ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(21-2)

6月15日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて煉獄山の頂上にある地上楽園から天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を経て、土星天に達した。そこで彼は頂点が見えないほど高い一本の階段を見た。階段を伝って無数の魂たちが土星天に降りてきたが、その中のひとつの魂がダンテの傍に来てひときわ激しく輝いた。ダンテはベアトリーチェの許しを得て、この魂に質問する。彼はなぜ、ダンテのもとにやってきたのか。他の天では聞こえていた魂たちの合唱が土星天では聞こえないのはなぜか。魂は答える。肉体の聴覚をもっているダンテには、神に近いこの圏の魂たちの声は強すぎて耐えられないからである。この魂がダンテのもとにやってきたのは神の定めによるものである。そこでダンテは、さらに、その魂が神に選ばれた理由を質問した。

 その魂はまず、天上の世界にいる自分たちと神との関係からダンテに対する答えを説きはじめた。彼らは神から直接、神的な知と力である光を照射され、そのために彼らには、彼ら自身の力にさらに神の力が加わり、その高まったに認識力を意味する「視力」で神を見ている。
その御力が我が視力に加わり、
我を我以上に高めているため、
その流出の源である至高の本質を見ている。

そこから歓喜が来るがゆえに我は燃え上がっている。
というのも我は、我が視力に対し、それが明瞭なだけ、
己の炎の輝きを等しくしているからだ。
(322ページ) そして神を見ていることにより、神の視界ともいえる神の認識に触れることで彼らの喜びは増し、その喜びを示す彼らを包む輝きも強まる。そのため、彼らの輝きが強ければ、それだけ彼らの認識力も強い。

 しかし、その彼らの中で最も輝く魂(聖母マリアの魂)も、最上位の天使達である燭天使(セラフィム)達の中でももっとも認識力の強い天使も、神が彼を選んだ理由は理解できないと付け加えた。
なぜなら、おまえのたずねていることは、
永遠の掟の深淵に入り込み、
どのような被造物の視線からも隔てられているからだ。

ゆえに、必滅の者達の世界におまえが戻る時には、
そう述べ伝えよ。これほどの目標に向かって
足を進ませようなどとこれ以上思い上がらぬために。

人の知性は、ここでは輝き、地上ではくすむ。
それゆえ考えても見よ、天空に受け入れられたものでさえできぬことを
下界でどうしてできようか」。
(322-323ページ) 人間の知性は、天空では神の光、すなわち真理を受けて叡智となって輝く。そのような天空の魂たちが理解できないことが、地上の人間に理解できるわけがないという。

その言葉が私に限界を明らかにしたため、
私はその質問を離れ、引き下がり、
へりくだってその光にどなたか尋ねた。
(324ページ) すると魂は、
「イタリアの両岸に挟まれて峩々たる山々が立ち上がっている。
それはお前の祖国からそう遠くないところにあり、
雷(いかずち)さえはるか下で轟くほど高く聳え、

カトリアと呼ばれる山塊をなしている。
・・・」(324ページ)と、その履歴を語りはじめる。香取アさんはダンテの故郷であるフィレンツェから約120キロのところにある山で、標高1700メートル、その麓にベネディクト会系のカマルドーリ修道会に属する聖(サンタ)クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院があり、彼はそこで修道士となったという。そして簡素な食事だけで神を思惟する観想の生活を送った。彼の名はペトルス・ダミアーヌスであり、後年、ラヴェンナの別の修道院に引きこもった時にはペトルス・ペッカトール、つまり罪人ペトルスと名乗ったと答えた。

