語学放浪記(52)

10月2日(日)晴れ

 もう30年以上昔の話のことである。私の大学院の後輩が、短距離で有名な桐生選手の出身校で非常勤講師をしていて、桐生選手ほどではないが、やはりインターハイで活躍した選手が教え子の中にいて、無事一流大学への推薦入学を獲得した。その彼が「先生、ドイツ語の辞書は何がいい?」と尋ねてきたそうである。私の後輩がドイツ語がよくできるのを知ってのことではあろうが、気が早すぎると思う。学問研究のドイツ語とスポーツのドイツ語の違いを考えに入れる必要がある。この場合の、一番いい答えは、大学に入って専門のスポーツの指導をしてくれる先生と相談して語学の履修や辞書について教えてもらうといいということである(もっとも大学の先生がそれほど親切かどうかはわからない、でも相談してみる価値はあるだろう)。大学の専門の先生は海外に留学したり、外国人に指導を受けたりして、自分たちの流儀を持っているはずである。

 1969年に発行された『20か国語ペラペラ』(実業之日本社)というの本の中で、著者である種田輝豊は「現在の仕事では、翻訳以外、話すドイツ語はほとんど活用できない。国際会議では、ドイツ語の影は薄れている」(131ページ)と書いている。 ここで注意してよいのは、ドイツの影が薄くなったわけではなくて、「ドイツ語の影」が薄くなったということである。ヨーロッパ統合の中でドイツが果たした役割は中心的なものであったといっていいし、ドイツ経済は世界の上位に位置し続けてきた(今でもそうである)。ドイツ語の影が薄くなったのは国際会議等で公用語としての使用が避けられたことと、1970年代くらいからコンピューターが普及しだして、abc26文字だけで表現ができる英語が有利になったことのためである。もちろん、多くのドイツ人が英語がよくできるためでもある。

 ところが、惰性というのは恐ろしいもので、1970年代の半ばになっても第二外国語というと当然のようにドイツ語という風潮は残っていたし、大学に先生たちの中には大学の教師や大学院生の現状を考えずに、とにかく、ドイツ語なら先生の売れ口はあると、勧める人がいた。能ある鷹は爪隠すということで、大学の体育の先生の中にはドイツ語のできる人は少なからずいたようである。ドイツはさまざまな運動競技における先進国であり、サッカーやバスケットボールだけでなく、ドイツ語を通じて学ぶことのできる領域は少なくないはずである。それからドイツ語ではなく、フランス語やイタリア語、スペイン語を通じて学ぶということもあっていいはずである。大学の先生の中には自分の専門の知識の習得のためにいろいろな語学を身に着けている人もいるし、そういうことが必要ない人もいる。私が最初に就職した大学で第二外国語というのはドイツ語だけだったが、これはどう考えても筋が通らず、先生連中の留学歴などの多様性と対応しなかった。非常勤講師を探したり、大学の教員の間で融通しあったりして、他の言語も開講すべきだっと思う。実際、そういうことを言う先生もいらしたのだが、旧態墨守という考えが強かったのか、表面化しなかった。教養の授業として開設するのではなく、例えばイタリア美術史のような専門の授業として開設しておいて、教養科目に読み替えるというような工夫もあってよかったのだが、大学自体がもっと別のことで大騒ぎしていたこともあったかもしれない。

 現在、世界で最も多くの人々に使用されている言語は中国語である。たぶん、日本国内でも(少なくとも横浜市内では)2番目に多く話されている言語である。その次に来るのが英語とスペイン語であるが、なぜかスペイン語は私の学生時代、いや教師になっても、日本の大学で教えられる例が少なかった。大学院時代の指導教官がドイツ語の教師の口ならいくらでも紹介するといったのを聞いても、そもそもドイツ語の本を1冊も読んだことのない私がドイツ語の教師になれるわけはなく、むしろ長期計画で、スペイン語を勉強するほうが先の見込みはありそうだと、その後30年余りスペイン語の勉強を続けることになった。残念ながらこの目論見は外れたが、大学時代の私の同僚の中には数人、私よりもかなりスペイン語が達者な研究者がいた。つまり、私だけが変わったことを考えていたというわけではないのである。

