小川剛生『兼好法師』(4)

12月30日(土)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 『徒然草』の作者について、同時代史料からできるだけ多くの情報を引き出すことで、従来信じられていた兼好の伝記を書き換えようとするのが、この書物の意図である。
 第1章「兼好法師とは誰か」では、勅撰和歌集における作者表記がすべて「兼好法師」となっていることから、彼が「諸大夫」ではなく、「侍」以下の身分の出身であると推測し、伊勢にゆかりのある卜部氏の一族で、都で生活していたが、彼の父親の代になって、伊勢に勢力を持つ金沢流北条氏に仕えるべく鎌倉に下向したものと考えている。
 第2章「「無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好」は、金沢文庫に残された古文書を手掛かりとして、在俗時代の兼好が卜部兼好、仮名を四郎太郎と言い、父親の死後、いったん京に戻ったが、その後、金沢貞顕に仕え、貞顕やその信認する僧である称名寺の劔阿のために京と鎌倉を往復する生活を送っていたと述べている。延慶2年(1309)から正和2年(1313)までの間に彼は遁世したが、宗教的な動機によるというよりも、そのことで身分秩序のくびきから脱し、権門に出入りしたり、市井に立ち交じったりして、貴顕のために様々な用を果たすことができるようにするためであった。
 第3章「出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)」では、貞顕が六波羅探題北方に任じられたころから、兼好が京に定住するようになり、六波羅周辺で活動していたこと、この地で活発に展開されていた経済活動にかかわり、土地を売買していたこと、貴顕からの恩顧を得るために自分の土地を寺院に寄進し、そのことで後宇多上皇から和歌を召され、歌壇へのデビューを果たすことになる。金沢流北条氏と堀川家の接近に伴い、堀川家とのつながりができ、また活動圏を次第に仁和寺の周辺に移すことになったことを述べている。

 今回は第4章「内裏を覗く遁世者――都の兼好(二)」についてみていく。この章は長いので、前半だけの紹介となる。
 『徒然草』の中で、兼好は「何事も古き世のみぞ慕はしき」と自分の価値観を表明したうえで、そのような過去のよき精神を最も遺す空間として内裏の有様を描写している。その描写は回顧ではなく、眼前の情景としてのものである。ではどうしてこのようなことを知り、書いたのか。
 先ず、兼好が目にしたのは内裏といっても、もともとの大内裏ではなく、里内裏(天皇がお住まいとして、洛中の廷臣の邸を借り受けられたもの)であり、具体的には花園天皇の里内裏である二条富小路殿であったという。文保2年(1318)に花園天皇は在位10年で退位され、後醍醐天皇が即位される。そのことを記したのが『徒然草』の27段である。〔小川さんは、読者が知っているだろうと思ったのか、書いていないが、この時、退位された花園天皇は22歳、新たに即位された後醍醐天皇は31歳であった。花園院はその日記の中で、「春宮は和漢の才を兼ね、年歯父の如し、誠に道理然るべし」(岩橋小弥太『花園天皇』、28ページ)と記されているそうである。〕

 ところで、花園天皇から後醍醐天皇への代替わりにはそれまでと違うことがあった。内裏(里内裏)を新帝が引き続き利用したことである。話がややこしくなるのだが、花園天皇は長らく、二条富小路殿を里内裏とされていた。ところが文保元年に鎌倉幕府の力で、冷泉富小路内裏がつくられ、そこに移られて、翌年、譲位されたということである。
 この新しい里内裏が竣工した際に、見物人が入り込んできたという記事に小川さんは目を留めている。花園院の日記にはその時「見物の女、小袖を着する者、悉く追ひだす」(文保元年4月20日条、105ページ)とある。
 「天皇の居住空間近くまで早くも見物人が入り込んでいるのである。
 この時代の内裏は、里内裏であるゆえ、四周が道路に直接面するわけで、必ずしも閉ざされてはいなかった。とりわけ政務朝議の行われる日は見物人で溢れていた。」(同上)
 憧れと野次馬根性が入り混じって、大勢の見物人が近づいてきたのであるが、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏に詰めかけた都市住民のそれと違いのあるものではなかった」(107ページ)と小川さんは論じる。