 ペトルス・ダミアーヌス(1007-1072)はラヴェンナの人で、若いころに法学等を学び、法律家として成功、財をなした後に世を捨て、30歳で聖クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院の修道士となり、1043年にカマルドーリ修道会総長、1057年枢機卿に就任し、世俗化する教会に批判的な立場から教会改革に参加し、使徒的教会への回帰を訴えた。しかし修道院への復帰を強く願い出て認められた後、ラヴェンナではなく、以前にいた聖クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院に隠棲した。ダンテが言及している、ラヴェンナの修道院とは、聖マリア・イン・ポルト教会のことであるとされる。この修道院はダミアーヌスとは別のぺトルス・ペッカトールと呼ばれる人物が設立したが、ダンテの時代には両者が混同され、彼がラヴェンナで『天国篇』を執筆していた時に、ペトルス・ダミアーヌスは世俗化する高位聖職者達に憤慨してこの修道院に隠棲したとする説が広がっていたと推測される。
 ラヴェンナはイタリア北東部のエミリア・ロマーニャ州にあり、西ローマ帝国の最後の首都であったこと、ダンテがその晩年を過ごしたことで知られる都市である。したがって、この都市の出身で教会の世俗化に対する批判を展開したペトルス・ダミアーヌスがここで登場するのは意味のあることである。

 天国のペトルス・ダミアーヌスは、自身の希望に反して枢機卿位につかされたと述べた後、その枢機卿位は悪人からさらに邪悪な人物へと引き継がれ続けていると語った。そして原始教会で活躍した使徒たちの清貧の上に教会が建てられたこと、原始教会が霊的な指導力を発揮したことを述べた。それに比べてダンテの時代の高位聖職者たちは、贅沢な生活のために自分では馬に乗れぬほど太り、またその権勢で周囲に人を侍らせてかしずかせ、「獣」、つまり悪魔と化してしまったと続けた。
だが今や、現代の牧者たちには、両側から支える従者、
彼らを乗せて運ぶ従者、彼らを後ろから押し上げる従者が
必要なのだ。それほどまでに重々しいのだ。

あの輩(やから)は大外套で乗馬を覆うため、
一つの皮をかぶった二頭の獣が進んで行くことになる。
これを看過されるとは、なんという忍耐であらせられるのか」。
(326ページ) 「重々しい」には、高位聖職者たちが贅沢で太っていることと、また彼らの尊大な態度の2つの意味が込められている。「二頭の獣」は馬と高位聖職者を表す。「獣」は「黙示録」などでは悪魔を意味している。ペトルす・ダミアーヌスは高位聖職者たちの神への冒涜のような行為に対する罰を神に願っている。

この声とともに、さらに多くの炎が
段から段へと降りてきて自転するのを私は見た。
そして回転するたびにそれらはより美しくなっていった。

それらはこの炎の周囲に来て留まると、
ここ地上では似ているようなものがないほどの
高い音で声を上げた。

私はそれを理解できなかった。その雷鳴はそれほどまでに私を圧倒した。
(326-327ページ) 高位聖職者たちの贅沢な生活を批判するペトルス・ダミアーヌスの声を支持するかのように多くの炎がその周りに集まる。神に近づいた土星天で発せられる声は、ダンテの認識を越えたものである。こうして第21歌は終わる。またペトルス・ダミアーヌスの世俗支配を皇帝権に任せ、教会は使徒的生活の上に精神の指導者であるべきだと主張していたが、これはダンテの政治思想に影響を与えたと言われる。ダンテが地上の人間に神意の理解はできないと執拗にいい続けているのは、当時の教皇や高位聖職者たちが神の名を借りて自らの勢力拡大の意志を正当化してきたからであったと翻訳者の原さんは解説している。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(21-1)

6月8日(木)曇り、一時雨、昼頃から晴れ間が広がる

 神学の象徴であるベアトリーチェの導きによって、地上から天上の世界へと旅立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を歴訪し、彼らを迎えた魂たちと地上の世界における正義と平和の実現、宇宙と神をめぐって話し合った。そして、彼らは土星天に達した。〔ダンテが依拠したプトレマイオスの宇宙論では土星が地球の周囲をめぐる最遠の惑星であった。〕