  何かいろいろなことを書いてしまったが、大学では専門として何をするかということと結びつけて外国語の学習をすべきであり、例えばオランダ東インド会社の研究をしたいというのであれば、英語やドイツ語ができるに越したことはないが、やはりオランダ語が必須であろうし、フェルナンド・ペソアの詩の研究がしたければ、ポルトガル語をまず勉強すべきであろう。大学院に進学せずに就職するという場合でも、何か特定の領域での外国語による訓練を受けることが就職後の財産となるはずである。スポーツの選手の場合、大学の外の会話学校に通うことも一つの可能性だが、自分の先生の思いがけない能力を発見するということもあるかもしれない。

違いを知ること

7月13日(水)雨が降ったりやんだり

 あるところでちょっとした話をしたので、更新が遅れた。その話の内容のあらましを(多少の補足・訂正を加えて)掲載する。

 学校で教えている英語について、学習指導要領のような大きな原則を示す文書では、「グローバル化する世界」とか、「知識基盤社会」とかいう大義名分を掲げて、英語学習の意義を説明しているが、個々の学習者は自分なりにその意義を見出すべく努力すべきである。1974年に出版されて話題を呼んだ中津燎子『なんで英語やるの?』は著者が岩手県のA市で主として小学生を対象とする英語教室を主宰してきた体験をまとめたものであるが、そこでは学習者1人1人に「なんで英語やるの?」という問いを投げかけてきたという(中津さんは2011年に亡くなられた)。

 ベネッセが行った高校生7万人を対象とする調査によると、高校生の大半が、高校卒業時に到達すべき英検2級レベルに達せず、中学校3年相当の3級レベルにとどまっているという。これをどのように評価するかで高校(と大学・専門学校)における英語教育の在り方は変わってくるはずである。1974年に平泉渉は、高等学校で英語を選択教科にして、一部の生徒たちだけに徹底的な訓練を施すことを提案したが、一部の生徒に徹底的な訓練を行うのはもう少し後の段階になってからでもよいかもしれない。

 平泉の提案は(7月11日の当ブログ「世界の言語を知る』でも触れたが)ほとんど実行に移されず、ただ「試案」の冒頭部分の英語学習の効率の悪さを批判し、それが教育政策上のもっとも重要な課題となっているという認識だけが、「受験」よりも「コミュニケーション」に重点を置いて英語を教育すべきであるという空気を醸成したように思われる。

 コミュニケーションの問題を考える際に、日本社会と日本語使用者のコミュニケーションの仕方と、英語圏の各社会と英語使用者のコミュニケーションの仕方の違いを認識することが重要である。中津は、ある調査のために学校に本を借りに行ったアメリカ人の女子学生に通訳として同行した際に、(善意に基づくものとはいえ)用件とは関係のない長話を続けて(その方が礼儀にかなったことだと思い込んでいる)、訪問者をイライラさせた学校関係者の例を引き合いに出している。相手の意図を理解しようとすること、相手の文化の中の慣習を理解し、お互いに歩み寄ることが必要である。

 さらに日本語と英語の文法・語法の違いにも注意する必要がある。とくに日本語は「主語」が省略されることが多いので、日本語の常用者ならばすぐにわかるはずの行為の主体が、そうでない人にはわからない例が少なくない。(この件をめぐって、行方昭夫『英会話不要論』に、太宰治の『斜陽』の会話の部分をドナルド・キーンが誤訳しているという興味深い事例が取り上げられている(同書108-111ページ参照)。コミュニケーションをめぐっても、言語をめぐっても、日英(日本でも東日本と西日本という風に、地域によって違いがあるかもしれないし、英語圏も多様な世界であることも忘れてはならない)の違いについて認識を深めていくべきである。

 英語教育、異文化理解には、これまでの実践を通じて様々な知見が積み重ねられている。今後の英語教育をめぐっては、「空気」ではなく実証的な調査に基づいて政策を作り上げていく必要がある。

 私の話に対して、中国語が英語にとって代わろうとする動きはないか、翻訳機械の発達により学習の負担が軽減されるのではないかという質問があったが、この2つの問題については永井忠孝『英語の害毒』で論じられているので、それを参考にしていただきたい。

