平松洋子『あじフライを有楽町で』

6月13日(火)雨が降ったりやんだり

 平松洋子『あじフライを有楽町で』(文春文庫)を読み終える。『週刊文春』2013年5月2・9日号から2014年12月25日号まで82回にわたって連載された食べ物エッセーをまとめたもので、文庫オリジナルというのがうれしい。

 著者の友人である詩人の穂村弘さんによると、「平松洋子と言えば知識、実践の両面から食を極めた人である」(36ページ)。知識にもいろいろあり、実践にもいろいろあるということがこのエッセー集を読めばわかる。読む側の食べ物に対する知識、実践にもいろいろなものがある訳で、それがうまく重なったり、重なるだけでなく、著者の方が上を言っていることが文句なしに確認できるような箇所があると、読んでよかったと実感できるわけである。

 「あとがき」で、平松さんは「あじフライと有楽町は、なぜかぴったりだ」(296ページ)という。表題にもなっている「あじフライを有楽町で」は有楽町駅の近くの交通会館の地下1階の定食屋「キッチン大正軒」のあじフライ中心のメニューを紹介している:
「この店の基本、それはあじフライ。たとえば――
 ミックスA定食(メンチ、あじ、エビ) 950円
 ミックスB定食(豚生姜焼、あじ、エビ) 1000円
 ミックスC定食(煮込みハンバーグ、あじ、エビ) 1000円
 あじフライへの愛と自信にあふれている。」(61ページ) 
この「カロリーK点越え」のメニューをいつの間にか食べてしまう昼休みの熱気も伝わる文章である。

 「知識」として驚き、しかも自分の経験と重なる部分も見つけられるのは「1972年、釜ヶ崎」。大坂釜ヶ崎を拠点に労働者として生き、多くの詩や文章を発表したアナキズム詩人寺島珠雄(1925-1999)が中心になってまとめた『釜ヶ崎語彙集 1972-73』の中の釜ヶ崎の風物の記事の紹介である(長門裕之主演、中平康監督の映画『当たりや大将』を思い出す)が、寺島以外の人が執筆した次の項目が特に印象に残る:
「京屋(喫茶店) (前略) 向かいのパチンコ屋桃太郎の軒に鳩がいつも群れているのは、京屋の客が食べ残したピーナッツをやるからで、早朝、自分は食べずに大事そうにピーナッツを握って出てきた労働者が、一粒ずつ鳩にやっている光景は他では見られない。そうして自分の”行事〟を済ませてから、労働者は現場に向かうのだ。(い)」(255ページ) これにつけた「皆、労働者であると同時に一つずつの人生を抱えた人間なのである」(同上)という平松さんのコメントもいい。

 「知識」を「実践」に移そうかどうかと逡巡している雰囲気がうかがわれるのが「志ん生の天丼」。昭和戦後の落語界で名人といわれ、三道楽免許皆伝を豪語した五代目古今亭志ん生の天丼の食べ方を紹介している。志ん生は、最初は上にのせてある天ぷらやごはんを肴にして日本酒を飲み、七分目まで食べた後、コップに少しだけ残しておいた日本酒を回しかけて蓋をし、いったん蒸らしてからおもむろに開けて食べていたという。(若い、売れない、貧乏な落語家だった時代に、宇野信夫の家に押しかけて、天ぷらそばを食べさせてもらっていたという話は、以前に書いたことがある。) 志ん生の行きつけだった湯島の天ぷら屋「天庄」に出かけることもあるという平松さんであるが、志ん生のまねをして天丼を食べてみたいとおもってもなかなか実行に移せないらしい。私も志ん生の高座に接したことはあるが、そのころは酒とは縁のない子どもであったのが残念である(酒に縁のある子どもだったら大変だ!!)

 「実践」といっても著者が包丁をふるう場合もあり、食べるだけの場合もある。知人から送られた筍の大軍に必死で立ち向かう次第を記す「出たか、筍」などは前者であり、友人の母親が実家から送ってくれるという山椒の新芽をふんだんに使った創作鍋を体験する「シビレる鍋」は後者である。いずれにしても、単に「食べる」ということだけではなく、「食べる」ことを通じての人間関係の豊かな広がりが感じられる。それは、この書物全体についてもいえることであって、それが一種の隠し味として文章の魅力を支えているのである。

