前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

7月2日(日)曇り

 6月29日、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)を読み終える。5月20日に発行された本であるが、6月20日に第2刷が刊行されていて、私が入手したのはその第2刷の方である。本日(7月2日)の『朝日』朝刊の「売れてる本」のコーナーでも取り上げられていて、次第次第に売れ行きを伸ばしている本であるようである。

 子どものころにファーブルの昆虫記に出会った著者は昆虫学者を目指す。多くの昆虫の中でたまたま巡り合ったバッタの研究をはじめ、博士号を取得した。しかし、就職先はあまりない。バッタは時として大量発生して多大な被害をもたらすが、そういう現象は現在の日本ではまず起きない。世界に目を広げると、アフリカではバッタが大発生して農作物を食い荒らし、深刻な飢饉を引き起こすことがしばしば起きている。それで、研究が進んでいるか…と思うと、そうでもないようである。「過去40年間、修行を積んだバッタ研究者は、誰もアフリカで腰を据えて研究しておらず、おかげでバッタ研究の歴史が止まったままだということを知った」(5ページ)。そこでもアフリカのモーリタニアの国立サバクトビバッタ研究所での研究に出かける。
 「その結果、自然現象に進路を委ねる人生設計がいかに危険なことかを思い知らされた。バッタが大発生することで定評のあるモーリタニアだったが、建国以来最悪の大干ばつに見舞われ、バッタが忽然と姿を消してしまった。人生をかけてわざわざアフリカまで来たのに、肝心のバッタがいないという地味な不幸が待っていた。
 不幸は続き、さしたる成果を上げることなく無収入に陥った。なけなしの貯金を切り崩してアフリカに居座り、バッタの大群に会い見える日が来るまで耐え忍ぶ日々。バッタのせいで蝕まれていく時間と財産、そして精神。貯金はもってあと1年。・・・」(7ページ)

 モーリタニア(短期間フランス)での研究の顛末を綴った本であるが、「研究内容についてあまり触れていないのは、…ほとんど論文発表していないため、まだ公にできないという事情」377ページ)があって、研究成果を紹介する内容は少ない。しかし、それを補って余りある様々な情報が詰まっているというのもこの書物の特徴のひとつである。

 まず、著者がバッタについてのフィールド研究を展開したモーリタニアという国。著者は西アフリカと書いているが、北アフリカといってもいい、境界的な国である。国土の東の方はサハラ砂漠で著者の研究の主な場である。北には帰属をめぐって紛争中の西サハラ、そしてアルジェリアがあり、東ではマリ、南はセネガルと国境を接している。アフリカをサハラ砂漠から北と南に区分することが行われているが、そうすると境界線上の国ということになる。『地球の歩き方』にも載っていない国で、そのためかどうかは知らないが、著者は入国審査でつまずく。イスラム教国なので、アルコール類は販売されていないし、著者は日本から持参した酒類を没収されてしまう。男性は4人まで妻をもつことができ、著者の研究を運転手として助けたティジャニには2人の妻がいて、研究所の近くに住んでいるのは第2夫人の方だったのが、その第2夫人と別れて、新しい第2夫人と結婚することになる。著者がミドル・ネームに使っている「ウルド」とは何か。砂漠の中の塩の湖サッファと岩塩の採掘の歴史。そういうモーリタニアの社会や生活文化と自然のありのままの姿が断片的ではあるが、描かれているのが好奇心を満足させてくれる。

 それから著者自身が直面している研究生活や研究対象やテーマのしぼり方などは、研究者を目指す人には大いに参考になるはずである。バッタがなかなか現れないということになると、砂漠を代表する昆虫の1つであるゴミムシダマシ(ゴミダマ)の研究を始める。「このゴミダマの観察を通して、野外では、実験室では想定できないことがたくさん起こっていることを改めて思い知らされた」。(187ページ) 当たり前の結論かもしれないが、そこへ行きつくまでの経験によって千金の重みが加わっている。

