フローベール『感情教育』(5‐6)

2月17日(土)晴れたり曇ったり

これまでのあらすじ(1~4)
 1840年の秋、帰省のためセーヌ川をさかのぼる船に乗った18歳の青年、フレデリック・モローはアルヌーという画商と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。フレデリックには、シャルル・デローリエという高校時代の友人がいて、地方の公証人事務所の書記をしているが、パリで一緒に生活しようと約束している。没落しかけた旧家の跡取りであるフレデリックと退役した軍人の子であるでローリエは、育ち方も性格も違うが、親友同士なのである。
 パリに出たフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズや、知り合ったばかりのアルヌーを尋ねるが軽くあしらわれるだけである。もともと夢想家で芸術に関心があるので、法律の勉強に身が入らないが、出世主義者のマルチノンや、おとなしい貴族のシジーなどの友人ができる。
 1841年にパリで暴動が起きた際に、警官に拘束された青年デュサルディエを助けようとしたことから、フレデリックは同じ法学部の学生であるユソネと知り合う。演劇に関心のあるユソネとフレデリックは意気投合しただけでなく、ユソネの手引きで彼はアルヌーの経営する新聞社に出入りするようになる。そしてアルヌーの家で開かれた晩餐会に招かれたフレデリックはアルヌー夫人と再会し、恋心をさらに募らせる。実は彼が初めて晩さん会に招かれた日に、父親が管理していた財産を手に入れたデローリエがパリに出てきたのであった。
(5)
 フレデリックのアルヌー夫人への思いを心配したデローリエは、彼の気を紛らわせるべく友人たちを集める、マルチノン、シジーのほか、アルヌーのもとに出入りしている画家のペルラン、デローリエの友人で社会主義者のセネカル、さらにユソネがデュサルディエを連れてくる。
 なかなか勉強に集中できないフレデリックは、デローリエの応援にもかかわらず2度目の試験に落第する。一方、マルチノンは合格して輝かしい未来を約束されるようである。
 試験を再受験するという名目でパリにとどまったフレデリックは、アルヌー夫人を思って悶々としている。何とか気持ちを変えさせようとデローリエが社交的な踊り場に彼を連れ出す。シジー、ユソネ、デュサルディエが一緒である。ユソネが二次会の段取りをつけたが、フレデリックはアルヌーが来ている気配を察して彼を探しに出かける。愛人のヴァトナと一緒だったアルヌーはフレデリック一同を愛想よく迎える。ヴァトナとデュサルディエが知り合いだったことがわかる。シジーやユソネが相手を見つけて去って行った後、フレデリックとデローリエは相手の女性が見つけられないまま取り残される。

 「二人の友は歩いてかえった。東風が吹いていた。おたがいに口をきかなかった。デローリエは新聞社長の前で《はえなかった》ことを残念に思っているし、フレデリックは憂鬱に沈みきっていた。やっと口をひらいて、あんな踊り場は馬鹿馬鹿しいといった。
 「誰のせいだい? もしきみがあのアルヌーのそばへゆくのでおれたちと離れなかったら!」(123ページ)
 確かに、ユソネが《ダマエギ侯爵夫人》と話をまとめかけたときに、フレデリックがアルヌーのところに出かけてしまったために、話がご破算になってしまったのは事実である。しかし、恋愛に幻想を抱かないデローリエと、恋愛への幻想に浸りきっているフレデリックとのこの点での距離は、極めて大きいし、客観的に見ればデローリエが自分の価値観に基づいてフレデリックの世話をしようとするのは見当はずれのおせっかいも甚だしいのである。

 二人は、議論にならない議論を続けた後、突然、デローリエが言う。「今度、通りがかりに出会った女をぼくが《ものに》するかどうか、百フラン賭けるかい?」(124ページ)
 デローリエは、背の高い娘に話しかけ、とうとう、娘は彼の腕にすがることを承知する。デローリエと娘は歩道を行きつ戻りつして、デローリエとフレデリックの住まいに向かう。「デローリエはそばにいられては邪魔だ、きみも同じようにしたらよかろう、という意味を明らかにみせた。」(同上) 追い出される格好になったフレデリックは《こちらには、あんなのより百倍も貴重な、もっと気高く強い恋があるのだのに》何か怒りに似た気持ちに駆り立てられて、アルヌー夫人の家の前まで来てしまった。」(125ページ)
 家の前までやってきたところで、何事も起きるわけがなく、そのままフレデリックは夜のパリの街を当てもなくさまよい続ける。