 「禁中奥深くまで無関係の観衆が闖入すること、常識では理解しがたい現象である。とはいえ中世の朝廷はこうした見物人を必ずしも排除しなかった。それは天皇以下自分たちが「見られる」身体であることを承知していたからであろう。」(107-108ページ) この記述は、ヨーロッパ、とくにフランスの国王の例と共通する事柄に触れていて、興味深い。
 先ほど引用した花園院の日記の中で「小袖を着するもの」が追い出されたというのは、わざと派手な格好をして内裏を見物する連中が非常に多かったということで、その一方で追い出されなかった見物人もいたのであると論じる。「その違いは、おそらく頭に衣をかぶる、「衣かづき」の姿になっていたことにあろう」(108ページ)という。「「衣をかづく」つまり衣をかぶって頭を隠すのは、自らの姿を隠す意思表示であった。…こうすれば天皇や廷臣たちにとっても、見えていても見えない存在となる」(108-109ページ)である。こうした存在が、意外に便利な役割を演じることがある。
 「男の場合、頭に頭巾などをかぶり目だけを出す姿、つまり「裹頭(かとう)」となる。…兼好は「裹頭」の姿となり、内裏へ自由自在に入り込むものの一人であった。」(109-110ページ)という。後半の推測は、『徒然草』の中の記事を根拠としているので、説得力に富む。

 以上のことから、兼好が『徒然草』で述べている宮廷への視線は、蔵人というような公家社会の正式の構成員のものではなかったと論じている。「確かに徒然草には数多くの廷臣が登場し、摂関・大臣の談話も記録されるが、しかしそれは多く伝聞や書承であり、師事した歌道師範を除いては、双方向的な対話はほとんど見られないのである」(116ページ)という。
 ということで、「内裏を覗く遁世者」という章題の意味は明らかであろう。遁世者だからこそ覗くことができる世界について、『徒然草』は語っているのである。

 さて、この書物の著者である小川剛生さんが、すでに読んだだけでなく、亀田俊和『観応の擾乱』の書評の中で言及した二条良基の仮名日記について論じた『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』の著者であることを見落としていたことに気づいた。我ながら面目ない次第である。この『兼好法師』でも第6章に二条良基が登場する(良基は、兼好に会っているのである)。一方で関白という高い地位にあり、庶民的な連歌を能くし、南北朝の動乱の時代を泳ぎぬけた良基は、きわめて複雑で一筋縄でいかない人物という印象があるが、小川さんはそのような人物像と重なるものを兼好にも見ているのかもしれない。

 第4章の後半では、兼好と検非違使庁との関係が考察され、『徒然草』が都市の文学であるという議論へと進む。次回をお楽しみに。 

フローベール『感情教育』(4-3)

12月24日(日)曇りのち晴れ

これまでのあらすじ
〔1〕 1840年9月、大学入学を前に裕福な伯父のもとを訪問した帰り、パリからセーヌ川を遡上する汽船に乗ったフレデリック・モローは船の乗客の1人である共和主義者の画商アルヌーと知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。オーブ県の没落しかけている名家である彼の実家では、彼の前途に期待を託している母親が彼の帰りを待っている。帰宅した彼は、高校時代の親友であるシャルル・デローリエが会いたがっていると聞き、夜、遅くなっていたが、会いに出かける。
〔2〕 夢想家で芸術に関心のあるモローと、退役した軍人の息子で高校では半給費生であり、努力家で社会問題に関心が深いデローリエとは育った環境も性向もまったく違っていたが、二人は親友であった。デローリエはフレデリックよりも早く卒業してパリの法科大学に入学していたが、いったん学業を中断して、法科大学の学資を得るために県庁所在地の公証人役場の書記の仕事をしていた。久しぶりに再会したデローリエは、フレデリックに大学ではしっかり勉強して卒業するように忠告する。「とにかく、肩書は役に立つんだ。」(31ページ)
〔3〕 パリに出たフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズ氏や、一度会っただけのアルヌーを訪問するが、上首尾にはいかない。大学の講義に出るようになったが、一向に興味がわかない。それでも、豪農の息子で美男子の勉強家マルチノン、あまり知性的ではない貴族のドゥ・シジーとの友達付き合いで時間を潰す。無為な生活を後悔して講義に出るようになっても、欠席が響いて内容が少しもわからず、それでも何とか試験に合格して2年生になる。
〔4〕 1841年12月、パリで暴動が起き、フレデリックは警官ともみ合って取り押さえられたデュサルディエという青年を助けようとして、同じ法科大学の学生であるユソネと知り合う。ユソネは演劇界で成功することを夢見ている青年で、フレデリックと意気投合する。しかも、アルヌーと知り合いだという。何度かすっぽかされたが、ユソネに連れられて、フレデリックはアルヌーの発行する「工芸美術」の事務所に出かける。そこでアルヌーとの交友を深めることができたが、夫人に逢うことはできない。フレデリックはさらに、アルヌーのところで知り合った画家のペルランからアルヌーの女性関係と、夫人が貞淑であることを聞く。

