ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(30-2)

11月1日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話して、人生や信仰についての疑問を解決し、彼がこの旅の中で見聞きしたことを、地上の人々に伝えることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天に降りてきている「ヤコブの階段」を上って彼は恒星天に達し、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、彼が自分の見聞を広めるのにふさわしい人物であることを証明する。彼はさらに非物質的な神の世界の入口である原動天に達し、森羅万象の運動がここに根源をもっていることを知り、天使たちの姿を見る。そして、ベアトリーチェは彼を最終目的地である至高天に導く。
 至高天は物理的宇宙とはまったく別個の、自然的法則から離れ、時間も空間も存在せず、ただ神から発する知性の光に満たされている位相なのだる。ダンテにはベアトリーチェ以外の一切が見えなくなった。ダンテは神の叡知と接触したことで、光に照らされ、その強い光のために一度視覚を失った後で、美しい春の庭のような至高天の様子を見る。

 ベアトリーチェはダンテが目に見ているものが、至高天の真の姿の投影にすぎないという。
・・・「川も、入っては出る
黄玉も、草花の微笑みも、
かれらの真実が投影されただけの序唱です。

これら自体が不完全であるせいではなく、
むしろあなたの方が至らぬからなのです。
あなたにはまだそれだけの優れた視力が備わっていないのですから」。
(453ページ) 「黄玉」というのはトパーズのことだそうである。天使や祝福された人々は存在自体が神への賛歌となっている。ここではまだその真の姿を現していないので、その露払いとしての「序唱」と表現されている。

 ダンテは川の流れのように見えていた神から発する真理の光を、水を飲むように目の中に入れた。すると、「目の前に/水平の広がりが円へと姿を変えて現れた。」(454ページ)
さらに続いて、まるで仮面を被っていた人々が、
隠れ蓑にしていた見せかけを
かなぐり捨てたならば前とは違う姿を現すように、

私の前で花々と火花は
ひときわ盛大なる祝祭に変じ、こうして私は
空の二つの宮廷が姿を現すのを目撃した。
(454-455ページ) 春の庭のように見えていたものが、人々の群れに姿を変えたのである。かれらは一つの光源の周囲を取り囲み、幾千段にもなって上の方に伸びながらその姿を現していた。この荘厳な様子を見て、ダンテはまた疑問を抱くが、黙っていると、ベアトリーチェがそれを察して、次のようにいう。
・・・「ご覧なさい、
純白の長衣を着た集まりがどれほど盛大か。

観なさい、我らの都市がどれほど広大な円を描くか。
観なさい、我らの祈りの座が満席に近づき、
もはやわずかな人々しかそこに望まれてはいないのを。
・・・」(458ページ) 至高天に迎えられた魂の数は膨大であるが、「満席に近づ」いている、つまり世界の終末はちかづいているという。そして、地上世界でのローマ帝国(神聖ローマ帝国)の使命の称揚と、教皇への厳しい糾弾がなされる。当時の皇帝が至高天に迎えられ、教皇たちが地獄に堕ちることが予言されて第30歌は終わる。

 昨日、10月31日は1517年にマルティン・ルターが有名な95か条の論題を提起してから500年の記念日であった。キリスト教会の分裂をもたらした事件であったが、カトリック、ルター派の両方の教会が合同でこの出来事を記念する行事を行ったのは慶賀すべきことであろう。ルターが問題にした聖職売買や、贖宥状の発行はダンテもこの『神曲』の中で烈しく批判しているのは既にこのブログで紹介してきたとおりであるが、ダンテが「神聖ローマ帝国」とか、「カトリック教会」という国際的な枠の中で物事を考えているのに対し、ルターはドイツあるいはドイツ語という民族・言語の枠の中で自分の主張を展開しようとしたというのが違いではないかと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(30-1)

10月25日(水)雨が降ったりやんだり

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園から天上の世界へと飛び立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、これらを越えた世界である至高天から彼を迎えにやってきたた天上の魂たちと会話を交わし、彼が遍歴の中で見聞きしたことを地上の人々に伝える(この『神曲』という叙事詩を書くこと)が彼に課せられた使命であることを知る。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問に合格し、人間の眼に届かない世界である原動天に進む。そこは天使たちの世界であり、天体全体の運行の起点になっている。