 夜が明けて、家に帰ってみると、デローリエは女を返してしまっていた。午後になってシジーがやってきて、昨夜の首尾の仕上げをしたいという。デローリエは、フレデリックに自分の薬が効いたと思い込んで上機嫌になる。
 フレデリックはデローリエがクレマンスという娘と仲良く外出したりするのを見ると、侘しい気分になったりするが、その一方で自分がアルヌー邸に出かける前にいそいそとしているのをデローリエがやっかんでいるのに気付いていなかったのである。

 ある夕方、ユソネがフレデリックに連絡してきて、次の土曜日がアルヌー夫人の誕生日なので、祝宴に出席してほしいという。ところがフレデリックが自分の住まいに戻ると、ダンブルーズ夫妻から同じ日に晩餐に招待したいという招待状が届く。こういう正体は受けなければいけないと、それを見たデローリエが承諾の返事を書いてしまう。現実主義者の彼は、それが自分の成功に結び付くかどうかという観点でのみ社交的な付き合いを評価するのである。
 それでも、アルヌー夫人には誕生日のお祝いを送らなければならないと考えたフレデリックはちょうどいい贈り物として175フランする象牙彫りの小さな柄のついた、玉虫色の絹の日傘を見つける。手元不如意のフレデリックは、デローリエから借金をしてその日傘を買う。

 運のいい偶然が起きて、ダンブルーズ家で身内の不幸があり、招待が延期になる。そこでフレデリックはアルヌーの新聞社に出かけるが、アルヌーは彼を待つことなく、郊外の別荘に出かけていた。フレデリックが店のものと話していると、ヴァトナ嬢がやってきて、アルヌーと会えないのを残念がり、その結果、彼女が書いた手紙をフレデリックが彼のところに届けることになる。
 別荘についたフレデリックは、アルヌーに手紙を渡す。アルヌーはできるだけ早くパリに戻らなければならなくなりそうだという。アルヌー夫人の誕生日に招かれた客たちが集まってくる。それぞれが何か贈り物を用意してきたが、ユソネは何も持ってこないで済ました。フレデリックも自分の贈り物を渡した。祝宴は楽しく進んだが、アルヌーは9時半ごろに馬車でパリに戻ると言い出す。一同は、別荘の周囲を散歩しながら、議論に興じる。

 こうして人々が戸外に出て、それぞれ相手を見つけて話をするようになったということは、フレデリックにとってもアルヌー夫人と話をする、思いを打ち明ける好機となるわけである。さて、フレデリックはどのように自分の想いを伝えるのであろうか。
 
 

エラスムス『痴愚神礼賛』(8)

2月16日(金)晴れたり曇ったり

 鈴の房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして登場した痴愚の女神が自賛の演説を展開します。自分こそが世の中を明るく、楽しいものにしてきたのに、そのことが忘れられている。自分で自分を礼賛する演説をしなければ、だれも自分の偉大さに気づかないだろうというのです。彼女はまず、人生そのものが男女の愚かな営みによって始まるのだといい、その人生も馬鹿げた戯れがなければ、つまらないものだと主張します。友情も結婚も相手の欠点に気づかないからこそ長続きするのであるし、国家を支えているのは愚かなおとぎ話でしかないと指摘します。学芸は虚栄心によって発展してきたし、人間の精神の大部分を占めるのは情動だとも論じます。理性的であろうとしても、付き合いにくい人間だとして他人から遠ざけられることは必定だといいます。