中島義道『東大助手物語』

6月12日(月)曇りのち晴れ

 中島義道さんは2通りの意味で哲学者である。我々が日常接する問題、特に苛立つような問題を取り上げて、それらの本質に迫る論考を展開するという意味で哲学者であり、カントの研究者という意味でも哲学者である(こちらは哲学=学者というべきであろうか。これまで前者の系列に属する著書(『<対話>のない社会』『私の嫌いな10の言葉』など)は何冊か読んできたが、後者の立場から書かれた書物は読んだことがない。そのような読書経験から、かなり個性の強い学者、少数派であっても自分の意見を貫く人物だという印象を持っている。少数派といっても、そのなかでもまたいろいろな個性があるから、中島さんの意見に共感する場合と、そうでない場合とがあることはひていできない。

 この書物は中島さんが東京大学教養学部の社会科学科の社会思想史講座の助手(現在では助教というらしい)であった時代に、講座の糟谷(仮名)教授から受けたいじめ・嫌がらせの次第を書き綴ったものである。いじめは大学の中だけで終わらず、中島さんの家庭生活にまで及ぶ。必ずしも良いとは言えない夫婦生活にますます亀裂が入りそうな干渉である。糟谷教授の怒りの原因は中島さんの「態度の悪さ」である。言動の一挙手一投足が不興を買う。このことについて中島さんは次のように書いている。
 「助手生活一年目から二年目と駒場に長くいるにつれ、私はもはや全く糟谷教授を学問的に尊敬しなくなっていき、それとともに、教授に対する態度も軽いものになっていった。
 そこまで考えて、「態度が悪い」という糟谷教授の言葉の核心にあるものが、ふとわかった感じがした。「態度が悪い」とは「自分を尊敬しない」ということなのだ。確かに、私が教授の学問に対する評価を下げていくうちに、糟谷教授に対して軽く見る態度をとっていたであろう。そして、哲学思想系の学者の場合、その学問と人間とを切り離すことはできない。私は学問的に全否定している教授を人間として尊敬することはできないのである。」(169ページ)

 中島さんは東大の教養学部(教養学科)、法学部、人文科学研究科(哲学専攻)の2学部1研究科を卒業、修士課程を出た後博士課程進学を拒否されて予備校講師の仕事をした後、ウィーンに留学した博士号をとったというかなり異色の経歴を持つ。異色の人材であることに目をつけて、教養学部の助手に採用したのがほかならぬ糟谷教授であった。にもかかわらず、その関係は悪化の一途をたどったのである。若いころは優秀な研究者であったかもしれない糟谷教授であるが、その当時はほとんど業績らしい業績を残さない、演習に参加する学生が途中から1人もいなくなってしまうような教官であり、しかもその理由を自分なりに掘り下げようとせず、自己満足や学生の質の低下の非難で紛らわせてしまうような人物であった。だから、自分の忠実で強力な味方になるはずの人間が宋でなくなってしまうと、途端に凶暴な牙をむき始めたということらしい。そして、糟谷教授の最後のよりどころになったのが人事についての影響力である。その当時、大学の人事は公募が主流になり始めていたが、新規開設予定のために個人的な伝手を頼りにして助教授人事が舞い込んできた。

 大学、あるいは教職における人事には、というよりも人事というのは一般的にそういうものだろうが、偶然の、不確定的な要素があって、その結果についても予測が難しいところがある。だから、人事に対する自分の影響力を誇大に評価し、また他人からの評価を求めるというのは極めて危険なことである。さらに言えば、教職関係の人事について言えば、学力の方を尊重して性格的なことは(よほどの異常がない限り)、見過ごした方がいい。そんなことを書くのは、私の最初の就職に際して、指導教官が君は性格円満ではないけれども、性格円満だと推薦状に書いておくと言われた記憶があるからで、そんなことよりも就職先で教えるはずの科目についての学問的な能力が全くない(教養課程で単位を落とした科目ばかりである)ことの方が問題ではないかと内心で思っていたことがあるからである。中島さんの場合も、糟谷教授から性格に問題があると言われ続けた訳であるが、性格に問題があると言っているご本人の方がよほど性格に問題がある場合も少なくないのである。それに、「性格的な問題」を口実にして思想差別が行われる危険もかなり大きいからである。

 糟谷教授からの中島さんへの要求は、夏休みのドイツ旅行中に留守になる自宅の庭の芝刈りが、中島さんを飛び越えて、その夫人に命じられるところにまでエスカレートする。もはや、教授と助手の個人的なあるいは個別的な関係として放置できる問題ではなくなってきて、中島さんは大学院時代の指導教官や周囲の頼りにできそうな人物に相談をし始める…。

