ジェイン・オースティン『エマ』(3)

3月6日(月)雨

 これまでの展開
 19世紀の初めごろ。イングランド南部サリー州のハイベリー村のハートフィールドに住む地主の娘エマ・ウッドハウスは、母が早く死に、姉が嫁いだので、まだ若いのにこの屋敷の女主人として病弱な父親の面倒を見ていたが、村の人々の尊敬を集める女王的な存在である。16年間彼女とともに暮らしてきた家庭教師(ガヴァネス)のミス・テイラーが同じ村の有力者の一人であるウェストンと結婚したので、精神的な孤独感を感じ始めた。ミス・テイラーとウェストンの結婚の橋渡しをしたのは自分だと思っているエマは、村の牧師で独身のエルトンの結婚相手を見つけようと考えはじめる。隣村の大地主であるナイトリーは、エマの姉の夫の兄であるが、エマの欠点を面と向かって指摘できる唯一の人物であったが、余計な世話を焼く必要はないと彼女をたしなめる。(第1章)
 ウェストンには先妻との間にフランクという息子がいて、先妻の兄であるチャーチルのもとに引き取られている。好青年だという噂であるが、ハイベリー村には顔を見せていない。(第2章)
 ウッドハウス家と付き合いのある人々の中に、寄宿学校の校長であるゴダード夫人がいて、彼女が自分の学校の特別寄宿生であるハリエットをハートフィールドに連れてくる。ハリエットが気に入ったエマは、彼女を自分の影響力で完璧なレディーに仕立てようと思う。(第3章)
 ハリエットは最近、学校の同窓生の家に招待されて暮らしていたが、その家の主人であるロバート・マーティンという青年が彼女に思いを寄せている様子である。エマはロバートのような下層の人間ではなく、紳士階層に属する人間とつきあうようにハリエットに言い聞かせる。(第4章)〔前回も書いたが、ロバートは決して、下層の人間ではなくて、エマの属する地主階層よりも一段低いだけの、ヨーマン=自営農民であり、ハリエットの相手として不釣り合いなわけではない。〕
 エマとハリエットがつきあっているという話を聞いたナイトリーは、この交流が2人のどちらにも役立たないと警戒するが、ウェストン夫人(ミス・テイラー)は彼の考えていることが理解できない。ナイトリーはエマが父親に甘やかされて、様々な欠点を克服できずにいることを指摘する一方で、彼女のことが気になって仕方がない様子である。(第5章)

Emma could not feel a doubt of having given Harriet's fancy a proper direction and raised the gratitude of her young vanity to a very good purpose, for she found her decidedly more sensible than before of Mr Elton's being a remarkably handsome man, with most agreeable manners....(Penguin English Library, p.40)
 「エマはハリエットの想像に適切な方向を与え、彼女の若い虚栄心に感謝の気持ちを呼ぶことにかなり成功した。というのも、まえにくらべてミスター・エルトンがとてもハンサムな青年で、身だしなみもたいそういいことにはっきり気づいたのが分かったからである。」(工藤政司訳、岩波文庫版、62ページ)
 「エマはハリエットの想像力を適切な方向、つまりエルトン氏の方へ向け、若い女性の虚栄心と感謝の念をかきたてることに成功したと確信した。エマが見たところ、ハリエットは明らかにエルトン氏を、美男子で感じのいい青年だと思いはじめているからだ。」<(中野康司訳、ちくま文庫版、65ページ)
 ハリエットが自営農民のロバートではなく、牧師のエルトンに興味を持ち始めたと確信したエマは、エルトンのほうでもハリエットに興味があるようだと彼女に仄めかした。エマは2人の間に恋心が順調に芽生えてきていると信じて、疑わなかった。
 ある日、エマがハリエットの肖像画を描きたいと言い出すと、エルトンは直ぐに賛成した。モデルになることを躊躇するハリエットを説き伏せて、エマは彼女の肖像画を完成させる(第5章でナイトリーが指摘しているように彼女は、勤勉と忍耐を必要とすることが苦手で、絵には才能があるけれどもこれまで1点も作品を完成することができなかった)。絵を入れる額をロンドンまで出かけて買ってくることを、エルトンが引き受ける。〔エルトンはハリエットに興味があるのではなくて、エマの画才を評価しているから協力的であるとも受け取ることができる。なお、この時代、絵をかくことは、音楽や刺繍と並んで、女子の有力な才芸の一つであった。〕(第6章)

