フローベール『感情教育』(7‐2)

4月2日(月)晴れ

第1部あらすじ
 1840年、大学で法律を勉強しようとパリに出てきた夢想家の青年、まだ18歳のフレデリック・モローは偶然知り合った画商アルヌーの美しい夫人に恋心を抱く。高校時代からの友人で、現実主義者のデローリエは、そんな彼を心配して、友人たちを集めて議論を交わす会合を始める。出世主義者のマルチノン、演劇界に進出しようとしているユソネ、世間知らずで気の弱い貴族のシジー、独善的な社会主義者のセネカル、理論倒れでなかなか絵が描けない画家のペルラン、まじめな店員のデュサルディエ、アルヌーの相談相手で政論好きのルジャンバールらが集まっては議論を交わす。
 第1回目の試験には落第したフレデリックであったが、2度目に合格し、郷里の有力者であるダンブルーズからも遊びに来いといわれる。希望に満ちて帰省した彼であったが、実家の経済状態が悪いという母の言葉に従い、郷里の法律事務所で制裁のない日々を過ごすことになる。しかし、1845年の暮れに、財産家の伯父が遺言書なしに死去し、その遺産を相続することになって、再びパリに出ようと決心する。

第2部のこれまでのあらすじ
 フレデリックはパリに到着するが、彼の不在の間に、友人や知己の身の上はかなり変わっていた。アルヌーは画商をやめて、陶器業を営み、夫人には息子が生まれていた。アルヌー夫人の自分に対する態度のよそよそしさに失望したフレデリックは、社交界で活躍しようと心に決める。久しぶりに会ったデローリエは、大学の教師になる夢を捨てて、復習教師をしながら文筆活動に携わっていた。

 身なりを整えて、ダンブルーズを訪問しようとしていたフレデリックであったが、まだ時刻が早すぎるので、ふと思い立ってアルヌーを訪ねる。夫人は体調を崩していたが、アルヌーは元気で、2人は連れ立って貸衣装店で舞踏会用の仮装服を借りた後、アルヌーの知り合いのロザネットが開いている仮装舞踏会に出かける。
 「およそ60人ほどの人がいた。女は多く田舎女か貴婦人に扮し、男はほとんどみな相当の年配だが、荷車引きや荷揚げ人夫や水夫といった服装である。」(185ページ) 会場で、フレデリックはみんなから取り残されたような気分になる。踊りに加わるように誘われても、その気にならず、「自分に不満な気持ちで、だがどうしていいかわからず、踊る人の中をぶらぶら歩きだした」(187ページ)。

 そうこうするうちに、フレデリックは旧知のペルランに会う。ペルランはフレデリックがどこで何をしていたのかを質問し、答えを待たずに自分の芸術上の進歩について語り、さらに出席者たちの身の上をフレデリックに教える。〔その中に、「ポンパドゥール風の貴婦人」(188ページ)というのが出てくるが、横浜に住んでいる人であれば、「ポンパドゥール」と聞くと、パン屋とその赤い長細い堤袋を思い出すはずである。ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour, 1721-64)はルイXV世の愛人で、文化・芸術のパトロンであるとともに、ファッション・リーダーでもあった。政治にも口を出して、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェー他の2人の女帝とともに、プロイセンのフリードリヒⅡ世(大王)と七年戦争を起こしたりした。啓蒙思想の普及を助け、その一方でフランスの国家財政を悪化させたことにより、フランス革命の遠因を作った。Après moi (ou nous) le déluge.{私の(我々の)後には、洪水}というのは彼女の言葉とされる。横浜のパン屋であるポンパドゥールの店先には、彼女の肖像画が飾ってあるのでお気づきでない方は探してみてください。〕

 2人がデロジ医師について話をしていると、彼がやってきて2人に加わり、さらにユソネが加わり、会話の輪は次第ににぎやかになる。そのうち、アルヌーの愛人であるヴァトナ嬢が現れ、ユソネに自分の書いた教育的な著作の論評を求める(彼女はもともと小学校の教師だったのである)。以前、フレデリックがデローリエやユソネとアルハンブラに出かけた際に、そこで歌を歌っていた歌手が出世してデルマールという名の俳優になっているのを見かけて、自分の脚本を断られ、演劇界への夢が消えていたユソネが顔をしかめる(彼は演劇界での成功をあきらめて、地方新聞の通信員をしている)。大騒ぎが続き、翌朝になって客たちは馬車に乗ってそれぞれ帰宅する。来た時同様に、フレデリックはアルヌーと一緒の馬車に乗る。