 この書物にはそうした、著者自身の独特な経験の様々な様相がユーモアを交えて描きこまれている。著者が知り合ったビジネス情報誌『プレジデント』の編集者である石井伸介氏の指導もあったかもしれないが、専門的なテーマを一般向けに解説していく説明の能力はやはり天性のものではないかと思う。私はモーリタニアの北の方のマグレブ諸国に興味があって、かなり本も読んできたし、マリと砂漠の都市ティムブクトゥにも興味をもってきたので、そういう興味の延長として読むことができた。砂漠でのフィールド研究について書かれた部分はアウトドアの冒険の一例として読むこともできるだろう。いろいろな側面からなり、その側面のおのおのが輝いているような、多様な魅力をもった書物である。 

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(6)

6月28日(水)午前中雨、午後になってやむ

 中国では589年に北朝の隋が南朝の陳を滅ぼし、(西晋による短期の全国統一は別として)後漢の滅亡以来約400年ぶりに統一王朝が出現した。隋は618年に滅びて、唐に代わるが、中国に強力な統一政権が出現したことは、北東アジアの諸国に新たな対応を迫るものであった。朝鮮半島の中部に勢力をもつ新羅が唐に依存することによって、他の諸国に対抗しようとしたのに対し、朝鮮半島の北部から中国の一部にまで勢力をもつ高句麗は隋に引き続いて唐とも対立し続けた。百済は高句麗と連合しながら、新羅・唐に対抗し、また倭国にも応援を求めていた。倭国は百済、高句麗と同盟して新羅・唐に対抗しようとした。
 660年に唐・新羅の連合軍の侵攻によって百済は滅びたが、その地方統治体制はそのまま残っていたので、その年のうちに百済の遺臣たちが反乱を起こし、彼らの指導者である鬼室福信は倭国に滞在していた百済の王族余豊璋の送還と援軍を求めてきた。斉明7年(661)年正月に斉明大王以下の倭国首脳は近畿地方から西に向かい、3月には九州に到着して戦闘への準備態勢を固めたが、7月に斉明が崩御する。そこで中大兄皇子が称制を行い、戦闘に備えた。

 この年(中大兄皇子称制元年=663)8月に第一次の百済救援軍が編成され、前軍の将軍に安曇(あずみ)比羅夫と河辺百枝、後軍の将軍に阿部引田比羅夫・物部熊・守大石が選ばれ、百済救援のために武器と食料を送った。阿部引田比羅夫は以前に北国経営に手腕を発揮した人物で、「筑紫太宰帥(そち)」の任にあったとされる。この救援軍は地方豪族である国造に率いられた筑紫の兵を派遣したものと推測されている。救援軍の将軍の中に古来から倭王権の軍事を担ってきた大伴氏や、外交・外征に特色をもつ紀氏などの名は見えない。蘇我氏も同様である。〔これより100年以上以前に、北九州の豪族である筑紫磐井が新羅と同盟して中央政権に反乱を起こしたことが、この書物の68~70ページに記され、その子孫と思われる人物が新羅の捕虜になったが、仲間の1人が犠牲になって帰国できたことが163~165ページに出てくる。いろいろと想像の膨らむ部分である。〕

 倉本さんは鬼頭清明の説に従い、この救援軍がフラットな編成であり、官僚的な身分秩序が設けられていなかったと論じる(もう少し議論を進めれば、軍隊としての命令・指揮系統が確立されていなかったということである)。それは当時の倭国の支配体制に相応したものではあったが、大国・強国との戦闘にふさわしいものではなかった。

 中大兄は当時の倭国の官位の最高位である織冠を豊璋に授け、また多蒋敷(おおのこもしき、『古事記』の編者である太安万侶の祖父)の妹を妻として娶せ、狭井檳榔(さいのあじまさ)と秦田来津(はだのたくつ)に5,000余人の軍兵を率いさせて護衛とし、百済に送らせた。豊璋が国に入ると、福信が迎えてこれを廃し、豊璋は福信に国政を委ねた。この間、新羅軍は食料補給に苦しみ、百済遺臣の反乱は優勢のうちに推移していた。これらの第一次百済救援軍は、救援武士を送り、豊璋を護送することだえkが目的で、任務が終わると、すぐに百済から帰国したと推定される。しかし、そのまま百済の地に残り、後続の救援軍と合流したものもいたと考えられる。