 エルトンがロンドンに出かける日、ハリエットがロバートからの結婚申し込みの手紙を受け取ってエマのもとにやってくる。悩んでいる様子のハリエットに対して、エマは軽率に承諾すべきではないと言い聞かせ、断りの手紙を書かせる。エマはエルトンがハリエットの肖像画を家族に披露していると想像していた。(第7章)

 ハートフィールド邸を訪問したナイトリーは、ロバートがハリエットに結婚の申し込みをしたことを知らせ、エマはその申し出をハリエットが断ったことを告げる。口論の挙句、ナイトリーはエマがハリエットをエルトンと結婚させようとしても、それは無駄な努力になるだろうと言って去っていく。」(第8章)

 エルトンがハリエットの肖像画を額に収めて、ロンドンから戻ってきた。エマの居間に飾られたその絵を見て、エルトンは何度も賞賛し、ハリエットはエルトンへの恋心を募らせた。
 エマは読書を通じてハリエットの知性を向上させようとしていたが(ここでも彼女に勤勉と忍耐とが欠けているというナイトリーの指摘通り)、おしゃべりに時間をとられてしまい、進捗はしなかった。エマとハリエットにエマの父親のウッドハウス氏も加わってなぞなぞ集の作成が取り組まれたが、ある日、エルトンが彼の友人が恋人に送ったというシャレード(謎かけの詩)をもってやってくる。解読に取り組んだエマは、これが彼のハリエットへの求愛の詩だと解釈する。〔物語のこれまでの展開から、謎詩の中のready wit(機敏な知性)はハリエットよりも、エマにふさわしいものではないかと思う方が自然である。〕(第9章)

 ハリエットを同行して慈善訪問に出かけたエマは、ハリエットからなぜ結婚しないのかと質問を受ける。村には、昔の教区牧師の娘で独身のミス・ベイツという女性がいるが、エマは彼女を軽蔑している。彼女は貧乏であるが、自分は裕福なので、結婚しなくても世間的な体面を保てるとエマは考えている。ミス・ベイツにジェイン・フェアファックスという姪がいることがここで明らかになる(物語の重要人物の1人である)。道を歩いていると、エルトンに出会ったので、エマは芝居をしてエルトンとハリエットを2人きりで話させようとする。そして、初めて牧師館に招き入れられるが、エルトンとハリエットの間の恋が深まったという兆候をつかみことはできなかった。(第10章)

 エマの姉であるイザベラ、ジョン・ナイトリー夫人が夫や子どもたちとともにハートフィールド邸を訪問する。一家の話し合いの中で、フランク・チャーチルのことが話題になる。(第11章)

 ハートフィールド邸での晩餐にはジョンの兄のナイトリーも同席し、ロバートとハリエットの結婚問題をめぐって対立していたエマとナイトリーは和解の機会を得る。ウッドハウス氏を中心とした健康談議が、口論になりそうになった時に、イザベラがジェイン・フェアファックスの噂を始める。〔イザベラはエマにくらべると鈍重な女性として描かれているが、ジェインがエマにとって格好の話し相手となるはずだという彼女の洞察は正しいことが物語の進行を通じてわかってくる。〕(第12章)

