ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(26-1)

8月17日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、それぞれで彼を迎えた魂と会話することによって、心の中の迷いを解き、自分の信仰を固め、自分が見聞きしたことを地上に戻って叙事詩として世に問うことを決意するようになる。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って、恒星天に達した彼はキリストとマリアの天国への凱旋を見、さらにペテロから3つの対神徳の中の「信仰」について、大ヤコブから「希望」についての試問を受け、それぞれの答えを賞賛される。すると第3の試問者となるはずの(福音書・黙示録の書き手とされる)ヨハネが現れ、先の2人の試問者に近づく。ダンテは(一時的に)視力を失う。

視力が失われたことで私が不安を感じていた間に、
その視力を消失させた燦然と光を発する炎から、
私の注意を引きつける言霊が発せられた、
(388ページ) 「炎」はヨハネの魂である。彼はダンテに次のように問いかける:
「・・・
・・・汝の魂はどこに
突き刺さっているのか。つけ加えるが、理解しておくがよい、
視覚は汝の中で見失われているだけで死んではおらぬことを。
(同上) ヨハネは、愛とは何かではなくて、彼が何を愛しているかから、その試問を始めている。そしてダンテの失明が、『新約』の「使徒言行録」に登場するイエスの弟子アナニアがサウロ(のちのパウロ)の失明をいやしたように、ベアトリーチェによって癒されうることを告げる。

ヨハネの言葉によって、失明が癒されると知り安心したダンテは、答えて言う:
・・・ 「その方のお気に召すままに、遅くとも早くとも
我が目が回復しますよう。私がそれ以来、常に燃え続けている
その火とともに彼女が入ってきた時、この目が扉となりました。

この宮廷を満足させる善こそが、
愛がかすかな、あるいは強い熱意をもって私に教授する
あらゆる書物のアルファでありオメガです」。
(389ページ) 自分の目を癒してくれるであろうベアトリーチェが、かつてその目を通じて彼の中に愛の炎を燃やしたと述べ、その愛がダンテに「教授する/あらゆる書物」つまりダンテにもたらす感情の「アルファ」(ギリシア文字の配列で最初の文字である)始まりから「オメガ」(ギリシア文字の配列で最後の文字である)終りまでは、、すべて、天国の「宮廷」である魂たちの集まりの心をも致す「善」すなわち神であるというのである。

 ヨハネはダンテの失明がベアトリーチェによって癒されると述べて、彼の恐怖を取り除いたのであるが、彼にさらに続けて話すように促した。
・・・「・・・汝はもっと目の細かい篩(ふるい)で
詳細を明らかにせねばならぬ。すなわち、誰が汝の弓を
そのような的に向けさせたのか言明する必要があるのだ」。
(390ページ) 愛についてもっと詳しく、また誰がダンテの愛を神に向けたのかを明らかにせよというのである。

 これに対してダンテは、「哲学的論証」つまり三段論法による証明と、「下界に降りている権威」聖書によって目を開かされると述べた後で、その三段論法を展開する。
 それは
大前提<善は人に理解されるとその善への愛を呼び覚ます。また、その善が完全であるほど愛も大きい>
小前提<あらゆる善はその輝きの反射光でしかないような、あらゆる善に超越した善、神がある>
結論<この証明を理解できる知性をもつ人は、その至高善へ、他の善に向けるよりも大きな愛を向ける>
というものであった。そして続けて、それをダンテに示したのはアリストテレスであると述べた。このようにアリストテレスを高く評価しているくせに、ダンテが彼の魂を地獄の第1圏である辺獄に置いているのは奇妙である。
顔を少し上げると、
私は見た、哲人たちの師が
知を愛する一族に囲まれ座っているのを。
(『地獄篇』第4歌、80ページ)