 帰宅したフレデリックは、徹夜明けなので、ベッドに倒れこむ。頭痛に苦しむ一方で、のどが渇いて水差し一杯の水を飲み干す。「別な渇き、女とぜいたく、パリの生活が与える一切のものへの渇き、が生じてきた。」(204ページ) 眠りに落ちる前に彼は、舞踏会で出会った女たちの姿がそれぞれ断片的に彼の脳裏に浮かぶ。「するとまた、舞踏会では見なかった2つの大きな黒い目が現れた。それが、蝶のように軽く、松明のように煌々と、往き来して、ふるえ、壁の天井近くに上がるかと思うと、また彼の口まで下がってきたりした。」(同上) 頭がもうろうとしているフレデリックにはそれが誰の目であるかわからないが、読者にはわかるはずである。

 財産を手に入れてパリに戻ってきたフレデリックであるが、その財産は彼が努力して作り上げたものではない。パリには誘惑が多く、彼はマルチノンのような割り切った生き方ができない性分である。フレデリックの周辺の人物、アルヌーは仕事を変え、デローリエとユソネは自分の野心の挫折を味わった。彼らのフレデリックに対する感情もこれまでのままではなくなるだろう。これからの彼のパリでの生活はどのようなものになるか、出世の足掛かりを築くのか、それともだらだらとそのまま時間を過ごしていくのか。その一方で、社会と政治は大きな変革に向かって動き始めている…のだが、登場人物たちは気づいているのか、いないのか・・・・。 

島岡茂『英仏比較文法』(6)

3月30日(金)晴れ

 英語はインド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属する言語であるが、その約25万語といわれる語彙の中で、フランス語を中心とするラテン(ロマンス語)系の単語は約50パーセントを占め、本来のアングロ・サクソン系の25パーセントを大きく上回るというように、フランス語、ラテン語というロマンス語系の言語の影響が強い。この書物は、そのような語彙の問題も含めて、英語がフランス語やラテン語の影響のもとに、どのように変化し、現在の形になったかを歴史的にたどるものである。

 もともと英語とフランス語とは、ローマ帝国→キリスト教会の公式の言語であったラテン語から多くの語彙を受け入れていたが、1066年のノルマンの征服以来、ラテン語からフランス語を経由して英語に入ってくる語彙が増えてきた。その際に、ノルマン系のフランス語から英語に入ってきたものと、標準形のフランス語から入ってきたものとがあり、場合によってはその両者が違う意味をもつ英語の単語として共存している例もある。フランス借入語の発音は元のフランス語の発音に合わせるのがふつうであったが、フランス語の発音が変化したために、英語の中に古いフランス語の発音が保存されている例もある(その他の例もある)。

 13~14世紀にフランス語から借用された英語の単語の数はきわめて多く、そのすべてについていつ、どのように英語に入ってきたかを説明することは不可能に近い。そこで、主なものについてみていく。
 国家・宮廷・政治に関する語は、ラテン語(あるいはギリシア語)起源のものが多い。バーナード・クリックという政治学者が書いているのを読んだことがあるが、democracyは(demos=民衆、cratia=力)というギリシア語から、republicは(res=物、事、publica=公共の)というラテン語から派生しているというように、政治関係の英語の語彙はほとんどがこのどちらかの言語に由来している。まったく英語起源なのはtotalismくらいのものではないかという(英語圏の諸国が、これまでのところ、全体主義とは無関係で来ていることを考えると、かなり皮肉である)。