 今のところ、エマが仕掛けているエルトンとハリエットの「恋」の行方が物語の関心事であるが、第8章でナイトリーがエマと口論した際に、エルトンは野心家で貧乏な娘と結婚するつもりはなさそうだといっていたのが気になるところである。気が付いた限りで注記しておいたが、55章からなるこの小説の12章まで来て、まだ噂だけで登場しない人物や、この後で突如として登場してくる人物がいる。そういう人物を加えて、物語は複数のロマンスが錯綜する展開を見せる。とはいえ、会話の部分が多く、その中で登場人物の性格が描き分けられているが、全体としてはのんびりした展開である。
 オースティンの他の小説のヒロインたちとは違って、エマは結婚するつもりはないという。一つには、病身の父親の面倒を見なければならない(この父親の相手をするのは大変だと思うような人物に描かれている)ことがあるが、取り組む仕事はいくらでもあるという(しかし、何をやっても中途半端に終わるのは、ナイトリーが指摘するとおりである)。確かに、エマ自身がどういう恋愛をして、どのような運命をたどっていくのかが読者にとって最大の関心事になるはずである。

 このブログをはじめてから、読者の皆様より頂いた拍手の数が22000に達しました。厚くお礼申し上げるとともに、今後ともご愛読をお願いいたします。 

呉座勇一『応仁の乱』(12)

3月3日(金)朝のうちは晴れていたが、急に雲が多くなり、午後には雨が降り出した。

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は奈良興福寺大乗院の門主であり、興福寺の別当(寺務)を務めたこともある九条家出身の経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』と、一条兼良の子である尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という2人の僧侶の日記を史料として(その他の史料も使われている)、応仁の乱の全容とその影響について考察するものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」では摂関家と関係の深い興福寺が事実上の守護であった大和という国の特殊性と、その中での衆徒・国民という独特の武装勢力の存在と、彼らの間の抗争、室町幕府との関係などが取り上げられている。ここでは親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と、反幕府的な大乗院方国民の越智との対立が軸になると説かれている。第2章「応仁の乱への道」では大和に隣接し、関係も深い河内を本拠とする畠山氏の内訌、義就と政長の対立、義就が越智と、政長が筒井と結びついていたことが述べられている。また当時の室町幕府の将軍であった義政の後継者をめぐり、実子の義尚を支持する伊勢貞親を中心とする義政の側近グループ、弟の義視を支持する山名宗全のグループ、中間的な細川勝元のグループの鼎立関係があり、文正の政変(1466)により細川・山名の連合に伊勢貞親が追放され、残ったのは山名と細川の2人となったことが記されている。第3章「大乱勃発」では、山名宗全の呼びかけによって上洛した義就が文正2年(1467)の御霊合戦で、幕府の管領であった政長を追い落とし、その後、政長を支持していた細川が将軍御所を包囲して、将軍から山名討伐の旗を与えられ、応仁元年(1467)5月に山名方との戦闘が始まった。細川・山名ともに短期決戦の戦略を描いていたが、この時代に起きた戦法の変化のために戦闘は長期化し、また味方の補給を確保し、敵の補給を遮断するために戦線が京都市内から市外へ、地方へと拡大していったことが語られている。第4章「応仁の乱と興福寺」では、戦乱によって地方の荘園からの年貢の納入が困難になる状況での興福寺の苦闘と、京都から奈良へ「疎開」してきた一条兼良の家族の優雅な暮らしぶりについて述べている。

 前回は第5章の最初の部分を紹介し、「中世都市奈良」がどのように形成され、都市民たちがどのように生活していたかを、主として祝祭に焦点を当てながら描き出していた。
 文明元年(1469)7月末に、京都で東軍方として活躍していた筒井氏出身の成身院光宣が奈良に戻り、再び京都に向かおうとして体調を崩し、死去した。応仁の乱以前から畠山政長を支持して、支えてきた光宣の死の影響は、大和においては大きく、大和の東軍方は苦境に陥ることになる。
 長期化する戦局の打開を図るため、将軍足利義政と政所執事に返り咲いていた伊勢貞親は、西軍(山名方)の斯波義廉軍の指揮を執っていた朝倉孝景の切り崩しを図る。孝景は慎重な態度をとっていたが、文明3年(1471)5月に「後日、越前守護に任命する」という内諾を与えられて、東軍(細川方)に寝返った。

