ジェイン・オースティン『エマ』(7)

4月4日(火)晴れ

これまでのあらすじ
 18世紀の終わりか、19世紀の初めごろのイングランド東南部サリー州のハイベリーという村に住む地主の娘で21歳のエマ・ウッドハウスがこの物語の主人公である。美人で頭がよく、村の女王的な存在の彼女は、たいていのことは自分の思い通りに推し進めてしまい、自分を過大評価しがちであるという欠点も持っていた。隣村の地主であり、彼女の姉イザベラの夫ジョンの兄であるジョセフ・ナイトリーはそういう彼女に面と向かって忠告できる唯一の人物であった。
 長くエマの家庭教師をしていたミス・テイラーが村の有力者のウェストンと結婚できたのは、自分の縁結びが功を奏したのだと信じ込んだエマは、ナイトリーが止めるのも聞かずに、村の牧師であるエルトンの配偶者を見つけようと思いはじめる。そして、村にある寄宿学校の特別寄宿生であるハリエットと結びつけようとするが、失敗する。
 ウェストンには自分の先妻との間に儲けたフランクという息子がいて、先妻の実家であるヨークシャーの名門チャーチル家で育てられている。ハイベリーを訪問したフランクをエマは気に入るが、夫ではなく友人として付き合うべきだと考える。村の元牧師の未亡人であるベイツ夫人には、ジェインという孫がいて、なき父親の友人に育てられていたのだが、事情があって里帰りしている。ジェインはエマと同じ年齢で、才芸に秀でた美人であるが、エマは彼女の物静かで落ち着いた態度が気に入らず、内心でライバル視している。野心家のエルトンはハリエットではなく、エマと結婚したいと思っていたのだが、ふられたので、保養地であるバースで出会った成り上がりの商人の娘オーガスタと婚約し、村に帰ってくる。

 エルトンが結婚式を挙げ、エルトン夫人が村に住むことになる。エマはハリエットを連れて、結婚祝いの訪問をする。短い訪問で、気まずさと早く辞去したいという気持ちがあって、エマはエルトン夫人をゆっくり観察できなかったが、上品さに欠ける女性だと思い、あまり好きになれなかった。しかし、ハリエットはエルトン夫人が素敵な女性だと思うと感想を述べた。
 エルトン夫妻が返礼のあいさつに来た時に、夫人と2人だけで話す機会があり、エマはエルトン夫人について「ひどい見栄っ張りで、ひどい自己満足型で、自分をご大層な人間だと勘違いしている。人前に出るといつも目立とうとして、さかんに自分の偉さを示そうとするが、三流の学校の教育しか受けていないので、でしゃばりで、なれなれしい。物の考え方と生活のスタイルは、身近な人たちのそれをそっくりまねしたものだ。馬鹿ではないとしても無教養で、要するに、彼女と一緒にいてもエルトン氏は何も得るところはない。」(中野訳、45-6ページ) なお、「三流の学校」の原文はbad schoolであるが、この時代、英国の学校、とくに女子を対象とする学校の水準は極めて低かった。文学作品に登場する中では『虚栄の市』でベッキーとアミーリアが学んだチジック・モールのアカデミーがもっともましな学校であったと言えよう。
 エルトン夫人はエマの住むハートフィールド屋敷の称賛にことよせて、自分の義兄のメイプル・グローヴ邸を自慢し、エマと親しくなろうとするが、エマは受け付けない。自分の夫をE様(Mr.E)と呼び、ナイトリーを呼び捨てにするなど(Mr. Knightlyというべき)、リラックスしすぎている態度はエマにとって許しがたいものであった。(第32章)

 エマはエルトン夫人に対する自分の悪い評価が間違っていないことを確信する。「エルトン夫人はうぬぼれが強くて、でしゃばりで、なれなれしくて、無教養で、育ちが悪い。多少は美人で、女性としての教養も少しは身につけているが、もともと頭が悪いので、自分は世の中を知っていると錯覚し、ハイベリー村の人々を活気づけて向上させるためにやってきたのだと勘違いしている。自分は独身時代も社交界で輝かしい存在だったが、エルトン牧師夫人となって、いっそう箔がついたと思っているのだ。」(中野訳、59ページ)
 エマが自分と仲良くしようとしないので、エルトン夫人はジェイン・フェアファクスに近づく。「エマが驚いたのは、ジェインがエルトン夫人の親切を黙って受け入れ、そのお節介に耐えているらしいということだった。」(中野訳、65ページ) エマを交えた会話の中で、ナイトリーはジェインの美点を褒めるが、彼女には率直さと明るい性格がないと指摘する(いろいろな点で、エマよりも勝っているジェインであるが、エマの持つ率直さと明るさがないという指摘は、この後の展開の伏線になる)。(第33章)