 著者自身の経験の実録であり、この書物に登場する何人かの人物は実名であり(大森教授は大森壮蔵であろう)、何人かは当然のことながら、仮名になっている。四方田犬彦『先生とわたし』は、東大の教養学部時代から続いた四方田さんとその師であった由良君美の交流の実録であるが、軋轢を重ねたにもかかわらず、四方田が由良に対して抱き続けている尊敬の念が、実名での展開によって裏付けられている。四方田に及ぼした由良の人格的な感化力は決して否定できないほどに大きいのだが、直接の師弟関係ではなく、講座における上下関係にすぎないこちらはそうではないのである。
 大学や大学院で師弟関係がなくても、教授と助手のあいだに師弟関係が生まれることもありうる。が、それは両者の努力の結果として生まれるものである。教育は愛であるというが、愛には憎しみが付きまとう。だから努力が必要なのである。そのことを無視した教育論は空理空論に陥りがちである。一方的に相手にだけ努力を求めるのは横暴である。
 さて、もし私が1年浪人して東大に入っていれば、中島さんと一緒の学年になったはずで、ということは私の高校の同期生の中にも彼と一緒に学んだという人間が少なくないはずだと思う。つまり、ここに書かれている著者の経験には私の経験とつながったり、重なったりする部分がある一方で、それぞれの大学にはそれぞれの大学の事情があることを考えさせられた。大学によって機関によって、人事の進め方にも違いがあること、知らないというよりも分らない部分が少なくないことなど走っておいてよいことである。大学の先生の世界の暗部を、自分自身や自分の家庭の問題も視野に入れながらあからさまにした書物であり、アカデミズムの中で自分の履歴を築こうと考えている人は、目を通しておいた方がよい書物ではないかと思う。 

カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(2)

6月9日(金)晴れ

 トルコ人との戦争に従軍したテッラルバのメダルト子爵は、勇敢(無謀)にも敵の大砲の真正面に立ちはだかってその砲弾を浴び、その体を吹き飛ばされてばらばらにされたが、軍医たちの巧みな手術のおかげで右半分だけの人間になって先祖代々の領地であるテッラルバに戻ってきた。テッラルバ(夜明けの土地)は、深い森に覆われた山が海岸のすぐ近くにまで迫っている美しい土地であったが、(カトリックが支配的なイタリアでは例外的な少数派であるユグノー:フランスのプロテスタント信者)の集落や、癩患者が暮らしているきのこ平のように、ほとんど/めったに/まったく、村人たちが訪れないような場所もあった。
 故郷に戻ったメダルド子爵は人間にも動物たちにも冷酷な人間になっており、父親の子爵は失望して死に、母親代わりに彼を育ててきた乳母の年老いたセバスティアーナは悲嘆にくれた。父の死後、彼は領地内を歩いては、見るもの触れるものをすべて2つに切断し、領民に対しては厳しい裁判官として大目に見るべき犯罪に極刑を課し、領内だけでなく自分の宮殿にさえ放火して、癩病とは別の病気で顔にできものが出来ていたセバスティアーナをきのこ平に追いやった。
 語り手である少年はこの子爵の甥(姉の子)であり、両親もいないし、その育ちから主人の側にも使用人の属さない自由な立場で、クック船長とともに世界を就航してきた船医であるトレロニー博士の研究の助手をしていた。博士は医者の仕事をほったらかしにして、巻貝の化石や人魂を集めて研究にふけり、すぐに飽きて、また別の新奇な研究対象を探していたのである。

 メダルド子爵はある日羊飼いの娘パメーラが牧場でヤギと遊んでいる姿を見て恋に落ちる。「正午の帰り道に、牧場のひなぎくが一本残らずまっぷたつにされ、その矢車形の花弁の半分がむしり取られているのを、パメーラは見つけた。≪まあ恐ろしい≫彼女は心のなかで叫んだ。≪谷間にはたくさん娘がいるのに、よりによって、あたしの身に降りかかるなんて!≫子爵が自分に思いを寄せていることを彼女はさとった。まっぷたつにされたひなぎくを一本残らず摘みとって、家に持ち帰り、彼女はミサの本のページにはさんだ。」(75ページ) 子爵はパメーラを追い続け、彼女は森に逃れる。子爵の執拗な脅しに、彼女の両親は結婚に同意する。ぱめーらは一番の仲良しのヤギとアヒルを連れて、森の中に逃れる。彼女の居場所を一人だけ知っている語り手が、彼女に食料を届けている。ある日、語り手がトレロニー博士と畑の中を歩いていると、子爵が突然現れ、「少し長く歩くと、その後で、亡くなった片足がつかれているみたいな気がするのだ。これはどういうことだ?」(86ページ)と質問する。博士は、しきりに考えにふける。「彼が人間の体の問題にこれほど深い関心を示したことは、かつてなかった。」(87ページ)