 また聖書については短く、『旧約聖書』の「出エジプト記」から「我はそなたにあらゆる善を見せよう」(ダンテによるイタリア語訳、翻訳者である原さんは33.19と章段を示しているが、ダンテはヒエロニムスによるラテン語訳を使っており、その章段は『新共同訳聖書』と同じものではないことに留意する必要がある)、『新約聖書』については
さらにあなたもまた、私へそれを平易に示されています、
他のすべての布告を上まわって、ここ天上の神秘を地上に轟かす
崇高な布告のはじまりで」。
(392ページ)と試問者であるヨハネ自身の著作(「ヨハネの福音書」、「ヨハネの黙示録」とする意見もある)が典拠であると答えた。

 するとヨハネはさらに踏み込み、ダンテに神の愛の存在について気づかせ、神に向かって踏み出すよう彼を導いた「他の紐」、あるいは愛の「歯」つまりダンテに起きた出来事はなにかとたずねた。
 ダンテは、神が世界を創造し、ダンテをも創造したこと、神が人の子となって現在を贖って死んだことにより彼も天国に行けるようになったこと、死後の至福である天国の存在がダンテに神の愛の存在について気づかせ、「歪んだ愛の海」である罪ある生から救ってくれたと答えた。そして
永遠の農夫が所有する農園のすみずみまで
生い茂る葉を、彼がそれにお与えになった
善に見合うだけ私は愛します」。
(394ページ)と付け加える。「永遠の農夫」は神、「生い茂る葉」は地上の境界「農園」に属するすべての人々をさす。教会に属する人類同胞を、各々がもっている善に比例して愛するというのである。

 ダンテが答え終わると、彼を祝福してベアトリーチェと天国の魂たちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」(聖歌「サンクトゥス」にも使われている)と歌った。これで3つの対神徳(信仰、希望、愛)についての試問は終わったのだが、この後ダンテはいま一人の魂に出会うことになる。それはまた次回。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(25-2)

8月10日(木)曇り時々雨、変わりやすい空模様

 1300年4月13日の正午に、ベアトリーチェに導かれて、煉獄山頂から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪問し、彼を出迎えた魂たちと、信仰と教会、地上の政治などの問題について議論を交わす。至高天から土星天へとのびている「ヤコブの階段」を上って、恒星天に達したダンテは、そこでキリストとマリアの天国への凱旋を目にする。そして、彼が自分の見聞を地上で語るのにふさわしい人物として、3つの対神徳を備えているかを、それぞれの徳を代表する魂から試験されることになる。第1の対神徳である<信仰>について使徒ペテロから試問を受けて合格した彼は、今度は同じく使徒大ヤコブから<希望>についての試問を受ける。ダンテが希望の徳を備えていることをベアトリーチェが証明したのち、彼は希望とは神の恩寵と生前の善行の両方のおかげで、死後、天国で永遠の至福に与ることへの希望であり、「詩編」の作者ダヴィデと、大ヤコブの書簡からこれを教わったと述べ、
「・・・そのために私は満たされ、
あなた方からの慈雨を私が人々に注ぎ込みます。」
(381ページ)と、地上に戻った後に、彼の体験に基づく叙事詩を書いて、希望の徳を広めるという決意を語った。

私が話している間、その烈火が包む生命の深奥で
閃光がきらめいていた、
突然、稲妻のように幾度も。
(同上) それは大ヤコブがこの答えを喜んで受け入れたことを示すものであった。そして、大ヤコブは希望が一体何を意味しているのかをさらに詳しく話すように求めた。
 ダンテは、希望については新約と旧約の聖書の中にさまざまに語られているが、
「・・・
イザヤは言っています。どの人も祖国では
二倍の服を身につけることになりましょう、と。
その祖国とはこの甘美な生のことです。

またあなたの兄弟はこの啓示をよりはっきりと詳細に、
白い衣について述べている箇所で
私たちに明らかにしています」。
(382-383ページ)と『イザヤ書』61.7の「その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける」という語句を典拠にして、祖国=天国での生こそが希望であることを述べ、『新約』の「ヨハネの黙示録」の中の「大群衆が、白い衣を身につけ」(7.9)という箇所で、この大群衆は天国に選ばれた人々で逢って、彼アrの天国での至福の在り方が説明されていると答える。

