ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(15-2)

3月22日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て火星天に達する。それぞれの天空でダンテは、彼を迎えにやってきた霊たちと対話を重ねる。火星で彼の前に現れたのは、彼の先祖の霊である。

 ベアトリーチェの同意を得て、ダンテは先祖の霊に自分の言葉では十分に表現できない気持ちがあると言いながら、その霊にその名を訊ねる。
「おお、我が枝よ。待っているだけで
わしの喜びだった。わしがおまえの根である」。
彼はこのように私に始めはじめ、答え出した。
(230ページ) 「枝」は子孫、「根」は先祖を意味する。

さらに続けて私に言った。「お前の一族が
その者の名で呼ばれる、かの山の第一環道を百年以上も
めぐってきた者とは、

わが息子であり、お前の曽祖父であった。
されば、もちろんお前が善き行いで
彼の長い苦しみを短くしてやるのは当然であろう。
(230-231ページ) 語っているのはダンテの玄祖父であり、その子でダンテの曽祖父であるアリギエロ(? -1201以後)にダンテの姓アリギエリは由来するという。アリギエロは、ダンテも訪れた煉獄の(高慢の罪を清める)第一環道をもう100年以上回り続けているという。煉獄にいる魂は生者の祈り、(生者による)貧者への施し、教会・修道会への寄進、勤行によってその滞在期間を短縮されると考えられていた。この問題が、宗教改革におけるルターの95か条の提題で取り上げられているのはご存知だと思う。それにしても、自分の先祖である曽祖父を煉獄に置いているというのはなかなか厳しい。

 ダンテの曽祖父の霊は、自分が暮らしていた古き、よきフィレンツェの町について語る:
フィオレンツァは、
今も三時と九時の鐘を響かせる昔の城壁、
その内側では平和で、品行方正で、慎み深くあった。

首飾りや宝冠や
華美な衣装や、人物よりも
目を引く帯などなかった。
(231ページ) この時代に、フィレンツェの市街は「昔の城壁」と新しい城壁とに囲まれていたが、その「昔の城壁」のすぐ近くにベネディクト会の修道院があり、教会時間の三時(午前九時)と九時(午後三時)の鐘の間で、人々は労働をはじめ、終えた。皇帝が収める都市の中で、教会の指導により、人々は平和に暮らしていた。神聖ローマ帝国の版図にあったフィレンツェはこの時代(115年)に自治都市となったが、その時には、実際に、皇帝の封臣と、都市の商人たちは一体化していて、平和に暮らしていた。

それほど安らかな、それほど美しい
市民たちの生き方に、それほど信頼できる
市民社会に、それほど麗しい住まいに、

マリアは、高き叫びの祈りに応えて、わしをお置きになった。
そして古から続く君達の洗礼堂で
わしはキリスト者となり、同時にカッチャグイーダとなった。
(234ページ) ここでダンテの玄祖父がカッチャグイーダという名であったことがわかる。フィレンツェの名門エリゼイ家とつながりがあったことがこの後で語られている。

 カッチャグイーダは長じて神聖ローマ帝国皇帝コンラートⅢ世(1093/4-1152)に従い、武勲を挙げて騎士に叙任された。そして第二次十字軍(1147-48)に従軍する。聖地で命を失った彼は殉教者として直接に天国へ来たというのである。
 翻訳者である原さんが解説しているように、十字軍についてのダンテの説明は矛盾に満ちている。蛇足になるが、ブッシュ元大統領の「十字軍」の議論と企てもむしろキリスト教の真意を裏切るものではないかという気がしている。(「宗教改革」以前にカトリック教会が主唱して行った十字軍をプロテスタントを自認する大統領が肯定するのもおかしな話である。中東に住むキリスト教徒たちが、イラク戦争における最大の被害者に数えられるという事実だけでももっと多くの人々に知ってほしいものである。どうも話が横道にそれた。) 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(15-1)

3月16日(木)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に達する。ダンテとベアトリーチェを迎えて、火星は普段よりもさらに赤く輝いていた。ダンテが全身全霊を込めて自身の感謝の想いを神にささげると、赤い無数の星が、神を表す円と、キリストの受難を表す十字架を形作ってその中を動き回り、その十字架の上に磔刑のキリストの姿が輝くのが見えた。そして美しい響きで地獄と悪に勝利するキリスト、つまり復活のキリストをたたえる歌が聞こえてきて、その中に「復活」による「勝利」をキリストに祈願する言葉が聞こえてきた。

 火星天に到着したダンテは、これまでしてきたように、火星天で彼を迎えている魂に話しかけようとする。すると、歌がやむ。
晴れ渡って澄んだ静かな夜空に、
たまさか、突然の火が走ると
悠然と眺めていた目を引き、