 baron(男爵)はラテン語ではなく、ゲルマン系のフランク語で、「自由人、戦士」という意味であったが、中英語の時代に英語に入ってきたときには古いthaneに代わってのちの男爵の意味で使われるようになった。『リーダーズ英和中辞典』によるとthaneは「〔英史〕《アングロサクソン時代の、王に仕える》土地保有自由民、セイン武士《のちには世襲貴族に転化した》」とあり、baronには「男爵」という意味のほかに、「〔英史〕《領地をあたえられた》王の直臣、豪族、貴族」という意味もあるそうである。そこから考えると、thaneにbaronが取って代わったのは、世襲貴族の最下位としての「男爵」(その下に准男爵baronetという世襲の位階があるが、これは貴族ではない)という意味においてではなくて、領主、豪族というような意味においてではないかと思うのだが、どなたかご教示ください。フランス語でもbaronは「男爵」で、さらに古くは領主とか諸侯という意味もあったようである。イタリア語ではbaroneで、Il barone rampante(木のぼり男爵)というイタロ・カルヴィーノの有名な小説がある。

 count(伯爵)はもともとはラテン語に起源をもつが、ノルマン系フランス語のcunteから出たものだと島岡さんは推測している。「この語も古英語eorl(earl)に代わったものである」(27ページ)と書いているが、現代の英語でcountは「《欧州大陸の》伯爵」を言う。英国の伯爵はearlである。エリザベス女王の長男がPrince of Wales,次男がDuke of Yorkで、ここまではしきたり通りだが、三男はEarl of Wessexという爵位を与えられている。なお、伯爵夫人については、夫がcountであろうと、earlであろうと、countessが用いられる。そういえば、チャップリンの最後の映画が『伯爵夫人』(A Countess from Hong Kong)であった。『伯爵夫人』を演じていたのがソフィア・ローレンである。チャップリンの最後の映画と書いたが、出演者の一人であるティッピ・ヘドレンもこの映画を最後に引退した。
 伯爵は、フランス語ではcomte、イタリア語ではconte、ドイツ語ではGrafという。

 court(宮廷)は俗ラテン語のcortemが語源だという。これが古フランス語のcortを経て、フランス語のcour、英語のcourtとなったという。
 judge(裁判官)はラテン語のjudicemに語源をもち、古フランス語ではjugeといしったが、現代フランス語ではjuje、英語ではjudgeと発音はしないのにdが入るのは、ラテン語を思い出したためである。島岡さんはlatinismeという言葉を使っている。
 justice(正義)はフランス語でもjustice(公正、正義)で、古フランス語のjusticeを経て、ラテン語のjustitiamにさかのぼるという。(私がラテン語の辞書を調べたところではjustitiaが正しい形ではないかと思う。)

 ラテン語のpalatiumはもともとローマの7つの丘の一つの名前だったのが、ローマの名士や帝政時代初期の行程たちがここに居を構えたことから王宮という意味が生まれた。古フランス語にはpalaisという形で入り、この時代のフランス語では語末のsを発音していたので、英語に入ってpalaceとなっても、語末のceはsの音で発音されている。現在のフランス語palaisでは〔パレ〕というような発音になって、語末のsは発音しない。
 power(権力)は中世フランス語でpoeir>poveir>povoirの変遷の過程で移入されたもので、pouerからpowerとなった。もともとのラテン語はpotereとあるが、possumが正しいのではないか。potereはイタリア語、possumはラテン語で「することができる」という意味、フランス語のpouvoirも同様の意味である。
 prince(王子)、service(奉仕)は英語もフランス語も古くから同じ形をとっている(発音は違う)。語源となるラテン語として、principem,servitiumが示されている。
 throne(玉座)は中英語ではフランス語と同じtroneという形をとっていたが、15世紀以後ラテン語のthronusに倣ってt>thと変化した。島岡さんはこれもラティニスムの例としているが、本来ラテン語にはthという子音はなかったはずで(ギリシア語にはある)、この辺りもう少し説明が必要ではないかと思う。 

 島岡さんがラテン語として示している語の形を見ていると、名詞の場合、主格ではなくて対格ではないかという語形のものが少なくないし、他の品詞でも私のラテン語辞書では確認できないものがみられる。このあたり、ラテン語の辞書・文法書をさらに詳しく見ながら、確認していく必要がありそうである。 

エラスムス『痴愚神礼賛』(14)