 一方、応仁の乱が長期化する中、南朝の皇子の末裔たちが混乱に乗じて動き出した。西軍は義視を将軍とする西幕府をつくってはいたが、義視は将軍の弟にすぎず、しかも御花園法皇から「朝敵」の烙印を押されていたため、大義名分の面で依然として東軍に劣っていた。そこで、南朝の後裔を天皇として推戴することで、東軍の天皇・将軍の権威に対抗することをおもいついたのである。しかしこの構想には、足利義視をはじめとする反対者が少なくなかった。

 文明2年(1470)に西軍の大内政弘が南山城で攻勢をかけ、この地方を支配下におさめた。興福寺は大内勢の大和侵攻を避けようとする。西軍方の衆徒である古市胤栄にとっては有利な状況であったが、身内で起きた紛争のために動きが取れなくなっていた。呉座さんは胤栄の文化人的な性格が家臣たちからの反発を買っていたことが背後にあるのではないかと推測している。さらに、優柔不断な胤栄は、未曽有の大乱を前に、自分の進路を決めることができずに、経覚や大乗院国民と推測される山田宗朝に頼って、帰趨を決めようとしていた。
 文明7年(1475)に奈良へと進軍する大内政弘軍に呼応して、古市胤栄は越智勢らとともに出陣し、筒井氏出身の成身院順宣らの東軍方と戦うが、越智勢が戦おうとしなかったために惨敗を喫する。その結果、胤栄は家督を弟の澄胤に譲らざるを得なくなる。第4章で、胤栄が奈良で催していた豪壮な遊びについて紹介しながら、呉座さんは彼にとって「京都での戦乱は対岸の火事だったのだろう」(149ページ)と書いていたが、その火事が自分の身近にやってきたときに、胤栄の運命は急転したのである。

 呉座さんのこの書物は、かなりの評判を呼んでいて、18万部を売りつくしたそうである。戦国時代の武将の話題はかなり大きな興味を集めてきたが、戦国時代の発端となった応仁の乱についてはあまり関心が寄せられてこなかった。もし、戦国時代の歴史への関心の広がりと深まりとが、この大乱への関心を呼び覚ましたのならば、今後の歴史研究ともっと広い意味での歴史的な関心にとって好ましい結果を生みだすのではないかと思う。それから、この本を詳しく読んでいくと、さらに調べてみたいような事柄をいくつも発見するはずである。以前に書いたように、衆徒である筒井氏の家臣として登場する嶋氏は、関ヶ原の戦いで活躍した島左近を生んだ家柄であるし、この書物には出てこないが、柳生一族というのも国民であったらしい。それから、畠山義就と政長のそれぞれの性格・生涯と対立の様相を辿っていくのは、小説的な興味からも面白いことになりそうである。

大野晋 丸谷才一『日本語で一番大事なもの』

3月1日(水)晴れ(かなり雲は多い)、温暖

 2月28日、大野晋 丸谷才一『日本語で一番大事なもの』(中公文庫)を読み終える。1980年から1986年にかけて中央公論社から出版されたシリーズ「日本語の世界」の第1巻『日本語の成立』を執筆した国語学者の大野晋(1919-2008)と最終巻である『国語改革を批判する』の執筆の中心人物であった作家・英文学者の丸谷才一(1925-2012)の2人がシリーズの月報に連載した対談をシリーズ完結後に1冊にまとめたものを、さらに文庫化したものである。対談の中では、記紀歌謡から現代の俵万智にいたる日本の詩歌を材料にして、その中での助詞・助動詞などそれだけでは独立の意味を表現できない語の意味と使用をめぐって議論が交わされている。これらの一見目立たない言葉こそ、詩歌の創造において決定的な位置を占めているし、それが日本語の特徴ともおなっているというのである。詩歌に使われる言語の分析を通じて、日本語の文法を歴史的・具体的に概観する内容になっているが、取り上げられた個々の詩歌の解釈を読んでいくだけでも楽しいし、実際に短歌や俳句を創作する場合の参考にもなりそうである。文学作品の鑑賞には文法的な知識が必要であるということを改めて感じさせられる。

