ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(13-1)

2月16日(木)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて天上界に旅立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>にこだわった人々の魂に迎えられた。さらに太陽天に達した彼は神学者・哲学者たちの魂に出会う。生前ドメニコ会士であったトマス・アクィナスの魂は、フランシスコ会の創始者である聖フランシスコの生涯と業績について、フランシスコ会の総長であったボナヴェントゥーラ・ダ・バニョレージョの魂は聖ドメニコの生涯と業績について語る。この2人の聖者は教会を支えるために、神慮によって下されたのであるが、両修道会ともに清貧の教えから外れ、世俗化し堕落していることを嘆く。

 それぞれが12の輝く魂からできている二つの輪が、宇宙の調和を表現しながらダンテたちの周囲を喜びながら踊った。それに続いて魂たちは三位一体とその実現でもあるキリストの神性と人性を祝福する歌を歌った。

歌と回転がその舞踏を終わりまで導くと、
それら聖なる光は私達に注意を傾け、
喜びにあふれたまま、それまでの想いから別の想いへと向かった。
(196ページ)
 その後で、トマス・アクィナスの魂が再び口を開き、
こう言った。「一本の穂が脱穀された今、
その種が集められた今、
優しき愛は私に別の穂を叩くよう求める。
(197ページ) 「穂」は疑問のこと、「叩く」はその疑問を明らかにすることで、話は少し元に戻るが、第10歌でトマスは
その中には高い知性がいる。その賢知の
深いこと、真理の書が真実ならば、
彼に匹敵する洞察力を備えた人物が立ったことはない。
(160ページ)とイスラエルの王であったソロモンについて述べた。この言葉をめぐる疑問である。

君は信じている、味見をしたせいで全世界に代償を払わせている
美しい頬を作り上げるために、
かの肋骨が抜きとられた胸のうちにも、
(197ページ) 「美しい頬」は知恵の木の実を味わったために、人類の原罪の元凶となったエヴァ(『新共同訳 聖書』ではエバ)、「かの肋骨が抜きとられた胸」はアダムの胸を指す。旧約「創世記」3‐21と22には、神がアダムの胸からあばら骨を抜き取ってエヴァを造ったことが記されている(なお、同じ「創世記」の1-27には「神はご自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」とある)。

槍に貫かれることで
それ以前とそれ以後の贖いをなし、
どのような罪と秤にかけてもそれに打ち勝つあの胸のうちにも、

人類が持つことを許される限りの
知性の光のすべてが、前者と後者を創造された
御力によって注がれたことを。
(198ページ) 十字架で槍に貫かれて人類の原罪を贖い、あらゆる罪からの救いを開いたキリストと、神によって直接作られたアダムが人類史上最高の知性を持つとダンテは信じてきた。

それゆえに君は、私が先ほど話したことに驚嘆している。
第五の光の中にいる善は
それに匹敵するものを持ったことはないと私が語った時のことだ。
(同上) トマスの魂が、ソロモン王に匹敵する知性の持ち主はいないと語ったことに、ダンテが驚き、真偽をただそうとしていることに気付いているのである。
さあ、私が君に答えることに目を開きたまえ。
さすれば、君の信じていることと私の言ったことが、
円とその中心の関係のごとく真理の中にあることを君は見るであろう。
(同上) ダンテの信じていることと、トマス・アクィナスの言葉は、円周上の2点が同一の中心点を持つように大いなる真理に対して、個別の真理としてどちらも正しいというのである。
 翻訳者である原さんは、アダムのあばらからその1本が抜かれ、その骨からつくられたエヴァの過ちにより人類が天国を追放され、今度はイエス・キリストがその胸に槍を受けたため、再び人類に天国が与えられた。イエス・キリストの胸に刺さる槍は、アダムから引き抜かれた骨を象徴していると、両者の関係に注目し、世界は調和・対称関係で作られているというダンテの思想をその中に見ている。(アダムとエヴァが追い出されたのは、地上楽園からであり、イエスによって天国の門が開かれたというのと、厳密には対応しないのではないかという気もする。)