 この答えも受け入れられたが、
その後、ある光がそれらの間で烈しく輝いた。
もし蟹座にそれほどまで輝く水晶があったならば、
冬が昼間だけの一か月を持ったであろうほどに。

すると、喜ばしげな乙女が
何かの過ちゆえではなく、新婦にただ敬意を表するために
立ち上がって歩いてゆき、踊りに加わるように、

烈しく明るい輝きが、
燃え上がる愛に見合うように
愛に合わせて回る二人に近づいていくのを私は見た。
(383-384ページ) この新たに輝いたのは、十二使徒の一人(福音書の著者の1人で黙示録の著者である)ヨハネであり、3つの対神徳の中の残る<愛>を体現する存在である。そして彼らは三対神徳の輪を作って踊る。
 その姿をベアトリーチェはじっと見つめていた。
 「ヨハネによる福音書」21.23には「この弟子は死なないという噂が兄弟たちの間に広まった」という語句があることから、ヨハネは肉体を持ったまま天国に行ったと信じる人々がいた。ダンテはそれをここで確かめようとして誉阿h根の輝きを見つめ、一時的に視力を失ってしまった。その彼にヨハネの声が聞こえる。
「・・・
二つの衣をまとったまま祝福された僧院に
いらっしゃるのは、上にお帰りになった二つの光だけである。
このことをおまえたちの世界に伝えるがよい」。
(386ページ) 魂と肉体を持ったまま天国に還ったのはイエス・キリストとマリアだけであるという。とはいえ、視力を失ったダンテの動揺は小さなものではない。

ああ、私は心の中で何と動揺したことか。
彼女のそばに、そして至福の世界にいたにもかかわらず、
ベアトリーチェを見ようと振り向いた時に、

私は見ることができなかったのだから。
(386-387ページ) ダンテは3つの対神徳のうちの「信仰」に続いて、「希望」についての試問にも合格したが、目が見えなくなるなど、「愛」をめぐる試問には波乱含みのところがある。

 近代から現代にいたる聖書の批判的研究は、『新約聖書』の「福音書」が教会が伝承してきた作者によって記されたものではないことを実証的に明らかにしてきた。そういう目から見ると、『神曲』はいかにも中世的に思われるが、それでも誤った聖書解釈によりダンテが一時的に失明するなどの部分には、ダンテが彼の歴史的な制約の中で、『聖書』を合理的にとらえようとしていることが分かって、興味深い。魂と肉体とを持ったまま天国に昇ったのは2人だけだというが、旧約聖書に登場する預言者エリヤはどうかとか、どうも合理的に説明のつかない部分が残ることも否定できない。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(25-1)

8月3日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園を飛び立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪問した。彼は、それぞれの世界で彼を出迎えた魂たちと、政治と宗教、ローマ帝国と教会の歴史、これからの世界と彼の運命などについて会話し、政治と宗教についてこれまで以上の知識と理解を得ることができた。こうして自らを高めた彼は、至高天から土星天へと降りてくるヤコブの階段を登って、恒星天に達し、そこでキリストとマリアの凱旋の様子を見る。さらに聖ぺトロから3つの対神徳の1つである信仰についての試問を受ける。これに対してダンテは神の本質は知性であり、人間の知性によっては神を直接認識することができないから、その知の代わりに信仰があると答える。さらに天上の完全な調和と美は、その神の知に従う「愛」と「希望」により地上にも反映されるべきであると答え、聖ペテロの承認を得る。

もしも万が一、この聖なる叙事詩、
天も地も手を貸して助け、
それがため、長年の間に私の骨身を削らせたこの詩が、
(374ページ)と、ダンテは自分の作品である「聖なる叙事詩」について口にする。彼は互いに争う暴力的で貪欲な人々「狼ども」に憎まれ、「美しい古巣」である祖国フィレンツェを追放されたのであるが、預言としての彼の詩が祖国を正しい道に導いたならば、フィレンツェに帰還し、聖ジョヴァンニ(ヨハネ)洗礼堂で詩人としての栄誉を承けたいと述べる。なぜなら預言を歌う詩人ダンテは信仰に入ったからこそ予言をえられたのであり、聖ジョヴァンニ洗礼堂こそは、彼が洗礼を受けた場所だったからである。