すでに私は我が貴婦人の顔に
再びじっと目を留めていた。そして心もそれに従い、
その他のあらゆる関心から離れていた。
(314ページ) 地球から遠ざかり、本来の天国である至高天に近づけば近づくほど、ベアトリーチェはダンテの目に美しく見えた。しかし、彼女は、土星に到着しても、これまでのように微笑はしなかった。それは神の光を受ける彼女の輝きがさらに激しくなって、もはやダンテの肉体の目が純粋に神的なその微笑に耐えられないからであった。これは、人間には神の姿は不可知であり、それを見ることができるなどと思い上がってはならないことを表現していると考えられる。

 ダンテはベアトリーチェの先導に従って天上の世界を旅行していることを喜び、土星の世界を眺める:
その中に、光線が反射して黄金に輝いている、
私の光る目では追いきれないほど高く高く
上に伸びる一本の階段を見た。

そしてまた、その階段を無数の輝きが降りてくるのも
見た。そのため、空に現れているあらゆる星は
そこから撒き散らされているのかと私は思った。
(316-317ページ) ダンテの目に、階段の頂が見えないことは、その階段を上っていくダンテが<私>という個人であることを辞め、永遠の中で神と合一することを暗示していると解説されている。「また観想を意味する天国への階段に、イスラーム文化圏から当時の西欧に伝わり、ダンテも参照した可能性が指摘されている『階段の書』の影響を指摘する意見もある」(603ページ)と翻訳者である原さんは解説で述べている。
 その階段を伝って土星天に降りてくる無数の魂たちの輝きをダンテは見た。それはある段にぶつかると、はじけて様々な動きを見せた。これは、神を観想しようとしている魂が、肉体的・物質的な世界を離れ、鳥のように軽くなって瞬時に様々な場所に想念を飛ばせるようになることを意味しているとされる。

 そして一つの魂の輝きがダンテたちの傍に来てひときわ激しく輝いたので、ダンテの心にこの魂に質問したいという気持ちが生まれる。彼がベアトリーチェの許しを得て質問したのは、この魂がなぜ来たのかということと、それまでの諸天空で聞かれた魂たちの合唱が、なぜここでは響いていないのかということであった。
「おまえの必滅の者ゆえの聴覚はその視覚と同じ。
――私に答えた――ゆえにここではだれも歌わぬ、
ベアトリーチェが微笑まなかったのと同じ理由で。
(320ページ) 魂は、ダンテの2番目の問いの方から答える。神に近いこの圏の魂の声は強すぎて肉体の聴覚をもっているダンテには耐えられないものだからだという。ベアトリーチェの微笑がダンテの視覚には耐えられないものになっているのと同じだというのである。次回に取り上げることになるが、この21歌の最後で魂たちは歌い、その歌声にダンテは圧倒されてしまう。今道友信(2004)『ダンテ『神曲』講義 改訂普及版』(みすず書房)では「ここで、音が聞こえなくなるとか、見えなくなるということは、ある意味で、さらに高次のものが理解されるときの臨時のくらやみの状況だと考えなければいけない」(今道、497ページ)と論じている〔「ある意味で」という語句は余計ではないかと思うのだが…〕。原さんによると、またこの沈黙は瞑想の沈黙を意味しているという。つまり土星天には、沈黙しながら神を観想し、神からの像や声を聞こうとした魂たちがいるのであると述べている。これも次回に明らかにすることであるが、ダンテに語り掛けてきた魂が何者であるのかということとも関連する。

我がこの低きまで聖なる階段を
下りてきたのは、ただ言葉と我を包む光によって
おまえを祝福するためである。

より大きな愛ゆえに我が先んじて来た訳ではない。
というのもここより上では我より大きな、また同等な愛が燃えているがゆえ、
炎がおまえに明らかにしているように。

しかし高き慈愛が、我らを、
世界を統べる決定の忠実なる従者となし、
おまえが見分けているようにここでの任を与えている」。
(320ページ) 最初の質問に対する答えは、神の定めに従ってここに来たのであって、ダンテとそれ以外のつながりはないというものである。そこでさらにダンテは質問を試みるが、それはまた次回ということにしよう。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(20-2)