 エルトン夫妻は村の有力者たちからディナーへの招待を受けており、エマの父親もエルトン夫妻を招待することになる。ディナーに出席したジョン・ナイトリーと話していたジェインは自分が日課として散歩をすること、郵便局に必ず寄ることにしていると語る。エルトン夫人はジェインに雨の中の郵便局行きをやめさせようとするが、ジェインは耳を貸さない。エマはジェインの文通相手についてあらぬ妄想をして内心で楽しんでいる。(第34章)

 強引なエルトン夫人はディナーの後の女性だけの会話の際にジェインを独占し、彼女に家庭教師(ガヴァネス)の就職口を世話しようと申し出る。もともとジェインは家庭教師になるための教育を受けてきたのだが、就職の話は夏まで待ってほしいという。(彼女がそういうには理由があるはずだが、何事にも強引なエルトン夫人はそこまで気を回さない。) ディナーの席にウェストンが遅れてやってきて、フランクが間もなくハイベリーにやってくると知らせる。(第35章)

 ウェストンがエルトン夫人に語ったところでは、フランクの養母であるチャーチル夫人の体調が悪く、ロンドンで静養することになり、フランクはハイベリーにやってくることが出来そうだということである。ジョン・ナイトリーはミス・テイラーがウェストン氏と結婚したために、社交好きな夫の影響を受け、そのあおりでエマの身辺でも社交的な催しが多くなったという(ジョンは自分の家庭を最優先する心情の持ち主で、社交的なことが嫌いな人物として描かれている)。 (第36章)

 フランクがやってくるという知らせを聞いて、エマはなぜか心の動揺を感じた。ロンドンに到着したフランクはすぐにハイベリー村を訪問するが、エマとはわずかな時間話しただけで他の知り合いのところに行ってしまう。チャーチル夫人はロンドンの騒音に我慢が出来ず、郊外のリッチモンドに移ることになる。リッチモンドの方がハイベリー村に近いので、フランクは内心で喜んでいる。以前、フランクの帰省で取りやめになったウェストン夫妻主催の舞踏会がどうやら実現しそうな運びとなる。(第37章)
 
 何事にも強引で自己顕示欲の強いエルトン夫人が登場して、物語はいよいよ進行を速める。身分的な意識が強い(偏見といってもよいかもしれない)エマは、成り上がりのエルトン夫人を嫌うが、その代わりにジェインがエルトン夫人の近くにいつもいるようになる。しかし、エルトン夫人の強引さには辟易し始めている様子である。これまでと同様、ジェインの行動には謎めいたものがあり、何か秘密をもっているようである。そしてその秘密は、エマが想像するようなものではないことも推測できる。終盤、エルトン夫人の<活躍>が目立ち始める一方で、エマは相変わらず勘違いが多いけれども、何となくしおらしい感じにも見えてくるのが、結末への布石になっているようである。  

宮崎市貞『水滸伝――虚構のなかの史実』

4月3日(月)晴れ

 宮崎市定『水滸伝――虚構の中の史実』(中公文庫)を読み終える。1972年に中公新書の1冊として発行された時、さらに1993年に中公文庫から発行された時に、それぞれ買って読んでいる。今回の改版を読み終えたので、少なくとも3回は読んだということである。

 宮崎市定(1901-95)は『科挙』、『九品官人法の研究』など官吏登用制度を中心に中国の政治・社会・制度史研究に従事した歴史学者であるが、フランス留学の後に遊学した各地の紀行である『西アジア遊記に見られるように、より広い世界への関心を失わず、また『七支刀の研究』など日本の古代史についても独自の視点から興味深い研究を展開した。

 著者は旧制中学時代に父親の蔵書の中から『水滸伝』を見つけて何度も読み返したとそうである。著者が東洋史、その中でも中国の宋の時代に興味をもち続けてきたのは、中学時代のこの読書の影響があるのではないかと自認しているほどである。歴史家として、『水滸伝』を読み返すと、次のような特徴が見いだされるという。「水滸伝ははるか後代になって完成したものには違いないが、まったく虚構の物語ではなく、その中に幾分の史実を含んでいる」(9ページ)。物語の中には何人かの歴史上実在の人物が登場するが、「それらの描写が意外に正しくその性格を表しているという面もある」(同上)だけでなく、宋代に流布していた世間話の類が意外に多く水滸伝の中に取り入れられていることが分かってきた。それで、世相や生活様式などの面でも、『水滸伝』に描かれているものが、宋代のものとして説明できる例が少なくないという。『水滸伝』は登場人物が多く、その多くの登場人物がどのようにして梁山泊にたどり着くかの過程を描く短編小説の寄せ集めという形になっているが、それらの短編は、講談や戯曲として実演され、長い間かかって民衆とともに成長してきたもので、優れた構成と描写を見せるものが少なくない。民衆とともに育ってきた文学なので、必然的にその中に反体制的な思想を含んでおり、そのために政府からはしばしば発売禁止の命令を受けた。しかし、実際には多くの家に『水滸伝』が蔵され、読み書きを習った男の子たちは親に隠れてこっそりと『水滸伝』を読みふけることが続いた。そういう長い伝統を考えると、『水滸伝』は中国を理解するのに欠かせない書物であると著者は述べている。