世界の言語を知る

7月11日(月)晴れ

 7月9日付の当ブログ「英語をなぜ勉強するのか」の続きで、そこで紹介した平泉渉の提案のうち世界の言語について学ぶ機会を中等教育段階で設けるというものについて考えてみる。7月4日付の「第二外国語」の終わりの方でも触れたが、世界にはどのような言語があって、それを学ぶことにどのような意義があるか――ということを知らされないまま、外国語の学習を強制されるのはおかしい。だから、平泉のこの提案は十分に考慮に値すると思う。

 その前に、「英語をなぜ勉強するのか」で、書き忘れたことがあって、それも今回の話題と関連することなのだが、数学・自然科学関係の論文は英語で書かれないと国際的に承認される可能性は低いということである。(ノーベル物理学賞を受賞された益川敏英さんのように外国語が苦手であっても、その業績が国際的に認められた例はある。) 社会科学においても同じようなことがいえる。水村美苗『日本語が亡びるとき』に次のような記述がある。「20世紀を迎えて既に3分の1を過ぎた1933年、カレツキというポーランド生まれの経済学者が、1つの論文を発表した。たんなる論文ではない。のちに古典となるケインズの『一般理論』にある原理を先に発見したという、重要な論文である。当然のことにその論文は人の目にとまらなかった。2年後、カレツキは同じ論文を<3大国語>の1つに訳して著すが、またまた気の毒なことに、かれが得意としたのは、フランス語であった。翌年の1936年、ケインズの『一般理論』が英語で出版され、経済学の流れを大きく変えることになる。それを見たカレツキは、今でいう、自分の「知的所有権」を主張しようとする。『一般理論』に先駆けること3年、自分はすでに同じ原理を発見していたという論文を発表するのである。だが、なんとカレツキは、その論文もまた性懲りもなくポーランド語で著わしたのであった。当然のこととして、その論文も、誰の目にもとまらなかった。/・・・気の毒なカレツキは、「英語で書かなかった」学者として、のちの世に名を残すことになったのであった。」(水村、184-185ページ)

 さて、世界にはどのような言語があって、それぞれがどのような役割を演じているかというのは、中等教育のある段階で1年間で教えられることであろうか。世界には5,000とか7,000とかいう数の言語がある。これに比べて国家の数は200ほどである。それで学者によって、また政治的な状況によって、その数は違ってくる。政治的な状況というのは、もともとペリカン・ブックスに入っていて、日本ではその翻訳が岩波新書に入っているトラッドギルの『言語と社会』(原題はSociolinguistics 〔=社会言語学〕)を読めば、さらに言うと、日本語の翻訳の初版と第二版、元の本の初版、2版、3版を読み比べるとよくわかる。とくに旧ユーゴスラヴィアの解体が言語の分類に及ぼした影響について書いてある箇所が参考になるはずである。

 そうはいっても、5,000とか7,000とかいう言語の中には、言語学者になるのでもない限り(最近は、言語学者でもそれほど多くの言語を勉強している人は少ないそうだが)、興味を持たなくてもいい言語が大半で、日本人が関係を持ちそうな言語は限られているのが現実である。それは、①日本国内でかなりの頻度で使われている言語。②日本の近隣の国々の言語。③日本と経済・政治・文化などの面で深い交流がある国々の言語、④多くの人々によって使われている、あるいは強い影響力を持つ文化の中で使われてきた言語ということになるだろうか。永井忠孝『英語の害毒』(新潮新書)は①日本で重要性の高い外国語:英語、中国語、朝鮮語、ポルトガル語、②世界の主要な地域共通語:アラビア語、スペイン語、ヒンディー・ウルドゥー語、ロシア語、③日本に固有の言語:アイヌ語、日本語、日本手話、琉球語のうち、生徒の母語でない言語を中学校から学ぶ(179ページ)という提案がされているが、ここで私が考えているのは世界にはどのような言語があるのかを学ぶ際の手がかりとしての分類である。