 次第にフレデリックはアルヌーの事務所に顔を出す常連になっていった。事務所にはルジャンバールという、何をしているのかよく分からない男が常連の一人として出入りしていた。フレデリックはアルヌーが金満家で、美術愛好家で実行家であるだけでなく、商売にかけてはかなり悪辣なこともしていることを知るようになる。
 ある日、アルヌー夫人とすれ違いになり、彼女が本宅にいて、事務所には時々顔を出すだけであるということを知る。久しぶりに出会ったペルランから、アルヌーの悪口を聞いたフレデリックは、思わず彼を弁護する。しかし、実際にアルヌーに逢ってみると、その人格の下劣さに愛想が尽きる思いである。

 その週、次の木曜日にパリに着くというデローリエの手紙が届く。「そこで、彼の心はより確実でより高貴な愛情の方にまた強く引き戻されていった。」(71ページ) デローリエとの友情は、パリで出会った友人たちとの友情に勝るものだと思ったフレデリックは、彼を迎えるための準備をすすめる。
 「そして、木曜日の朝、彼がデローリエを出迎えに行こうとしていると、入り口に呼び鈴が鳴って、アルヌーがぬっと入ってきた。」(同上) 夕食に招待しようというのである。そこで、彼は服屋と帽子屋と靴屋に連絡をとる。そうこうしているうちに、デローリエが到着して、門番が肩にトランクを担いで入ってくる。デローリエは、フレデリックが彼を迎えに来なかったことを不思議がっている。彼は法律についての知識を駆使して、父親が自分のものにしていた母親の遺産の7,000ポンドをとりもどし、パリに出てきたのである。

 フレデリックは久しぶりに再会した旧友を歓待する。「門番が炉のそばの卓上に仔牛肉、ギャランチーヌ、伊勢えび、菓子果物、それにボルドーぶどう酒を2本並べた。こうした歓待ぶりにデローリエは感動した。」(72ページ) 〔ギャランチーヌgalantineというのは鶏肉や仔牛肉にレバーなどを詰め、ゼリーで固めた冷製料理だそうである。あるいは私も食べたことがあるのかもしれないが、そういうことは気にかけない性分なので、食べたという記憶がなくなっている。〕
 そこへ、帽子、続いて服、さらに靴が届く。こうなると、フレデリックがどこかを訪問しに出かける約束があることがわかってしまう。フレデリックは事情を説明し、急なことで仕方がないのだと言い訳する。そして1人でアルヌーのところに出かける。〔このあたりで、フレデリックとデローリエの気持ちが微妙にすれ違っているのがわかる。〕

 「シナ風に装飾した控えの間には、天井に色提灯をつり、部屋の隅々には竹がおいてある。フレデリックは虎の皮につまずいた。燭台にまだ灯はついていないが、奥のブドアールに2つの灯火が輝いていた。」(74ページ) ブドアールboudoirというのは辞書によると女性の私室ということは、アルヌー夫人の部屋である。
 フレデリックは落ち着かない気分だったのが、迎えに出てきたアルヌーが地下室にぶどう酒をとりに出かけて、彼らの子どもと二人きりにし、その子どもの相手をしているうちにだんだん気持ちが落ち着いてくる。そしてアルヌーが戻ってきて、さらに別の方角からアルヌー夫人が現われる。
 「アルヌーはフレデリックを紹介した。
 「ええ、あたくしよく覚えておりましてよ」夫人はそうこたえた。」(76ページ)