 以上は、「まえがき」で著者が書いていることを私なりにまとめてみたものであるが、この書物は次のような構成をとっている。
第1章 徽宗と李師師
第2章 二人の宋江
第3章 妖賊方臘
第4章 宦官童貫
第5章 奸臣蔡京
第6章 魯智深と林冲
第7章 戴宗と李逵
第8章 張天師と羅真人
第9章 宋江に続く人々

 著者は「あとがき」で「水滸伝から、「水滸伝の人物」を造る作業は・・・紀事本末を紀伝体に書き直すことである。水滸伝はそのまま紀事本末体の物語であるが、本書では最初に「徽宗本紀」とでもいうべきものをおき、次から宋江、方臘、童貫らの列伝が列伝が記される」(229ページ)と書いている。「紀事本末体」というのは歴史の記述法の1つで、1事件ごとに、そのことの起こりから結末にいたるまでを書き記したものをいう。確かに『水滸伝』は紀事本末体で書かれていて、大臣蔡京に誕生日祝いとして贈られる十万貫の金銀財宝を青面獣楊志が率いる十数名が運んできたのを、托塔天王晁蓋とその仲間たちが奪い去る事件について、時系列に沿ってではなく、それぞれの登場人物に即して物語を進めている。
 本紀・列伝については、それぞれ『水滸伝』本文だけでなく、当時の歴史史料に加えて説話集のようなものからも引用して興味深いエピソードを詰め込んでいる。あまり詳しく紹介すると、読んだ時の楽しみがなくなってしまうので、適当に抜き出してみる:
 第1章では徽宗皇帝が即位する際に、その人物について「浪子(ろうし)のみ」(20ページ、放蕩息子である)といわれたこと、即位すると数々の道楽にふけったが、分けても李師師、さらに趙元奴という遊女のもとに通ったのはあまり例のないことである。
 「一天万乗の君主が常習的に青楼に微行しても別に危険を感じたらしい気配のないのは、また特筆すべき事実である。それは国都の開封府の人気がきわめてよかったことを物語る。更にそれは経済的に好景気で、一般の生活が楽であった証拠である。ただしこれは大臣の蔡京の人為的な操作による結果で、全国の富を国都に集中してばらまいたためであった。国都の人心は好景気に寄っている間に、地方では政府の搾取に苦しみ、人民の経済が破綻しかけるという深刻な危機に直面していたのであった。」(32ページ) 李師師は明妃、趙元奴は才人という女官の位を授けられていたというのだから、ひどいものだが、靖康の変の後、金軍の捕虜として幽閉された徽宗が単調でさびしいから趙元奴をこちらへ送ってほしいと要求したという話も書き留められている。なお、幸田露伴が李師師について「師師」という文章を書いていて、『水滸伝』に登場する一番の美人は彼女であると書いていたことを思い出す。また読み直していよう。(趙元奴も名前だけなら『水滸伝』に登場しているので、宮崎の書くところを信じれば、若い趙元奴の方が美人であったかもしれない。)

 第2章の「二人の宋江」では、梁山泊の首領であった宋江が宋王朝に帰順して将軍となり、方臘退治に功績をあげたという『水滸伝』の記述から、歴史にその名の見える盗賊の宋江と、方臘討伐軍の将軍である宋江は同一人物と考えられてきたのに対し、二人は別人であるという説が展開されている。また、『水滸伝』の文学的な面白さということからいえば、豪傑たちが勢ぞろいするところで物語を打ち切って一向にかまわないという意見も述べられている。(議論はもう少し専門的ではあるが…)