 翌天智元年(662)3月に唐・新羅が高句麗を攻め、高句麗の要請を受けた倭国軍は疏留城(そるさし、周留城、州柔城とも)に拠ったため、唐も新羅も高句麗を攻められなかったと『日本書紀』に記されているという。この疏留城がどこにあったかをめぐっては諸説あるようであるが、百済国内の城だと考えられ、そうすると、地理的に高句麗からは遠いので、その軍事的な効果はかなり割り引いて考える必要がありそうである。5月に豊璋が百済王の地位に着いたが、12月になると、倭国軍と豊璋や福信との間で意見の違いが表面化する。彼らが拠点としている州柔は防戦のための場所で、農耕や養蚕に適していないので、長くいると民が食物にも事欠くということから、平地で豊かな避城(現韓国全羅北道金堤市)に遷ろうとしたが、田来津に反論されたという。それでも豊璋は都を移してしまう。「倭国軍の意見を聞かない愚かで専制的な百済指導者という文脈で、やがて来る敗戦の責任を彼らに押しつけるという『日本書紀』の主張なのであろうが、多数に膨らんだ兵や民の生活を思う豊璋と、あくまで外国部隊である倭国軍との基本的な立場の相違とみることもできよう」(131ページ)と倉本さんは論じている。〔この移動を主に主張したのが豊璋であったのか、福信であったのかは一考の余地がありそうである。〕 また百済救援軍の将軍が新国王の居地の選定に関与している点が問題で、彼らが単なる軍隊の指揮のみならず、作戦の立案などの点で百済王の諮問にあずかる職権を認められていた可能性も指摘されているそうである。

 既に触れたように、州柔城(疏留城・周留城)がどこにあったのかというのは議論が分かれているが、倉本さんは位金岩城であるとする全榮來『百済滅亡と古代日本』の説を支持している。豊璋・福信らは平地の避城に遷ったのであるが、翌663年2月に百済南部が新羅の攻撃を受けると、ふたたび州柔城に戻ることになる。

 天智2年(663)3月、中大兄は、第2次の百済救援軍(新羅侵攻軍)を編成した。前軍の将軍に上毛野稚子・間人大蓋(はしひとのおおふた)、中軍の将軍に巨勢神前訳語(こせのかんさきのおさ)・三輪根麻呂、後軍の将軍に阿部引田比羅夫・大宅鎌柄(おおやけのかまつか)を配し、2万7千人の兵を率いて、新羅を討つために渡海させた。第1次の派兵が5千余人の規模だったのに対し、今回は本格的な戦闘に対応するための、倭国の全力を傾けた派兵であったと考えられる。6月には新羅の沙鼻(現韓国慶尚南道梁山市)・岐奴江(きぬえ、現韓国慶尚南道宜寧郡)の2城を攻め取っている。これまでの派兵が千人規模の筑紫の軍隊であったのに対し、今回は少なくとも西日本全体におよぶ大規模な豪族軍の徴発が行われていること、また軍事行動の対象が旧百済領ではなく、新羅であったことが注目される。さらに倭国は5月に高句麗に使者を送って、出兵について告げさせた。

 倭国のこのような動きに対し、唐から派遣されていた将軍の劉仁軌はこの5月に本国に兵の増員を要請し、唐は山東省と江蘇省の兵7千を出動させ、孫仁師に率いさせた。この援軍は徳物島(現韓国仁川広域市甕津郡の徳積島)に至った後、百済軍を破りながら南下して熊津城に入り、士気が大いに上がった。この増援軍はおそらく海軍を主力とするものであると推測される。

 そのころ、百済ではまたもや内紛が生じていた。6月に豊璋王は福信が謀叛の心を抱いているのではないかと疑い、不意を襲って殺した(異説あり)。「長年にわたって倭国に滞在し、故国の事情に疎い文人タイプの豊璋と、優れた軍事指揮官として百済復興運動をまとめ上げた実践タイプの福信とでは、本質的に相容れないところがあり、戦況が悪化するにつれて、両者の間に大きな亀裂が生じたということなのであろう」(136ページ) 百済復興運動の中心人物であった福信を殺したことで、百済復興軍はその分裂を表面化させ、大きな軍事的・精神的打撃を受けた。「そこに『救援」にやってきたのが、統制も作戦もない、単なる豪族軍を寄せ集めただけの倭国の『大軍』だったのである。」(137ページ)