〔31〕
 女神は高いところから人間の世界を見下ろしてみればわかるように、「人間の一生というものは、なんとまあ数々の厄災に見舞われていることでしょう」(77‐78ページ)と述べてその生涯に付きまとう苦難の数々を列挙します。痴愚の女神(エラスムスの創作で、ギリシア・ローマ神話にはこんな神様は登場しません)は異教世界の存在ですから、「そもそもどんな罪を犯したがゆえに、人間たちはこんな目に合わねばならないのか」(78ページ)ということは説明しません(キリスト教世界の人間であるエラスムスと、多くの読者にとってそれは自明なはずのことです)。昔から、賢明であるがゆえに、これらの厄災と向かい、結局は自殺を選んだ人間は数えきれないと彼女は言います。しかし、もっと多くの人間は「一つには無知なために、また一つには思慮が浅いために、それにしばしばもろもろの悪が存在することを忘れて、ときには幸福が生まれることを期待して」(79ページ)生き続けています。「生きてゆくことへの嫌悪感なんぞは、きれっぱしほども持ち合わせていないのです。」(同上)
 そして男女を問わず、年をとっても愚かな快楽に身を任せ続けている人間が多いと指摘します。「愚かではあるが至極楽しい生活を送るほうがいいか、それとも、世にいう首を吊るための梁を探すほうがいいか」(81ページ)と問いかけます。他人からバカなことをしていると指摘されても、本人がそれでいいと思うのならば、いいじゃないかというのです。

〔32〕
 この主張に対し、「痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである」(82ページ)と哲学者たちは反論するだろう。しかしこれは「痴愚こそはまさしく人間の性(さが)にかなっている」(83ページ)ことを無視した議論だと女神は一蹴します。
 あるいは人間だけに学問をする能力が備わっていることをどう受け止めるのかという議論もなされるが、学問は幸福のために役立つどころかその障害になるとさえいいます。そして学問は悪霊によってでっち上げられたのだという説まで開陳します。
 「本当のところ、黄金時代の素朴な人々は、なんの学問も身につけずに、自然の導くままに、本能にまかせて生きていたのです。争いやもめごと、犯罪のない社会に法律は必要がないように、難しい学問は必要なかったのだというのです。しかし、「この黄金時代の純粋さが次第に失われてゆくにつれて」(85ページ)悪霊たちが学問を作り出し、それが次第に力を増したのだと説明しています。学問は人間たちの頭を悩ますだけのものであると女神は極言します。〔ギリシア・ローマ神話では、大昔にはこの女神が言うような「黄金時代」があった、その後人間は堕落を重ねて現在に至るという一種の下降史観が有力でしたが、女神はそれを取り入れています。これは、18世紀の啓蒙思想における進歩史観とは対照的なものであることに注目しておきましょう。〕

〔33〕
 女神はさらに言葉を続けて、「しかしながらこれらの学問のうちで、一番役に立つとされているのは、常識、つまりは痴愚に最も近いものなのです。」(85ページ)と述べます。何事も常識に従っておけば安全だというわけでしょうか。世間の人は役に立たない理屈ばかりこねまわしている学者先生をそれほど尊敬はしないが、実際に役に立つ存在である医者だけは大事にされているといいます。「学問・技芸は痴愚に類すること近いほど、幸福をもたらしてくれるもので、あらゆる学芸・技芸などとはなんのかかわりも持たずに済み、ただ自然の導くままに生きている人たちこそが、はるかに幸福なのです。・・・自然は虚飾を嫌いますから、何であれ技芸によって損なわれていないものほど、成功を収めるのです。」(86ページ) 何事も自然に任せればいいというのです。〔もっともこの「自然に」という言葉は案外曲者で、何が「自然な」ことであるのかは人によってかなり意見の異なることではないかという気がします。〕

〔34〕
 そして女神は聴き手の関心を動物の世界に向けさせ、自然に従って生活を営んでいる蜜蜂たちの幸福と、「人間に近い感覚を持っているため、人間と一緒に住むことになったのですが、人間と同じ悲惨な目にあって」(87ページ)いる馬とを対比します。あらゆる動物の中で、人間だけが定められた境遇に満足せず、それを踏み越えようとして、かえって不幸になっているのだと主張します。

〔35〕
 愚か者=「できるだけ動物の本性と愚かさに近づき、人間の分際を超えるようなことは何一つ企てたりせぬ人たち」(89ページ)こそが、「もっとも不幸ではないように思われます」(同上)と女神は断じます。「愚か者たちは、自分自身がいつも陽気で遊びたわむれ、歌ったり笑いこけたりしているだけではなく、どこへ姿を見せようとも、ほかの人たちに楽しさと、冗談と、戯れと、笑いとを振りまいてくれます」(90ページ)とその役割を称賛します。だから彼らは他の人々からも愛される存在だといいます。