6月1日(木)晴れ、気温上昇

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天空の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天をめぐり、それぞれの天で彼らを出迎えた魂たちと神の恵みや地上における正義の実現をめぐって議論を交わし、これまで抱いていた疑問を解いていく。続いて訪れた木星天においては、地上において正義の統治をおこなった帝王たちの魂が集まって鷲の形を作って彼らを迎えた。目の中心にいたのはダヴィデ王であり、目の上の眉を作っているのはローマのトラヤヌス帝、ユダヤの王ヒゼキヤ、ローマのキリスト教化を行ったコンスタンティヌス帝、名君として知られるシチリア王グリエルモⅡ世、トロイア人リーペウスの5人である。異教徒であるはずのトラヤヌス帝とリーペウスがこの中に入っていることをダンテは不思議に思う。

 ダンテはこの疑問を思わず口にしてしまう。すると、鷲の姿をした魂たちは
天の王国は熱い愛と生ける希望からの
強い力を受け入れる。
それらは神の意志に勝つのだ。

それは人が人に優越する仕方ではない。
神の意志が負けるのは、その意志が任されることを欲するからである。
そして打破されることにより、その慈悲をもって勝利する。
(306-307ページ)と、神はその無限の慈悲により、人の愛ゆえの希望を受け入れ、自ら望んでその希望をかなえると語った。

眉をなす最初の魂と第五の魂が
おまえを驚かせている。というのもおまえは
天使のいる領域に彼らが描かれているのを見ているからだ。
(307ページ) ダンテを驚かせている2人の魂であるが、トラヤヌス帝は「息子を失った哀れな寡婦」のために息子の敵をとり、それを知った教皇グレゴリウス1世の「生ける希望」を聞き入れ、トラヤヌス帝を復活させると、帝は救世主が人類の罪を贖ったことを信じ、信仰ゆえに神への愛の火が燃え上がって天国に来たと述べた。(すでに何度かこの話は出てきたが、中世にはそういう伝説があったのである。)

 もう一人のリーペウスについては、
下界にあって彼の愛のすべてを正義に向けた。
そのために神は、恩寵に恩寵を加え、彼の目を
未来における我ら人類の救済に対して開かせた。

それゆえ彼はこの救済を信じ、それ以来
異教信仰の悪臭をもはや受けつけず、
道を踏み外した人々を非難し続けた。

おまえが以前に右の車輪のかたわらに見た
あの3人の貴婦人達が、
洗礼の儀式に千年以上先だってその洗礼を司った。
(309-310ページ) 3人の貴婦人たちは、ダンテが煉獄山頂の地上楽園で目にした慈愛・希望・信仰の対神徳を示す3人である(『煉獄篇』第29歌121-126行、437-438ページ)。この3つの対神徳は、トラヤヌス帝の場合にも大きな役割を果たした。洗礼の儀式を始めたのは、『新約』に出てくる聖ヨハネであるから、トロイア戦争が紀元前1000年ごろと考えると、「千年以上先だって」というのはつじつまが合っている。リーペウスの事例は、ウェルギリウスの『アエネーイス』からダンテが創作したのであろう。(ウェルギリウスに地上楽園まで自分を案内させておいて、あとはリンボに戻してしまうというダンテの身勝手さにも腹が立つのだが…)

 そして鷲は言う。
おお、救済の予定(さだめ)よ。
第一原因の全貌を見ることのかなわぬ
あれらの視線から、あなたの根源はどれほど遠いことか。

そしておまえ達、、必滅の者達よ。人を裁くことにおいては
自らを厳しく律し続けよ。というのも余ら、神を見ている者達でさえ、
未だ救済に選ばれた皆を知っている訳ではないからだ。
(310ページ) 神の救済の予定は人間には理解できないという。