 目次を紹介しておくと 
鴨子と鳧子のことから話ははじまる 〔「かも」「けり」〕
感動詞アイウエオ 〔「あはれ」「ああ」「あな」「いさ」「いざ」「いで」〕
蚊帳を調べてみよう 〔「か」「や」〕
ぞけるの底にあるもの 〔助詞の「そ」、係り結びについて〕
「か」と「や」と「なむ」 〔係り結びについて〕
已然形とは何か
「こそ」の移り変り
主格の助詞はなかった 
鱧の味を分析する 〔「は」「が」「も」〕
岸に寄る波よるさへや 「「さへ」「なり」「だに」
場所感覚の強い日本人 〔「つ」「の」「に」
現象の中に通則を見る 〔「が」、連体形について〕
古代の助詞と接頭語の「い」
愛着と執着の「を」
「ず」の活用はzとn [「に」「なふ」「ずは」「なく」「じ」
『万葉集』の「らむ」から俳諧の「らん」まで 〔「む」「らむ」「かな」〕
「ぞ」が「が」になるまで 〔「ずは」〕
ということになり、対談であるからさまざまな話題を順次取り上げていて、体系的ではないが、その中で既存の文法理論の特徴や問題点が指摘されたり、大野さんやその他の研究者による興味ある研究成果の紹介がされたりする。

 例えば、
 君やこし我やゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか
という『古今集』、『伊勢物語』に出てくる斎王の歌について大野は
「「や」は、奈良時代には自分に確信や見込みがあるとき使ったんですが、平安時代になると、この歌のように「……や……や」と使う使い方が広まってくるんですね。「君やこし我やゆきけむ」、あなたが来たのかしらんというふうに、相手に聞く使い方ができてくるんです。「我やゆきけむ」というのは、さては私のほうからでかけていったのかしらということです。そして、あれはいったい夢だったのか、現実だったのか、正気であったのかと、自分では分らないという。「うつつか」の「か」は自分で判断できないというのです。」(58ページ) この後、『伊勢物語』の内容を語学的に分析すると、三層に分けられるという興味深い話が展開される。

 このほか、日本語は、英語のように誰がしたかということを中心にして述べる言語形式ではなくて、「何が問題かを提示して下に答えを要求した」(214ページ)、問答的な(あるいは弁証法的な)言語形式であることなど優れた洞察が展開される。(大野晋は橋本進吉門下だが、時枝誠記の助手でもあったので、この辺りの議論はしっかりしている。) さらに松下大三郎が『国歌大鑑』を編纂する時に西洋のカード・システムと同じようなものを考案したという話など、雑談も面白い。国語問題については、聞き手の立場に立つ丸谷の文学作品をめぐる知識と創作体験を踏まえた解釈・鑑賞力にも驚かされる部分がある。森鷗外の『即興詩人』について「あんな下手な擬古文ありゃしない」(88ページ)と大野がこき下ろし、「それに比べて、樋口一葉の文章は上手ですね。本居宣長の擬古文は間違いがなくてスラスラ読めるというだけで、巧みではないけど、樋口一葉はうまいですね、つやもあるし、間違っていないんです」(同上)と一葉を褒めると、それに丸谷が賛同する個所なども印象に残る。

 かなり時間をかけて読み通すことになったが、全体を通読しても、どこか一部を抜き出してそこだけじっくり読んでも面白いだろうと思う。繰り返しになるが、語学に興味のある方にとっては考える手掛かりとなり、創作を目指す人にとっては霊感のもととなるはずである。

ジェイン・オースティン『エマ』(2)

2月27日(月)曇りのち晴れ、朝のうちは寒かったが、次第に気温上昇

 イングランド南東部のサリー州のハイベリー村の村一番の名家の娘であるエマ・ウッドハウスはもうすぐ21歳になるが、美人で、頭がよくて、明るい性格の女性であった。16年にわたって彼女の家の住み込みの家庭教師(=ガヴァネス)を務めてきたミス・テイラーが近隣のランドールズ屋敷の主人であるウェストン氏と結婚したので、彼女は病弱な父親との二人暮らしをすることになった。ミス・テイラーとウェストン氏との縁結びをしたのは自分だと確信しているエマは、教区の牧師で独身のエルトンの縁結びに取り掛かると言い出す。エマの姉の夫の兄で、ハイベリーの隣の教区の大地主であるジョージ・ナイトリーはエマに直言できる数少ない人物の一人であり、彼女に「お嫁さん探しは本人に任せた方がいい」(ちくま文庫版、21ページ)と忠告するが、耳を貸すようなエマではない。(以上第1章)