 他の客たちがやって来る。それぞれ有名な画家、詩人、美術批評家、作曲家…である。ユソネも顔を出している。最後にペルランがやって来る。フレデリックは集まってきた客たちにも、提供されたご馳走にも満足する。さらに客たちがそこで交わす会話にも大いに関心を引かれた。気分よく過ごしていると、突然ペルランが思想のない芸術は意味がないなどと言い出したりする。その間、彼はアルヌー夫人を見ていた。「耳に入ってくる言葉が彼の心の中でるつぼに溶けている金属のように彼の情熱に溶けて、恋を作った。」(78ページ)

 アルヌー夫人に再会したフレデリックは、彼女に対する恋慕の気持ちを募らせる。アルヌー夫人の方でもフレデリックのことはよく覚えていたようである。二人の関係が今後どうなっていくのかも気になるところではあるが、この席にはユソネもいるし、フレデリックの部屋にはパリに出てきたばかりのデローリエが彼の帰りを待ち受けている。そして、青年たちを主な登場人物としながら、七月王政下のフランスとパリはさらに大きな変動の時代を迎えようとしている…。

2017年の2017を目指して(11)

11月30日(木)曇り

 11月はこれまで以上に早く、あわただしく過ぎていったような気がするが、まったくぼんやりしていたわけではない――と自分では思っている。

 都県別では神奈川県と東京都の1都1県、市区別では横浜市、川崎市、平塚市、千代田区、港区、品川区、渋谷区、新宿区、豊島区、文京区の3市7区に足を運んだ。
 利用した鉄道が6社(東急、東京メトロ、JR東日本、横浜市営、東京都営、京急)、13路線、22駅というのも変化なし。
 バスについては、新たに相鉄の「浜5」を利用し、また新たに1停留所を利用したので、6社(横浜市営、川崎市営、東急、神奈中、相鉄、京急)、25路線、28停留所を利用したということになる。【110+2=112】

 この記事を含めて30件のブログ記事を書いた。1月からの累計は339件となった。内訳は未分類0(18)、日記5(60)、読書9(112)、『太平記』4(47)、『神曲』5(49)、映画1(7)、詩0(17)、推理小説6(17)、その他0(12)ということである。コメントを2件頂いた。1月からの合計は45件、拍手コメントを1件頂き、こちらの累計は4件である。また拍手は457拍いただいていて、1月からの累計は6047拍ということになる。【355+33=388】

 本を17冊買い、13冊を読んだ。1月からの累計では137冊の本を買い、108冊を読んだことになる。読んだ本の内訳は、アントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』、円居挽『その絆は対角線』、森谷明子『花野に眠る 秋葉図書館の四季』、森谷明子『れんげ野原のまんなかで』、七河迦南『七つの海を照らす星』、デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』、円居挽『日曜は憧れの国』、前田速夫『「新しき村」の百年』、澤井繁男『ルネサンス再入門』、小川剛生『兼好法師』、A・E・W・メースン『矢の家』、司馬遼太郎『街道をゆく6 沖縄・先島への道』、エマ・ジェイムソン『第九代ウェルグレイヴ男爵の捜査録』。
 今月読んだ本の半数以上が推理小説であるが、言語学、数学、歴史など、推理小説以外の読書内容の多様さの方も見てほしい。すべて日本語の本であるが、英語からの翻訳が14冊、フランス語からが3冊、ギリシア語とイタリア語が各2冊、ロシア語とドイツ語が各1冊ずつということである。著者別では司馬遼太郎が6冊(すべて「街道をゆく」シリーズ)、ジェーン・オースティンが5冊、吉田健一、椎名誠、望月麻衣が3冊、プラトン、亀田俊和、芦辺拓、フローベール、森谷明子、円居挽が各2冊ということである。【97+13=110】