 痴愚女神の矛先は、今回は学問や学者に向けられる部分が多かったのですが、これを書いているエラスムス自身が学者であったということを忘れてはなりません。エラスムスの本意は、学問こそが人々を幸福にするものであるというところにあるわけですが、女神の弁舌があまりにもさわやかで、ひょっとしてエラスムスもある程度はそう思っていたのではないかと思わせるようなところがあります。知と無知の関係は相互的なところがありますから、エラスムスも苦笑しながらこの部分を書いていたのかもしれないと思ったりします。

小川剛生『兼好法師』(9)

2月14日(水)晴れ

 『徒然草』の作者は卜部兼好、仮名を四郎太郎といい、金沢流北条氏に仕えて鎌倉と京都を往復しながら雑用を務めていた侍であったが、金沢貞顕が六波羅探題北方に補せられた延慶3年(1310)ごろから京都に定住したものと考えられる。また同じころ出家遁世したが、それは身分秩序のくびきから脱して、一方で権門に出入りし、他方で市井に立ち混じり、時々の用を弁じるための手段であった。彼は最初、六波羅周辺で活動していたが、おそらくは金沢流北条氏と上級貴族である堀川家の接近から、貴顕と交わるようになり、仁和寺の周辺に生活拠点を移した。そして経済活動により得た土地を後宇多院ゆかりの寺院に寄進することで歌壇デビューを果たした。鎌倉幕府滅亡後も高師直のような有力武士、三宝院賢俊のような高僧のために祐筆として働いた。(以上第1章~第5章の要約)

 第6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」は歌人としての兼好の活動をたどる内容である。小川さんは「兼好は生前も死後も歌人として知られていた。兼好はまず歌壇という歌人社会で認められ、名声を得ていった。歌人の伝記は常に歌壇での位置を定めて記述することが必要である」(170ページ)という。和歌の歴史、さらに文学史に興味のある人にとっては面白いが、そうでなければどうでもいいようなことがここでは問題になっている。あらかじめ説明しておけば、「破天荒な家集」というのは、兼好が自分の詠んだ和歌を集めて編纂した家集が当時のほかの歌人の編纂した家集とかなり異なる、いかにも『徒然草』の作者らしいものであったということであり、「晩年の妄執」というのは、彼が『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』、『風雅和歌集』という3つの勅撰和歌集に連続してその歌をとられた「三代作者」であったが、晩年に編纂中であった『新千載和歌集』にその歌がとられて、「四代作者」としてその感性を見届けることができないという無念さを抱いていたということである。

 兼好の歌道の師は二条為世(1250‐1338)である。為世は『徒然草』230段にも登場して「藤大納言殿」と呼ばれている。俊成―定家―為家―為氏―為世と続いた御子左家嫡流の生まれで、父の代から二条を称した。『新後撰和歌集』、『続千載和歌集』の2つの勅撰和歌集の単独選者となり、大覚寺統の天使や幕府将軍の師範となるなど、世俗的な栄誉を一身に集めた歌人である。さらに彼の娘の為子は後醍醐天皇の兄の後二条天皇の女房であったが、まだ東宮であられたころの後醍醐天皇の寵愛を受けて、尊良親王(『太平記』で恒良親王とともに新田義貞に奉じられて北国の金ヶ崎城で苦難に満ちた戦いを続けられている「一宮」である)、宗良親王らの子どもを産んだ。宗良親王が天台座主であったことは『太平記』にも記されている。宗良親王は建武新政後は還俗されて、南北朝時代には南朝のために奮戦されたが、また、優れた歌人であったとの評価も受けている。為子についても、『増鏡』は「集にもやさしき歌多く侍るべし」(講談社学術文庫版、下、69ページ、『続千載集』にも優雅な歌が多く入ったようだ)と記している。