 「ウェストン氏はハイベリー村の生まれで、ウェストン家は、2,3世代前に財を築いて上流階級の仲間入りをした、立派な家柄だった。ウェストン氏は立派な教育を受けたが、働かなくても暮らせるだけの財産を早くに相続したので、兄たちのような地味な職業につく気になれなかった」(22ページ) それで彼は国民軍に入隊して、大尉になり、社交好きな性格でどこへ行っても人気者となり、ヨークシャーの名門チャーチル家の令嬢と知り合って結婚したが、チャーチル家の人々は身分違いだとして反対で、妹夫婦とは絶縁してしまった。しかし、3年後にウェストン氏の妻が死ぬと、子どものいないチャーチル夫妻はウェストンの子どもであるフランクを引き取り、自分たちの跡を継がせようと育てていた。ウェストン氏は毎年ロンドンでフランクとあっているが、自慢の息子で、ハイベリーの村人たちもまた彼が村に姿を現すのを待ちわびている。(第2章)

 「ウッドハウス氏は彼なりに社交を好み、友人たちが遊びに来てくれることは大好きだった」(31ページ、もっともその友人たちの選り好みがあった)。ウッドハウス家のハートフィールド邸を訪れる人々としては、ウェストン夫妻、ナイトリー氏、それから若い牧師のエルトン氏が主だったメンバーであった。
 この4人の後に第2のグループが控えていて、その中で一番よく招かれるのはハイベリー村の元牧師の未亡人であるベイツ夫人、その独身の娘であるミス・ベイツ、そしてゴダード夫人で、彼女はゴダード寄宿学校の校長である。この学校は「昔ながらの良心的な寄宿学校であり、ほどほどの授業料で、ほどほどの教養を身につけることができる」(34ページ)。『虚栄の市』のベッキーとアミーリアが学んだ学校ほど高級ではないが、まずまず地方的な名声を得ている学校らしい。
 ある朝、エマはゴダード夫人から学校の(校長の家族と同居する)特別寄宿生であるハリエット・スミスを連れて行っても構わないでしょうかという伺いの手紙を受け取る。いつも同じ顔ぶれで少しはうんざりしていたエマは喜んで承諾する。ハリエットは誰かの私生児で、ある人物によって寄宿学校に預けられているのだが、17歳のなかなかの美人である。エマはハリエットが気に入り、彼女を善導して、レディーに仕立て上げようという野心を抱く。ハリエットはそれまで学校で一緒だった若い娘の実家に長期滞在していたが、マーティンというその農家の人々からは引き離さなければならないと考える。(第3章)

 エマはハリエットと親しくなり、ハリエットが滞在していたマーティン家の様子を聞き、彼女の同級生の兄であるロバートがハリエットと結婚したがっているらしいことを知る。エマは、ハリエットもロバートに関心を抱いていることを見て取り、いよいよ離間を図ろうとする気持ちを強くする。「馬に乗っていようが歩いていようが、私は若い農夫には興味がないの。自営農民(ヨーマン)は、私とは無縁な人たちですもの」(46ページ) ドンウェル街道を散歩していたエマとハリエットが偶然、ロバートに出会った際に、エマはロバートを観察してみたが、彼に対する低い評価は変わらず、ハリエットにロバートのような身分の低い男性ではなく、紳士と――エルトン氏と――結婚するように仄めかす。(第4章)