 一方、唐軍は作戦会議を開き、水陸の要衝である加林城をまず攻撃すべきであるという意見に対し、百済復興軍の本拠地である周留城を攻略すべきであるという劉仁軌の意見が採択される。この結果、孫仁師・劉仁願と新羅の文武王は陸上から進撃し、劉仁軌および別将の杜爽と扶余隆が水軍と兵糧戦を率いて、熊津江(錦江)から白江(白村江)に行き、陸軍と合流して周留城を攻撃するという作戦が採択された。なお、この扶余隆というのは義慈王の王子で、唐から熊津都督に任じられ、さらに帯方郡公に封じられた人物である。唐の傘下に入って故国に攻め込んできたことになる。

 「これで決戦の場は決した。陸上の周留城と水上の白村江である。」(138ページ)
 内紛を起こして自壊しかけている百済復興軍と、寄せ集めの倭国救援軍の連合軍と、実戦経験豊富なうえに緻密な作戦を立てて進撃してくる唐・新羅連合軍とでは戦う前から勝負はわかっているようなものであるが、当事者には当事者なりの思惑があったことであろう。思いのほか、手間をかけてしまったが、次回はいよいよ白村江の戦いに取り組んだ個所を読んでいくことになる。
  

 

倉本一宏『戦争の日本古代史』(5)

6月21日(水)雨

 589年に隋が南朝の陳を滅亡させ、中国に統一王朝を出現させた。このため北東アジアの諸国、朝鮮半島の北部から中国の一部までの地域を支配する高句麗、朝鮮半島中部の新羅、南西部の百済、そして倭国はこれまでとは違った対外戦略をとることを迫られた。隋が4時にわたる高句麗征伐の失敗によって滅亡し、618年に起った唐が628年に中国を統一した後も、各国は隋に対するのと同様の路線を踏襲した。新羅は唐に依存することによって危機を乗り切ろうとし、高句麗は唐・新羅と戦いを続け、百済は唐と高句麗の戦いで漁夫の利を得ることを夢見ながら新羅と抗争を続け、倭国は百済との同盟を維持しながら唐にも遣使していた。その際、唐の冊封体制に入らず、独立の小中華としての地位を認めさせようとしていたところに対唐関係の特徴があった。
 このような国際情勢の中で朝鮮3国では国王あるいは権臣に権力が集中するという政治的な変化が起きた。倭国の「乙巳の変」もこの動きと軌を一にするものと考えられる。国政運営が乱脈を極めた百済では唐と新羅の侵攻に適切な対応をとることができず、660年に百済は唐と新羅に降伏、国王以下1万人以上が唐の長安に送られた。この知らせは、その後百済遺臣が唐への反乱を起こしたという知らせとともに倭国にもたらされた。

 いよいよ今回は「白村江の戦」について論じた個所を取り上げることになる。私の高校時代には、《ハクスキノエの戦い》と習ったと記憶するが、最近は《ハクソンコウの戦い》という方が一般的なようである。日本史の参考書などには両方の読み方が掲載されている。(本来ならば、それぞれの読み方の根拠まで調べるべきであるが、今のところそうする余裕がない。今後の課題ということにしておく。)

 「百済が滅亡したとはいっても、実は王都が陥落して国王とその一族、そして貴族が唐に連行されただけに過ぎなかった。」(117ページ) 唐は百済の旧来の地方統治体制を温存したうえで、高句麗征討に向かった。これは百済の支配体制と地勢をまったく読み誤ったもので、すぐに百済遺臣による反乱がおこる。660年7月18日に百済の義慈王は降伏したのであるが、8月2日には早くも、百済の敗残兵による蜂起が見られた。唐から旧都城の守備のために派遣された劉仁願は9月に王城である泗沘(しひ)城に到着したが、間もなく百済残兵の攻撃を受けて一時は危機に陥った。しかし新羅からの援軍を得て体勢を立て直すことができた。

