を近づけて、こっそりと次のように打ち明けた。主上が坂本をご出発になった時、尊氏がもし約束を違えるようなことがあれば、止むをえず、義貞追罰の綸旨を出すということがあるかもしれない。義貞が一時的にでも朝敵の汚名を着ることがあってはならない。そこで、東宮に天子の位を譲って、天皇としての政務を任せるつもりである。義貞は、その手足となる家臣として、天皇の政治が再び行われるようにする功績をたてよとおっしゃられた。そして、三種の神器を東宮にお渡しになったので、たとえ後醍醐天皇の綸旨があると尊氏が言ったとしても、詳しい事情を知らないにせよ、思慮ある人であれば、前後の経緯から信じるに足りない話と思うだろう。ところが、判官がこの是非について迷っているのであるから、詳しい事情を話すに及ばない。(杣山に拠点を築くことができない以上、義助は)急いで、また金ヶ崎に帰るつもりである。事態が困難になっている時に、お前ひとりだけが兄弟のよしみを変じて、忠義を示すことは、ありがたく思う。心強く頼もしく思うので、息子の義治を託したいと思う。彼の今後のことは、よいように計らいなさい。そして、脇屋義助の子の義治が、このとき13歳になっていたのを、義鑑房に預けたのであった。

 義治は義助の子どもたちの中でも特に年少であったので、義助は片時なりともそばから離さず、大事に育ててきたのであるが、そば仕えの若い従者の一人もつけずに、見知らぬ人に預けて、敵の中に留め置くことになったので、別れるのも悲しく、いつまた再会できるかもわからぬまま、別れたのであった。

 もともと宮方が劣勢であるのは、兵力が武家方に比べて少ないからであって、それをさらに分けて、北国に派遣するというのは拙劣な戦略である。しかも越前には足利一族の有力な武士である斯波高経が勢力を築いている。新田義貞の軍の前途は多難である。瓜生というのがもともと越前の地名に由来するというのは『太平記』で初めて知った。瓜生一族は嵯峨源氏の流れをくむ由緒のある家柄のようである。
 余計な話だが、嵯峨源氏で一番有名なのは源頼光の四天王の一人で、『太平記』でもその鬼退治の説話が紹介されている渡辺綱(実在しないという説もある)の流れを汲むという渡辺氏である。渡辺の場合も、『平家物語』に登場する渡辺競のように一字名を付けることになっていたが、徳川家康の配下の武士で槍半蔵と言われた渡辺守綱のように、後世は二字以上の名を付けるものが多くなってきている。私の友人・知人にも渡辺姓の人は多いが、一字名の人の方がむしろ少ない。
 それから、サバで思い出したのだが、横浜市の西の方を流れている境川の流域にはサバ神社という神社が多い。これはもともと田の神を祭る神社だったものが、サバ=左馬ということから、左馬頭であった源義朝(頼朝の父)を祭る神社になっていると考証されている。  
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