 翻訳者である原さんはこの第20歌の「解説」において「ダンテは第19歌、第20歌で、教皇や皇帝、各地の王が支配の正当性を神に求め、神の名を利用して、神の代理として戦争などの行為をすることを制限しようとしているように思える。そしてダンテは、井教の信者が神の「意志に調和する」(第19歌88行、290ページ)行いで、神慮によりキリスト教信者として天国に迎えられると述べることで、教皇が神の意志を代理し、救いを独占的に媒介するという思想を打破し、同時に神の意志、すなわち正義を人類にとって不可知にし、神意の恣意的利用に制限をかけたのである」(601-602ページ)と論じている。ここで、「神」とあるのを「歴史(的必然)」とか「民意」とかと置き換えると、マルクス主義や新保守主義がある特定の集団のイデオロギーとして採用されて、現実の世界に多くの害毒を流した(ている)事例が想起できるだろう。(特定の宗教や思想が悪いのではなくて、それが特定の集団のイデオロギーとして、他の人々を攻撃し抑圧する手段と化すのが悪いということである。) このように読んでいくと、ダンテの文学には彼の時代の条件に制約された部分と、そのような制約を超えて普遍的に説得力を持つ部分とがあることがわかる。それこそが彼の文学の魅力である。

 こうしてダンテは、ベアトリーチェに導かれながら、木星天を去り、土星天へと向かう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(20-1)

5月25日(木)曇り、一時雨

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天を次々に訪問し、そこで彼らを出迎えた天国の魂たちと会話をして、胸に抱いている様々な疑問への回答を得る。木星天では正義の統治をおこなった皇帝や王たちの魂が鷲の姿をとって彼らを迎えた。時代や場所の制約でキリスト教を知らなかったが、善良で悪を犯すことなく死んだ者の魂は、どうなるのかと質問すると、鷲は限られた人間の知恵で神の無限の意志は理解できないと言いながら、神の意志に合致するものだけが正しいという。そして神の正義を地上で実現するという使命を果たさず、悪政を行っている地上の王たちを非難する。

全宇宙を光で照らす天体が
私達の半球で沈んでいき、
昼間の光があらゆる場所で消えていく頃、

空は先ほどまでその天体によってだけ輝いていたが、
一つの光源を反射している
数多の光によってすぐにまた姿を現す。
(298ページ) ダンテの『神曲』の世界のもとになっているプトレマイオスの宇宙金は、すべての補遺は太陽の光を反射して輝いているとされた。太陽が沈んだ後、惑星や恒星が太陽の光を反射して、ダンテたちを照らした。恒星は自分で光っており、太陽はそのような恒星の1つにすぎず、太陽よりもはるかに明るい恒星が宇宙には数多く存在すると天文学者たちが明らかにするのは、もっと後のことである。最近出版されたガリレイの『星界の報告』(講談社学術文庫)は1610年に彼が望遠鏡を作成して行った天体観測の結果をまとめたものであるが、そこでは惑星が望遠鏡で見ると拡大されて円形に見えるのに対し、恒星はそのような明確な形を示すことはないと語られている。

地上世界とその統治者たちの形象が
祝福された嘴を沈黙させた時、
この空の変化が私の記憶のうちに浮かんだ。
(同上) 鷲はローマ皇帝権を表し、それは神が人類に与えたあるべき統治権力であることがこれまでも繰り返されてきた。

 鷲が沈黙すると、木星天の魂たちの歌う歌が聞こえる。そして、再び、鷲が声を発して、ダンテに語り掛ける。鷲は、鷲の目の部分を見るように言う。地上の鷲が太陽を直視できるといわれるように、天国の鷲も正義の源泉である神を直接見ている。そして神を見ているために目の部分はもっとも高貴な存在であった。鷲の姿を作っている王たちの魂の中で、目を輝かせている者達は、最高の地位を占めているという。
瞳の中心で輝いている者は
聖霊を歌った詩人であった。
彼は都市から都市へ聖櫃を引いていった。
(301ページ) 鷲の目の中心にいる魂は古代イスラエルの王ダヴィデであった。彼は旧約聖書の「詩編」の作者とされる。「詩編」は神がダヴィデの口からその言葉を発したものだと考えられており、ダヴィデの功績は、自由意志で神の意志に沿ったことにある。