 横浜の、特に中区を歩いていると、外国語の表示を掲げた店が多く、これは中華街に限ったことではないし、その中華街でも、中国・台湾以外のアジアや、ギリシアなどアジア以外の国々の言葉を表示した店が少なくない(もっとも、最近は中華街に出かけていないので、様子が変わったかもしれない)。以前にも書いたことがあるが(語学放浪記)、昔の横浜ではノルウェー語とギリシア語に出会うことが多かった(あと、もちろん中国語)。しかし、前記『言語と社会』を読むとわかるが、ノルウェーもギリシアもかなり複雑な言語事情を持つ国であって、気楽に言語遊覧と決め込んでもいられない事情があるらしいのである。日本の中でも、地方によって、外国人の分布は違うし、歴史的にも変容している部分がある。林芙美子の『放浪記』の中に、トルコ人の行商人の話が出てくるが、昭和の初めには日本国内にかなりの数のトルコ人がいたらしい。1990年ごろには、イスラエル人がアクセサリーの露店を開いている姿や、ラテン・アメリカの音楽を路上演奏する人たちをよく見かけたが、今ではほとんどいないのではないか。その一方で、横浜、神戸、長崎の3大中華街のように、日本文化の伝統の一部となっているような存在もある。何が言いたいのかというと、日本の中でよく出会う外国語というのは、地方によって、また歴史的に変化があり、またそのような歴史を超えて生き延びている言語・文化もあるので、地方や学校の事情を考えながら、その言語を選んでいく必要があるということである。

 平泉が世界の言語・文化を教える機会を設けることを提案したのは、そのことによって英語の世界的・国際的重要性を学習者に理解させようと配慮したのだと思われるし、その考えは基本的に正しいが、英語の意義を画一的にとらえ、授業の中で強制的に「学ばせる」というのであってはならない。英語が世界的・国際的重要性を持つというのは客観的に見てその通りであるが、だから英語が好きで勉強しようと思うのも、英語が嫌いになるのも、学習者の自由である。まあ、できるだけ好きになってほしいとは思うが…。私の学生運動仲間で、「英語は帝国主義者の言葉であるから勉強しない」というのがいたが、敵を知ることも大事だから英語を勉強するという考えもあっていいはずである

 いろいろ書いてきたが、世界の言語・文化に触れるということは、学習者が世界の言語・文化に触れるというだけでなく、言語・文化をめぐる多様な意見に触れる機会となるはずである。外交官、商社員、旅行家、言語学者、芸術家、数学者、スポーツの選手、多様な人々が、自分が接してきた異言語・異文化について画一的に同じ考えを持つようになったとは考えにくい。それぞれの立場で、接してきた世界の言語について学ぶ機会というのがあってよいと思うのである。

なぜ英語を勉強するのか?

7月9日(土)雨、夕方には降りやむ。

 なぜ、英語を勉強するのか? 世界には5,000とも7,000ともいわれる言語がある。その中でなぜ、英語を選んで、小学校から、場合によっては保育園から勉強するようになっているのか? それは英語がどのような言語であるのかと関係してくる。

 英語は、いくつかの主要国と、かなり重要な国で(大部分の人々に)話されている言語である。英語は英国(イングランド、ウェールズ、スコットランド)とアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、それにアイルランドで使われている。英国のウェールズではケルト系のキムリア(ウェールズ)語との二言語併用政策がとられており(駅の表示など二言語で書かれている)、スコットランドでも同じくスコットランド・ゲール語の復興運動が展開されている(エディンバラでTVを見ていたら、スコットランド・ゲール語の番組が放送されて、まったくわからなくなってびっくりしたことがある)。カナダのケベック州はフランス語が優勢であり、カナダ全体として英仏二言語が公用語となっている。ニュージーランドもマオリ語との二言語併用政策がとられているらしい。南アフリカについてはよく知らないが、アイルランドでもアイルランド・ゲール語との二言語併用政策がとられている(駅や道路の表示は英語とアイルランド語の両方を使用している)。だから、英語使用国といっても、それぞれに複雑な事情を抱えているのだが、その一方で、非英語国の人々を対象とする英語教育がこれらの国々にとって重要な「産業」になっていることも否定できない。
 これらの国々の社会や文化に興味がある人、興味はなくても用事がある人は英語ができないと困るだろう。

 もう一つ、英語は国際会議や、国際機関で最も多く使われる言語である。また、商取引や個人レベルの国際交流、海外旅行の際にも役に立つことが多い。私がまだ、大学院にいたころ、韓国の梨花女子大学校の学生がやってきて、向こうは日本語ができず、こちらは韓国語ができず、英語で話をしたのだが、実にもどかしい気持になったのを思い出す。このように、お互いに、お互いの言語を理解してない場合にも、英語を使うことが多い(水村美苗さんの本にも出てくるが、ロシア語を使うことも意外に多い)。