移動した星のように見える。
ただその火が燃えだしたところでは
星は一つも欠けず、一方で火はすぐに燃え尽きる、

あたかもそれと同じ様子で
その天空に輝く星座の中から星が一つ
右に延びる翼からあの十字架の足の先まで走った。
(223-224ページ) 「突然の火が走ると」というのは流星を表している。十字架の上を流星のように走ってダンテのほうに近づいてくる魂があった。

 ダンテは、地獄と煉獄を経て地上楽園まで彼を案内したローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』の中の、アエネーアースが死んだ父アンキーセスと出会う場面を思い出す。
愛情にあふれたアンキーセスの影はこのように現れたのだ、
私達の最も偉大な詩神が信頼に値するならば、
エリジウムにあって息子に気づいた時に。
(224ページ) エリジウムはギリシア神話ではエーリュシオンと呼ばれている、英雄や善人が死後に赴くという冥界の中の楽土である。「偉大な詩神」はもちろん、ウェルギリウスのことである。『アエネーイス』によると、エーリュシオンはただ単に死後の世界であるだけでなく、未来の人間たちの霊を送り出す場所でもある。トロイア滅亡後東地中海世界の各地を流浪したアエネーアースは叙事詩の第6歌で、イタリア半島のクーマエに上陸し、この地に住む巫女のシビュラの指示に従い、将来の運命を知るために、冥界へと旅立つ。アエネーアースの父、アンキーセスは自分の子孫たちの運命を知り、アエネーアースが生きてこの冥界を訪問するのを待ち構えている。「さて、父アンキーセスは、緑なす峡谷の奥に/閉じ込められたのちに地上の光のもとへ旅立つ定めの霊たちを/一人一人入念に確認していたが、このときは身内の者たちが/すべてそろっているか点呼して、大切な子孫たち、/勇士たちの運命と運勢、品性と手腕を見ていた。/そこへ、草を分けてこちらに向かってくる人影を見た。/アエネーアスだった。気の逸るまま両手を差し伸ばした。/その頬には涙が溢れ出し、こぼれ落ちるように言葉が出た。」(ウェルギリウス『アエネーイス』、岡道男・高橋宏幸訳、京都大学学術出版会、西洋古典叢書、282ページ) 翻訳者である原さんは傍注で「ここで死後の楽園エリジウムにいるアンキーセスとアエネーアースは、ダンテの先祖とダンテの関係の予型になっている」と記している。

 近づいてきた魂はダンテに向かって言う:
「おお、我が血族よ。おお、惜しみなく
降りそそぐ神の恩寵よ。おまえに対してと同様に
空の門が二度開かれたのは、いったい誰のためであったろうか」。
(224ページ) この3行の原文はラテン語だそうである。ダンテ以前に「空の門が二度開かれた」のはパオロに対してであると傍注に記されている。
 ダンテの先祖の魂の言葉が始まると、ベアトリーチェの目がダンテに向かって輝く。そして魂の言葉に応じて、ダンテは自分の先祖らしい魂に対して、その名を尋ねようとする。

 さて、ダンテの先祖の魂はどのように答えるのであろうか。
 今回は、ダンテが自分の叙事詩の模範を重ね合わせようとしている『アエネーイス』の該当する部分にも注意しながら、読み進むこととなった。両者を読み比べてみると、『神曲』の方が整然としているが、キリスト教的な要素が強すぎて、あまりにも観念的だという印象を受ける。『アエネーイス』の方が人間的な要素が強く、現実的でもあり、共感できる部分が多い。文学や芸術は、後世の作品の方が優れているとは必ずしも言えない、人類の文明の発展を超越したところがあるのではないかと考えさせられるのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(14⁻2)

3月9日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて天界へと旅立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天で彼を迎えに来た魂たちと対話を交わし、知恵を深めていく。太陽天では様々な対話の後に、ベアトリーチェが最後の審判の後に死後の魂はどうなるのかという問いに答えてほしいと神学者たちに要請し、ソロモン王の魂が最後の審判の後には魂と肉体とが融合して、人間はより完全になり、神が与える「恩寵」も増すので、輝きも増すと答える。

 この後で、復活した肉体を取り戻し、完全になることを待ち望む太陽天の魂たちは喜んで第三の輪を作り、ダンテたちを祝福した。その輝きにダンテは圧倒されるが、
しかしベアトリーチェが微笑みながらあまりにも美しく
私の前に現れた。その愛は、記憶が追いつけなかった
あの数々の光景の中に置かれることになる。

その姿からわが目は再び上を向く力を
とりもどした。そして私は、自分がわが貴婦人だけをともなって
さらに高い幸いへと運ばれたことが分かった。
(215-216ページ) こうしてダンテとベアトリーチェは次の天空へと運ばれていった。