 トマスは説明する:
不滅のものも必滅のものも、
我らの主が愛によって生み出した
イデアがきらめいた反射光以外の何物でもない。
(198-199ページ) 主<父>が、愛<精霊>を通じて、万物の原型であるイデア<子>により、万物を創造した。
 そして、宇宙を9層に形作る永遠なる天使たちは、神の叡知の光を反射して地上に伝えているが、その光は全体としては三位一体を維持している。
 地上の事物は、その天使たちが司る天空に応じた段階を経て伝えられる神の力によって形相を与えられるが、地上に届く力は減衰しているために、生物も非生物も含めて最後には滅ぶ偶有物(存在に必然的な理由がなく、必然の事物の「影響」で存在する、あるいは存在しなくてもよかったもの)と化す。そして、天空の状態は刻々と変化するので、地上の事物も多様性を持ち、同種の中でも出来、不出来が起こる。
このことから、種においては
同一の木が良い実や悪い実を結び、
君達が異なる性質を持って生まれてくるということが起きる。
(200ページ) ここでトマスが展開する説明は回りくどく、まだ、ダンテが心に抱いている疑問に対する最終的な回答はなされていないが、第13歌のだいたい半分のところまで来たので、今回はここまでとしておく。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(12-2)

2月9日(木)午前中から雨が降り始め、まだ降り続いている。

 1300年4月13日の正午に、ベアトリーチェに導かれて地上楽園から天空の世界へと飛び立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>に心を奪われていた人々の魂に迎えられる。さらに太陽天では神学者・哲学者の魂に出会う。生前ドメニコ会士であったトマス・アクィナスの霊がフランシスコ会の創始者であるアッシジの聖フランシスコの生涯と業績について語ったのに続き、フランシスコ会士だったらしい霊が聖ドメニコの生涯について語り始める。

その姿はキリストの使者であり従者でもあった。
なぜなら彼のうちに現れた最初の愛は、
キリストが与えた最初の教えに向いていたからだ。
(186-187ページ) 「最初の教え」は<清貧の徳>である。貴族出身であったドメニコは清貧と祈りに生き、立身出世のための法学ではなく、信仰のための神学を学んだ。

彼は短い間に偉大な神学者となり、
葡萄の農夫が邪悪であればすぐに白く枯れてしまう
葡萄園を見回りはじめた。
(188ページ) 「葡萄園」は教会、「葡萄の農夫」は教皇を指す。
 ダンテは、当時の教会が世俗的な問題に介入し、また貧者のための施しを横領したり、高位にある僧たちが特権と利益をむさぼったりしている状況を批判したが、それはそのような地位にある人々に問題があるのであって、地位や制度そのものの問題ではないとしている。ドメニコは、教会の腐敗や不正を糾弾し、1205年、「異端の過てる世界」を正す布教の許可を教皇インノケンティウスⅢ世に求めた。

彼はその後、教皇からの命を受け、
学識と決意をともにたずさえて
高山の泉から落ちる奔流のように走り、

その勢いで異端の藪の中へ
突撃していった、抵抗のより強い場所には
ひときわ激しく。

その流れからはその後、いくつもの流れの岸辺が生じて
それによりカトリックの農園は灌漑され、
その草木はさらに生きいきと茂る。
(189-190ページ) と、彼が異端の克服に活躍し、彼の修道会が教会を支える強力な存在となったことを語る。

 彼の前にダンテに聖フランシスコについて語ったトマスは当時のドメニコ会が当初の精神から逸脱して堕落の道をたどっていることを嘆いたのであるが、ドメニコについて語っている魂も、自分の属するフランシスコ会が清貧を守らず蓄財に励んでいることを非難した。当時フランシスコ会の内部では、会則を厳格に解釈する聖霊派と教会所有物の使用権を広く認める修道会派が対立していた。魂は聖霊派の指導者であったウベルティーノ・ダ・カサーレと修道会派の指導者であったマッテオ・アックワスパルタの両者の戦いを非難し、自身はフランシスコ会の総長であった枢機卿ボナヴェントゥーラであると名乗り、「大いなる職務にあっても/俗な関心は常に二の次にした」(192ページ)と自分自身の生前の態度についても触れる。なお、マッテオはボナヴェントゥーラの弟子という関係であり、解説によると教皇ボニファティウスⅧ世の右腕として政治的に活躍、ダンテがフィレンツェから追放される原因を作り出した人物でもある。ボナヴェントゥーラはこの両者の和解に努めた人物で、ダンテは彼の神学の影響もうけているとのことである。

 そしてボナヴェントゥーラは彼が属する光の輪の中の別の人物たちを紹介して口を閉ざす。ここで12歌が終わる。11歌とこの歌で教会を支える2つの修道会の創始者の生涯と業績が語られ、教会の改革を目指して創設された修道会が世俗化し、分裂している現状が嘆かれている。ダンテはなお太陽天にとどまり、さらなる知恵に触れることになる。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(12-1)