 『ラジオ英会話』の時間を19回、『高校生からはじめる現代英語』を6冊、『実践ビジネス英語』の時間を11回聴いている。
 『まいにちフランス語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちイタリア語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちスペイン語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちドイツ語』の応用編を7回聴いている。(語学番組を聴いた回数の記録が混乱しているので、もう一度整理しなおすことにした。) 『まいにちイタリア語』応用編ではボッカッチョの『デカメロン』の中の1話とロレンツォ・デ・メディチの詩というルネサンス時代を代表する文学作品が、『まいにちスペイン語』応用編では19世紀スペインの作家フアン・バレーラの小説「ペピータ・ヒメネス」が、『まいにちドイツ語』応用編では主として1920年代のベルリンの都市文化が取り上げられていて、それぞれ興味深く聴いていた。(この際、言語についての関心よりも、文化への関心を優先させているのである。) 特に「ペピータ・ヒメネス」は、このところぼちぼちと読んでいるハーディーの初期の作品『緑の木陰』と(田園を舞台としていること、時代も似通っていること、恋愛が主題であることなど)似ている点があって、興味深い。 【+91】

 横浜駅西口ムービル5で『ミックス。』、神保町シアターで『起きて 転んで また 起きて』、シネマヴェーラ渋谷で『嫉妬』、『男の銘柄〕と4本の映画を見た。1月からの通算では4か所の映画館で51本の映画を見たことになる。古い日本映画ばかり見ているのがどうも気になるところである。【51+4=55】

 11月11日にすずらん通りの檜画廊で「佐藤ゆかり展」を見て、展覧会に出かけたのが7回となった。音楽会は3回と変わらず。【6+1=7】

 J2の第40節と第41節の試合、全国高校サッカー選手権の神奈川県二次予選の準決勝2試合、合計4試合を見た。1月からの累計では37試合を見たことになる。【38+4=42】
 970回のスポーツ振興くじのミニトトBが当たり、今年になってAを1回、Bを4回、合計5回当てたことになる。

 A4のノートを2冊、A5のノートを1冊、0.5ミリ(黒)のボールペン芯を3本、0.4ミリ(黒)のボールペン芯を1本、ビリジアンのボールペンを1本、万年筆の(黒)インクカートリッジを2本、修正液を1本使いきった。

 富士山を見たのが3日、酒を飲まなかったのも3日である。もう少し摂生に努めないといけない。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(32-1)

11月22日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、煉獄山の頂上にある地上楽園から天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、そこで彼を出迎えた知人や歴史上の有名人の魂と会話し、人生の中で抱いていたさまざまな悩みや謎を解決する答えを得るとともに、この旅の中で彼が見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、希望、信仰、愛の3つの対神徳をめぐる試問に合格して、彼がその見聞の様子を語るにふさわしい存在であることを証明する。宇宙の回転の起点であり、非物質的な世界の入口である原動天を経て、彼は至高天に達し、ついにその真の姿を見るに至る。そこでは祝福された魂たちが「純白に輝く薔薇」のような形に並んで座っていた。その務めを終えたベアトリーチェは至高天における彼女の本来の席に戻り、彼の最後の導き手としてベルナールが現われ、彼に聖母マリアとその周囲にいる人々の姿を見せる。

喜びを与えてくださる方に心を奪われているその瞑想の魂は、
自由なる精神で導師の役を引き受け、
この聖なる言葉をはじめられた。

「マリアが手当てして閉じた傷だが、
その足元にいるあれほどに美しい女性こそが
その傷をつけて痛ませたものだ。

その女性の下にある三段目の席が連なる輪に、
おまえに見えるとおり
ラケルがベアトリーチェを隣にして座っている。
…(476ページ) ベルナールはダンテに、聖母マリアの周囲にいる女性たちが何者であるかを語る。「マリアが手当てして閉じた傷」は<楽園追放>であるが、「その足元にいるあれほどに美しい女性」は、その傷をもたらしたエヴァである。彼女は神に直接創造されたため、比類なく美しいのである。
 ラケルは『旧約聖書』に登場するイスラエルの族長イサクの妻の一人で、ヤコブの母であり、『神曲』では観想の生を象徴する存在とされている。(だから、神について理論的に考える神学のアレゴリーであるベアトリーチェと並んでいるのである。)

 ラケルに続いて、サラとレベッカ、ユディト、ルツと『旧約聖書』に登場する女性たちが並び
段々をなして降りていくのをおまえは
見ることができる。わしが薔薇を花びらから花びらへと
降りながらその名を呼び上げていく順に。