私は自分がさらに昇っていたことにはっきりと気づいたのだ、
その星の燃えるような微笑のために。
それは普段よりも赤々としているように感じられた。
(216ページ) 彼らが次に訪れるのは火星天である。ダンテとベアトリーチェの訪問を喜び、火星は普段よりも赤く変じているのである。

 ダンテは全身全霊を込めて自身の感謝の想いを神にささげ、それにこたえて赤い無数の星が神を表す円と、キリストの受難を表す十字架を形作ってその中を動き回り、その十字架の上に磔刑のキリストの姿が輝くのを見た。
ここでは我が記憶は我が詩才を凌駕している。
というのも、キリストがあの十字架の上で稲妻のように光を放っていらしたのに、
(218ページ)

 そして美しい響きで地獄と悪に勝利するキリスト、つまり復活のキリストをたたえる歌が聞こえてきた。
その場所で私の前に現れた光の群れにより
十字架の上に一つの旋律が満たされ、
歌を聴き分けられない私の心をも奪った。
(219ページ) 聴き分けられないと言いながら、彼はいくつかの言葉を聴きとる。
それは気高い賞賛の歌であるとはっきり分かった。
なぜなら、訳が分からぬまま聴きとろうとしている者のようではあっても、
「復活を」「勝利を」と私に聞こえてきたからだ。

私は魅せられて愛に酔ってしまったかのようになっていた。
このような甘美な絆で私をとらえたようなものは
その時まで一切なかった。
(220ページ) 太陽天では、三位一体により創造された人類が、牢獄としての肉体の状態ではなく、完全なる肉体を手に入れて完成することが述べられていたが、そのような完成体への道を開いたのが、キリストの殉教であったことが語られている。

 火星天に達したダンテは、そこで彼を出迎える魂たちとどのような対話を交わすことになるのか。それはまた次回に。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(14-1)

3月2日(木)雨

 ベアトリーチェに導かれて、天空の世界へと旅立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>に溺れた人々の魂と出会い、太陽天では神学者・哲学者だった人々の魂に迎えられた。ここではフランシスコ会とドメニコ会という2つの修道会が、教会を支えるべき存在であること、にもかかわらず、世俗の事柄にかかわって堕落している現状が嘆かれる。トマス・アクィナスの魂は、ソロモンについて「王者としての思慮深さ」では比類のない人物だと述べて、政治と神学は別の根拠を持つことを示唆する。

 神学者・哲学者たちは神を地上で見ようとした人々であり、ダンテを連れてやってきたベアトリーチェは神学の象徴であったから、彼女を「取り囲み、恋い焦がれて見とれ」(第10歌、158ページ)ていた。彼女とダンテを囲む輪の中にいたトマスが、その話を終えると、ベアトリーチェが口を開く。
「この者には必要なことがあり、それをまだあなた方に話してはいない。
声にもできず、いまだ考えてさえいないのですが、
つまりもう一つの真理の根源を訪れる必要があるのです。
(208-209ページ) それは死後の魂が最後の審判の後にどうなるかという疑問であり、それにこたえてやってほしいというのである。

まるで、時に輪舞の中の人々が
さらなる喜びに押されてそれに引かれて抗えず、
歌声をさらに張り上げて踊りを楽しむ、

それと同じように、間髪を入れぬ敬虔な祈りを受け、
聖なる二つの輪は、円舞と驚くべき歌に
新たな喜びを見せたのだった。
(210ページ) 神学者・哲学者たちの魂は二つの輪を作っていたのだが、ベアトリーチェのこの要請に喜んで答えようとする。

 そして、彼らの中から声が聞こえる。『神曲』の様々な注釈者たちは、この声がソロモンのものであるとしている。
・・・「天国の祝祭が
永続するほど、我らの愛も
それだけ永く我らを包むこの衣を輝かせる。

その輝きは炎の、
炎は視覚の表れである。そして視覚は、
魂の力に加えてさらに与えられる恩寵の分だけ鋭い。
(211-212ページ) 「炎」は神への愛の炎。「視覚」は神を見る精神の眼の力」、「恩寵」は神の恩寵。人間は、いかなる功績により力を増したとしても、独力では神を見ることができず、それに加わる「恩寵」により神を見るというのである。

栄光に満ちた聖なる肉体を
再びまとった時、我らの人格は
完全になるがゆえにいっそう喜ばれる。
(212ページ) 「栄光に満ちた聖なる肉体」は最後の審判の後に復活した肉体。肉体を再び獲得した死後の魂は、肉体と魂を持つ「完全」な「人格」となり、より神に喜ばれる。
 人間がより完全になれば、神の与える「恩寵」も増すので、その結果「輝き」も増す。一方、完全体になった肉体は、魂を閉じ込めていた生前の肉体と異なり、魂から発する光により輝き、そのために取り巻く光にかすむことはない。またそれら肉体はその光にも耐えられるので視力が失われることもない。