2月2日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上へと飛び立ったダンテは、月天で地上での<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>(それで神の栄光への思いがおろそかになった)、金星天で<人と人とを結びつける愛>に心を奪われ、神への愛を軽んじた人々の魂に迎えられた。そして太陽天に達して、神学者と哲学者の魂に出会う。彼を迎えたトマス・アクィナスの魂は、聖フランシスコの生涯と、彼とその修道会がドメニコ会とともに教会を支える存在であることを語る。

祝福された炎が最後の言葉を
話すやいなや、
聖なる石臼は回りはじめ、

その輪が一周し終わる前に
もう一つの輪がそれを取り囲み、
動きには動きを、歌には歌を美しく合わせた。
(180ページ) トマス・アクィナスら12人の神学者たちの霊がつくる輪は、水車小屋で水車によって回される石臼のように回転し、もう一つの輪が現われる。そうして奏でられる天上の音楽は、地上のいかなる音楽にも勝るものである。
・・・永遠の薔薇の
二つの花輪は私たちの周囲をめぐり、
外輪は内輪に唱和した。
(182ページ)

 そして、また新しい声が聞こえてきた。
・・・「私を美しくしている愛が
もう一人の司令官について話すよう私を誘う。
その方ゆえに我が司令官はこれほどの賞賛をここで受けているのだ。

一人がいる場所に、もう一人も紹介されることがふさわしい。
二人が一つになって戦ったのと同じく、
二人の栄光がともに輝きを放つよう。
・・・ (182-183ページ) ドメニコ会士であるトマスが、聖フランシスコについて語ったので、今度はドメニコ会の創始者である聖ドメニコについて語られる。彼もまた、教会が神の道を踏み外しているのを正すために天から派遣されたのだという。彼は誕生前から様々な力を発揮し、その偉大な仕事を予示したのである。

 そして彼は主dominusの所有格dominicus(主に属するもの)をその名とし、
ドメニコと彼は呼ばれたのだ。そこで私は彼のことを、
キリストがご自身の農園の助けとされるべく
選んだ農夫として語ることにしよう。
(187ページ) こうして、まだ名乗っていない霊から、ダンテは聖ドメニコと彼に続いた人々についての話を聞くことになる。その内容については、また次回。

 フランシスコ会とドメニコ会とが教会を支える車の両輪であるという考えは、『神曲』の中で、煉獄篇の終わりごろから盛んに繰り返されてきた主張で、ここでそれが集約的に説明されることになる。神学的な議論よりも、ダンテが使っている比喩や言葉の美しさの方に見るべき面があるのではないかと思う。〔なお、dominusとかdominicusとかいうのはラテン語で、ラテン語を勉強すると名詞や形容詞の格変化、動詞の人称変化や時制による変化などを暗記させられることになる。イタリア語には名詞の格変化はなくなっているので、その点は楽である。〕

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(11-2)

 1月26日(木)晴れ

 ダンテはベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上の世界に飛び立ち、月天で<誓願を果たさなかった人々>の魂に迎えられ、続いて水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>の魂に出会う。さらに金星天では<人と人を結びつける愛>に生きた人々の魂が彼を待っていた。これらの魂は至高天で神とともにいるのだが、そこでの神からの距離を示すために、ダンテに会いにやってきていたのである。さらにダンテは太陽天に達し、そこで<神学者・哲学者>の魂に出会う。ダンテを迎えたトマス・アクィナスの魂は、教会が神の意志に沿ってあるべき姿になるよう、フランチェスコ(フランシスコ)とドメニコの2人の修道会の創始者を地上に送ったと語る。そして聖フランチェスコの生涯を語り始める。

 トマスはフランチェスコが清貧を愛したことをたたえ、その生き方が多くの人々を引き付け、信仰の道を歩ませたと語る。
むしろ彼は王者のように自らの厳格な信念を
教皇インノケンティウスに明らかにし、教皇から
その修道会に対する最初の認可の印を受け取った。
(174ページ) 教皇インノケンティウスⅢ世(1160-1216)は教皇権力の絶頂を極めたとされるが、彼の時代はアルビジョワ派など異端が広がった時代であった。1210年に、彼は小さな兄弟会、つまりフランシスコ会を口頭で認可する。このあたりの経緯は、中公新書に入っていた堀米庸三の名著『正統と異端』に詳しい。