 エマがハリエットと仲良く付き合い始めていることを知ったナイトリー氏は、そが二人のどちらにとっても良い結果をもたらさないだろうと、エマをよく知っているはずのウェストン夫人に話すが、ウェストン氏は彼の言おうとしていることが理解できない。エマは母親に似て、頭がよく、そのために甘やかされて育ったので、何かを最後までやり遂げる習慣を身に着けずにいるとナイトリー氏は指摘する。それでもナイトリー氏はエマの美しさを認め、彼女にはなぜか、「人に心配と好奇心を起こさせる何かがある」(63ページ)ともいう。さらにエマは父親の面倒を見なければならないので、一生結婚しないと言っているがそれでよいのだろうか、彼女が恋をする姿を見てみたいともいう。それに対しウェストン夫人は今のところエマには結婚を勧めないが、一生このままでもいいとは思っていないと答える。(はっきり書かれていないが、ウェストン夫妻はエマをフランクリンと結婚させたいと考えているようである。) (第5章)

 こうして、エマ自身はミス・テイラーがウェストン夫人になった後の新しい話し相手としてハリエットを見つけ、彼女を今度は牧師のエルトンと結びつけようと考えはじめている。そういうエマとハリエットの関係をナイトリー氏は心配するが、心配しているのは彼だけである。エマの父であるウッドハウス氏はエマがずっと独身で自分の面倒を見てくれるものと信じているようであるし、ウェストン夫妻にはまた別の思惑がある。ハリエットとロバートは本当のところ、お互いに惹かれあっているらしいのだが、エマはその恋愛を頭から否定してかかっている。
 今回は、主要登場人物と、その性格の紹介という感じになったが、まだ登場していない主要人物もいるし、フランクリンのように名前だけは出てきているが、物語の舞台に上がってこない人物もいる。ナイトリー氏がロバートの実直な性格と働きぶりを高く評価し、信頼しているのに対し、エマが彼の容貌や身分を問題にして、ハリエットとの仲を裂こうとしているという対照的な姿勢が、2人の性格やものの考え方をよく表すだけでなく、今後の物語の展開にとっても意味を持っている。

呉座勇一『応仁の乱』(11)

2月24日(金)曇りのち晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間にわたって展開された大乱である。この書物は戦乱の同時代人であった奈良興福寺大乗院の門主で興福寺別当も務めた九条家出身の経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』と一条家出身の尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という日記を史料として、戦乱の実態と意義に迫ろうとするものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」は鎌倉・室町時代を通じて大和が摂関家と結びつきの強い興福寺の支配する地方であり、武装した僧侶である衆徒や、藤原氏の氏神を祀る春日社の神人である国民のような独特の武装勢力が抗争を続けていたこと、その幕府との関係などを概観している。第2章「応仁の乱への道」は室町幕府とその有力大名たちの家督の継承をめぐる内訌、とくに幕府の管領家の1つである畠山氏の家督をめぐる義就と政長の対立が将軍の後継をめぐる幕府の要人たちの間の対立と絡み合いながら展開していく様子を、応仁の乱の前史として描き出している。第3章「大乱勃発」では、畠山義就と政長の京都市内における対決から、義就を支持する山名宗全と政長を支持する細川勝元の対立が戦乱にいたり、お互いに短期に決着を図ろうと考えていたにもかかわらず、戦闘が長期化し、戦線が地方へと拡大していった様相が語られている。第4章「応仁の乱と興福寺」では、この戦乱の中での経覚と尋尊のとった立場や彼らの働き、とくに戦乱によって地方の荘園からの年貢の取り立てが困難になったことへの対処、尋尊の親族である一条家の人々が奈良に「疎開」してきてどのように過ごしたかなどが述べられている。

 第5章「衆徒・国民の苦闘」は、まず、この時代の奈良がどのような都市で、どのような人々が住んでいたのかから話を進めている。奈良は「南都」とも呼ばれたが、奈良の寺社が摂関家に近く、平氏に反対する立場をとったために治承4年(1180)平氏による焼き討ちを受ける。その中で大乗院も焼けて、大乗院の門主はその後、唯一焼け残った禅定院を居所とする。中世都市奈良は、この焼き討ち後の復興の中から生まれてくる。
 興福寺の周辺には数十の小郷が形成され、興福寺はこれらを束ねる上位の行政単位として7つの郷を設置した。戦国時代の文献はこれらを「南都七郷」と称している。郷には寺社に所属する僧侶のほか、寺社に奉仕する商工業者や芸能民が居住していた。彼らは「郷民」と呼ばれた。郷民は興福寺や東大寺、春日社など、南都の寺社のどれかに所属し、寺社から身分とそれに伴う特権を与えられ、その見返りとして寺社に対して役を負担していた。そのほかに南都七郷は興福寺から役を課されていた。(役というのは今日の税金に相当し、物納であったり、労役の提供であったりしたようである。) とはいうものの、彼らの意向は都市の支配者にとって無視しがたいものであった。