 この二条為世の二条派と対立したのが、彼の従弟である京極為兼(「ためかぬ」と読むのが正しいそうである)の率いる京極派である。(さらに年少の叔父である冷泉為相(ためすけ)とは、家領をめぐって争った。) 

 古典和歌は与えられた題に即してその意図を満たすように詠む題詠が主流であった。つまり、古今集以来の伝統の中で定着されてきた題材と着想を忠実に守り、その中で自分なりの表現を探ろうとするものである。為世の二条派は古典和歌の範疇で新しい美や感動を発見せよと教えたのに対し、京極派は自由な発想や古歌にとらわれない表現を尊んだ。それ故、近現代では京極派の評価のほうが高くなっている(歴史学者の今谷明さんが京極為兼の評伝を書いているのはこの点で興味深い)。
 二条派の型にはまった表現は、それ故に新興の武士たちにはとっつきやすいものであった。『二条派の教えのように、よく知っている古歌に学んで、その表現を借りて新しい題意を詠むこと、特に古歌の部分的引用によりその内容を効果的に想起させる技法(本歌取り)がよほどわかりやすいし、何より中世の大多数の作歌層にとって安心して参入できる。鎌倉時代以来、武士が和歌を好み、その作品が一見没個性的である理由は、これで説明がつく。また古今集を知ることが歌詠みにとって何より肝要であることも理解できるであろう」(175ページ)。
 逆に言うと、京極派の主張は、十分な作歌訓練を積んできた廷臣・女房にしか浸透しなかったのである。二条派が大覚寺統と結びついたのに対し、京極派は持明院統と結びつき、歌道における対立は政治的な色彩を帯びたが、京極派が優勢な勅撰集は為兼が選者となった『玉葉和歌集』と、花園院が編纂された『風雅和歌集』だけである。伊藤敬によると、「『風雅集』には多くの女性家人が男性に伍していて華麗である」(伊藤『新北朝の人と文学』、50ページ)。ところがその後の勅撰和歌集になると女性歌人の割合も歌数も減っているという。伊藤はこれを宮廷内で女性が一定の役割を演じていた王朝の残影がみられる時代から男性優位の乱世への時代の変化とみるが、二条派と京極派の違いとみることもできるだろう。

 為世は門弟の指導に熱心であり、廷臣ばかりでなく、武士や僧侶、あるいは格別の出自を持たない地下にも及んだ。そして、特に優れた地下門弟4名を四天王と称した。四天王には出入りがあるが、『正徹物語』が記す頓阿・慶運・淨弁・兼好というのが最も一般的である(小川さんは「地下」の門弟と記しているので、二条良基を四天王に加える説がそのことから誤りであると断定できる)。なぜ四天王が活躍したか。「和歌を詠むためには、まずは最低限、題と本意を知らなくてはいけないし、そのためには詠草の添削が繰り返される。しかし、一般の門弟がこまごまとした指導を為世や為定に期待することは非現実的である。また歌道師範も自ら権威を安売りするようなことはしない。庶子を代理にするのも一法だが、この時代はすぐに一家を立てようとする野心を抱くので信頼できない。そこで活躍したのが、師範にあくまで忠誠を誓った地下門弟である。」(175‐176ページ) こうして入門・初心のものは四天王から手ほどきを受けて腕を磨き、また身軽な身の上であった四天王は地方を遊歴して二条派の勢力を拡大するために尽力もしたのであったという。
 兼好はほかの3人に比べると遅く二条派の催しに加わっているが、おそらくは頓阿らを介して為世に入門したということであろう。為世が選んだ『続千載集』にはもっとも若年の慶運を除く3人が入集し、その後、彼の歌人としての活動は本格的なものとなる。

 「破天荒な家集」がどのようなものであったのかに行き着く前に本日分を終えるのはあまり気分のいいものではないが、それでもせっかく書いた原稿が途中で消えてしまうよりはいいと思う。二条派と京極派の対立とよく似た事態は現在でも起きるわけで、文章を書くのに「思ったことを自由に書きなさい」などという指導法よりも、手取り足取り具体的に書き方を教えるほうが人気が高いというのは、大学の卒業論文などにも当てはまるのではないかという気がする。