 この後では、その目の上の眉を作っている5人の帝王の魂が紹介されていく。
余の眉の曲線を作る5人のうち、
余の嘴に最も近いものは、
息子を失った哀れな寡婦を慰めた。

今や彼は知る、この甘美な生とその逆を経験したために、
キリストに続かぬことが
どれだけ高い代償を払うか。
(302ページ) ローマの五賢帝の1人に数えられるトラヤヌスは『煉獄篇』第10歌にも紹介されているように、「息子を失った哀れな寡婦」のために、息子の仇を討った。中世にはそれに感動した教皇グレゴリウスⅠ世が神に祈って彼の魂を地獄のリンボから一時地上に呼び返し、洗礼を行ってキリスト者にしてから天国に送ったという伝説があった。歴史上の現実のトラヤヌスはキリスト教信者を迫害していたのである。ここでダンテはこの皇帝が地獄(といってもリンボであるが)と天国とを経験したことで、キリスト教信者であることの意義を確認しているという。

 その隣にいるのはユダヤの王ヒゼキヤである。北のイスラエルと南のユダヤに国が分裂し、東のアッシリア、西のエジプトの2大強国に挟まれて、苦しい立場にあったが、『旧約』の『列王記』には「父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行」(下18-3)ったと記されている。預言者イザヤの助けもあり、アッシリアの大軍の攻撃を受けたが、その大軍が一夜で壊滅したことで危機を脱した。ところが、そのころ、彼は病気になり、自分の行いを改悛して神に祈ったために命を15年間延ばしてもらったという。『列王記』と『イザヤ書』に見られる説話であるが、後者の方が詳しい。
今や彼は知る、永遠の裁きが
不変であることを、下界で価値ある祈りが
今日を明日に延ばそうとも。
(302-303ページ) ヒゼキヤの跡を継いだ子どものマナセは悪い王様だったと記されているので、彼が長生きしたことは、すべてではないにしても、ユダヤの多くの人々にとってはいいことであったのではないかと思われ、その点では永遠の裁きにかかわるダンテのこの言葉に疑問が残る。

 次に紹介されるのはキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝(272-337)で、そのことよりも帝国の都をローマからコンスタンティノープル(イスタンブール)に移したことが問題にされる。ダンテは、皇帝が東に移動し、教皇が西ローマの統治権を引き継いだと主張していることを批判する。
 その次は善政により善良王とあだ名されたシチリア王グリエルモⅡ世(1153-89)である。
今や彼は知る、天空がどれほど
正しい王を愛しているかを。そしてそのことを
彼の輝きの強さに見せ続けている。
(304ページ)

 5人目の王はトロイア人のリーペウスである。彼はウェルギリウスの『アエネーイス』にわずか3行だけしか登場しない、リーペウスである。彼はトロイア落城の際にアエネーアースと行動をともにするが落命した。「(彼は)並ぶものなき正義の士で/テウクリア人の間で誰にもまして公正を守ったのに/神々にはそう見えなかったのだ」(アエネ2.426-428)。
今や彼は知る、神の恩寵について
地上の人々が理解しえない多くを。
その視線はそこまで見通していないのだとしても」。
(同上) トラヤヌスとリーピウスは異教徒であり、鷲の目と眉を構成する魂たちの中に異教徒が混じっていることにダンテは驚く。彼は問題にしていない様子であるが、うるさいことを言えば、ダヴィデとヒゼキアは聖書に登場するとは言うものの、キリスト教以前のイスラエル(ユダヤ)の王である。別の解釈をすれば、ここでダンテは宗教を超えた人類の融和の可能性を垣間見せているとも考えられる。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(19-2)