おそらくは六千里の遠く彼方で
第6時の太陽が我ら人類を燃やし、この地球は
影をほとんど水平近くにまで傾けている、

その時に空の中心は、私たちの真上に高くあって
明るくなりはじめ、星が幾つか
この宇宙の底にあっても見えなくなる。

その少し後になって一段と明るい太陽の
侍女が来ると、空は見えていた光を次々と、
最も美しいものまで閉じ込めていく。
(446ページ) 夜明けの空の様子が宇宙論を交えて描き出されているが、これはダンテの心中の譬えである。原基晶さんの翻訳の傍注には、ダンテの宇宙論の一端が紹介されているが、ダンテは地球の半周を12,000里としたとある。1里の長さが記されていないので、何とも言えないのだが、当時の一般の人々にとって、ダンテが『神曲』で展開している数字は、十分に納得できるほど大きなものであったと思われる。しかし、現代の天文学が扱っている宇宙の規模に較べれば、はるかに小さい。「太陽の侍女」は曙のことである。
 太陽の朝の光がそれまで見えていた星を消してしまうように、神の叡知に近づいたダンテの眼から天使たちの輪が消えていく。
そのために何も見えなくなると愛ゆえに
私はベアトリーチェをふりかえり目で見ようとした。
(447ページ) ベアトリーチェはあらゆる賞賛を越えて美しく見えた。

この人生で私が彼女の目を見た
その最初の日からこの一瞥まで、
彼女を詩に歌おうとして妨げられたことはなかった。

だが、今や私は、詩に歌いながら彼女の美しさを
追うのは諦めなければならなくなった。
あらゆる芸術家が力の限界でそうするように。
(448-449ページ)

 ベアトリーチェはダンテを導くという任務から解放されたという話し方と身ぶりで、2人が原動天から至高天に移ったと告げる。
・・・「私たちは最も大きな星体から
外に抜け出して純粋な光でできた空に入ったのです。

それは叡智の光であり、愛に満ちています、
それは真実の善の愛であり、喜びに満ちています、
その歓びはあらゆる甘美を超越しています。

ここにあなたは天国に備わる
二手の軍をともに見るでしょう。そして一つは
あなたが最後の審判の時に見る姿をしています」。
(449-450ページ) 「最も大きな星体」は原動天のこと、「純粋な光でできた空」は至高天のことである。通常の物理的な光ではなく、叡智である神の恵みそのものが光なので、「純粋な光」と表現されている。「二手の軍」の一方は、天使たちの群れ、もう一方は祝福された魂たちの群れである。

 このとき、ダンテは再び視力を失う。
あたかも、突然の光が視覚の能力を霧散させたために
外の対象を映像にすることが極めて困難になり、
目からその力が奪われてしまうように、

生命の光が私を囲んで燦然と輝き、
そして私をその大いなる輝く覆いによって
包むと、私には何もかもが見えなくなった。
(450ページ)

 至高天にはいる魂を照らす神の光は、ろうそくは一度火をつけてからそれを消して、改めて点火するとよく灯るといわれるように、この点に入るものの目をいったん見えなくしてから新しい視力を与えるのだという声がする。
そして私の中に新たな視力が灯ったが、
その強さは、どのような烈しい光であれ、
我が目に耐えられないものはないほどだった。
(451ページ)

 すると、ダンテの目の前には美しい光景が広がる。
すると私には、川の姿をした光が
赤みがかった黄金に輝き、驚くべき春の情景に
彩られた両岸に挟まれているのが見えた。

この川から生命の火花が飛び散り、
そして両岸で花々の中に飛び込むと、
さながら黄金に囲まれた紅玉のようだった。

その後で、まるで香りに酔わされてしまったかのように、
驚嘆すべき渦の流れの中に再び沈み込んでいく。
しかも、あるものが中に入っていっては別のものが外へと飛び出していく。
(452ページ) 「生命の火花」は天使たちのこと、「花々」は祝福された人々のことをさす。ダンテの目に至高天は彼が『煉獄篇』の終わりの方で訪れた地上楽園と同じような春の庭のように見えた。しかし地上楽園と天国は違うもののはずである。

 いよいよダンテは至高天に足を踏み入れた。彼の旅の最終目的、そしてこの叙事詩の終わりが近づいてきている。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-2)

10月18日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園から天上の世界へと旅立つ。天上の中でも人間の目に見える世界である月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪ねた彼は、至高天からやってきて彼を迎えた魂と対話し、彼が地上で抱いていたさまざまな疑問への回答を得るとともに、彼がこの遍歴の中で見聞したことを地上に伝えることが彼の任務であることの自覚を固める。至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰・希望・愛という3つの対神徳についての試問に合格し、目に見える世界から目に見えない世界へと歩を進める。原動天でベアトリーチェは天使たちとその働きについての説明をする。