 第3章の「妖賊方臘」は、北宋末の宣和2年(1120)中国の南方で起きた方臘の乱の次第を、『水滸伝』との関係で述べている。梁山泊の豪傑たちは、宋王朝に帰順したのち、各地で戦って功績をあげるが、その間、戦死者は一人も出ない。ところが、方臘の反乱軍との戦いになると、道士の入雲竜公孫勝が去っていったこともあり、苦戦が続き、多数の戦死者を出す。その難敵の方臘と彼の起こした暴動の性格と限界、とくに西方のマニ教の一派であったらしい喫菜事魔との結びつきなどが語られている。
 そしてこの時代に蔓延したニヒリズムと残忍さを取り上げて、宋代を中国のルネサンス時代だというのはおかしいという議論に対し「歴史学は事実の学問であるから、理想や観念によって振り回されてはならない」(81ページ)として、「一方においては進んだ理想と、他方においては立ち遅れた現実と、両者の間のアンバランスこそ西洋ルネサンスの特徴であった」(同上)と指摘しているところに、歴史家としての宮崎の真骨頂が現われているように思うのである。

 以上、紹介してみたように、一方で長年の研究によって積み重ねられた事実の累積と、そこから引き出された社会や人間についての観察があり、他方で、広い視野から見た歴史の動きについての洞察があって、そうした歴史についての知見の持ち主である宮崎が『水滸伝』という文学作品を題材として描かれた世界を改めて見つめなおしているのだから、面白くないわけがないのである。機会を見て、第4章以下の内容も紹介するつもりなので、ご期待ください。

呉座勇一『応仁の乱』(16)

3月30日(木)晴れ

 11年にわたる応仁の乱(応仁元年1467~文明9年1477)は「京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたわけではなかったのだ。」(199ページ) 細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍とが戦端を開くきっかけになったのは畠山義就と政長の家督をめぐる争いであったが、乱の終結後もこの問題は決着がつかないままであった。
 応仁の乱までの時期に、室町幕府を支えてきたのは、複数国の守護を兼ねる在京大名たちであった。「ところが応仁の乱終結後、大名たちは次々と分国へ帰っていった。朝倉孝景に越前を乗っ取られた斯波義敏・義寛父子を見ればわかるように、守護が守護代などに分国統治を任せ京都に滞在することは、もはや百害あって一利なしだった。」(231ページ)
 こうして大名たちが京都にいなくなると、幕府内では将軍親衛隊である奉公衆と文書行政を扱う奉行人との勢力が増大する一方で、奉公衆と奉行人の対立が激しくなった。義政の後に将軍になった義尚は奉公衆の支持を集め、寺社本所領の回復という政策を掲げながら、その実、奉公衆たちが寺社領の代官としてその力を蓄えることを目指していた。長享3年(1489)、将軍足利義尚が死に、義政の妻、義尚の母である日野富子が、細川勝元の後継である政元の反対を押し切って、義政の弟である義視の嫡男の義材を将軍とした。ところが富子が将軍御所として使われていた小川殿を義材と将軍の座を争った清晃(義政の庶兄である政知の息子)に与えようとしたことから義視・義材父子と富子の関係が悪化、延徳3年(1491)に義視が死ぬと、義材はいよいよ孤立し、側近政治に走り、旧来の幕臣たちの支持をますます失ったのであった。

 長享3年(1489)7月にそのころはまだ生存していた足利義政は在京と寺社本所領の返還を条件に六角高頼を赦免したが、荘園現地を実効支配している高頼の家臣たちが返還命令に抵抗し、近江は依然として騒然としていた。延徳3年(1491)8月に、将軍義材は義尚が長享元年(1487)が行った企てに続く、第二次の近江遠征を試みた。義尚の場合と同様に、奉公衆との結束を強化し、かつ彼らに恩賞を与えるための遠征であったと考えられる。討伐軍は勝利を重ね、明応元年(1492)末に京都に戻った(ただし、六角高頼の首級をあげることはできなかった。)

 近江の次に河内に遠征すると決めていた義材は明応2年(1493)2月、京都を出発して、24日には正覚寺(現在の大阪市平野区加美正覚寺の旭神社境内にあった)に陣を構えた。畠山政長と畠山氏の家督を争ってきた義就は延徳2年12月に病没し、基家が後を継いでいたが、その基家の本拠地である高屋城(現在の大阪府羽曳野市にある)との距離は10キロメートルほどである。「数に勝る幕府軍は戦局を優位に進め、次第に包囲網を狭めながら高屋城に迫っていた。」(243ページ)

 ところが思いがけない事態が4月22日に起きる。その日の晩、京都に残留していた細川政元が日野富子・伊勢貞宗と示し合わせて挙兵し、清晃を将軍に擁立したのである(足利義逴=よしとお、後に義高、義澄と改名)。これを明応の政変という。
 反義材派の京都制圧を知ると、諸大名や奉公衆は次々と義材を見捨てて京都に帰還してしまった。義材のもとに最後まで留まった幕臣は畠山政長をはじめとするわずか40人ほどになってしまった。もともとさしたる大義名分もなく、戦勝によってもたらされる利益の薄い戦争であったために、幕府軍の戦意は低かった。
 政変により河内の戦況は一挙に逆転し、足利義材と畠山政長・尚慶(ひさのり→尚順=ひさのぶ)父子は正覚寺に孤立した。閏4月25日、正覚寺は陥落し、政長は自害、尚慶は紀伊に逃亡、義材は捕縛されて京都に護送され、細川政元の重臣である上原元秀の邸に幽閉された。