そして第七の位階から下では、その上の段々が
そうであるように、ヘブライの女性達が続いている、
薔薇の花びらの集まり皆を分けながら。

なぜならこれらの女性達は、
キリストへの信仰が求めた視線の向きに従って
聖なる階段を分ける、その境となる壁をなしているからだ。
(477-478ページ) 「キリストへの信仰が求めた視線の向きに従って」は、信仰を主とした表現で、「どのように彼女たちがキリストを信じたか」という意味だそうである。つまり、キリストの出現を待ちわびていた『旧約』の女性達は、この後に出てくる、キリストと同じ時代に生きた人々、それから『新約』以後の人々と区別されて座っている。

花の中でも花びらがことごとく埋まっている
このあたりだが、そこに座っているのは、
キリスト降臨を信じた人々である。
(478ページ) 第30歌でベアトリーチェはダンテに向かい、天国の席が満席に近づいていると述べた(つまり世界の終末が近いということである)。キリストの同時代に生きた人の場合、満席になっているのは当然といえば当然である。(『旧約』時代の人々はリンボから、キリスト以後の人々は煉獄や、現世からまだ至高天にやって来る分の席が残っているはずである。
一方、空席により隙間が空いている
半円の段々のある側だが、そこにいるのは
降臨されたキリストに視線を定めた人々だ。
(478ページ)

 女性たちが一方の側に座っているのに対し、その向かいに洗礼の聖ヨハネを頂点にして、聖フランシスコ、聖ベネディクト、聖アウグスティヌスらが並んでいる。「ここでは旧約を代表しているのが女性であり、救済の国である至高天にいる人々を生み出した母として位置づけられ、新約を代表する人々は、人類の精神を指導する父と位置づけられている。また両方の列の頂点にいるのが、マリアと洗礼者ヨハネであり、両者とも旧約と新約の両世界の橋渡し役だったことに注目したい」(645ページ)と翻訳者である原基晶さんは解説で述べている。

 次に、罪なくして死んだ無垢な幼児たちの魂が、至高天の薔薇の花の中央から下に住んでいることが語られる。ベルナールはこれらの幼児たちについて語りながら、神の創造の多様性と救済の予定が人間には不可知であるという。
この王国に、どの望みももはやそれ以上を求めぬほどの
愛と喜びを与えて
安寧をもたらしている王は、

喜ばしげな表情を見せてあらゆる知性的魂を
創造しながら、御心のままに、一様にではなく
恩寵をお与えになる。これで理解には十分とせよ。
(482ページ)

 第26歌にアダムが登場した時、彼が天国にいるのであれば、エヴァはどうなっているのかということが気になったのだが、彼女も天国に迎えられているので、安心した。至高天は非物質的な時空を超えた世界であるから、それを人間が感覚でとらえて表現することはできないはずである。至高天にたどり着いた時に彼はベアトリーチェの姿しか見えず、次に、地上楽園に似た春の庭園を見、さらに祝福された魂がつくる薔薇の花のような魂たちの集まりを見る。そしてその魂たちについての詳しい説明を聞いた。この認識の深まりにも注目しておく必要がありそうである。
 さて、ダンテは次に何を見るのであろうか。

『太平記』(185)

11月20日(月)朝のうちは曇っていたが、その後、晴れ間が広がる。

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、比叡山の宮方は各方面から京都を攻撃し、新田義貞は東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は上杉重能の諫めで思いとどまった。数に勝る足利方は宮方を撃退し、この合戦で名和長年が戦死した。
 信濃から上洛した小笠原貞宗は、近江の宮方を退けて戦功をあげたが、尊氏から近江管領職を申し受けた佐々木道誉に近江を譲らなければならなかった。越前、近江の補給路をふさがれた比叡山の宮方は兵糧不足に悩み始め、尊氏は密書を送り、京都への還幸を促した。宮方の大名や、新田一族の中にも足利方に内応するものが出てきた。