 きのこ平にセバスティアーナをを訪ねた語り手は、彼女は本当は病気ではなくて、身を守るために病気のふりをしていること、さまざまな病気によく効く薬を知っていることを知る。その帰りに、森の中で、彼は毒蜘蛛に手をかまれた叔父に逢う。いつもと違ってやさしく親切な様子の叔父の傷を治そうと、語り手は再びセバスティアーナのもとに向かう。セバスティアーナは、毒蜘蛛に手をかまれたのが叔父の左手であるといった語り手の言葉を聞きとがめるが、薬を渡してくれる。日が暮れた頃、オリーヴの林の中で語り手は叔父に出会う。彼はスズメバチの大軍を語り手にけしかけるいたずらをする。その後、トレロニー博士に逢うと、彼は赤い蜘蛛に手をかまれた子爵の傷を治したばかりのところだという。語り手は訳が分からなくなる。

 そのうちにメダルドの二重の性格についての噂が広がり始める。あちこちに悪いメダルドだけでなく、善いメダルドが出現し始めたのである。噂を確かめようとパメーラは自分の近くにやってきた子爵に話しかけた結果、自分の目の前にいるのが別の半分だということに気付く。「お城に住んでいる子爵、あれが、悪い半分。そしてあなたが、別の半分。戦争でこなごなになってしまったと思われていたのが、いま帰ってきた」(107ページ)というのである。
 彼女がメダルド(の別の半分)から聞き出したのは、次のようなことであった。実は大砲の玉は彼の体の残り半分をこっぱ微塵に吹き飛ばしたのではなく、彼をまっぷたつにしたのであった。味方の負傷者収容班が見つけたのは半分だけで、残る半分は戦死者の死骸の山の下に埋もれていた。それをキリスト教徒とトルコ人たちの中立地帯に住んでいる2人の隠者が見つけ、自分たちの住処に連れ帰って、手厚く秘法の香油と軟膏とを塗って、ついにその命を救ったのである。そしてこの残った半分も松葉づえで片足を引きずりながら、何年も、何か月もかかって、キリスト教徒の諸国を越え、みちみち善行で人々の目を瞠らせながら、自分の城へと帰ってきたのである。

 半分の体になったことで自分が不完全な存在であったことに気付いたというメダルドの別の半身も、パメーラに恋をする。そして彼女の両親たちの仕事を手伝いに出かけるというが、パメーラはそれに賛成しない。
「いっしょに善い行いをすること、それが私たちの愛の唯一の方法なのだ」
「残念だわ。あたしはもっと別の方法があると思ってきたの」(111ページ)
 1人になったパメーラは、自分の傍にいる動物だちにたずねる。「どうしてあたしのところに来るのは、ああいう人たちばかりなのかしら?」(112ページ)

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(3)

6月7日(水)曇り

 この書物は対外戦争をキーワードとして、倭国→日本の北東アジア諸国との関係をとらえなおすことを意図するものである。倭国→日本は、ほとんど対外戦争を経験していないし、対外戦争の経験が蓄積されなかった結果として、戦争は下手である。にもかかわらず、古代における対外関係のある部分が対アジア諸国へのあまり根拠のない優越感や敵視に影響を与えてきたことも否定できないという。今回は、この書物の最も重要な部分である白村江の戦いを中心に取り上げる第3章「白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀」の内容を検討する。その前に、第2章までの内容をまとめておく。