3月29日(木)晴れ、気温上昇

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が登壇し、世の中のありとあらゆるものが自分の恩恵を被っているのに、それが無視されてきたと、自賛の大演説を展開してきました。人間は男女の快楽の結果として生まれ、その人生は痴愚とともになければ耐えられないものであるといいます。学問も、技芸も、痴愚とその同類であるうぬぼれがなければ生まれなかったであろうといいます。その一方で聖書の福音の教えから外れて世塵にまみれている修道士たちや司祭・それよりも高位の僧侶たち、詭弁に詭弁を重ねてそれが重要な論争だと思い込んでいる学者たち、腐敗堕落した生活を送っている王侯貴族・廷臣たちを嘲笑した後、痴愚を礼賛することわざが世の中にはたくさんあると言い出します。そしていくつかギリシア語の諺を引用します。

〔63〕
 女神はさらに、古典ギリシアの諺を引き合いに出しても、キリスト教徒にはあまり重みをもって受け止められないだろうから、「聖書」の言葉を引用すると言い出します。
 まず引用されるのは「コヘレトの言葉」(古くは「伝道の書」と呼ばれていた)の第1章から「愚か者の数にはかぎりがない」ということばです。念のため「新共同訳」の聖書を見てみますと、こんな言葉は出ていません。沓掛さんの解説注によると、「ヘブライ語原典から訳された現行の新共同訳聖書の邦訳では、このくだりは、「かけていれば、数えられない」となっており、フランシスコ会聖書研究所刊の聖書では「ねじ曲がったものをまっすぐにすることはできない。無いものを数えることはできない」となっているが、ウルガタ訳Et stultorum infinitus est numerusは、字義通りには「愚か者の数にはかぎりがない」という意味である」(303ページ)とあります。新約聖書はもともとギリシア語で書かれていたのですが、この時代の教会においては5世紀に聖ヒエロニムスがラテン語に翻訳したウルガタ版が正典として権威をもっていました。エラスムスはギリシア語による聖書研究を志し、1516年に『校訂版新約聖書』を刊行することになるのですが、ここではウルガタ版に従っているといるわけです。
 「コヘレトの言葉」は多くの人々がおろかであるといっているのですが、「エレミヤ書」ではもっとはっきりと「すべての人間は、その知恵により愚か者となる」と言っていると続けます。ここも、沓掛さんによりますと、「新共同訳聖書の邦訳では「人は皆、愚かで知識に達しない」、フランシスコ会聖書研究所訳の聖書では「人は皆、愚かで無知」となっているが、原文のウルガタ訳Stultus factus est omnis a homo a scientiaは字義通りには「すべての人間は、その知恵により愚かとなる」という意味である」(303‐304ページ)とあり、やはりここでもウルガタ版に頼っているようです。 
 その少し前のところではエレミヤは「知恵あるものは、その知恵を誇るな」とも言っています。なぜかというと、人間は本来、知恵をもっていないからだと女神は解説します。

 さらに話題を「コヘレトの言葉」に戻します。「伝道者が『なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい』と叫んでいるとき、その意味していたものは、私が先に申しましたように、人間の生は痴愚女神のたわぶれごとにすぎない、ということ以外のなんでありえましょう?」(193ページ) これは「コヘレトの言葉」の1-2に出てくる大変に有名な言葉で、
ウルガタ版では
Vanitas vanitatum, dixit Exclesiastes; vanitas vanitatum, et omnia vanitas.
『欽定英訳聖書』(King James Version)では
Vanity of vanities, saith the Preacher,
vanity of vanities; all is vanity.
Today's English Versionでは
It is useless, useless, said the Philosopher. Life is useless, all useless.
『新共同訳』では
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
 ジョン・バニャンの『天路歴程』(Pilgrim's Progress, 1678)にVanity Fair(「空の市」あるいは「虚栄の市」)という市場町が登場しますが、この個所を踏まえたものです。ここからさらに19世紀英国の作家サッカリー(William Makepeace Thackeray, 1811-63)が『虚栄の市』(Vanity Fair, 1847-48)という題名の小説を書いています。19世紀の初めごろに、同じ女学校を卒業した親友同士だったベッキー・シャープとアミーリア・セドリーという2人の女性が、人生の波にもまれて、転変を繰り返し、まったく違う世界に住むようになるという物語で、1815年のワーテルローの戦いが描きこまれていることから英国民の『戦争と平和』ともいわれます。(そういえば、スタンダールの『パルムの僧院』の最初のほうで、主人公のファブリスがワーテルローの戦いに加わろうとする箇所があります。なお、ファブリスのモデルになったといわれるのが、のちにローマ教皇パウルスⅢ世に大出世するアレッサンドロ・ファルネーゼ(1468‐1549)で、教皇就任後の1535年にほかならぬエラスムスに対して枢機卿就任を依頼、エラスムスはこれを辞退しています。)
もう一つ余計なことを言えば、vanity fairは上流社交界という意味で使われることがあり、社交界のゴシップを掲載するそういう題名の雑誌があるようです。