 天使たちをめぐる地上の学者たちの説が的外れなものであることを指摘したベアトリーチェは、次のように言葉を続ける。
こうしてみると下界には、覚醒しているはずなのに、夢幻に迷いながら
信じて、あるいは信じていないのに真理が語られることさえあり、
後者はより罪深く、より恥ずべき行為です。

あなた達は下界において哲学的思弁をする中で
あるべきただ一つの道を進んではいません。もてはやされることを愛して
評価を気にするために道を踏み外してしまうからなのです。
(440ページ) 天使についての様々な学説とそれらの学説間の論争は、正しい道から外れたものであると彼女は言う。

しかしこのことでさえ、ここ天上では寛容にも
それほどの怒りは買わないことでしょう、聖書がないがしろにされ、
あるいは捻じ曲げられるのに比べれば。

聖書の教えを世界中に種蒔くために
どれほどの血が流されたのか、自らを低くして聖書に寄り添う者が
どれほど御意にかなうのか、地上では考えもしません。
(同上) 天使をめぐる学説の違いなど、聖書からの逸脱に較べればたいしたことではないという。ただし、ここでダンテが述べている聖書を重視する考えが、ルネサンスの人文主義者たちによる聖書重視の考え方とは違うことにも注意しておく必要がある。ダンテは、この29歌でヒエロニムスの考えを批判しているが、その一方で、彼が『神曲』で引用している聖書は、ヒエロニムスがラテン語に翻訳したウルガータ版であり、これはカトリック教会が採用してきた聖書である。ルネサンスの人文主義者たちは、ヘブライ語の旧約聖書と、ギリシア語の新約聖書を典拠とすべきであると論じたのであった。ベアトリーチェは続いて、聖書に勝手な解釈を施している人々を非難する。そして、そのような虚言や戯言がキリストの教えに沿うものではないという。

キリストは最初の教団にお告げになりはしませんでした、
『行って、戯れ言を述べ伝えなさい』などとは。
弟子たちには真理の礎を授けたのです。

そして教団はそれだけを頼りに言葉を発し、
信仰の火をともす戦いに
聖書を盾とし、槍として臨みました。
(442ページ) 「マルコによる福音書」が伝えるキリストの言葉は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16.15)である。しかし、時間の経過とともに教団も、伝道者も変化した。

今では人は説教をするのに
機知と漫談をたずさえていき、ただ笑いが取れただけで
その僧帽の中身はうぬぼれにふくれ、それ以上は求めません。
(442-443ページ) 受け狙いが幅を利かす説教の現状を嘆く。そして、ベアトリーチェはその200年以上後に、ルターによる宗教改革の引き金になった教皇庁、あるいは最低でも司教によって発行される贖宥符の発行を非難する。〔カトリック教会では贖宥符という言葉を使うが、一般には免罪符という言葉の方が使われているのではないか。〕
これを信じるがために地上では愚行が広くはびこり、
その結果、大衆は何らかの効力を証(あか)す証明もないのに、
どのような約束にも飛びついてしまいかねません。
(443ページ) さらに彼女は、地上の腐敗した修道会を非難する。

 しかし、彼女は自分の発言が本筋から遠く離れてしまったことを認め、改めて天使についての説明を続ける。天使たちの神との愛の結びつきは、神への理解に応じて多様であり、神の光はその多様性の中でさまざまに分裂し、散り散りに拡散しながらも全体は一を保っているという。
愛は理解という行為に従うゆえ、
このことから、愛の甘美も
彼らの中では様々に白熱し、あるいは温(ぬる)むのです。

今やあなたは永遠の御力がもつ超越した偉大さを、寛容を
理解しています。なぜならそれは、自らのために
多数の鏡をお造りになり、その中で散り散りに分裂しつつ、

創世前と同様にご自身を同じく一つに保っていらっしゃるのですから。
(445ページ) こうして、天使と神についての理解をさらに進めたダンテは、本来の天国である至高天に昇っていくのにふさわしい存在となったことが語られる。

 第29歌が終わり、第30歌でダンテはいよいよ至高天に達することになる。そこはどのような世界で、その様子をダンテがいかに描き出すかは、次回以降のお楽しみということにしよう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-1)

10月11日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて地球の南半球にそびえる煉獄山の頂上にある地上楽園から、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話し、自分の使命が地上の世界の人々に自分が見聞きしたことを知らせることであるとの自覚を得る。至高天から土星天へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、地上で自分の見聞を語るにふさわしい人物であることを証明する。そして、彼は物質的な目に見える世界を離れて、非物質的な世界の入口である原動天に達する。そこは宇宙全体の運動の起点であり、天使達の世界である。ベアトリーチェは、原動天について、天使達についてダンテに説明する。