松岡譲『敦煌物語』

2月10日(土)晴れ

 松岡譲『敦煌物語』(講談社学術文庫)を読む。長いことほったらかしにしていた宿題をやっと片づけた気分である。もう20年以上昔に、それまで勤務していた大学からほかの職場に移ることになって研究室の蔵書を整理していた時に、この書物を見つけ、どこでどのようにして買ったか全く記憶がなく(本にかぶせてあるカバーから横浜の有隣堂で勝ったことだけが分かった)、驚き怪しんだことを思い出す。それ以前に文学史的な興味から松岡の名は知っていたし、大学での同僚が松岡の未亡人(つまり夏目漱石の長女松岡筆子)と面識があったようで、『敦煌物語』の話も聞いていたのだが、その本を自分が持っているとは全く思っていなかったのである。

 この作品は敦煌の莫高窟から膨大な量の写経類が持ち出された経緯、作者の表現を借りると「文化侵略の古戦場」(20ページ)における戦いの様子を枠物語の形式で語ったものであるが、創作であるにもかかわらず、平凡社版の『世界教養全集』、さらに講談社の学術文庫に収録されていることで分かるように、文学的な達成度の高さよりも、篇中で語られている事実の歴史的な意義によって評価を受けているところがある。松岡はもう1つの代表作『法城を護る人々』を読んでいても感じることであるが、文学的な描写力・造形力よりも、主題設定や思索の深さを特色とする作家であり、そのことが彼の作品の評価にも反映されているようである。

 東京・根岸の書道博物館を想定したらしい小博物館で、この博物館の創設者である中村不折をモデルとしているらしい70代の老人が、著者の分身である「私」を相手に敦煌写経を見せながら、敦煌写経が世に出るに至った経緯を語る。20世紀の初めから第一次世界大戦の勃発時までの期間に、欧州列強がシルクロードの地政学的な意義に着目しただけでなく、歴史的な資料の宝庫としての意義にも気づいて、この地に続々と探検隊を送るに至ったこと、そのなかで英国のスタインが1907年に敦煌に達し、この地の千仏洞のうわさを聞いて、この洞窟を管理している住持の王道士と交渉して漢文、梵語チベット文、その他西域地方のもろもろの文字で書かれた写経、ほかに絵や織物や仏像など29箱分をたった10枚足らずの馬蹄銀で手に入れることに成功する。スタインは梵語やトルコ語やチベット語などは何とか理解できるが、漢文が少しもわからないというハンディを抱えていたのだが、それでもこれだけの成果を上げた。

 「この千仏洞から出た古写経の中には、中国、朝鮮、日本三国で、しばしば結集された、大蔵経にないいわゆる逸経がどっさり出てきた…。それらのものは『大正新修大蔵経』の中におさめられたが、その数も多く、また、従来名のみ知られていて実物にお目にかかったことがない珍本もある。そのかわりまた疑経偽経といったお愛敬のあるしろものも少なからず出てきたようだ。これは仏典のほうばかりでなく、道教のほうのいわゆる道蔵でもご同様。
 このほか、従来、大秦景教流行中国碑を唯一の手がかりにしていたキリスト教の一派ネストリウス教、すなわち景教の漢訳経典が出てくる、マニ(摩尼)教が出てくる、祆教すなわち拝火教の教典が出てくる。そのほか四書五経はじめ各方面の古書なんでもござれで、唐あるいは唐以前のものが出てきたのdから、旧来の中国研究はここに一変せざるを得なくなったわけだ。そのうえになおチベット文、本分、イラン分、トルコ分をはじめ、今は死語となった西域の古代語までいくつも現れてきたのだから、これらの研究ができあがった暁には、今までの中央アジアはいうに及ばず、ひろく東アジアの歴史に幾多の修正やら付け加えやらが必要になってもこよう。」(120-121ページ)