 とはいえ、国家社会の見地から見た英語学習の意義は必ずしも、教育を受ける各個人に内在化はされないのである。うーん、どれをとっても関係がないなぁという人も少なくないのではないか。そのことをもう少し考える必要はないのだろうか。

 1974年に午夢館という書店から発行され、1978年に補筆修正を加えて文春文庫に収められた中津燎子『なんで英語やるの?』の最後の方にこんなことが書かれている。「日本人全部が通訳になる必要もない。一億、英語を総ペラペラという図は考えてもゾッとする。だが、現在の英語読みの英語知らずは、その昔の、論語読みの論語知らずとどこか共通していておかしいのではないか。/将来、島国日本は、世界の中でたしかに孤立しない方がいい。〔孤立しない方が確かにいい――の方が分かりやすいだろう。〕 それには、子供たちも孤立的な傾向に育てるべきではない。せっかく学校で英語をやっているのだから、それを最大限に利用して、最も重要な時期の子供たちに、国際社会で、生き延びていける知恵と、国際社会で、生き延びていける知恵と、技術と、心構えと、人間性を養う教育を与えるべきではないだろうか。受験英語教育と言うせまさの中で、殺されそうになっている中学、高校の英語の時間は、国際社会科としての勉強に切り替えてもいいのではないか」(362-363ページ)。「国際社会科」というのは1つの考え方である。他の考えもある。

 同じ年に平泉渉が提案した「外国語教育の現状と改革の方向」という提案を行う:。平泉は「従来の外国語(事実上、英語)教育が「ほとんど読めず、書けず、わからない」」という非常に遺憾な結果しか招かなったととらえ、受験英語を英語学習を歪める悪者とみている。そして、根本的な改革として、
1 世界の言語と文化についての常識を教える科目を中学課程に設ける。
2 すべての生徒に、英語についての常識を中学1年修了まで教える。
3 高校では英語は選択制とする。希望者のみを対象として、学習時間を増大し、毎年少なくとも1か月の完全集中訓練をも行う。
4 大学入試から英語を外す。
の書店を挙げているという。この提案に対して、英語学者の渡部昇一氏が反論を行い、論争が展開された。平泉渉・渡部昇一『英語教育大論争』を参照・引用すべきだが、書店で見つからなかったので、行方昭夫『英会話不要論』(文春新書)からの引用で済ませたため、平泉の真意を十分に理解できていないのだが、少なくとも2つのことがいえると思う。

 1つは、平泉の提案はほとんど実現されていないということである。大学入試から英語を外すどころか、英語の入試の改善の努力が続けられているというのが実情である。この提案を含めて、奇抜に思われる点もないではないが、それなりにやってみる価値のあるものではないかということである。どういう実施上の問題が予測されるかは、また機会を改めて述べてみたい。
 もう1つは、はじめに述べたことと関連して、受験英語否定、文法・訳読を重視せず、実際的なコミュニケーションを重視すべきであるという議論、そして1990年代以降のコミュニケーションを重視するという日本の英語教育の大勢は必ずしも、平泉提案によってではなく、ある種の「空気」として形成されてきたのではないかということである。日本の将来にかかわる重大な議論が、「空気」として形成されるというのは困ったことなのだが、それは今に始まったことではない。そういう政策形成を食い止めるための努力をすることこそが、歴史の教訓として実践されるべきことではないかと思うのである。

第二外国語

7月4日(月)晴れ、暑し

 20年以上昔、大学に勤めていたころに書いたメモが出てきた:
 ○月○日の教授会で、今年度△学部に入学した学生の英語以外の外国語科目の履修の割り振りが発表された。〔それまではこういう情報は伝わってこなかったので、教養部廃止を視野に入れてのことであったと推測される。〕 入学決定者に対して行った履修希望の調査に基づいて、割り振り定員との兼ね合いで調整した結果である。
 それによると、全体としての希望者数は、ドイツ語255人、フランス語108人、中国語95人、ロシア語39人、朝鮮語5人の順であったが、割り振り定員はというと、ドイツ語330人、フランス語40人、中国語80人、ロシア語80人、朝鮮語40人で、ドイツ語、ロシア語、朝鮮語の希望者が割り振りを下回り、フランス語と中国語が上回っている。結局、第2志望までの枠内で調整をして、ドイツ語313人、中国語80人、ロシア語60人、フランス語40人、朝鮮語9人という割り振りに落ち着いた学部の新入生数は502人)。