 百済の遺臣たちの復興運動の指導者であり、国王の親族でもあった鬼室福信は倭国に使者を送り、救援軍の派遣と日本にわたり、そのまま滞在していた義慈王の弟余豊璋の帰国を求めてきた。豊璋を王として戴くことによって復興を有利に進めようとしたのである。遺臣たちの運動が成功裏に進展しているという福信の情報を信じた当時の斉明大(女)王をはじめとする倭国の指導者たちはこの要請を受けて、豊璋に彼を護衛するための軍兵をつけて海を渡らせようと準備をはじめた。

 翌斉明7年(661)正月6日、斉明を先頭に、中大兄皇子・大海人皇子ら倭王権の中枢部を載せた船団が難波を出発した。吉備を経て14日に伊予の熟田津(にきたつ)(現愛媛県松山市西垣生町の重信川河口)から石湯行宮(に到着、3月25日まで留まっているが、おそらくこの間に徴兵を行っていたと考えられる。
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(熟田津で船に乗り込もうと、月の出を待っていると潮も満ちて船出に都合よくなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出ようではないか。)
 この歌は『万葉集』に掲載されていて、倉本さんも書いているように、額田女王の歌とも、斉明大王の歌ともいわれている。なお、高校時代の国語でこの歌について習った記憶があるが、どうもそのころは国語の知識と日本史の知識とを有機的に結びつけることができず、その限りにおいて、この歌の理解もきわめて表面的なものであったと思う。
 これは遠征の前途を寿ぐはずの歌であったのだ(したがって、文脈的には斉明の歌とするか、斉明の代わりに額田女王がつくったと考えるべきであろう)。3月25日、一行は娜大津(なのおおつ、現福岡市中央区那の津)に着き、磐瀬行宮(現福岡市南区三宅)に入った。5月9日にはさらに南方の朝倉橘広庭宮(現福岡県朝倉市)に遷った。

 この間、4月に百済の福信から使節が到来し、豊璋の送還を再び要請してきた。ところが7月24日に斉明が朝倉橘広庭宮で崩御してしまう。中大兄皇子は大王に即位せず、称制をおこない、ふたたび長津宮(←磐瀬行宮)で軍事指導に当たった。ここで、倉本さんは小生=大王位に即かないまま政事を聴くことと注記しているが、称制は中国では、「天子に代わって命令を出す、天子に代わって政務をとること」であり、形だけでも天子がいることが前提になっている。だから、中大兄皇子がなぜここで「称制」という手段を講じたのかは謎が多い(そんなことは倉本さんは百も承知で、この問題はほかの学者が論じているからということで触れていないのであろう)。

 一方、百済では661年2月に、唐から劉仁軌が派遣されてやってきた。泗沘城を包囲していた百済遺臣の福信と僧道琛(どうちん)の軍勢は、新羅軍と合流した仁軌軍に敗れ、1万人を超える戦死者を出し、泗沘城の包囲を解いて任存城に拠った。
 新羅軍は食料が尽きたので、3月にいったん兵を返し、唐の高宗は仁軌に百済からの撤兵を命じたが、仁軌は百済平定の重要性を説いて駐留を続けた。この頃、唐軍は司令部を泗沘城から防御に有利な熊津城に移している。仁軌は百済遺臣の説得を試みたが、遺臣たちは徹底抗戦の道を選択した。一方、百済側では福信と道琛との間の主導権争いが表面化し、福信は道琛を殺してその軍を接収した。〔百済が次第に劣勢になり、軍の上層部で内輪もめが始まっているこの間の事情がどの程度倭国に伝わっていたか、気になるところである。

 なお、新羅では6月に武烈王が死去し、文武王が即位している。武烈王(金春秋)は国内政治に手腕を発揮しただけでなく、外交交渉においても活躍した優れた君主=政治家であったが、彼をめぐっては中大兄皇子と中臣鎌足の出会いに似た伝説があることをどこかで読んだ記憶があって、気になっている(そういえば、『水滸伝』の初めの方で高俅がまだ端王であった徽宗皇帝に気に入られる話も似ていなくはない)。それから「武烈」という諡号も我が国の天皇の諡号との関係で気になるところではある。