 呉座さんの本から離れることになるが、政長の自害をめぐっては有名な説話がある。政長はもともと足利将軍家のものであったという粟田口の名工、藤四郎吉光の短刀で腹を切ろうとするのだが、腹に刀を突きたてても刃が通らない。それでこれは名刀だと言われているが、役に立たない道具だと言って投げ捨てると、そばにあった薬研(漢方の薬種を細粉とする金属製の器具)を裏まで突き通した。そばにいた家臣の丹下備前守が自分の差料である信国の脇差で自分の膝を2度切って試し、主君に渡し、それで政長は腹を切ったという。ここから、この刀は<薬研藤四郎>と呼ばれ、藤四郎吉光の短刀は切れ味は抜群であるが、主人の腹は切らないという言い伝えが生まれたという。<薬研藤四郎>はその後、室町幕府に戻り、さらに松永弾正から織田信長に献上され、本能寺の変を経て豊臣秀吉のものとなり、秀頼に伝えられたという。大坂城落城後に徳川家康に献上されたという話もあるが、刀の長さの記述が違うので、吉光の別の刀ではないかという説もある。とにかく、現在では所在不明の幻の名刀になっているそうである。

 政長自刃の後日談が幸田露伴の短編小説「雪たたき」である。明応2年12月の初めの堺の街はずれというわけではないが静かな一角。前日の夕方から降り出した雪が積もる中、田舎の方から町へと歩んできた一人の男が、下駄の刃の間に雪が詰まって歩きにくくなり、近くの家の小門の裾板に下駄をトントントンとぶつけて雪を落とした。と、門が開いて、男は家の中に迎え入れられた。家の中で思いがけない富貴を見せられた男であったが、彼が案内された部屋にあった笛を手に取って、姿を消した。
 題名になっている「雪たたき」は下駄の刃の間に詰まった雪を叩き落とすことであるが、家の中にいた女はそれを、かねてから決められていた合図と間違えて、間違った人物を迎え入れたのである。男が持ち去った笛は畠山家に伝わるゆかりの品であって、やがて男の住処を探し当てた畠山家の遺臣たちが男のもとに返還を迫りにやってくる。
 その後、遊佐河内守の率いる畠山の残党は平野城を攻め落とし、大和に潜んでいた尚慶を迎えて、河内の高屋城を本拠として畠山家(尾州家)を再興したのであった。
 なんとなく、わかりにくい話で、その後、海音寺潮五郎がさらにこの小説に着想を得て「剣と笛」という小説を書いているそうであるが、こちらは未読。

 閑話休題。いったん、京都に幽閉された義材は脱出して越中に逃れ、自分こそが正統の将軍であるとして、一部の大名や奉公衆・奉行人の支持を集めて失地回復の戦いを続ける。この後「二人の将軍」が常態化し、戦国時代の近畿地方の政治史は「二つの幕府」の抗争史という性格をもつことになるが、これは既に応仁の乱で見られた構図の延長線上にあるものだと呉座さんは説いている。
 細川政元、日野富子と結託して明応の政変を成功させた伊勢氏は、山城への支配を強化しようと企み、もともとは興福寺に仕える官符衆徒であった古市澄胤を守護代として起用、細川政元の消極的な姿勢も手伝って、山城国人の抵抗を排除していくことになる。クーデターにより政権の掌握を図った政元であったが、その後の畿内の情勢は彼の思惑通りには進まなかったのである。

 応仁の乱が終わり、明応の変を経て、いよいよ「京の将軍、鎌倉の副将、武威衰えて偏執し」という『八犬伝』の書き出しのような事態が展開することになる。尾張と越前の守護であった斯波氏は、越前を朝倉氏に乗っ取られ、やむなく尾張だけを自分の分国として、その支配を固めようとする。義材の第二次六角征伐に際して軍功を挙げた武士として名が挙げられている1人が斯波氏の尾張守護代である織田敏貞であるというふうに、守護代クラスの武士たちが大いに力をつけて、やがては守護に取って代わろうとしているのである。(既に書いたかもしれないが、織田氏は越前の二ノ宮である劒神社の社家であって、劒神社の所在地である織田をその姓としたのである。どうでもいいけれども、福井県の織田は「おた」と読む。)