 その当時と現在とではかなり履修状況は変化していると思うし、していないと困るのだが、ここで重要なのは、学生の希望よりも、教師側の都合によって第2外国語の履修が決められていることである。私が大学に入学したのは、それよりさらに30年近く前のことであったし、大学も違うから単純に比較はできないが、第2外国語をドイツ語にするものが7割ほど、フランス語にするものが3割ほどで、それ以外の言語を履修しても、進級に必要な単位とは認められなかったし、大学院の入試科目も(英語以外は)この2つだけであった。だから大学の第2外国語というのはドイツ語というのが大勢である状態が戦後50年ほどは続いたことになる(戦前もそうだったから、もっと長くなる)。さらに言えば、地方の短大や高専では第2外国語としてドイツ語しか提供されていないというところも少なくなかったようである。

 いくつか問題があって、まず、何のために第二外国語を学ぶのか、またなぜその第二外国語としてドイツ語を選ぶのかということである。日本が近代化を遂げる中で、ヨーロッパで急速な近代化に成功したドイツの経験を学んだことが大きな役割を果たしたという過去の経緯はあるが、それはあくまで過去の話である。現在のドイツは世界有数の経済力を持ち、また国際社会における発言力も強い国であるが、ドイツ人は英語が達者な人が多いので、ドイツの文化や社会、あるいはその伝統に特別な興味があるという人を除いては、ドイツ語を勉強する必要はない。1969年に出た種田輝豊『20か国語ペラペラ』の中に「現在の仕事では、翻訳以外、話すドイツ語はほとんど活用できない。国際会議では、ドイツ語の影はうすれている」(131ページ)と書かれている。この傾向はさらに進み、今では、学校外で人を集めてドイツ語を教えている人というのは、フランス語、スペイン語、あるいはイタリア語に比べてもかなり少ないように思われる。ドイツ語学習の需要は大きく減少してきたというのが事実であろう。

 さらに教えるほうにも問題があって、大学で同僚だったドイツ人の教師は、「日本ではドイツ語を、ヨーロッパの大学におけるラテン語のようなやり方で教えている」つまり「死語として教えている」と酷評していた。森鴎外は「二人の友」という文章の中で<二人の友>の1人=(熱心なドイツ語学習者である)福間博(後に旧制第一高等学校のドイツ語教師)のドイツ語には「漢学者の謂ふ和習」があると指摘したが、ドイツとの頻繁な交流もない中で、日本の国内で勝手にドイツ語の教授=学習を積み重ねた結果が「死語として教えている」ことである。

 成毛眞さんによると『日本人の9割に英語はいらない』そうである。だとすると、大学進学率を50%とみて、大学生の2割くらいしか、英語を勉強する必要はない(その代わり、満足な程度まで上達する必要がある)という計算になる(もっとも6月24日付の『朝日新聞』によると、日本の大学をはじめから信頼せずに、海外の大学を目指す若者が増えているというから、将来的には2割を割り込んでいくことは十分に予想できる)。とすると、第2外国語を学習するものはさらに少なく絞られることになる。あるいは<習得する>ことははじめから目的とせずに、ただ大学に進んだという形式を整えるために、英語なり、第2外国語なりを勉強するということであれば、それはそれで筋は通る。

 ある言語を<学習する>ことと<習得する>ことは別である。私はなぜか、マーク・トウェーンの禁煙することは簡単だという言明を思い出す。母語以外の言語を<学習する>ことは条件さえそろっていれば、それほど難しいことではない。<習得する>ことが難しいだけである。だから大学は<学習する>機会だけ提供すればいいので、<習得する>ことは学生の自己責任で行ってほしいと居直るのが賢明な態度であるのかもしれない。その場合、世界にはどのような言語があるのかについて学習者に知悉させることと、希望に応じた学習の機会を提供する親切さが必要であろう。
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