 今回、「白村江の戦」について述べるつもりで、その準備段階の箇所の紹介と論評だけで終わってしまった。まあ、焦らずに読んでいこうと思う。

宮下奈都『ふたつのしるし』

6月20日(火)晴れ、気温上昇

 6月19日、宮下奈都『ふたつのしるし』(幻冬舎文庫)を読み終える。2012年から2014年まで雑誌に連載され、2014年に幻冬舎から単行本として刊行された小説を文庫化したものである。

 東京で生まれ育った男の子ハル、北陸で生まれ育った女の子遙名、物語が始まる1991年5月に、ハルは小学校1年生、遙名は中学校1年生である。ハルは一人っ子で、自分の興味のあることに熱中して、学校では授業に関心を示さない。それで他の子どもたちに迷惑をかけていると担任の先生に言われ、他人に迷惑をかけることを嫌う父親と、他人に迷惑をかけたりかけられたりすることに比較的寛容な母親との口論が起きる。遙名には地域で一番の進学校に通う高校生の兄がいて、父親は彼女には数段劣る私立の女子校を勧めたりする。かわいい娘が幸せに暮らしていけることだけを考えていて、その内心には想像力が及ばない様子である。実は彼女は頭がよくて、成績もよいのだが、そのことで目立ちすぎないようにと作戦を立てて友達とつきあう。

 1997年に設定された第2話になると、ハルは中学生になり、遙名は東京の大学に通う大学生になっている。普通よりも発育が遅いハルはこの年齢になって乳歯が抜けるのだが、それを同級生に殴られたと誤解した担任がいじめがあったと思って両親に相談したことから、波紋が広がって本当にいじめを受けるようになる。幼稚園時代からずっと同じところに通っている健太は学業成績優秀、スポーツもよくできるという子どもだが、心中、ハルに敬服しているところがあって、彼をかばい続ける。遙名は就職した兄と入れ違いに同じ大学に入学する。入学はしたものの、これからどうするかが見えてこない。ある同級生からは過去から未来が見えてしまうと言われるが、そんなことはないと思っている。

 第2話の終わりの部分で、午後の授業に出ないことにした遙名が、中学校の前を通りかかり、養護教諭に付き添われて校庭に出たハルが乳歯を投げ捨てるのを見かける場面があるが、この2人がその後どういう運命をたどるかはその時点ではまだ見えない。2011年3月の大地震が物語を急転回させるとだけ書いておこうか。2人の主人公を比べてみると、遙名の方がよく書けているのではないかと思う。多かれ少なかれ、宮下さんの分身という側面もあるのではなかろうか:
「だいたい、洋司(遙名の父親)は娘に遙名ではなく駒子と名付けたかったのだという。『雪国』という小説に駒子という名のヒロインが出てくるのだそうだ。あるときそう教えられて、小学生だった遙名は緊張しながら『雪国』を手に取った。自分の名前のモデルになるかもしれなかった女性が出てくるのだ。ワクワクと読み始めて、怒りで顔を真っ赤にして本を閉じた。何を考えているのだ。あの父は娘に何を望んでいるのだ。駒子は不幸だ。駒子は愚かだ。その名前を娘につけたがるなんて。」(32ページ)
 善意は無知によって裏切られる。だから作戦が必要なのである。遙名は中学生のころから、OLになるまでずっと作戦をめぐらして生きていく。

 宮下さんの小説を読むのは久しぶりである。それで、このブログで取り上げるのも久しぶりである。1991年から約30年ということは、この小説が書かれた時点から見ても、また現在からみても未来に属する事柄までこの小説では語られているのだが、物語を構成する個々の挿話の時間的な間隔が空きすぎているようにも思えるし、説明不足を感じる部分も見られる。ハルの母親の事故死や遙名の兄が郷里での学校の教師を辞めて俳優修業を始める過程など、いわば物語の行間の謎になっている。宮下さんはこの作品と並行して、『羊と鋼の森』や『終わらない歌』の執筆にも取り組んでいたということで、その分、手間がかけられなかったのかなとも思ってしまう。

