引き出しの隅に

3月13日(月)小雨が降り続いている

引き出しの隅に

引き出しの隅に
雪国で暮らしていたころに買った
セーターを見つけた
機械編みのインディゴ色のセーターだ

店の人は フランスの海軍の水兵が着ているセーターだといった
水兵たちは素肌の上からこのセーターを着ているという
アラン・ドロンがそうやってこのセーターを着ている
映画がありましたねえといった

アラン・ドロンが気になって買ったわけではない
アラン・ドロンと似ても似つかぬ日本人なので
セーターを水兵のようには着なかった
それでも着ていると、話のタネにはなった
雪国での冬をこのセーターを着て過ごしていた

雪国から離れて
乾いた空気の都会に住むようになり
この冬も このセーターを着ずに過ごした
それでも
引き出しの片隅のセーターを見ては
このセーターを着て過ごした日々のことを思い出す

グラフトン・ストリート

1月23日(月)晴れ、寒冷

グラフトン・ストリート

今日、グラフトン・ストリートでばったり彼女と出会う。人ごみのせいで出会ってしまったのだ。二人とも立ち止る。彼女は、なぜ来てくれないのかと尋ね、ぼくについていろんな噂を聞いたと言う。詩を書いているかと訊かれる。誰についての? とぼくは言った。これで彼女はますますあわて、ぼくは気の毒なことをしたと思った。(ジョイス『若い芸術家の肖像』)

京都の河原町通は、
グラフトン・ストリートに比べて
ずっと広くて長いのだけれど、
ジョイスの小説を読んでいると、
河原町通を上っていた時に
詩を書いている仲間で
恋愛以前の「彼女」に出会ったことを
なぜか思い出す
彼女の白い顔と
長い髪と
いたずらっぽい目を 

彼女が通っていた看護学校の
学園祭に来いといわれ、
女性が大勢いるという言葉尻をとらえて、
人類の半数は女性だと切り返したら、
その中で私という女性は一人しかいないと
言われた

完敗であった
負けを認めるのが嫌で
恋愛以前を
恋愛に切り替えようという
意思表示を見落としてしまったのかもしれない

それから、お互いに年をとったはずで
思い出も同じように年をとってしまった
彼女が詩を書き続けているかどうかは知らない
書き続けていても、私のところに
届かなければ意味はないと、勝手に決めつけている
その逆に こちらの書いている詩が
彼女の心に届かなければ
またもや完敗ということになる…

長い橋

1月11日(水)晴れ

長い橋――元好問の五言律詩による

そのままにしておけば
遠くへと逃げ去ってしまう
過去を
歴史という橋で
つなぎ留めたいと

あちらこちらに残された
史料を尋ねて
私は旅を続ける
集まった史料の重さで
痩せ馬は苦しそうに歩む

霧雨に覆われた
村に通りかかる
鳥の声だけが聞こえて
人の姿はまったく見えない

どんよりと垂れこめた雲が
時々切れて
日の光が差し込むと
野原の広がりが見える
向こうに見えてきた
低い山の
さらに向こうに向かって
ガンの群れが飛んでゆく

霧雨は冷たく
吹き付ける風はさらに冷たい
私はまだ遠くへと
旅を続けなければならない
疲れた心を励ましながら
景気づけに飲んでみた
酒のぬくもりはとうに消えてしまった

都会の賑わい
東西南北の方向
何もかも忘れて
前を見つめると
幻のように
長い橋が続いているのが見える

どんぐりの運命

12月21日(水)〔冬至〕晴れ、次第に雲が多くなってきているようだ

どんぐりの運命

どんぐりには どんぐりの
都合があり
子どもには 子どもの
都合があって
林の中の木の枝から
どんぐりが落ちて
地面に転がっているのが
どんぐりの都合
子どもたちが林の中を歩きながら
どんぐりを探して
拾い集めるのは
子どもたちの都合

動きを止め 息を凝らして
地面の上に転がっている
どんぐりを
これはいいどんぐり
これは悪いどんぐり
などと
子どもたちが拾っていく
拾ったかと思うと捨て
捨てたかと思うと拾う

これは ねえちゃんの
これは のこちゃんのと
拾ったどんぐりを
ゆずりあったり
おしつけあったり
ときどきは
とってもきれいな どんぐりを
みつけて とりあいに なったり

どんぐりには どんぐりの
人間よりも 古い 昔からの
根を張り 幹を伸ばし 枝を広げるための
自分たちの都合があり
人間には
縄文時代からの あるいはもっと古い時代からの
命の芽生えや 広がりへの興味と 夢がある

どんぐりが 
子どものポケットに
収まるのも一時の運
この際 運を天に任せて
しばらくは 落ち着いておくれ

そして子どもたちのポケットの中で
どんぐりは どんぐりの 夢を見て
子どもたちの 夢に 付き合っておくれよ

薬、薬、薬

12月7日(水)朝のうちは曇っていたが、晴れ間が広がる。気温が低い。

薬、薬、薬

毎日を忙しく過ごしている人は
病気になると強い薬を飲んだり
高い注射を打ったりして
また忙しく過ごそうとしているらしい

若いころから怠け者で
病気になったらこれ幸いと
薬も飲まずに家で寝ていた

それでも年を取ってくると
一つ、二つと成人病にとりつかれ
朝は袋の中の
薬を出して、薬手帳とともに荷物の中に入れる

薬を飲む姿を見ている人は
薬の好きな人だと思うかもしれないが…
好きなわけはないだろう
戻れない昔のことを思い出しながら
1種類、2種類、3種類…とケースから薬を出して
水で飲み下す
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