 フランシスコ会はその勢力を増し、そのために清貧を守らない会員が増えたために、改めて聖フランチェスコの生き方に学ぶことが強調されるようになり、教皇ホノリウスⅢ世(在位1216-27)はドメニコ会を認可、さらにフランシスコ会への認可を更新する一方で、アルビジョワ十字軍を支援して異端を一掃しようとした。
 聖フランチェスコはというと、エジプトのアイユーブ朝のスルターンであったカーミル(1170-1238)の改宗を試みるが失敗し、イタリアに戻って大きな成果を上げ、1224年には、受難を願って、燭天使の姿をしたキリストから聖痕を受けたといわれる。これはキリストが彼に与えた正しい信仰の証であった。
 そしてその死に臨んで
彼は、正しい相続人として自らの兄弟に
最も大切な貴婦人を託し、
彼女を忠実に愛するよう命じた。
(176ページ) 聖者は「相続人」であるフランシスコ会士たちに、彼の「貴婦人」清貧の徳を大切にし、愛するように命じたのである。
 
 さらに自らがドメニコ会士であったトマスの霊は、聖ドメニコについても語り、ドメニコ会の腐敗堕落を嘆く。
しかし彼の羊の群れは珍奇な食べ物を求めて
貪欲になりはて、それゆえ不可避的に
遠く離れた牧草地へと散らばった。

そして彼の羊達が遠くさまよって
彼から離れていくほど、
乳が出なくなって小屋に帰る。
(178ページ) ドメニコ会士たちは「珍奇な食べ物」=地上の富や金銭に拘泥し、神学から「遠く離れた」分野の教会法を学ぶようになった。人々に与えるべきドメニコ会士たちの「乳」とは、神学によって得られる精神の富のことである。トマスが「虚しく迷わねば人が善を富ませる場所」といった中の、「虚しく迷わねば」という言葉の意味についてダンテは疑問をもったのだが、地上の富を追い求めることが「虚しく迷」っていることであるとトマスは説明したのである。

 ドメニコ会士であったトマスがフランシスコ会の創始者について語る11歌が終わり、次に12歌ではフランシスコ会士の霊がドメニコ会の創始者について語ることになる。修道会は、キリスト教の内部における一種の革新運動であったのだが、都市と商工業の発展に伴って法律の必要性も増し、修道士たちが世俗的な事柄にかかわる機会も多くなってくると変容を余儀なくされる。変化をやむなしとする人もいたが、それを批判する人々もいた。一方で都市の金融業を営む市民の出身であり、他方で教会と修道会が信仰に立ち返り、清貧の徳を取り戻すことを望むダンテは、自分の中に対立する2つの要素を抱え込んだ矛盾に満ちた存在である。ここでは信仰を重視する保守的なダンテが勝っているように思うが、彼には別の一面もあったことを忘れてはなるまい。

 翻訳者である原さんは、聖フランチェスコ、フランチェスコ会とイタリア語読みによる表記を徹底されているが、修道会自身はフランシスコ会と称しているので、表記に迷うところである。むかし、アイルランドのコークの郊外を歩いていたところ、立派な礼拝堂があり、その前に中世から抜け出してきたような焦げ茶色のフランシスコ会の修道服の修道士が立っていて、けばけばしい身なりの若い女性に、お前近ごろ礼拝に来ないが駄目じゃないかというようなことを言っているのを見て、こちらは別に信仰はないのだが、ひどく感動したのを思い出す。その後、ダブリンの同じくフランシスコ会の礼拝堂で居合わせた信者の男性からこれを持っていると絶対に安全だからとお守りを渡された(今でもそのお守りは持っている)のと並んで、フランシスコ会についての忘れがたい思い出である。日本にもフランシスコ会系の学校がかなりの数あるので、どこがそうだか、関心のある方は調べてみてください。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(11-1)

1月19日(木)午前中は曇っていたが、次第に晴れ間が広がる

 ベアトリーチェに導かれて、地上から天空の世界へと旅立ったダンテは月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>を重んじていた人々の魂に迎えられる。彼らは至高天で神とともにいるのだが、そこでの神の距離に応じて、至高天から離れた世界にダンテに会いにやってきたのである。次に2人は太陽天に向かい、<哲学者、神学者>の魂に迎えられる。ダンテに向かい、トマス・アクィナスの魂が話しかけ、そこで彼らを取り囲んでいる魂たちが何者であったのかを語る。