 今回をもって、『痴愚神礼賛』を読み終えようと思っていたのですが、思いがけずも脱線が続き、〔63〕の途中で紙面を使い果たしてしまいました。この分だと、4月末にならないと終わらないかもしれませんが、ご理解の上、引き続きお読みいただければ幸いです。

フローべール『感情教育』(7‐1)

3月26日(月)晴れ

第1部あらすじ
 1840年、法律を勉強するために故郷を離れてパリに出てきた青年フレデリック・モローは、偶然知り合った画商のアルヌーの美しい夫人に恋心を抱く。法律の勉強にはなじめなかったが、高校時代からの親友であるデローリエと一緒に暮らし、アルヌーのところに出入りしたり、新たにできた友人たちと交流したりして、世間を広げていく。一度は失敗した卒業試験に2度目に合格して、意気揚々と故郷に戻った彼を待ち構えていたのは、実家の家計が苦しくなっているという母の言葉であった。地元の法律事務所で働いて、次第に地方での暮らしになじんできたところに、叔父が遺言書なしに死去し、その莫大な遺産が彼のものになるという知らせが届く。彼はパリに戻る決心をする。

第2部― 1
 (1845年12月)フレデリックは馬車でパリに出る。薄汚れた街が広がり、雑踏と混乱の様相を見せるパリは「糠雨が降って寒く、空はさえない色だった。が、彼にとっては太陽とも思われる二つの目が霧の向うに、燦然と輝いていた。」(165ページ) フローベールはことさらにパリの薄汚い、みすぼらしい様子を描写するのだが、フレデリックは、パリに出てきたこと、そしてアルヌー夫人と再会する希望に胸を膨らませている。さらに都心に近づくと、
 「黄色 く濁ったセーヌ河がほとんど、橋桁にとどきそうだった。河のほうから冷やっこい風が吹いてくる。フレデリックは力いっぱいそれを吸いこんで、恋の芳香と理知の発散を含んでいると思われるこのパリの快い空気を味わった。街の辻馬車を見ると、感傷的になった。そして、わらを積んだ酒屋の入り口、箱を抱えた靴磨き、コーヒー煎りの器をふるっている食料品屋の小僧まで、懐かしくってたまらなかった。女たちが雨傘さして小走りにゆく。彼はその顔をのぞこうとしてかがみこんだりした。どんな偶然でアルヌー夫人が外出しているかもしれない。」(166ページ)

 到着後すぐに彼はブルヴァール・モンマルトルのアルヌーの事務所を訪ねるが、跡形もなくなっていた。次にアルヌーのショワズール通りの住まいを訪ねるが、一家は移転した後であった。そこで新しい住所を知ろうと、いろいろの手を尽くして探し回るが、アルヌーが画商をやめたことくらいしかわからない。疲れて宿に帰った後で、彼はルジャンバールを探し出せば、住所がわかるだろうということを思いつく。
 あちこちのカフェ、安料理屋、居酒屋を捜し歩いて、フレデリックはやっとルジャンバールを探し当てる。彼からアルヌーの新しい住所を聞き出した「フレデリックは酒場からまっすぐアルヌーの家へいった。温かい風に吹き上げられたように、夢のなかに感じるようなあの不思議な身軽さで。」(173ページ)
 アルヌーは画商をやめて陶器の商売に転業していた。彼はフレデリックが長い間連絡してこなかったことを質問し、フレデリックはいろいろと言い訳をするが、その一方で、アルヌー夫人が彼に再会した喜びをあまり表に出さないことに落胆する。
 「フレデリックは痙攣するほどの喜びを心に描いてきたのだ。しかし、情熱は元の場所から離すと色褪せるのであろう。アルヌー夫人を以前見慣れた環境に見ることがで176ページ)きないと、このひとは何かあるものを失ってしまったように、どことなく品位を落したように、ひと口にいってまえと同じ人でない気がした。相手の心の平静なのも、意外であった。昔の友達、中でもペルランのことなど聞いてみた。」(174‐175ページ)
 夫妻は、ペルランには以前ほどは会わなくなっているし、一家は以前のようにお客をしなくなったと答える。アルヌーはデカダンスの時代にふさわしい商売替えをしたのだと、仕事を変えた理由を説明する。