 1908年にはフランスのぺリオの一行が敦煌を訪れる。スタインと違ってぺリオはベトナムのハノイ育ちで、中国語もできるし、漢文も読める。すでにシルクロードの各地を探索してきた彼は、「イラン的要素の中国的展開が、キジール(クチャ)の千仏洞ではまだよく顕われず、トルファン(吐魯蕃)でやや体をなし、ここ敦煌の千仏洞にいたってありありと示されている」(146ページ)野に興味を抱くが、「こうした東西文明の交流は、漢文以外のいわゆる蕃語の古書を調査する段になっていよいよ確かさを増してくるように見えた」(同上)。しかもそれらの言語が驚くほどに多種類なのである。
 ぺリオは自身の発見を中国の学者たちに伝えるが、驚いた中国の学者たちは子文書が海外に持ち出されるのを止めようと王道士を捕縛しようとする。王道士は何とか役人たちに袖の下を使ってそれを逃れる…。

 このような経緯ののち、辛亥革命の前夜の敦煌に2人の日本人がたどりつく。立花(橘瑞超)と吉川(小一郎)である… 上原和の開設を読むとわかるが、この日本人たち、とくに立花の言動は、歴史的事実とは異なる、作者の創作が加えられており、そこに作者の意図が表れているようでもある。立花の「僕は仏の御名にかけて絶対にだまし討ちはしません。だから貴僧も仏弟子のひとりとして、僕の聖業に一臂の力をかしてくださってもよろしいはず」(229ページ)という言葉にそれが要約されている。王道士は道教の道士であるから、仏弟子とは言えず(仏教と道教が混淆しているという側面はあるが)、このあたりの認識の甘さがもう少し自覚されてもよかったのではないかと思ったりする。真宗寺院の後継ぎとして生まれた松岡の仏教に対する知識・理解や、彼がその関心に任せて蓄積した西域についての情報・知識が欧州諸国の東アジアへの「文化侵略」という批判精神を生み出しても、自らの思想に対するより根本的な自覚にいたらなかったのは、惜しまれてもいいことである。

フローベール『感情教育』(5‐5)

2月9日(金)晴れ

これまでのあらすじ
(第1部:1から4まで)
 フランス七月王政下の1840年、大学入学直前の若者フレデリック・モローは故郷であるノジャン=スュル・セーヌ県に戻る途中の船の中で画商だというアルヌーという男と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。
 モロー家は没落しかけた休暇で母親は一人息子のフレデリックの未来に希望を託している。フレデリックにはシャルル・デローリエという同じ高校で学んだ友人がいて、公証人のところで書記をしている。夢想家で芸術に興味があるフレデリックと現実主義者で努力家のでローリエは育ちも性格も違うが親友である。2人は、いずれパリで共同生活を送ろうと約束する。
 パリに出たフレデリックは、同郷の有力者ダンブルーズや船の中で知り合ったアルヌーのもとを訪問するが、軽くあしらわれる。大学の講義には興味を覚えないが、同じ高校の同窓生のマルチノン、おとなしい貴族のシジーのような友人ができる。
 1841年にパリで暴動が起きた際に警官に拘束されたデュサルディエという同年輩の青年を助けようとしたことから、フレデリックは同じ法科大学に学ぶユソネという演劇に関心を持つ青年と仲良くなり、彼の手引きでアルヌーのもとに出入りするようになる。アルヌーの家での晩さん会でアルヌー夫人に再会した彼は、夫人への恋心を募らせる。
(5)
 パリに出てきたデローリエはフレデリックがアルヌー夫人に熱を上げているのを心配して、友人たちを集める。出世主義者のマルチノン、世間知らずのシジー、アルヌーのもとに出入りしている画家のペルラン、デローリエの友人で社会主義者のセネカル、さらにユソネがデュサルディエを連れてくる。
 なかなか勉強に集中できずにいたフレデリックはデローリエの応援にもかかわらず、二度目の試験に落第する。一方マルチノンは合格して、輝かしい未来への道を歩もうとしている。
 試験を再受験するという名目でフレデリックはパリに残るが、アルヌー夫人への思いは募るばかりで、鬱々として楽しまない。そんな彼をデローリエは(アルハンブラ)という踊り場に連れて行く。2人にはユソネとシジーとデュサルディエが同行する。さまざまな男女が相手を求めて集まってきているが、ユソネが雑誌の仕事や小劇場関係の出入りで知っている女性が少なくないようである。彼は知り合いの女性の家で、ちょっとした集まりを開こうと持ちかけるが、見渡してみると、フレデリックがどこかへ消えている。