 宮方の中心的な武将である新田義貞は、このような秘密裏の動きには全く気付いていなかった。身近なところに詰めている軍勢に対面して、普段と変わらず何事もない様子でいたところに、洞院実世卿の方から、「ただ今、主上が、京都に還幸されることになるということで、お供の人々を召されていらっしゃいます。ご存知でしょうか」と伝えられたので、義貞は、「そのようなことがあるはずがない。使いのものの聞き誤りではないか」と言い、騒ぎ立てる様子もなかったのであるが、新田一族の堀口貞満が、聞き終わらないうちに、「一族の江田、大館が、何の用もないはずなのに、この早朝、比叡山の東塔の本堂である根本中堂にお参りするといい、山を登っていったのがどうも怪しく思われる。貞満が、まず天皇のもとに伺って、事の次第を見極めてまいりましょう」と、急ごしらえで武装して、馬を全速力で走らせ、天皇のもとに伺候した。天皇の身近にやって来ると、馬からおり、兜を脱いで中間に持たせ、四方の様子をしっかりと見定めた。すると、臨幸はいままさに始まっているらしく、お供をする公卿たちは、衣冠を身に着けたものもいるし、まだ武装した姿のものもいる。天皇がお乗りになる輿を大床(建物の縁側のようなものか)によせて、新しく典侍(内侍所の二等官)になった女官が、内侍所の櫃(三種の神器のうちの八咫鏡を収めている)を取り出して手に持ち、頭弁(とうのべん)の範国が宝剣と神璽を奉持する役を承って、御簾の前に跪いている。
 ここで、典侍と頭弁が三種の神器を奉持する役割を演じているのが興味深い。天皇に近似して政務から身の回りの世話までを担当する蔵人の事務を担当するのが蔵人所で、その名目的な長官として別当が置かれているが、これは大臣の兼任であり、実質的な長となるのは2人で、大中の弁官と近衛中将からえらばれ、それぞれ頭中弁(あるいは頭弁)、頭中将と呼ばれた。頭弁になるのは(藤原行成に代表されるような)有能な官人であり、頭中将になるのは名門の子弟であった(ということで能力主義と門閥主義のバランスが保たれていたのである)。余計なことを書いておくと、この後、北朝が成立してから建武新政下では辛酸をなめていた日野名子が典侍になる。

 貞満は、天皇の左右に侍っている人々に会釈して、天皇の御前に参り、輿の轅(轅)に取りすがって、涙ながらに申し上げた。「観光のこと、世間の噂でかすかに耳にしておりましたが、義貞はまったく知らないと申しており、聞き違いではないかと考えてこちらに参りましたところ、本当に還幸の儀式がすすめられておりました。義貞がこのように置き去りにされるのはいかなる理由でありましょうか。長年力の限り骨折って忠節を励んできた義貞をお捨てになり、大逆無道の尊氏に、天皇のお気持ちを移されるというのは納得のいかないことです。元弘の初め、義貞は不詳の身なりと言っても、忝くも天皇のお言葉を頂き、鎌倉幕府を数日のうちに滅ぼし、海の西(隠岐)にいらっしゃる天皇のお憂いをたちどころに晴らし申し上げたこと、古い時代を見ても、近年を見ても、まれな忠義の業と言えるのではないでしょうか。その後、尊氏が政府に反逆するようになってから、大敵を退け、その大将(高師久)を生け捕りにし、京の足利方に決死の戦いを挑んだこと、このように命を捨てて天皇のために戦った事例は数え切れません。しかも、魏を重んじて命を軽んじる一族が163人、大将のために命を進んで捨てようという郎従が1万人を越えます。それでも、今、京都をめぐる数回の攻防で、足利方の勢いが強く、宮方は敗北してしまったこと、まったく我々の戦い方がまずかったからではありません。ただひとえに天皇のご運が開けきれないためでありましょうか。新田一族の年来の忠義をお見捨てになり、京都に御臨幸されるというのであれば、義貞をはじめ、一族のものを、御前に引き出して、首を刎ねていただきたく思います」と怒りを浮かべた顔に涙を流し、それでも理路整然と自分たちの主張を申し上げたので、天皇もご自分のご判断の誤りを後悔されるご様子であった。付き従っている人々も、みな、この言上の筋道が立っていることに納得し、またその忠義の心に感じて、首うなだれて座っていたのであった。

 この後、新田義貞が部下を連れて天皇のもとに参上し、事態は思いがけない展開を示すことになる。それはまた次回。新田義貞、脇屋義助の兄弟は、足利尊氏、直義の兄弟に比べて剛勇という点では勝っているかもしれないが、政治力や駆け引きの才能がないし、また動員できる軍事力も限られているという点で劣勢にある。これまでのところ、足利一族はほとんどまとまっているのに対し、新田一族からは足利方に寝返るものが出ているのも目に付くところである。
 
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