 次回は「終章 応仁の乱が残したもの」について紹介・論評する。思いがけず、長い連載になってしまったが、こうやって読んでいくうちにずいぶん自分の知識を整理しなおすことができた。それでも露伴の「雪たたき」など、まだ十分に得心がいっていないところがあって、また機会を改めて読み直してみようと思う。

ジェイン・オースティン『エマ』(6)

3月28日(火)晴れのち曇り

これまでのあらすじ
 19世紀の初めごろ、イングランド東南部のサリー州ハイベリーの村に住むエマ・ウッドハウスは、村一番の大地主の娘で、美人で頭がよく、村の女王様的な存在である。早く母を失い、姉は結婚してロンドンで暮らしている。母親代わりを務めていた家庭教師のミス・テイラーが村の地主の1人であるウェストン氏と結婚したので、善良だが病弱で、凡庸な精神の持ち主である父親と二人暮らしになった。父親の面倒を見なければならないので、本人は結婚する意志はないが、ウェストン夫妻の結婚に至る縁結びをしたのは自分だと信じている彼女は、さらに別の縁組をしようと考え、村の牧師で独身のエルトンに目をつける。
 物事が自分の思い通りになってきたために、自分の力を過大評価する傾向のあるエマに対して、その欠点を直言できるただ一人の人物が隣村であるドンウェルの大地主で、エマの姉のイザベラの夫ジョンの兄であるジョージ・ナイトリーであるが、彼はエマのそんな思い付きを余計なおせっかいであると止めようとする。
 村の寄宿学校の特別寄宿生であるハリエット・スミスと知り合いになったエマは、かわいくて気立ての良い彼女がすっかり気に入り、彼女とエルトンとを結びつけようとする。しかし、野心家のエルトンが結婚相手として念頭に置いていたのはエマの方であり、エマに求婚を断られたエルトンは、保養地であるバースに向かい、そこで知り合ったミス・ホーキンズと婚約する。
 村の元牧師の未亡人であるベイツ夫人にはジェイン・フェアファクスという孫娘がいて、陸軍士官だった死んだ父親の友人のキャンベル氏に引き取られてロンドンで暮らしていたが、キャンベル夫妻が結婚した娘の嫁ぎ先であるアイルランドを訪問している間ハイベリーに里帰りする。ジェインはエマと同じ年頃で、才芸に秀でた美人であるが、慎重な性格でエマは彼女が気に入らない。
 一方、ウェストン氏には死んだ前妻との間に儲けたフランクという息子がいて、ヨークシャーに住む前妻の実家のチャーチル家で養われている。養家の事情からハイベリーにやってくる事は無かったフランクがとうとう父親に会いに村を訪問する。エマは明るい性格のフランクが気に入り、すぐに打ち解ける。ウェストン夫妻はフランクとエマを結びつけようと考えている様子である。
 エマはフランクがロンドンに散髪に出かけると聞き、驚き、彼の軽薄さにあきれる。(実は、散髪は口実で別の用事があるのかもしれないが、なぜか彼女の想像力はそういう方向に働かない。) 村で2番目の金持ちである成り上がりのコール氏からのディナーの招待状を受け取ったエマは、出席を断るつもりであったが、周囲の人々の勧めもあって出かけることにする。(以上25章まで)

 エマの心中を知ってか、知らずにか、フランクは上機嫌でロンドンから戻ってくる。心ならずもコール家のディナーに出席することになったエマは、それでもフランクに会って、彼を観察するのを楽しみにしている。ハイベリーの主だった人々が皆招待されている会の中で、エマはジェインのもとにロンドンの楽器店からピアノが届けられたという話題を耳にする。贈り主が誰なのかというのがその関の話題の中心であった。ジェインの養い親であるキャンベル夫妻ではないかという意見が有力であったが、エマは夫妻の娘の嫁ぎ先のディクソン氏が送り主ではないかと想像する。ジェインとディクソン氏が人目を忍ぶ恋をしているのではないかとさらに想像を膨らませる。この話題を聴いてなぜかフランクはにこにこしている。
 お茶の時間にいつもは歩いているナイトリー氏がこの晩に限って馬車でやってきたのは、ミス・ベイツとジェインの送り迎えのために借りたのだという話題を持ち出したウェストン夫人は、ナイトリー氏はジェインとの結婚を考えているのではないかとエマに言う。エマはなぜかむきになって反対する。お茶の時間が終わって、音楽の時間になり、エマとジェインがピアノを弾く。「歌も演奏も、ミス・フェアファクスのほうがはるかに上手だということは、エマも認めざるをえない。」(中野訳、上巻、351ページ、「認めざるをえな」くても、相手の方が上手だと分かる程度には、エマの技量が進んでいるということも認めてよい。) ジェインとフランクはもともと知り合いだったようであるが、2人の様子を見ていると、以前に一緒に歌ったことがありそうである。その後、ダンスをすることになり、エマはフランクと先頭に立ってダンスを楽しむ。しかし、2曲踊ったところで、会はお開きになる。(第26章)