 大和盆地南東部に統一政権(倭王権)が誕生したのは3世紀中葉から後半のことであり、まだ国内で鉄が生産できなかったので、朝鮮半島南部の加耶地方の鉄をめぐって、倭国は朝鮮諸国と深くかかわることになる。倭王権の対外関係を推定するため資料として石上神宮に伝えられてきた七支刀と、中国吉林省に残っている高句麗好太王碑がある。
 当時朝鮮半島には北に高句麗、南東に新羅、南西に百済の三国が鼎立していたが、最南部の加耶は小国に分裂し、統一国家を形成しなかった。4世紀後半に百済は倭国に修好を求め、七支刀を贈り、倭国の支援を得て高句麗と対抗しようとした。百済支援のために海を渡った倭軍に対し、高句麗の広開土王(好太王)が圧勝したことが好太王碑に記録されている。最終的に惨敗したにもかかわらず、その前に一時的に百済・新羅を「臣従」させた記憶が倭国の支配層の中には残った。5世紀の「倭の五王」時代に倭国の王たちは、中国南朝への朝貢を行い、冊封を受けたが、その中で倭国王の地位とともに、朝鮮半島への軍事指揮権を部分的にせよ認められた。
 6世紀になるとそれまで高句麗に従属していた新羅の勢力が強まり、半島の西海岸に進出、百済は南方に追いやられた。新羅と百済は加耶に侵攻し、自国の支配地域とした。倭国は加耶がかつて倭国に臣従・朝貢した歴史があるとして、新羅に対し「任那の調」を要求し続けた。

第3章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀
 1 激動の北東アジア情勢
 南北朝に分れていた中国では、581年に北朝の隋が起こり、589年には南朝の陳を滅ぼして、統一王朝を現出させ、周辺諸国への圧迫を強めた。特に、百済からの請願を承けて598年以降4次にわたって高句麗に大軍を派遣した。この時期、江南の杭州から涿郡(現在の北京市付近)にまで達する総延長1800キロに及ぶ大運河が開削されたが、これは対高句麗戦への兵站を目的としたものであった。これまで中国の統一政権との交渉の経験を持たない倭国にとって隋の出現は衝撃をもって受け止められた。
 高句麗は朝鮮半島北部だけでなく、中国本土にも領土(中国国内の領土の方が現在の北朝鮮に属する部分よりも広かったと言われる)をもつ大国で、隋の征討を受けたが、これを撃退した。百済は隋の高句麗遠征に依存しながら、それに乗じて新羅を攻撃し、自国の利益を確保しようとした。新羅は一貫して隋に臣従することで高句麗・百済の構成を抑えようとした。
 隋が亡びて唐になってもこの基本的な立場は変わらず、高句麗は隋や新羅と対抗しながら、東突厥や百済、それに、かつての敵国であった倭国とも連携した。百済と同盟関係を続けていた倭国は新しい事態への対応を求められることになる。

 2 新羅との角逐と遣隋使
 崇峻4年(591)に崇峻天皇は群臣に「任那復興」を発議し、11月に新羅遠征軍を編成した。これは中央氏族の軍事力を主体とする大規模な編成の軍であったが、実際に戦うことよりも九州に大軍が集結することで新羅に対して外交的圧力をかけるのが目的であったと考えられる。遠征軍は推古3年(595)まで九州に駐留し続けるが、これは新羅をはじめとする国際情勢を観測するためであったと考えられる。
 『日本書紀』にはこの時期、新羅への派兵の記事が載せられているが、信憑性は薄い。国際情勢の変化を踏まえ、倭国の指導層は遣隋使を派遣して新たな外交関係の構築に取り組もうとした。ここで注目されるのは、倭国が隋に朝貢する形をとりながらも、冊封体制から独立した君主を頂くことを承認させようとしていたことである。(卑弥呼の親魏倭王や、倭の五王など、倭の地方的あるいは統一的君主は、その地位を中国の皇帝から認めてもらおうとしていたのに対し、今回は、認めてもらわなくても、こちらは倭国をちゃんと支配しているのだという立場に立っているということである。) 本書の表現によると、「倭国の支配者層は、冊封体制から独立した君主を頂くことを隋から認められることによって、すでに冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張し、「東夷の小帝国」にもつながる中華思想の構築を目指したのである(冊封を受けると百済や新羅よりも低い官品に叙される可能性が高く、朝鮮諸国に対する優位性を主張できなかったためでもあろう)。」(97ページ)ということになる。