 第11歌に入り、ダンテは地上の人々が不完全で永遠ではない地上の事柄に心を奪われ、それらに固執していることを嘆く。
おお必滅の者達の狂える妄執よ、
おまえを低きにはばたかせるのは、
なんと破綻した論法か。

ある者達は法学により、ある者達は医学により、
ある者達は教会における役職を追い求めることで、
ある者達は暴力や詐欺的言辞による権力をふるって、

ある者は搾取で、あるものは公職により、身を立てようとしており、
ある者は肉の喜びに取りつかれて
没頭し、ある者は無為に浸っていたが、
(166ページ) そのような醜く騒がしい地上を離れて、ダンテは天上にいたと語る。第10歌の最後で、魂たちは時計のように調和した動きを示しながら、妙音を発し、神の愛と地上の愛とが照応する祈りの時間を告げたが、ここで再び元の位置に戻り、アクィナスが説明を続ける。

 トマスは、彼の述べたばなかで「人が善を富ませる場所」(168ページ)、「二度とは生まれてこなかった」(同上)という表現にダンテが疑問を抱いたことを察知して、詳しい説明を始める。第11歌では最初の質問についての説明が語られる。

神慮は、あらゆる被造物の視線が
底まで見通すことができずに打ち負かされてしまうほどの
御心により世界を統治する。

その神慮は、高く叫びながら祝福の血を流して、
結婚した方の花嫁が
ゆるぎない心をもってそれまでよりさらに花婿へと忠実になり、

彼女の喜びを目指して進むよう、
彼女のために、その両面において導き手となる
二人の司令官を任命された。

一人は燭天使(セラフィム)のごとく全身が情熱に燃え、
もう一人はその知ゆえに、地上において
智天使(ケルビム)の光輝を放った。
(168-169ページ) 「高く叫びながら祝福の血を流して/結婚した方」はキリストを指し、花嫁は教会のことを言う。十字架に磔にされて血を流し「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫び息絶えた。これによって神と人類は和解し、人類の共同体「教会」とキリストとは結婚したというのである。
 「両面」とは傍注によると、「ゆるぎない心」である固い信仰心と「花婿」に「忠実」となってキリストの定めた戒律に慕うことである。
 神は、キリストの「花嫁」となった教会が神=キリストの意志に沿ってあるべき姿になるよう、「二人の司令官」、すなわち情熱に燃える「燭天使」のごときフランチェスコと、「智天使」の光を放つドメニコという2人の修道会の創設者を地上に送ったのである。

 それからトマスはフランシスコ会の創設者であるアッシジの聖フランシスコ(イタリア語ではフランチェスコ)の生涯について語り始める。フランシスコ(1181/82-1226)はアッシジの豪商ピエトロ・ベルナルドーネの子として生まれたが、無軌道な青春時代をすごしたのち、私財を貧者に与え、アッシジ司教の法廷で父を振り切り出家した。
そして精神の法廷において
父の前でその女性と一つになった。
その後も太陽はその女性を日ごとにますます強く愛した。
(172ページ) ここで「父」というのは神を代理する司教のことを言うと傍注に記されている。ここで「女性」と記されているのは、これまでの流れからいって、教会のことであろう。この時期、教皇庁は地上権力に固執して、封建的な支配体制を強化したため、一般の信者たちに救いの道を示すことができず、さまざまな異端が蔓延することになった。すなわち宗教的に人々の期待に応えられずに支持を失って、実は危機的な状況にあった。だからダンテは、ここで清貧によって教会の刷新を図ったフランシスコについて、トマス・アクィナスに語らせているのである。
この女性だが、最初の夫を亡くした後、
この太陽が現れるまで望まれることもなく
千百年以上も侮辱されて暗くくすんでいた。
(同上) 「太陽」はフランシスコを表す。キリストの死後1100年以上も教会は停滞していたという。「何の役にも立たなかったのだ」という詩句を繰り返しながら、ダンテはその停滞を強調している。

 キリストの十字架上の死によって人類の罪が贖われ、人類の共同体である「教会」が成立したというのは、一種の神話であって、歴史的には加藤隆さんが『新約聖書の誕生』で描いているような状況が展開されたのであろう。しかしながら、ダンテによる当時の教会とキリスト教信仰が直面していた危機の認識と、それを打開すべき存在としての修道会、特にフランシスコ会とドメニコ会への期待とは、彼の同時代への洞察が本質的なものを見抜いていたことを示すように思われる。 
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