 アルヌーの家を出たフレデリックは、カフェ・アングレへ駆けつけて、うんと贅沢な夕食をした。そして、アルヌー夫人への想いが断ち切れた、「もうこれからは、なんの臆する気持ちもなく社交界に飛びこんでいっていいのだ。」(176ページ)と思い、早速ダンブルーズ夫妻とのつながりを利用しようと思う。またデローリエのことを思い出して、彼に手紙を書き、翌日、パレ=ロワイヤルで会って昼食を一緒にしようと誘った。

 デローリエはというと、「運命はこの男にあまり優しくなかった。」(同上) 彼はかねてからの希望に沿って、法学の教授(資格)試験を受験したが、口述試験で苦手な領域の問題が出たりしたために、落第し、再受験の意志をなくして、大著述に取り組んでいた。そして、それまで勤めていた法律事務所の書記の仕事を辞めて、復習教師となり、青年弁護士討論会ではその毒舌をもって知られる、共和派の論客となっていた。
 フレデリックと再会したデローリエは、遺産相続についての自分自身の見通しを述べたり(実は教授試験の口述試験で遺産相続についての問題が出たために、落第していたのである)して、フレデリックに対して少し距離を置いた態度を見せる。彼の話ではるぬーの新聞は、今やユソネの手に渡っているという。デローリエはフレデリックにこの新聞を買い取らせ、自分の政論発表の場にしたいという希望があるが、フレデリックはその意見を聞きいれようとはしない。

 デローリエと別れたフレデリックは、社交界での活動に備えて、服装を整える手配をして、ル=アーヴルに向かい、戻ってくると、衣装道具はすっかり整っていた。早くそれを身につけてみたくて仕方なくて、彼はダンブルーズ家を訪問しようと考えるが、その前にアルヌーのところによろうと思いつく。

 再びパリを訪れたフレデリックであるが、以前の知り合いたちは元のままではなく、以前とは違う人生を歩んでいる者が少なくない(もちろん、同じ人生を歩んでいる者もいる)。フレデリックが財産家になったことで彼の世界は変わり始めようとしているが、そのことを彼がどれだけ自覚しているかは疑問である。
 物語の展開とは別に、19世紀の中ごろのパリの街や風俗の描き方が興味深く、ルジャンバールを探し歩いてあるカフェに入り、「何もほしくはなかったが、フレデリックはラム酒を一杯飲んだ。それからキルシュ一杯、次にキュラソー一杯、なお熱いの冷たいのさまざまのグロッグを飲む。その日の「世紀」を隅々まで読み、また読み直した。「シャリヴァリ」の漫画を紙の筋目まで眼に立てて丁寧に見、はては広告文を暗記してしまった」(169ページ)という個所など、面白い。強い酒を少量ずつ飲んで、グロッグ(ラム酒かブランデーを湯で割り、砂糖とレモンを加えた飲み物)を流し込む(フレデリックもなかなか酒が強い)。『世紀』(Le Siècle)は1836年に創刊され、1932年まで続いた立憲王政派の総合雑誌、『シャリヴァり』(Le Charivari)は1832年に創刊された風刺雑誌でルイ=フィリップの立憲王政に反対する立場をとっていた。ドーミエ(Honoré Daumier, 1808‐1879)がこの雑誌に多くの風刺画を掲載したことで知られる。私はドーミエの絵が好きで、ルイ=フィリップの顔を洋ナシ(poire)に見立てた風刺画など(poireには間抜け、お人よしという意味もある)、ドーミエの風刺精神や描写力に感心しながら見入ったものである。書庫のどこかにドーミエの画集があるはずだから、また探してみようと思う。フローベールとドーミエはリアリズムという点では共通しているが、フローベールにはドーミエほどの風刺精神はない。それでも、薄汚れたパリの市街と明るいフレデリックの心象を対比させた第2部の始まりは、今後の波乱を予感させるものがあり、なかなか見事である。 