 隋の文帝の開皇20年(600)に派遣された遣隋使については、『隋書』には記載されているが、『日本書紀』には記されていない。文帝から風俗を問われて使者が答えた内容があまりにも原始的で相手にされなかった様子である。小野妹子が派遣された第二次遣隋使は、その国書に、倭国の大王のことを「天子」と称していたことによって、煬帝の怒りを買った。「その「無礼」な「蛮夷」の使節の帰国に際して、煬帝が裴世清を宣諭使として遣わしたのは、交戦中の高句麗と「大国」倭国が結びつくのを恐れたためであろう」(99ページ)と倉本さんは推測する。これは倭国が新羅や百済よりも上位にあるという倭国側の宣伝が一定程度奏功したことと、倭国の地理的な条件が中国側に誤って認識されていたことのためであるという。
 その後も推古17年(608)に第3次、推古22年(614)には第4次の遣隋使が派遣され、第3次には留学生・学問僧が従った。彼らは隋の滅亡と唐の成立という易姓革命を体験して帰国し、隋唐帝国の先進統治技術を倭国の指導者に教授するとともに、後に「大化改新」の理論的指導者となった。
 『日本書紀』には推古18年(610)と推古19年(611)に、「新羅」と「任那」が使者を倭国に派遣し、「朝貢」してきたと記されている。おそらく、「新羅の調」「任那の調」も貢上されたものと著者は推測している。高句麗の圧迫の中で、隋に高句麗征討を要請している新羅としては、倭国に対しても下手に出ての交渉を試みたのだろうが、新羅が倭国の服属国であるという認識を支配層にますます植え付けるものとなった。
〔「推古天皇」時代の日本の政治体制と政治の動きについては、『日本書紀』の記述にあまり信頼がおけず、かといって中国の史料をうのみにするのも躊躇されるということで、学者によってかなり意見が違う。ここは、倉本さんはこのように認識しているということで読み進むのが賢明であろう。]

 3 唐帝国の成立と「内乱の周期」
 隋は4次にわたる高句麗征討の失敗によって滅亡し、618年に唐が興った。唐は628年に中国を統一し、周辺諸国を圧迫した。朝鮮諸国は相変わらず抗争を続けていたが、新羅は唐に依存することによって危機を乗り切ろうとした。これに対し高句麗や百済は一応は唐に謝罪の使者を派遣したが、引き続き新羅への侵攻を続けた。特に高句麗は唐の侵攻に備える長城を築いたりして、敵対心を隠そうとしなかった。
 倭国は舒明2年(630)に初めての遣唐使を派遣し、舒明4(632)年に唐使高表仁や新羅の送使とともに帰国する。『日本書紀』の記述は簡略で、中国側の史料と合わせて、倭国が唐に冊封を求めず、また新羅や百済に対する優位を主張したために唐との間で外交紛争が起きていたことを推測させる。その一方で、隋・唐から帰国した留学生・学問僧の献策によって倭国はその国家体制の整備を急速に進めていた。

 今回は第3章全体を紹介・論評するつもりだったが、章全体の3分の1ぐらいのところまでしかたどり着かなかった。これから朝鮮の3国と倭国ではそれぞれ政治体制の変動が起き、さらに百済の滅亡という事態に至る。隋→唐と直接的な接触機会が多い朝鮮3国と遠く離れた倭国とでは対外意識、特に外国における変化に対する対応と、力関係の認識に大きな違いが生まれることが予測できる。今回読んだ個所では、隋の煬帝による大運河の開削が対高句麗戦の兵站を目的とするものだったというのが注目される。それでも、隋の対高句麗戦は結局失敗したのであるから、戦争の予測を立てることは難しいのである。とはいえ、大運河は、他の目的にも役立ったのである。 

 

夏目漱石『虞美人草』(6)

6月5日(月)晴れ、気温上昇

これまでのあらすじ
 外交官であった当主が任地で病死し、甲野家には未亡人と長男の欽吾(27)、長女の藤尾(24)の3人が残された。欽吾は先妻の子、藤尾は未亡人の実子である。遠縁の親戚である宗近家の長男で外交官を目指している一(28)と藤尾を結婚させようという内々の約束が父親同士のあいだではあったが、藤尾は実際的な一よりも、英語の家庭教師をしてもらっている秀才で詩人肌の小野清三(27)の方に心を移している。藤尾の母は、病弱で超俗的な欽吾ではなく、将来有望な小野を藤尾の婿に取りたいと考えている。他方、初めの妹の糸子(22)は欽吾に思いを寄せている。
 小野には学費の面倒を見てもらった井上孤堂という恩師がいて、孤堂先生は自分の一人娘の小夜子(21)を小野と結婚させるつもりであり、そのために京都の住まいを引き上げて上京してきた。甲野さんに対して藤尾は、小野さんを夫に選ぶと言い、義母と義妹に愛想をつかした甲野さんは家出を決意する。宗近君は外交官試験に合格して藤尾と結婚するつもりでいたが、糸子に、次に甲野さんに反対されてあきらめる。その代りに、甲野さんが従妹とと結婚するように頼む。孤堂先生から小夜子との結婚を急き立てられた小野さんは、友人の浅井君に破談の申し入れを依頼する。