 フレデリックはアルヌーの声を聞いたような気がして、その方角に女性の帽子が見えたので、そちらのほうに歩いて行ったのである。案の定、彼はアルヌーと彼の愛人のヴァトナ嬢を見つける。(このヴァトナ嬢は女優のような絵画のモデルのような仕事をしていて、すでに何度か登場しているのだが、物語の大筋に関係がないと判断して、その個所は省いてきた。) 
 どうもアルヌーは彼女に急用ができて、ここへやってきたような様子である。
 人々の踊りが中断され、《表情歌手》のデルマが歌いだす。アルヌーは、ヴァトナ嬢がデルマに思し召しがあるのだろうという。
 フレデリックを探していた連中が、彼らのところにやってきて、ユソネが彼らを紹介する。アルヌーは葉巻を配り、氷菓(ソルベ)をご馳走する。

 「ヴァトナ嬢はデュサルディエを見てぽっとあかくなった。すぐ立ち上がって、手をさし出した。
 「あたしを思い出さないこと、オギュストさん?」
 「きみどうして知っているの?」フレデリックがきくと、
 「同じ家ではたらいていたことがあるんで」と、先方はこたえた。
 シジーが袖をひいて、二人はまた出ていった。その姿が消えるとすぐヴァトナ嬢はデュサルディエの性質をほめはじめた。あの人は《ひとの心のわかる人》とさえ言った。」(120ページ)
 貴族のシジーと労働者のデュサルディエが仲良くしているのは微笑ましいが、ヴァトナ嬢の発言を含めて、ここでは民衆の代表者のような存在であるデュサルディエが好ましい人物として描かれているところに興味が持たれる。ヴァトナ嬢もその出自はそれほど高くはなく、だからデュサルディエとは心が通じ合うと実感しているのである。

 それから一同はデルマの話をはじめ、さらに文学や演劇をめぐる議論が続く。「アルヌーが有名な女優を幾人か知っているというので、青年たちは身をのり出して話を聞いた。だが、その言葉は音楽の騒音でしじゅう消されていた。」(同上) にぎやかな騒ぎはさらに大きくなり、やがてそれも終わって人々は帰り支度を始める。「フレデリックとデローリエは人ごみの中を一足ずつゆっくり歩いていた。とひとつ目についたことがあって立ちどまった、マルチノンが雨傘預り所で、釣銭をうけとっている。そして、五十くらいの、醜い、華美な身なりをした、身分のはっきりせぬ女がかたわらにいた。/「奴は案外、食えない男だ」デローリエがいった。」(121ページ) マルチノンはこういうところにやってくるとはだれも考えていなかったから、誰も誘わなかったのである。ところが得体のしれない女性と一緒にいる(もっとも、近くにいるだけで、何も関係がないのかもしれない。私は近くにいる人間の夫にされたり、縁者にされたりすることがよくあるので、この種の誤解が少なくないと思っている。ただ、「アルハンブラ」にマルチノンがやってきていたという事実は消えない!)

 デローリエはシジーがどこにいるかをたずねる。デュサルディエの指差す方向には「中世騎士の末裔が、ばら色帽子と並んで、ポンスの盃にむかっているのが見えた」(同上)。シジーもどうやら相手を見つけることができたようである。ユソネの腕には若い娘が寄り添っている。ヴァトナ嬢はデュサルディエに送ってくれと頼む。アルヌーは君には一緒に帰る女性はいないのかとフレデリックをからかう。自分が恋しているのはアルヌー夫人だとは言えないフレデリックはどぎまぎする。その夫人のもとにアルヌーは馬車を呼んで帰っていき、フレデリックとデローリエが取り残される。

 1840年代の初めごろのパリの風俗の一端をとらえた場面で、若者たち一人一人の個性が描き分けられているのも興味深い。その多様な個性を持った若者たちに、どのような運命が待ち受けているのだろうか。翻訳者である生島遼一が書いているように、フローベールが若者たちを見る目は、それぞれの長短を描き分けてはいても、同時代を生きた人間としての温かさに満ちている。付け加えれば、ヴァトナ嬢はこれからも姿を現し、物語をかき回すことになる。 
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