 翌朝、ハリエットの訪問を受けたエマは、ハリエットのお茶の会での経験を話す様子から、依然彼女に求婚し(エマがその申し出を断らせた)自営農民のロバート・マーティンのことをハリエットが完全には忘れていないことに気付き、彼女の買い物に同行しようと考える。買い物先でエマはウェストン夫人とフランクに会う。2人はベイツ夫人を訪ねてやってきたという。2人からエマのことを聞いたミス・ベイツ(ベイツ夫人の娘で、ジェインの伯母。彼女のおしゃべりにエマはいつも辟易している)が、エマたちも来てほしいと誘われて、ベイツ家を訪問することになる。ミス・ベイツの話ではナイトリー氏から一家は焼きリンゴにするリンゴをたくさんもらったそうで、フランクはベイツ夫人の眼鏡を修理中だという。(第27章)

 ベイツ家を訪問したエマは、話題のピアノの贈り主をめぐってフランク、ジェインと話をする。前夜、エマは贈り主がディクソン氏ではないかとフランクに言ってしまい、それを後悔していたのだが、フランクは気にしていない様子である。ジェインは慎重な態度を崩さない。しかし、エマはジェインがディクソン氏との道ならぬ恋を楽しんでいると考える。表通りをナイトリー氏が通りかかり、寄って行けというミス・ベイツの勧めにもかかわらず、キングストンに出かける用事があると言って、通り過ぎていく。(第28章)

 コール家でのダンスの楽しい思い出が忘れられないフランクは、ウェストン家でも舞踏会を開こうと計画する。開くこと自体に反対する者はいないのだが、会場の設営がむずかしく、計画は難航する。そうした中で自分の意見を通そうとするフランクの様子を見て、エマは彼とは単なる友達のままの方がいいと考えはじめる。フランクはウェストン家ではなく、村一番の宿屋であるクラウン亭(the Crown Inn)で開くことになったとエマに知らせに訪れたついでに、舞踏会での最初の2曲のダンスを申し込む。ウェストン氏はそれを聞いて喜ぶ。(第29章)

 フランクが養父母のチャーチル夫妻からサリー滞在を許されていたのは2週間であったが、舞踏会の準備を考えるとその期間を延長する必要が生じた。例によってナイトリー氏は、この舞踏会の計画には冷淡で、またもやエマと衝突する。ところが、チャーチル夫人の病状が悪化して、フランクは帰宅しなければならなくなり、計画は取りやめになる。別れのあいさつにエマを訪れたフランクは、何か言いかけてやめてしまう。フランクが去ると、毎日のように彼と会って過ごした楽しい時間のことが思い出されて、エマは虚脱感に陥る。ナイトリー氏とジェインはなぜか落ち着いた様子である。(第30章)

 エマは自分はやはりフランクに恋をしていたのだと思うようになるが、少しずつ考えが変わって、これはほんの軽い恋だと思いはじめる。フランクはウェストン夫人あてに手紙を何通もよこし、その中に「ミス・ウッドハウスの美しいお友達」と書かれていたので、あるいはハリエットが自分の代わりにフランクの相手にならないかなどと考える。
 フランクがハイベリーから去ると、結婚式が近づいたこともあり、エルトン氏が村の話題の中心になる。この結婚によって傷ついているハリエットを是が非でも幸福にしようとエマは考える。(第31章)

 物語の進行は、エマの視線に沿っていて、複数の可能性が考えられる出来事でも、エマの解釈が強調されるが、作者はところどころに伏線を張って、エマの想像力の暴走をそれとなく暗示している。フランクのロンドンでの散髪の件や、ピアノの贈り主は誰かという謎、さらにフランクがエマに言いかけたこととは何であったのかなど、さまざまに想像できる。本筋とは関係がないようなおしゃべりの中に、実は重要な内容が含まれているかもしれず、気の抜けないところがある。ちくま文庫版の解説に引用されているサマセット・モームの発言「オースティンはきわめて健全な良識と、はつらつとしたユーモアの精神を備えていたために、ロマンティックになることができなかった」(396ページ)は、『エマ』にもっともよく当てはまるのではないかと思う(『高慢と偏見』はもう少し「ロマンティック」である)。 