18
 浅井君が小野さんと会った翌日、孤堂先生の住まいを訪問する。無神経な浅井君は、小野さんが最近ハイカラになって人間として頼るべきではないと言い、体調を損ねている先生の気分を逆なでする。実は小野さんに頼まれたのだが、博士論文執筆で忙しいので結婚の話はなかったことにしてほしいという。先生は浅井君の無礼な言い方に加えて、小野さんが自分で断りに来なかったことに腹を立てる。自分の訪問がもたらした結果に驚いた浅井君は慌てて孤堂先生の家を出る。
 この場面で、浅井君をもてなすのに小夜子が出雲焼の皿に和製のビスケットをあまり多くなく盛って出すというのが気になる。この作品の10で宗近老人が藤尾の母に柿羊羹を勧めているのにくらべると、貧し気な感じである。

 孤堂先生の家を飛び出した浅井君は、小野さんの下宿に戻ると思いきや、(路面)電車に飛び乗る。
「突然電車に乗った浅井君は約1時間余の後、ぶらりと宗近家の門からあらわれた。続いて車が2挺出る。1挺は小野の下宿へ向う。1挺は孤堂先生の家に去る。50分ほど遅れて、玄関の松の根際に梶棒を挙げた1挺は、黒い幌を卸したまま、甲野の屋敷を指して駆ける。」(359ページ) 
 車というのは人力車である。『吾輩は猫である』の金田邸には電話が引いてあったから、宗近邸にも電話があったのではないかと思われる。あるいは下女の清か、書生の黒田が車屋まで走っていったのであろうか。

 小野さんの下宿に向かった車に乗っていたのは宗近君である。小野さんは昼食を済ませたばかりであった。〔食事つきの下宿屋というのは今でも残っているだろうか。残っていたとしても、昼食までは出さないのではないかと思う。] この日の午後に藤尾と大森に行く約束をしているので、何となく気が咎めている。その一方で、浅井君が孤堂先生を訪問した結果も気になっている。と、いつの間にか、宗近君がやってきたのに気づく。
 宗近君は浅井君の訪問を受けて一部始終を聞いたと言い、「人間は年に一度くらい真面目にならなくっちゃならない場合がある」(365ページ)と小野さんが出会っている事態に直面して解決に取り組むべきだと説く。小野さんは自分の弱い性格と、それゆえ宗近君に対して感じていた劣等感について告白し、小夜子と結婚するという。宗近君は、小夜子とを連れて藤尾と対面し、そのことをはっきり言うように勧める。小野さんは藤尾と大森に出かける約束を打ち明ける(小野さんは大森に行かないことにしたので、待ち合わせの時間に遅れたら、すぐ藤尾は戻ってくるであろう)。宗近君は手紙で小夜子を呼ぶことにする。

 孤堂先生の住まいを訪れたのは宗近の父で、老人同士の方が話がしやすいだろうという宗近君の配慮である。もともと体調が悪かった孤堂先生は、熱を出して小夜子の看病を受けている。孤堂先生も小夜子も小野との結婚はあきらめた様子であるが、もう少し様子を見てからにしてほしいと宗近老人が頼む。そこへ、宗近君への手紙が届く。

 第3の車は糸子をのせて、甲野の家に向かう。甲野家では甲野さん(欽吾)が原稿や手紙を暖炉で焼き捨てたりして、家出の準備をしている。甲野さんは父親の肖像画だけもって家を出るつもりである。母親が現われて世間体を憚って、家出を止めようとする。そこへ糸子が現われる。兄に迎えに行けと言われたので、やってきたという。2人が出ていこうとすると、母が止めようとして、糸子と母との間で口論になる。そこへ宗近君が小野さんと小夜子をともなってやってくる。
 漱石は紫の女=藤尾と、黄色の女=小夜子の描写に力を注いで、糸子については筆を粗略にしているところがあるが、彼女の色は鶯色(うすみどり)である。甲野さんを迎える場面で糸子の髪型=廂髪(ひがしがみ)がわかる。藤尾については2ですでに「波を打つ廂髪」(39ページ)とある。まあ、いつも同じ髪形をしているとは限らないし、廂髪といってもその中でいろいろ種類があるようであるが、とにかくそのころ流行の髪型であったことは間違いない。これに対して、小夜子は5で「昔しの髷を今の世にしばし許せと被る」(88ページ)とあり、髷を結った頭である(忙しいこともあって手入れの行届かないところを9で小野さんに見られて、幻滅されている。とにかく、女性の髪型の描写でも漱石が手を抜いていないことがわかる。