小川剛生『兼好法師』(14)

3月24日(土)晴れのち曇り

これまでの概要
 「徒然草は、鎌倉時代後期の文学作品である。作者兼好法師は大半の章段を鎌倉幕府滅亡の直前、元徳2年(1330)から翌年までの間に執筆していたと考えられている。」(はしがき、ⅰページ)
第1章から第5章までのあらまし
 できるだけ同時代史料に依拠することによって、著者は『徒然草』の作者の実像を明らかにしようとしている。彼はおそらく父親の代から金沢流北条氏に仕えていた無位無官の侍で、延慶3年(1310)に金沢貞顕が六波羅探題北方に補せられて再上洛した前後に京都に定住するようになり、またそのころに出家したものと考えられる。出家の動機は身分秩序のくびきから脱して、権門に出入りし、あるいは市井に立ちまじり、様々な用を弁じるというむしろ世俗的なものであった。彼はその身分を利用して土地売買などの経済活動を行い、清華家である堀川家が金沢流北条氏と接近していたのに乗じて、堀川家との縁を深め、また土地の寄進により大覚寺統と接触して、歌壇デビューを果たした。彼のもともとの住まいは六波羅かその近くにあったとおもわれるが、やがて仁和寺の周辺に住むようになった。
 鎌倉幕府滅亡後も兼好は上層武士や高僧のために様々な便宜を図って活動し、その一方で二条派の歌人として、彼と同じく地下出身の頓阿・慶運・浄弁とともに<四天王>に数えられるほどの活躍を見せた。彼の「家集」は当時の家集の常識を逸脱した自由奔放な体裁をとっているが、実は慎重な配慮のもとに歌が並べられるという『徒然草』の章段の排列に似た個性的なものとなっている。その一方で、彼はその在世中、勅撰和歌集に4代続けてその歌を選ばれることに執着するという側面も併せ持っていた。
第7章 徒然草と「吉田兼好」の前半部分のあらまし
 『徒然草』は様々な知識や情報を後学のために書き残す<大草子>の形で 執筆されていたものが原型と考えられるが、その正確な執筆動機や、成立事情は依然として不明である。ただ『徒然草』が後世に伝わり、広く読まれるようになった過程に、今川了俊と、その弟子の正徹がかかわっている蓋然性は高い。

 今回は、第7章の残りの部分を取り上げて、締めくくりとする。
 「晩年の兼好は二条派歌人としてある程度の名声を得たが、子孫もはかばかしい後継者もおらず、急速に忘れ去られる運命にあった。ところが没後ほぼ70年を経て、徒然草が『発見』されたことで、忘却の淵から甦る。」(207ページ)
 正徹の没した長禄3年(1459)になると、兼好の知名度は相当に上がっていた。この頃には『徒然草』をめぐる記録はかなり増えただけでなく、兼好その人への関心も生じてきた。
 例えば永享11年(1439)に完成した、最後の勅撰和歌集である新続古今集には兼好の歌が6首もとられている。〔それまでの勅撰和歌集についてみると⑮『続千載集』(1320、二条為世・二条派)1首、⑯『続後拾遺集』(1326、二条為定・二条派)1首、⑰『風雅集』(1349、光厳院、京極派)1首、⑱『新千載集』(1359、二条為定・二条派)3首で、⑲『新拾遺集』(1364、二条為明→頓阿・二条派)、⑳『新後拾遺集』(1383、二条為遠→二条為重・二条派)については、小川さんは歌数を記していない。〕 これは頓阿崇拝の余慶でもあろうが、1世紀前の地下歌人としては異例の扱いだと小川さんは指摘している(以前にも書いたが、勅撰和歌集に多く歌がとられるのは権門の人々であって、地下の歌人は低い扱いになる。小川さんが13‐14ページで触れている西行は侍であるが、勅撰和歌集に265首の歌がとられており、例外中の例外、14ページで触れている鴨長明は侍よりも上の諸大夫であるが25首、頓阿でさえ44首だったから、地下は相当に不利な立場にあったことがわかると思う。〕 また和歌好きの将軍として知られた足利義尚が「兼好法師自筆古今」を所持し、それをある貴族にあたえたという記録もあるという。