今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』

3月27日(月)雨が降り続く

 今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』(岩波新書)を読み終える。
 北原白秋(1885-1942)は、童謡、短歌、詩、民謡など様々な分野にわたって作品を発表し続けた、「日本の近代文学において巨大な存在の一人」(ⅱページ)であり、その全集は40巻におよぶという。しかし、個々の領域における白秋の業績に関心を抱く人は多いかもしれないが、彼の全体像を把握しようとする人は少ない(一部を理解しただけで全部を理解したつもりになっている人が多い)と今野さんは言う。ところが、それぞれが独立して理解されてきた白秋の様々な分野における作品は、互いに深くつながっているのである。例えば、民謡として作られた「城ヶ島の雨」(1913)は広く知られているが、この作品がつくられた翌年には「雨中小景」という同じイメージを念頭に置いた詩が発表され、さらにその翌年には「三崎風景」という7種の短歌の中に同じイメージが歌いこまれている。このように「短歌、詩、童謡とジャンルは異なっていても、一つの「イメージ」の言語化であり、時には重なり合う「パーツ」を用いながら、詩が短歌になり、短歌が詩になり、あるいは詩が童謡になり、と多様な展開を見せることがある」(ⅱページ)という。

 著者である今野さんは、国文学ではなく国語学畑の人で、とくに近代における日本語の変化や日本語の辞書の歴史などについての著作は、このブログでも紹介してきた。自分が味わった感動をさまざまな形式の中に、織り込んだ白秋と、言葉の変容についての研究を続けてきた今野さんとの接点になるのは、白秋がその作品の中で使った語彙であろう。「あわせて白秋は、推敲の人、彫琢の人でもあった」(同上)とも今野さんは言う。言葉を選んで、詩文を推敲する際に、白秋がどのような辞書を使っていたかというようなところに視線を定めていくところがいかにも今野さんらしい。

 この書物は白秋の創作者としての遍歴を編年的にたどる構成をとっており、
第1章 油屋のTONKA JOHN
第2章 『邪宗門』前夜
第3章 『邪宗門』――言葉のサラド
第4章 『桐の花』のころ――君かへす朝の舗石さくさくと
第5章 光を求めて――三浦三崎、小笠原への巡礼行
第6章 葛飾での生活
第7章 童謡の世界――雨が降ります。雨が降る
第8章 言葉の魔術師――詩集『海豹と雲』と歌集『白南風』
第9章 少国民詩集――この道を僕は行くのだ
と展開されてゆく。故郷柳川の風物と言語が白秋の業績の中でさまざまな姿をとって表れてくること、すでに述べたように彼の作品が様々な言葉を選択しながら作り上げられていること、また彼の作品が彼の実人生をきっかけとして形成されたものであるにせよ、それとは別の虚構であることなどが論じられている。研究者、評論家の発言に加えて、白秋の近親者の言葉が多く引用されているが、白秋の友人であり、妹のいゑ(家子)と結婚した山本鼎の子息である詩人の山本太郎(1925-88)の発言など特に興味深い。

 山本の名が登場したついでに書いておくと、山本鼎がそれまでの手本を模写するような図画の教育に反対し、自由画を進めようとしたことと、白秋が子どもの自由詩を推進しようとしたことはたぶん両者の共通性を物語るものであろう。その自由を愛したはずの白秋が晩年、「大東亜戦争」を支持する作品を発表していることについて、今野さんは三木卓の白秋が外界の出来事に常に関心を寄せており、「拒否することよりも肯定してそれを賛美し、受け入れることの方がはるかに多い」(243ページ)という意見を肯定的に引用している。中野重治は、白秋が「けはい」に敏感な詩人であったことを否定的に論じているが、その「けはい」こそが白秋の本領であったという指摘もされている。〔時代や場の「けはい」を読むことも大事ではあるが、その背後にある社会の動きに目を配ることの方が大事ではないかと、私は思っている。今野さんは「リアリズム」に対して懐疑的であるように見えるが、おそらくはその点で私と意見が違うのである。〕

 白秋がその詩の中に表現した思想をめぐっては、まだ議論の余地がありそうだが、今野さんのこの著書を読んでとりあえず感じることは、詩の実作に取り組んでいる人間にとって、これはさまざまな示唆を与える書物だということである。白秋の創作上の遍歴が、様々な作品からの陰陽をともなってたどられているだけでなく、詩と人生がどのような距離を持つべきかとか、詩はそもそも何を目指して、何を表現すべきかとか、詩の言葉としてどのような言葉を選ぶべきかとかいうことの手掛かりとなる議論がこの書物の中には盛り込まれている。今野さんとしては白秋の詩の言葉、とくに一つ一つの単語の選び方に関心があったのだろうが、それを超えて、多くのことを読み取ることができるというのが私の印象である。 
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