ラートーナの二人の子が
牡羊座と天秤座とに重なり、
双方が同時に地平線を帯にする頃、

天頂の天秤で両者を平衡に保った瞬間から
その両者が異なる半球に入り、
帯を解いていくまで、

それと同じ時間だけ、ベアトリーチェは
私を圧倒したあの点をじっと見つめながら、
微笑みに彩られた顔で沈黙した。
(432ページ) 「ラートーナの二人の子」は、ギリシア神話の女神ラートーナと、ユピテルの間に生まれた太陽神アポロンと月守ディアーナをさす。つまり太陽が牡牛座にあり、月が天秤座にあり、それが地平線上に同時にあるような季節と時間帯が示唆されている。牡羊座と天秤座は天球上で正反対の位置にある。太陽が牡羊座にあるのは春で、これが地平線に中央を横切られて昇ってくるのは午前6時ごろだそうである。

 そしてベアトリーチェは、ダンテの心中の疑問をまたもや見抜いて、その疑問に答え始める。
永遠の愛は、善をさらに獲得し増やすためではなく、
それはあり得ぬことですから、その光を反射した輝きが、
反射している中にあって「我在り」と言えるよう、

時間外の、また自らの他には何も含まぬ空間外の
永遠の状態にあって、ただ望まれたがゆえ、
新しく創造した愛の中に自らを開示されました。
(433ページ) 「永遠の愛」=神は、時空間の出現以前に永遠の状態にあって「ただ望まれたがゆえ」、つまり純粋な愛から、天使を、それぞれが個として神を愛し返すように創造した。さらに、その時に創造の「三様の成果」天使、宇宙、そして地球をも創造した。その三様の成果とは、全宇宙の頂点である至高天にいる純粋な形相「現実態」=天使、形相と質料の合成=宇宙、純粋な質料「可能態」=月天下の四元素である。

 天使は天地創造の時に、時空間外の永遠の中に、純粋な概念である形相として創造された。
その天使たちの一部があなた達の諸元素の基底を
激震させたのは、数を数えて二十にも達しない、
それほどの瞬く間のことでした。

他の天使達は残り、あなたが今見ている
この技を始めました。その喜びですが、
この方たちが決してこの輪を離れぬほどなのです。

失墜のそもそもの原因は
宇宙の全重量が集中して圧している有様をあなたが見た
あの者の呪われた高慢にありました。

ここにあなたがみているのは
あれほどの理解に達するよう彼らを創造された
かの善に自身が由来することを認めた謙虚な方々です。
(436-437ページ) 天地創造直後に天使達の一部が神に反逆した。「あなた達の諸元素の基底」とは地上世界を構成する四元素のうち、一番下にある土。ここでは大地のことをさす。そしてその反逆の中心であった堕天使ルシフェルは全宇宙の中心である地心に封じられた。その姿は、地獄を訪れたダンテが見たとおりである。

 ベアトリーチェはその後に、天使達の神を見る知性の視力は、神の恩寵によりさらに高められているが、それは、神に対してどれだけ心を開いたかで恩寵の多寡が定まる、功績への報酬だからだと説明を加え、さらに天使は人間と同様に「理解」「記憶」「意志」を持つとする学説があるが、森羅万象が現前する神をつねに見ている天使には、事物を時間的に分節して知性にしまい込む記憶は必要ないと述べた。ここでは、ダンテの時代の神学者たちが天使がどのようなものであるかをめぐって烈しく論争を続けていたことが批判的に語られているようである。(存在するかどうかわからない天使について議論するよりも、もっと先に議論すべきことがあるのではないだろうか…)

 天使の反逆を題材にした叙事詩がミルトンの『失楽園』である。天国を追われたルシフェル達は、ふたたび反撃を企て、その過程で人祖アダムとエヴァを罪に誘惑しようとする。ミルトンは、ダンテに匹敵する、あるいはそれをしのぐ叙事詩を創造しようとしたのだろうが、近年その評価はあまり高くないようである。エリック・ホッファーはミルトンがクロムウェル時代に宗教や政治問題にかかわるパンフレティーアとして労力を浪費したことを嘆いているが、最近では『失楽園』の詩人としてより、パンフレティーアとしてのミルトンを高く評価する意見の方が有力なように思われる。

 ベアトリーチェはさらに言葉を続ける…。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-1)