 このような『徒然草』と兼好の知名度の上昇に目を付けたのが吉田兼倶(かねとも、1435‐1511)という人物である。神道家であった彼は自家の権威を高めるために、文書記録を次々と偽造して、各時代の著名人が吉田流の門弟であったといい始め、さらに鎌倉後期の天台僧で神・儒・仏をそれぞれ根本・枝葉・果実になぞらえた三教枝葉果実説を唱えた慈遍や、兼好が一門の庶流に属するという系図まで偽造した(慈遍と兼好は兄弟とされた)。さらに自家の家格上昇のために兼好が六位蔵人であったとか左兵衛佐であったという経歴をでっちあげさえした。こうして兼好が吉田家の出身で後醍醐の時代の人という説が定説化し、後世まで影響を及ぼすことになったのであった。

 こうして出来上がった通念に引きずられて、『徒然草』は後醍醐天皇の時代の、六位蔵人を務めていた若い下級公家の著作という設定が、長く作品理解に影響を及ぼしてきたのである。
 「鎌倉後期は、太平記史観に染められた後世の人間には思いもよらないが、相応に豊かで成熟した社会であり、公・武・僧各層の交渉は極めて濃密で、人々の行動範囲も拡大し、ある部分では社会の一体化も進んでいた。この時、京都に息づく文化モデル、あるいは朝廷の継承した制度・慣習は、秩序を安定させる基軸であり、『遁世者』はこれを携えて自由に往来した。徒然草の章段はそうした営みの産物であった。これを単なる『尚古思想』の現れとするのは、作品の真価を見誤ることになる。一定の留保が付帯するとはいえ、都市のうちに生活し、法律や経済とも積極的な係わりを持つ、新しいタイプの人間によって初めて生まれ出た文学であった。徒然草は『遁世』や『尚古思想』の実態に立脚して、新しい読み方を始めてよいのではないか。」(221ページ)というのがこの書物の結びである。

 『太平記』を実際に読んでみると、小川さんの言う「太平記史観」がこの書物の一面でしかないこともわかるのだが、それはさておき、『徒然草』が新旧の過渡期の中で生まれ、むしろ「新」の側の文学であるという評価は大いに傾聴すべきものであると思う。

 私は中学・高校時代に、京浜急行の横浜の方から見て、金沢文庫の次の次の次の駅である京急田浦の駅で降りて、通学していた。高校時代の古文の時間で『徒然草』を読んだだけでなく、兼好が金沢と深い関係をもっていたらしいことについても教えられた。それだけのことだが、結構それが頭の中のどこかに留まっていた。30年以上たって、首都圏に職場を得てから、金沢文庫に出かけることもあり、『徒然草』と兼好についての興味も再燃した。それと前後して、兼好の時代の社会や文学についての本はできるだけ読むように心がけてきた。実は、彼を主人公にした小説を書いてみようかという気持ちがあって、この本を読み始めたのもそうしたことが背景になっている。
 例えば、光厳院を中心に『風雅和歌集』の撰集の作業が進められていて、兼好の歌の扱いについてあんな卑しい身分の者の歌はもってのほかだと誰かが言うと、花園院がいやいやあいつはなかなか面白い男だから一首くらい採用してやってもいいだろうとおっしゃるというような場面を考えているのである。

 吉川英治は『私本太平記』で、兼好が吉田山のふもとの庵に住んでいるという設定をしている。同じ本の中の、楠正成の描き方などは、当時最新の学説だった林家辰三郎の考えを取り入れて生き生きと描いているのに、兼好の方はごく類型的に描かれているのは残念である。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歴史研究はその後、大いに進んできたので、そうした成果をどのように普及していくかということも考えるべきではないかと思う。個人的な興味としては、兼好が属した二条派ではなく、京極派の和歌の系譜をたどりながら、この時代の美意識のようなものを自分なりに理解できればと思っているのである。 
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