 聖ペテロはダンテの傍を離れて光の輪の中に戻り、また新たな光が現われる。ベアトリーチェは
・・・「見よ、見よ、ここに、
その人のために下界で人々がガリシアを訪れる領主がいます」。
(375ページ)と、この光が十二使徒の一人、大ヤコブのものであることを告げる。彼はイベリア半島西北部のガリシアのコンポステラで布教し、後にエルサレムで殉教したが、彼の遺体はガリシアに運ばれて葬られた。彼が葬られたサンティアゴ・デ・コンポステラは今日に至るまで、重要な巡礼地となっているのである。
 ベアトリーチェは大ヤコブの光に、ダンテと希望について討論するよう求めた。大ヤコブは「希望を体現する」(377ページ)存在だからである。依頼を受けた大ヤコブは、ダンテに語り掛け、
「・・・
さあ、答えよ、希望とは何か。答えよ、汝の知性がその花で
どのように自らを飾っているか。答えよ、それがどこから汝のもとに来たのか」。
このように、さらに第二の光は続けたのだった。
(378ページ) すると、ベアトリーチェがダンテに代わって、「汝の知性がその花で/どのように自らを飾っているか⇒ダンテが希望という徳をどれほど持っているのか」について答え、彼は地上の教会に属する信者のなかで最も希望を抱き、そのために、生きたまま天国に昇ってきたのだと言った。

 この後で、ダンテはこの希望とは何かを語った。
「希望とは――私は言った――将来の栄光への
豊かな期待です。それは神の恩寵と先立つ功績が
生みだします。
(380ページ) 希望は賢明・剛毅・中庸・正義という4つの枢要徳が人間に生まれつき備わっているものであるのに対し、信仰・愛とともに対神徳であるから神から与えられるのである。そして希望は善をなしたことを知ることにより生まれるという。

 ダンテは続いて、希望がどこから彼のもとにやってきたかを答える。
この光は、数多の星々から私のもとにやって来ました。
しかし私の心に最初にそれを注ぎ込んだ方は、
至高の総帥に仕える至高の歌い手でした。
(同上)という。「至高の総帥」は神、「至高の歌い手」は詩編の作者であるダヴィデを指す。古代イスラエルの王ダヴィデは旧約聖書詩編の詩の作者と考えられていた。
 次にダンテは新約聖書の大ヤコブが書いたと当時信じられていた「手紙」により、その希望をさらに豊かなものとしたという。さらに
あなた方からの慈雨を私が人々に注ぎ込みます」
(381ページ)とこの答えを結んで、自分の書く叙事詩『神曲』が地上に希望の徳を広める役に立つようにすると決意を語る。

 ダンテの希望の向かう先は、天上の永遠の生命であり、そこに彼の中世的な世界観が現われていることはよく指摘されてきたことであるが、そのように『神曲』を書き続けながらも、彼が地上、特に彼の祖国であるイタリアとフィレンツェの政治事情を忘れていない様子であることも見落としてはならないと思う。実は、地上の政治のゆくえにも希望を捨てないでいるダンテの姿も『神曲』には見え隠れするのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国編』(24‐2)

7月27日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、それぞれの天で彼を出迎えた魂たちと対話して、神の真実に近づいて行った。そして土星天から至高天へと続くヤコブの階段を上って恒星天に達し、キリストとマリアの凱旋の様子を見る。彼は普通の人間の目では見えないものを見、耳で聞くことのできないものを聞く能力を備わったのである。ダンテはさらに神に近づくために、彼が3つの対神徳の1つである信仰について、十二使徒の一人であり、初代の教皇であり、何よりも信仰という徳を体現する人物であるペテロから試問を受けることになる。
 信仰とは何かというペテロの問いに対し、ダンテは天国の「礎」であり、「目に見えぬことに対する証」であると答える。そのように定義する理由は、地上からの視線は神に届かないので、知性によって神を直接認識することは不可能であり、そのため信仰により神の存在が知られ、その礎の上に人類は天国を望むからというものだった。