10月11日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて地球の南半球にそびえる煉獄山の頂上にある地上楽園から、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話し、自分の使命が地上の世界の人々に自分が見聞きしたことを知らせることであるとの自覚を得る。至高天から土星天へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、地上で自分の見聞を語るにふさわしい人物であることを証明する。そして、彼は物質的な目に見える世界を離れて、非物質的な世界の入口である原動天に達する。そこは宇宙全体の運動の起点であり、天使達の世界である。ベアトリーチェは、原動天について、天使達についてダンテに説明する。

ラートーナの二人の子が
牡羊座と天秤座とに重なり、
双方が同時に地平線を帯にする頃、

天頂の天秤で両者を平衡に保った瞬間から
その両者が異なる半球に入り、
帯を解いていくまで、

それと同じ時間だけ、ベアトリーチェは
私を圧倒したあの点をじっと見つめながら、
微笑みに彩られた顔で沈黙した。
(432ページ) 「ラートーナの二人の子」は、ギリシア神話の女神ラートーナと、ユピテルの間に生まれた太陽神アポロンと月守ディアーナをさす。つまり太陽が牡牛座にあり、月が天秤座にあり、それが地平線上に同時にあるような季節と時間帯が示唆されている。牡羊座と天秤座は天球上で正反対の位置にある。太陽が牡羊座にあるのは春で、これが地平線に中央を横切られて昇ってくるのは午前6時ごろだそうである。

 そしてベアトリーチェは、ダンテの心中の疑問をまたもや見抜いて、その疑問に答え始める。
永遠の愛は、善をさらに獲得し増やすためではなく、
それはあり得ぬことですから、その光を反射した輝きが、
反射している中にあって「我在り」と言えるよう、

時間外の、また自らの他には何も含まぬ空間外の
永遠の状態にあって、ただ望まれたがゆえ、
新しく創造した愛の中に自らを開示されました。
(433ページ) 「永遠の愛」=神は、時空間の出現以前に永遠の状態にあって「ただ望まれたがゆえ」、つまり純粋な愛から、天使を、それぞれが個として神を愛し返すように創造した。さらに、その時に創造の「三様の成果」天使、宇宙、そして地球をも創造した。その三様の成果とは、全宇宙の頂点である至高天にいる純粋な形相「現実態」=天使、形相と質料の合成=宇宙、純粋な質料「可能態」=月天下の四元素である。

 天使は天地創造の時に、時空間外の永遠の中に、純粋な概念である形相として創造された。
その天使たちの一部があなた達の諸元素の基底を
激震させたのは、数を数えて二十にも達しない、
それほどの瞬く間のことでした。

他の天使達は残り、あなたが今見ている
この技を始めました。その喜びですが、
この方たちが決してこの輪を離れぬほどなのです。

失墜のそもそもの原因は
宇宙の全重量が集中して圧している有様をあなたが見た
あの者の呪われた高慢にありました。

ここにあなたがみているのは
あれほどの理解に達するよう彼らを創造された
かの善に自身が由来することを認めた謙虚な方々です。
(436-437ページ) 天地創造直後に天使達の一部が神に反逆した。「あなた達の諸元素の基底」とは地上世界を構成する四元素のうち、一番下にある土。ここでは大地のことをさす。そしてその反逆の中心であった堕天使ルシフェルは全宇宙の中心である地心に封じられた。その姿は、地獄を訪れたダンテが見たとおりである。

 ベアトリーチェはその後に、天使達の神を見る知性の視力は、神の恩寵によりさらに高められているが、それは、神に対してどれだけ心を開いたかで恩寵の多寡が定まる、功績への報酬だからだと説明を加え、さらに天使は人間と同様に「理解」「記憶」「意志」を持つとする学説があるが、森羅万象が現前する神をつねに見ている天使には、事物を時間的に分節して知性にしまい込む記憶は必要ないと述べた。ここでは、ダンテの時代の神学者たちが天使がどのようなものであるかをめぐって烈しく論争を続けていたことが批判的に語られているようである。(存在するかどうかわからない天使について議論するよりも、もっと先に議論すべきことがあるのではないだろうか…)

 天使の反逆を題材にした叙事詩がミルトンの『失楽園』である。天国を追われたルシフェル達は、ふたたび反撃を企て、その過程で人祖アダムとエヴァを罪に誘惑しようとする。ミルトンは、ダンテに匹敵する、あるいはそれをしのぐ叙事詩を創造しようとしたのだろうが、近年その評価はあまり高くないようである。エリック・ホッファーはミルトンがクロムウェル時代に宗教や政治問題にかかわるパンフレティーアとして労力を浪費したことを嘆いているが、最近では『失楽園』の詩人としてより、パンフレティーアとしてのミルトンを高く評価する意見の方が有力なように思われる。

 ベアトリーチェの話はさらに続く…。
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