 高校時代に少しだけカトリックの教義についての教育を受けたことがあるので、このあたりの議論はなじみのないものではないが、肉体は滅びても、魂は滅びないというのではなくて、最後の審判の時に、肉体もまた復活するという考えに、肉体への強いこだわりを感じてしまう。そのようなこだわりが、どのような時代性、あるいは風土と結びつくのかということも考えてみたいと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(13-2)

2月23日(木)午前中は雨、午後になって雨は上がり、日が差し始めた

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界へと旅立ったダンテは、月天(誓願を果たさなかった人々)、水星天(地上での栄光を追い求めた人々)、金星天(人と人とを結びつける愛)を経て、太陽天に到着し、神学者・哲学者たちの魂に迎えられる。ドメニコ会士であったトマス・アクィナスがアッシジの聖フランシスコ、フランシスコ会の総長であったボナヴェントゥーラが聖ドメニコの生涯を語り、ドメニコ会とフランシスコ会が創設されたのが神慮であり、この2つの修道会は教会を支える存在であることを解き、にもかかわらず現状は堕落していることを嘆く。
 神学者・哲学者の光の輪の中にいるソロモン王について、アクィナスは彼に匹敵する洞察力を持つ人間はいないと語ったが、ダンテは神によって土から創造されたアダムと処女懐胎をしたマリアから生まれたキリストこそが最も賢い人物であったのではないかという疑問を抱く。

 トマスはダンテの考えを一応肯定する。
かつて土はそのように
あらゆる生き物の中で完成にふさわしく整えられ、
聖処女はそのように懐妊される運びとなった。
(202ページ) トマスは、この個所の直前で聖霊が、最適な状態を選んで父から発する「烈々たる光」子(イデア)を質料に型押しすると「非の打ちどころのない完成」が得られると述べている。それに当てはまるのがアダムとキリストの場合であるというのである。

それゆえ私は君の意見が正しいと賞賛しよう。
すなわち人類は過去にも未来にも決して、
それら二人の人物がそうであったようには存在しえない。
(同上) では、なぜ、ソロモンについて、彼に匹敵する人物はいないとトマスは言ったのか。

しかし、今は見えていないものをはっきりとさせるためには、
それがどのような人物であったか、そして求めるよう『願うがよい』
と命じられた時、彼を動かした理由を考えなさい。
(同上) トマスはダンテの関心を旧約『列王記』3-5以下の記述に向けさせる。王位に就いたソロモンはギブオンというところで神に捧げものをすると、その夜の夢に神が現われて「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(列王記3-5)という。するとソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください」(『列王記』3-9)と答える。神はこの答えを喜んで「知恵に満ちた賢明な心」(5-11)を与え、「あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」(同上)と付け加える。そしてさらに、富と栄光も与え「生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない」(5-12)といい、もし、彼が父ダビデのように神の掟と戒めを守り、正しい道を歩むならば、長寿も与えるだろうという。

私の話し方は、彼が王であり、
賢王になるために知恵を求めたことが
君にわからぬようなものではなかった。
(202-203ページ) それゆえソロモン王の知恵とは神学的な知や、論理学的な知や、自然学的な知や、数学的な知ではなく、「王者(として)の思慮深さ)」(204ページ)である。この区別立てをすれば、ダンテの考えていることと、トマスの言ったことが両立する、精神世界を指導すべきキリストの知、つまり教会が指導すべき分野とソロモンが神から授かった政治的指導者たる徳を持つべき王、つまり皇帝の知が指導すべき世俗・政治の分野とは両立するのだという。原さんの解説によると、ダンテは別の著作『帝政論』で、「帝国の権威は教会に拠らず、神に直接拠る」(566ページ)と主張しているそうである。

 そしてそのような区別を知らない、つまり方法を知らずして神の真理に近づこうとする人々の企てを非難する。
方法を知らぬのに真理を釣ろうとするものは、
無駄となる以上に、岸から離れてしまう、
出発した時のままで戻ってくる事は無いからだ。
(205ページ) さらには次のような表現も用いられている
・・・見たことがあるからだ、
船が全航路にわたってまっすぐ快調に進み、
終点の入口で沈むのを。
(206-7ページ) 

 ダンテはこの第13歌で、政治的知は神学に基礎を持つ必要はないとした。別の言い方をすると、政治学と神学はそれぞれ独立した学問分野であると主張しているようである。ダンテは神のことばかり考えているような人であったと理解されやすいし、確かにそういう面もあるが、その一方で、世俗的な問題に関心を寄せ、それらの問題は神学とは別の学問によって取り組まれるべきであると考えていたのである。『神曲』は人間の死後の世界を描く叙事詩のように見えて、実は現実の社会の改革を目指す呼びかけという側面も持っていることがわかる。
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