 ペテロは次のように言って、この答えを受け入れ、さらにダンテ自身の信仰についても問う。
・・・「この硬貨の純度と重さは、
すでに十分に吟味された。

だが、我に答えよ、お前が財布の中にそれを持っているかどうかを」。
そこで私は、「はい、持っております。それは素晴らしく光り輝き、円く、
その刻印について微塵の疑いも私に起こさせません」。
(366ページ) 「硬貨」は信仰のたとえで、「純度」は信仰の定義、「重さ」は信仰の意味を指すと坊注されている。信仰を硬貨に例えるのは、銀行家の家に生まれたダンテらしい表現である。

 さらにその信仰はどのようにして得られたのかという問いに対し、
「精霊の豊かな慈雨、それは
旧約と新約の羊皮紙の上に広く撒かれたのですが、

これが私に侵攻を論理的に立証した
鋭利な三段論法です。それに比べれば
あらゆる証明は私には鈍く思われます」。
(366-367ページ) この時代、書物は羊皮紙の上に手書きでうつされていた。旧約も新約も様々な時代に様々な著者によって記された文書の集成であるが、それらはすべて精霊に満ちて書かれた神の著作であると考えられていた。

 さらにペテロは、聖書をなぜ、神の言葉とするかと問いかける。ダンテは、そこに記された奇蹟によってであるというが、ペテロは聖書自体が真実の書であるかどうかという問いにダンテが答えていないと問い詰める。
「地上世界がキリスト教に
――私は言った――奇蹟などなしになびいたとすれば、この一事こそ、
その他の奇蹟を合わせてもその百分の一にも及ばぬほどの奇蹟です。
・・・」
(368ページ)とダンテは答える。この答えは聖アウグスティヌスの『神の国』で展開されている考えを受けたものであるらしい。アウグスティヌスの時代とダンテの時代(そして現代)では、キリスト教の人類世界に占める役割がかなり違っているという認識はダンテにはなかったようである。
 そして「貧しく飢え」たペテロを中心に形成されたキリスト教会=「葡萄の木」が今や堕落して「茨と成り果てた」ことも付け加えている。すると、彼の天国への凱旋を許すかのように、天上の魂たちは神への賛歌「テ・デウム」を歌った。

 ダンテの回答を聖ペテロは受け入れる。そしてダンテが何を信じているのか、その真理がどのようにダンテに姿を見せたのかを語るように言う。
 ダンテは第一に「唯一にして永遠なる一つの神」を信じ、その存在は奇蹟と聖書によって証明され、第二に神が「愛」と「希望」つまり神と被造物との照応関係により全宇宙を創造し、運行していること、その神が「一にして三なる」三位格を持つことを信じると宣言した。これに対してペテロは、ダンテの周囲を三回転して彼を祝福した。
このようにその光は私が話したことを喜ばれた。
(372ページ) ダンテが3つの対神徳の第1である「信仰」にかかわる試問に答えたところで第24歌は終わる。次に彼は第2の徳である「希望」についての試問を受けることになる。 

 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(24-1)

7月20日(木)晴れ、暑し

 ベアトリーチェに導かれて地上から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、土星天から至高天まで伸びている階段を登って恒星天に達する。恒星天は人間の目の届く限界であるとともに、人間的な世界と神の世界の境界となっている。恒星天で彼はキリストとマリアの天国への凱旋の様子を見た。