 そうはいっても、彼女の小説によくみられる展開、周囲に微妙な違和感を感じている主人公(この作品の場合は、主人公たち)と、それを理解する人々、まじめではあるが観察力と想像力が欠けているためにそれが理解できない人々との織りなす人間劇という大筋は共通する。この小説の題名は『ふたつのしるし』であって、『ふたりのしるし』ではない。二人はそれぞれ自分で見つけたしるしをもつようになる。物語の終わりの方で、遙名は娘の<しるし>に言う。「人生には意外と勘が大事です。」(211ページ) 物語は2人がどのようにしてその勘を磨いていくかについてだともいえる。作戦と勘はともに人生を生き抜くために必要なものに違いない。
 

本村凌二 マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』

6月19日(月)晴れ、気温上昇

 6月18日、本村凌ニ マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』(祥伝社新書)を読む。古代ローマ史の研究家で馬事文化にも詳しい本村さんと、アメリカ人の日本文化研究家であり、『吞めば、都』という著書で知られるように居酒屋に詳しく、またジャズピアニストでもあるというマイク・モラスキーさんの対話。インターネットにより大量の情報が出回る中で、「居心地のいい場所」としての「穴場」(この対話では、酒を飲む場所というふうに限定しても構わないようである)が急速に減少しているという危機感を軸に、日本とアメリカについての比較文化論的な議論が交わされる。東京郊外のある穴場スポット=居酒屋で知り合ったというお二人が、それぞれの専門的な知識と多方面にわたる趣味とを背景に、縦横無尽に文明批評を展開している。

 まずどこを自分の「穴場」とするかは個人個人によって違うものであり、だからこそ、自分で店に入ってみて、ときには失敗をしながら、見つけていくものだということ。最近は、個人経営の店が減ってチェーン店が増えているので、個性をもった――自分の個性に合ったー―店を見つけるのがむずかしくなっているという話が第1章「ネット時代の飲食文化」では展開される。私見によれば、共通メニューのチェーン店でも、それなりの個性が生まれている場合もあり、特になじみの客になってくると、対応も変化する例もあるから、その点ではお二人よりも私のほうが楽観的に物事を見ているのではないかと思う。

 第2章「映画ヒーローの日米比較」は本村さんとモラスキーさんの選んだ映画ヒーローのリストが出ていたり、『ゴジラ』の上映内容が日本とアメリカで違っているという話が出てきたり、自分の意見と違うところを突っ込んでいくときりがなくなりそうである。映画の話は、この章に限らず展開されていて、お二人の映画好きぶりも相当なものと推測される。第3章「ギャンブルと文化」は競馬の話が主になるが、アメリカでは1988年に「インディアン賭博規制法」が成立して、ネイティヴ・アメリカンの居留地にカジノの設置が許可されたという話が注目される。「静かだった森に突然、異空間が出現し、住民の日常とは全くかけ離れた時間が流れる、まさに、異様な光景でした。」(90ページ) 日本の最近の立法などを視野に入れるともっと早く知っておけばよかったという気がする。

 第4章「地域性の彩り」では、地域によって多様な特色をもっていたアメリカの大衆音楽がラジオの出現によって地域性が薄められたという話から始まり、言語の地域的な差異、さらに階級的な差異に話が展開する。経験に基づく知見の展開が内容に制裁を与えている半面で、専門的な視角の不足も目に付く箇所である。さらに話が笑いにおよんで、本村さんが小津安二郎の映画の子どものユーモラスな描き方に触れているのが印象に残る。小津の子どもの描き方は私も好きである。第5章「街に生きる」は、都市計画と市民生活の問題、その中で東京がいくつかの小区画から構成されていて、それぞれの区画内を歩き回ることができるという指摘が興味深い。街づくりには経済的な効率を図るという側面と、それ以上に一貫した街づくりの理念を求めるという側面とがある。異種混合の世界に飛び込んで、そこを自分にとっての「穴場」にしていく勇気が求められるという。

 さまざまな話題が自由奔放に取り上げられているが、実は触れられていない問題、避けられている問題はそれ以上に多いのである。そうした話題の選択にも「穴場」の持つ二面性、《勇気》をもって探し当てる必要があるということと、その中に《逃避》して閉じこもってしまっていいのだということが現れているようでもある。比較文化論には様々な可能性が秘められていて、この対談はその可能性の1つを示しただけではあるが、ここで取り上げられた問題のどれか1つを詳しく検討してみるだけでも質量ともにかなりの仕事ができるのではないかと思われる。 
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