 宗近君と小野さん、小夜子、甲野さんと糸子、藤尾の母親は甲野さんの書斎で藤尾の帰りを待っている。3時に新橋駅で待ち合わせていた藤尾は、25分に人力車を走らせて家に戻ってくる。宗近君に小夜子を紹介され、小野さんからこれまでの生き型を改める、小夜子と結婚すると聞いた藤尾は、狂ったように笑い、宗近君に金時計を渡そうとするが、宗近君は時計を壊して、自分たちの行為が欲得ずくではなく、道義のためのものだという。突然、藤尾が倒れる。

19
 前日の雨で春の花が全部散らされてしまった中で、藤尾の部屋に彼女の遺体が横たえられている。枕元には銀屏風が逆さに建てられているが、それには酒井抱一の虞美人草の絵が描かれていた。
 娘の死に悲嘆にくれる母親に向かい、甲野さんと宗近君は自分の心を偽らずに、真実に生きてほしいと言い聞かせる。
 藤尾の葬儀が済んだのち、甲野さんは日記に道義の実践の結果が悲劇であり、それを避けると喜劇が展開すると書き記す。2か月後、甲野さんは日記の一節を抄録してロンドンの宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
 「ここでは喜劇ばかり流行(はや)る」

 最後で断罪されているのは、ヨーロッパの文明であり、それに追随する明治の日本であるように思われる。ただ、漱石が新聞小説として一般の読者を相手に書いて作品だけに、思っていたほど突っ込んだ文明批評はなされていない。この小説が社会の上っ面をなぞっているだけだということは、作品の一の方の次の箇所でも明らかであろう。藤野の部屋で、彼女と小野が話している時に:
社会は彼らの傍(かたえ)を遠く立ち退いた。救世軍はこの時太鼓を敲いて市中を練り歩るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息(いき)を引きとろうとしている。露西亜では虚無党が爆裂弾を投げている。停車場では掏摸が捕まっている。火事がある。赤子が生まれかかっている。練兵場で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄さんと宗近君は叡山に登っている。(33ページ)
 日露戦争に際して、日本の社会主義者がロシアの社会民主労働党に手紙を送り、それに答えたロシアからの返事が『平民新聞』に掲載された中に、虚無党のテロは、ツルゲーネフのような小説家の作り話で、我々はそういう手段はとらないと書かれていたと記憶する。とはいえ、この小説が書かれた3年後の明治43年(1910)に幸徳事件が起きていること、『それから』のなかに、幸徳秋水が名前だけ登場していることに注意を喚起しておこう。作者の思想が作品の中にすべて出て来るとは言えないのである。

 『虞美人草』を読み終えてみると、『坊っちゃん』と『草枕』を足したような作品という印象が残る。『坊っちゃん』も『草枕』も明治39年(1906)、つまり『虞美人草』の1年前に書かれた作品だから、共通する部分が多いのは当然かもしれないが、藤尾には「草枕」の那美さんのような野性や、土俗性のようなものがないから、その点で魅力に欠ける(あくまで私の趣味である)。那美さんのモデルになったと言われる前田卓(つな、1868-1938)という女性については、黒川創『鷗外と漱石のあいだで 日本語の文学が生まれる場所』(河出sh防振社)に詳しいが、宮崎滔天の妻になった槌の姉だそうである。

 甲野さんの世間的な沈黙(発表しない論文はいろいろあるらしい)とか、憂愁・煩悶には『虞美人草』の作者が慎重に隠そうとした思想的な関心が潜んでいたかもしれず、この作品の行間を当時の社会的な文脈に照らして掘り下げることは、決して無益なことではないと思われる。

 漱石は西洋、特に英国の偽善に満ちた文明を嫌ったが、そのような偽善への批判が英国の中でもブルームズベリー・グループの活動に見られるように、漱石のほぼ同時代の英国でも展開されていたことを付け加えておこう。『吉田健一対談集』の中で、吉田と中野好夫と阿部知二が英文学は「大人の文学」だという話をしていて(逆にいえば、「青春」だの「初恋」だのというのはあまり縁がない)、その意味では漱石は、英文学をやるにしては、関心が少し若いところを向いていたかなと思ったりした。『高慢と偏見』の登場人物など、『虞美人草』と年齢的に重なるけれども、人間的に自立しているという点では、ずっと大人ではないかという気がするのである。 
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