 今日まで続く春日若宮祭礼、いわゆる「おん祭り」について、呉座さんは興福寺との関係を強調する安田次郎の説を支持しながら、この時代におけるその意義を論じている。おん祭りには興福寺の僧侶だけでなく、衆徒・国民も参加し、その挙行に際しては、大和の国の東西南北の境に結界が張られ、大和の国全体が聖域とされた。「おん祭りは大和一国を挙げての大規模な祭礼であり、興福寺による大和支配を象徴するものであった」(155ページ)。それだけでなく、応仁の乱の最中にも毎年欠かさず開催された。
 その重要な行事の一つは流鏑馬で、衆徒・国民によって独占されるようになり、長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党がローテーションを組んで務めるようになり、さらに後になると、流鏑馬の射手ではなくて願主人(幹事)を務めるようになった。
 国民(坊人)の中で古市氏は六党のどれにも所属せず、武士的な性格よりも僧侶的な性格の強い家であったが、古市胤仙の時代になって、経覚の権威を利用しながら武士的な性格を強めてきた。

 盂蘭盆は仏教の主要な行事の一つで、霊前にお供え物をして、お経を読んだり念仏を唱えたりしていたのが、15世紀になると、念仏風流と呼ばれるものが全国各地で行われるようになった。これは念仏とさまざまな出し物を組み合わせた行事で、その中心になるのは念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」であった。他にも「造り物」を駆使した華やかな仮装行列や、素人の相撲・猿楽・獅子舞などが行われた。しかし、その開放的な気分の中で、人々が興奮し、喧嘩などのトラブルが発生しやすかったので、奈良では禁止令が出されていた。

 古市では風呂が盛んにたかれていたが、文明元年(1469)に風呂釜が壊れ、大金が必要になった。胤仙の跡を継いだ胤栄は奈良で念仏風流禁止令が出ていたことに乗じて、小屋を仮設し、その中で踊れるようにして入場料をとった。この興行は大成功で、風呂釜の修理費用を賄うに足りる収入が得られたらしいと呉座さんは推測している。「そもそも風呂釜じたいが娯楽施設であり、応仁の乱の最中に大金を投じて風呂釜を修理するという発想は、普通の人間には出てこない」(159ページ)と呉座さんは古市胤栄の性格についても論評を加えている。

 戦乱の中の都市住民の暮らしぶりを描くというのがこの章のねらいであったはずであるが、奈良が戦乱に巻き込まれることはあまりなかったこと、叙述の焦点が祭礼に宛てられていることから、むしろ祭礼の中で発散される民衆のエネルギーの方に興味がわく。むかし、戦乱で中断した祇園祭を再興しようとする町衆たちの姿を描いた『祇園祭』という映画を見たことなど思い出すのだが、奈良の「おん祭り」が戦乱のさなかでも中断しなかったというのは印象に残る。こういう祭礼の様子を読んでいると、ホイジンガの『中世の秋』の中の祭礼の描写などと比べてみたいという気持ちも起きる。
 歌舞伎の源流とされる阿国歌舞伎が念仏踊りを中心にしたものであることなど、念仏風流の中には現在まで姿を変えながらも伝わっている様々な芸能の要素が含まれているようである。そのあたりも注目してよいだろう。
 なお、念仏というと南無阿弥陀仏と唱える唱名念仏、静座して仏の姿を念じ思い浮かべる観想念仏、仏の本質の理を観じる実相念仏があるのだが、この時代には(現在と同様)念仏といえば、唱名念仏という通念ができていたようである。
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