 第24歌の冒頭で、ベアトリーチェが、天国の住人たちは神の「子羊」イエス・キリストのあたえる精神の糧により満ち足りていると述べ、彼らと同じ精神の糧の一部だけでも味わわせてほしいと魂たちに頼む。
「・・・
この者の果てしない望みに注意を傾けて
雫を与え、飢えを癒したまえ。あなた方は
この者が思考し、知ろうとしているものが出る泉で喉を潤しているのですから」。
(358ページ) 「思考し、知ろうとしているもの」は「神智」のことである。

 魂たちは輝きながら、輪を作って
・・・それぞれ
異なって速く遅く踊り、
彼らの富を私に推し量らせた。
(359ページ) 「彼らの富」は神の「恩寵の豊かさ」のことである。そのような輪舞の中から、「その明るさを越えるものはそこには一つもない」(360ページ)魂が出てきて、ベアトリーチェの周囲を3度回った。それは十二使徒の1人であり、初代教皇であったペテロの
魂であった。ペテロの魂が神学の象徴であるベアトリーチェの周りを3度回ったことは、教会が神学に対して払うべき敬意を象徴していると考える人もいるそうである。

 ベアトリーチェは、ペテロの魂に向かって次のように語りかける:
・・・「おお、偉大なる傑物の永遠の光よ、
この奇蹟の喜びに至るための二つの鍵を
我らの主が地上にお運びになり委ねられた方よ、

あなたの心のままに、信仰についての
易問であれ難問であれ、この者に試問されよ。
あなたは信仰のために海の上を歩いたのですから。
・・・」
(361ページ) ダンテが天国にふさわしい人間かどうかはペテロの目には明らかなはずである。しかし、それでもダンテに「信仰について話をする機会」(362ページ)を与えてほしいという。ベアトリーチェがペテロに話しかけている間に、ダンテは
バカラリスが
結論を出すためではなく、弁証するために
師が論題を提示するまで頭の中で備え、話さずにいるように、
(362ページ) ダンテは試問に対して答える準備をしていた。バカラリスは中世の大学における教養諸学の教授資格であるマギステル学位を取得しようとする候補者のことである。彼らには論証を上手に表現する能力が求められた。当時すでにボローニャをはじめとしてイタリア各地に大学が設置されており、ダンテ自身は大学で勉強したわけではないが、大学での勉学については十分な知識をもっていたと思われる。

 「信仰とは何か」(363ページ)というペテロの問いに対して、ダンテは
「・・・
信仰とは希望される事柄の礎にして
目に見えぬことに対する証です。
そしてこれこそが私にはその本質に思えます」。
(364ページ)と答える。ペテロはこの回答を受け入れる。ダンテの答えは『新約聖書』の聖パオロによる「ヘブライ人への手紙」(11.1)そのままでああったのだが、さらに、そのように定義した理由についてペテロは問いかける。

 これに対してダンテは、地上からの視線は神に届かないので、知性によって神を直接認識することは不可能であり、そのため侵攻により神の存在が知られ、その礎の上に人類は天国を望むからというものであった。
・・・「ここにおいて
ありがたくも私に姿を現したまう深遠なる諸事物は、
下界にある目には隠されているため、
その存在は、そこではただ信じることの中にあり、
その上に崇高な希望が打ち立てられるのみです。
ゆえに信仰は礎の意味を持ちます。

この信じることから、私達はさらなる確証を見ることなしに、
論理的に演繹しなければなりません。
ゆえに信仰は証の意味を負います」。
(364-365ページ) そして堅い信仰をもち、神の記した聖書がその信仰をもたらしたと述べた。

 恒星天まで達したダンテは、さらに先へ進むために3つの対神徳(信仰、希望、愛)についての試問を受けることになる。今回はまず信仰についての試問であるが、その根拠が人知を超えたものであるというのがダンテの考えであった。それでもなお、神を信じようとするのはなぜか、そこには一種の飛躍があり、その飛躍こそ、多くの思想家たちが格闘した問題であった。飛躍を可能にするのは、『新約聖書』にまとめられたイエスの言葉、(聖霊の宿った)使徒たちの言葉を神の言葉として信じることである。ダンテはキリスト教の根幹にかかわる問題と取り組んでいる。 
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