5月18日(木)曇り、一時雷が鳴って雨が降り出したが、午後になると晴れ間が出てきたりして、変わりやすい天気であった。

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは地上から天空の世界へと旅立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天を経て、木星天に到着する。木星で2人を迎えた魂たちは、Diligite Iustitiam qui iudicati terram(正義を愛せ、地を統べる者達よ」という文字を綴った。その文字は次にMの字のままでしばらくとどまり、さらに鷲の形に変化した。太陽の光を受けて輝く宝石のような無数の星が集まってできている鷲の姿は、一人称複数ではなく、一人称単数で話した。
 翻訳者である原基晶さんの解説によると、太陽は神を象徴するので、これらの魂は神の恵みの光を直接見て、それを言葉にしてダンテに伝えていることが暗示されている。またさまざまな時代の様々な統治を担った魂たちが一人称単数で話すことは、結局、正義を実現するための統治は神の名のもとに一つであるというダンテの思想を示しているという。
 その神を見ている鷲に、ダンテは自分の疑問を解いてくれるよう頼んだ。それに対して、わしはすぐに回答せず、創造主と被造物との関係から、神と地上の事物や人間の能力との関係について語る。神は無限であるが被造物は有限であり、被造物の有限で不完全な理解力では、神意「永遠の正義」の完全な理解に達することはないという。

 その後、魂たちはダンテがこれまでの来世の旅を通して抱くようになった疑問に対する回答を語る。ダンテの疑問とは、キリスト教が普及していない時代や場帆に生まれた人物が、「善良で」罪を犯すkとなく生き、生まれた時代も場所も自分が選んだわけではないのに「洗礼を受けずに信仰なしに」死んだ場合、これを罰することが正義なのか、地獄に堕ちるとするならその罪は何なのかというものであった。魂たちは言う:
では、千里も離れた場所から
手のひらの幅ほどのわずかな視界で裁きをつけようと、
裁き手の座に座りたがるおまえとは、いったい何者だ。
(289ページ) 狭い限られた人生の経験で「千里も離れた場所」にある神意をすべて理解できるわけがない。とはいうもののその有限な理解力にふさわしく語られている聖書の導きに従って生きるべきである。
第一の意志はおのずから善であり、
至高善であるがゆえに、自らを離れたことはない。

その意志に調和する事物だけが正しい。
造られた善がその意志を引き寄せることは一切なく、
その意志こそが、光を放つことで作られた善の源となっている。
(290ページ) 「至高善」である神の「意志に調和する事物だけが正しい」というのである。さらに「永遠の審判は必滅のおまえたちには理解できぬ。」(291ページ)と神の意志の不可知性が繰り返される。

 鷲の形を保ったまま、魂たちは語った。
・・・「この王国に
キリストを信じなかったものが昇ってきたことはない。
その方が十字架へと磔にされる前であれ後であれ。
(292ページ)   しかし、キリスト教を信じていると言いながら、神の意志に反して地上の統治をおこなっている人々が少なくない。
その者どもは、裁きの時になると、キリストを知らない者より
その方からはるか遠く離れたところにいるであろう。

そしてかようなキリスト教信者どもをエチオピア人は非難することになる、
永遠に富み栄える人々と、貧窮する者ども、
二つの集いに分れる時に。
(292ページ) ここで「エチオピア人」というが、エチオピアは北アフリカを指し、エチオピア人は異教徒を代表してこのように表現しているという。実際にはエチオピアは独自のキリスト教を信じる人々が多い国なので、ダンテは(時代の制約とは言いながら)ここで無知をさらけ出していることになる。とにかくダンテは、彼の同時代の、神の意志に背き、キリストの名を権力の道具にした王たちを列挙して、糾弾している(中には、的外れの非難を受けた王様もいたようである)。こうして第19歌は終わるが、鷲の言葉はさらに続く。

キリスト教を信じるか信じないか(あるいはその中でどの宗派に属するか)の方が、善か悪かよりも重大な問題なのかというのは(カトリックの学校に通っていたので、当時は公教要理といった)キリスト教の教義にかかわる課外活動でいろいろと議論された問題である。聞くところでは、最近は自然法に従って悪いことをしなければ天国に行けるという考えが支配的になっているという。つまり善悪の問題の方がキリスト教を信じるか信じないかよりも重大だということになってきているそうである。しかし、そうなると、キリスト教を信じなくてもよいということになるのではないか。 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR