ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(32-1)

11月22日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、煉獄山の頂上にある地上楽園から天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、そこで彼を出迎えた知人や歴史上の有名人の魂と会話し、人生の中で抱いていたさまざまな悩みや謎を解決する答えを得るとともに、この旅の中で彼が見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、希望、信仰、愛の3つの対神徳をめぐる試問に合格して、彼がその見聞の様子を語るにふさわしい存在であることを証明する。宇宙の回転の起点であり、非物質的な世界の入口である原動天を経て、彼は至高天に達し、ついにその真の姿を見るに至る。そこでは祝福された魂たちが「純白に輝く薔薇」のような形に並んで座っていた。その務めを終えたベアトリーチェは至高天における彼女の本来の席に戻り、彼の最後の導き手としてベルナールが現われ、彼に聖母マリアとその周囲にいる人々の姿を見せる。

喜びを与えてくださる方に心を奪われているその瞑想の魂は、
自由なる精神で導師の役を引き受け、
この聖なる言葉をはじめられた。

「マリアが手当てして閉じた傷だが、
その足元にいるあれほどに美しい女性こそが
その傷をつけて痛ませたものだ。

その女性の下にある三段目の席が連なる輪に、
おまえに見えるとおり
ラケルがベアトリーチェを隣にして座っている。
…(476ページ) ベルナールはダンテに、聖母マリアの周囲にいる女性たちが何者であるかを語る。「マリアが手当てして閉じた傷」は<楽園追放>であるが、「その足元にいるあれほどに美しい女性」は、その傷をもたらしたエヴァである。彼女は神に直接創造されたため、比類なく美しいのである。
 ラケルは『旧約聖書』に登場するイスラエルの族長イサクの妻の一人で、ヤコブの母であり、『神曲』では観想の生を象徴する存在とされている。(だから、神について理論的に考える神学のアレゴリーであるベアトリーチェと並んでいるのである。)

 ラケルに続いて、サラとレベッカ、ユディト、ルツと『旧約聖書』に登場する女性たちが並び
段々をなして降りていくのをおまえは
見ることができる。わしが薔薇を花びらから花びらへと
降りながらその名を呼び上げていく順に。

そして第七の位階から下では、その上の段々が
そうであるように、ヘブライの女性達が続いている、
薔薇の花びらの集まり皆を分けながら。

なぜならこれらの女性達は、
キリストへの信仰が求めた視線の向きに従って
聖なる階段を分ける、その境となる壁をなしているからだ。
(477-478ページ) 「キリストへの信仰が求めた視線の向きに従って」は、信仰を主とした表現で、「どのように彼女たちがキリストを信じたか」という意味だそうである。つまり、キリストの出現を待ちわびていた『旧約』の女性達は、この後に出てくる、キリストと同じ時代に生きた人々、それから『新約』以後の人々と区別されて座っている。

花の中でも花びらがことごとく埋まっている
このあたりだが、そこに座っているのは、
キリスト降臨を信じた人々である。
(478ページ) 第30歌でベアトリーチェはダンテに向かい、天国の席が満席に近づいていると述べた(つまり世界の終末が近いということである)。キリストの同時代に生きた人の場合、満席になっているのは当然といえば当然である。(『旧約』時代の人々はリンボから、キリスト以後の人々は煉獄や、現世からまだ至高天にやって来る分の席が残っているはずである。
一方、空席により隙間が空いている
半円の段々のある側だが、そこにいるのは
降臨されたキリストに視線を定めた人々だ。
(478ページ)

 女性たちが一方の側に座っているのに対し、その向かいに洗礼の聖ヨハネを頂点にして、聖フランシスコ、聖ベネディクト、聖アウグスティヌスらが並んでいる。「ここでは旧約を代表しているのが女性であり、救済の国である至高天にいる人々を生み出した母として位置づけられ、新約を代表する人々は、人類の精神を指導する父と位置づけられている。また両方の列の頂点にいるのが、マリアと洗礼者ヨハネであり、両者とも旧約と新約の両世界の橋渡し役だったことに注目したい」(645ページ)と翻訳者である原基晶さんは解説で述べている。

 次に、罪なくして死んだ無垢な幼児たちの魂が、至高天の薔薇の花の中央から下に住んでいることが語られる。ベルナールはこれらの幼児たちについて語りながら、神の創造の多様性と救済の予定が人間には不可知であるという。
この王国に、どの望みももはやそれ以上を求めぬほどの
愛と喜びを与えて
安寧をもたらしている王は、

喜ばしげな表情を見せてあらゆる知性的魂を
創造しながら、御心のままに、一様にではなく
恩寵をお与えになる。これで理解には十分とせよ。
(482ページ)

 第26歌にアダムが登場した時、彼が天国にいるのであれば、エヴァはどうなっているのかということが気になったのだが、彼女も天国に迎えられているので、安心した。至高天は非物質的な時空を超えた世界であるから、それを人間が感覚でとらえて表現することはできないはずである。至高天にたどり着いた時に彼はベアトリーチェの姿しか見えず、次に、地上楽園に似た春の庭園を見、さらに祝福された魂がつくる薔薇の花のような魂たちの集まりを見る。そしてその魂たちについての詳しい説明を聞いた。この認識の深まりにも注目しておく必要がありそうである。
 さて、ダンテは次に何を見るのであろうか。

『太平記』(185)

11月20日(月)朝のうちは曇っていたが、その後、晴れ間が広がる。

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、比叡山の宮方は各方面から京都を攻撃し、新田義貞は東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は上杉重能の諫めで思いとどまった。数に勝る足利方は宮方を撃退し、この合戦で名和長年が戦死した。
 信濃から上洛した小笠原貞宗は、近江の宮方を退けて戦功をあげたが、尊氏から近江管領職を申し受けた佐々木道誉に近江を譲らなければならなかった。越前、近江の補給路をふさがれた比叡山の宮方は兵糧不足に悩み始め、尊氏は密書を送り、京都への還幸を促した。宮方の大名や、新田一族の中にも足利方に内応するものが出てきた。

 宮方の中心的な武将である新田義貞は、このような秘密裏の動きには全く気付いていなかった。身近なところに詰めている軍勢に対面して、普段と変わらず何事もない様子でいたところに、洞院実世卿の方から、「ただ今、主上が、京都に還幸されることになるということで、お供の人々を召されていらっしゃいます。ご存知でしょうか」と伝えられたので、義貞は、「そのようなことがあるはずがない。使いのものの聞き誤りではないか」と言い、騒ぎ立てる様子もなかったのであるが、新田一族の堀口貞満が、聞き終わらないうちに、「一族の江田、大館が、何の用もないはずなのに、この早朝、比叡山の東塔の本堂である根本中堂にお参りするといい、山を登っていったのがどうも怪しく思われる。貞満が、まず天皇のもとに伺って、事の次第を見極めてまいりましょう」と、急ごしらえで武装して、馬を全速力で走らせ、天皇のもとに伺候した。天皇の身近にやって来ると、馬からおり、兜を脱いで中間に持たせ、四方の様子をしっかりと見定めた。すると、臨幸はいままさに始まっているらしく、お供をする公卿たちは、衣冠を身に着けたものもいるし、まだ武装した姿のものもいる。天皇がお乗りになる輿を大床(建物の縁側のようなものか)によせて、新しく典侍(内侍所の二等官)になった女官が、内侍所の櫃(三種の神器のうちの八咫鏡を収めている)を取り出して手に持ち、頭弁(とうのべん)の範国が宝剣と神璽を奉持する役を承って、御簾の前に跪いている。
 ここで、典侍と頭弁が三種の神器を奉持する役割を演じているのが興味深い。天皇に近似して政務から身の回りの世話までを担当する蔵人の事務を担当するのが蔵人所で、その名目的な長官として別当が置かれているが、これは大臣の兼任であり、実質的な長となるのは2人で、大中の弁官と近衛中将からえらばれ、それぞれ頭中弁(あるいは頭弁)、頭中将と呼ばれた。頭弁になるのは(藤原行成に代表されるような)有能な官人であり、頭中将になるのは名門の子弟であった(ということで能力主義と門閥主義のバランスが保たれていたのである)。余計なことを書いておくと、この後、北朝が成立してから建武新政下では辛酸をなめていた日野名子が典侍になる。

 貞満は、天皇の左右に侍っている人々に会釈して、天皇の御前に参り、輿の轅(轅)に取りすがって、涙ながらに申し上げた。「観光のこと、世間の噂でかすかに耳にしておりましたが、義貞はまったく知らないと申しており、聞き違いではないかと考えてこちらに参りましたところ、本当に還幸の儀式がすすめられておりました。義貞がこのように置き去りにされるのはいかなる理由でありましょうか。長年力の限り骨折って忠節を励んできた義貞をお捨てになり、大逆無道の尊氏に、天皇のお気持ちを移されるというのは納得のいかないことです。元弘の初め、義貞は不詳の身なりと言っても、忝くも天皇のお言葉を頂き、鎌倉幕府を数日のうちに滅ぼし、海の西(隠岐)にいらっしゃる天皇のお憂いをたちどころに晴らし申し上げたこと、古い時代を見ても、近年を見ても、まれな忠義の業と言えるのではないでしょうか。その後、尊氏が政府に反逆するようになってから、大敵を退け、その大将(高師久)を生け捕りにし、京の足利方に決死の戦いを挑んだこと、このように命を捨てて天皇のために戦った事例は数え切れません。しかも、魏を重んじて命を軽んじる一族が163人、大将のために命を進んで捨てようという郎従が1万人を越えます。それでも、今、京都をめぐる数回の攻防で、足利方の勢いが強く、宮方は敗北してしまったこと、まったく我々の戦い方がまずかったからではありません。ただひとえに天皇のご運が開けきれないためでありましょうか。新田一族の年来の忠義をお見捨てになり、京都に御臨幸されるというのであれば、義貞をはじめ、一族のものを、御前に引き出して、首を刎ねていただきたく思います」と怒りを浮かべた顔に涙を流し、それでも理路整然と自分たちの主張を申し上げたので、天皇もご自分のご判断の誤りを後悔されるご様子であった。付き従っている人々も、みな、この言上の筋道が立っていることに納得し、またその忠義の心に感じて、首うなだれて座っていたのであった。

 この後、新田義貞が部下を連れて天皇のもとに参上し、事態は思いがけない展開を示すことになる。それはまた次回。新田義貞、脇屋義助の兄弟は、足利尊氏、直義の兄弟に比べて剛勇という点では勝っているかもしれないが、政治力や駆け引きの才能がないし、また動員できる軍事力も限られているという点で劣勢にある。これまでのところ、足利一族はほとんどまとまっているのに対し、新田一族からは足利方に寝返るものが出ているのも目に付くところである。
 

『太平記』(183)

11月6日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、比叡山に押し寄せた足利方の軍勢を撃退した宮方の兵力は、南都(奈良)の支持を取り付けたことで、近畿地方の武士たちの加勢を得て都を包囲、補給路を断たれた足利方は苦境に陥った。しかし、四方から都を攻撃したものの、兵力の大小の差は克服できず、結局足利方に撃退された。この戦闘で三木一草の中でただ一人生き残っていた名和長年が戦死した。いったんは味方すると約束した南都の興福寺の衆徒たちは足利尊氏から荘園を寄進されて、約諾を翻した。宮方は北陸地方からの補給路を足利(斯波)高経、東山・東海道からの補給を近江に陣を取る信濃の守護小笠原貞宗に阻まれて苦境に陥った。近江の足利方を退治しようと派遣した比叡山の衆徒たちが撃退されたため、9月20日に2万の僧兵をえりすぐって派遣し、近江を守っていた小笠原貞宗の軍勢はその大部分が噂を聞いて離脱し、貞宗は討死覚悟で300人の兵とともに犬上郡の多賀に陣を張った。

 多賀は後ろに山が控え、前に犬上川という琵琶湖に注ぐ川が流れる場所である。僧兵たちは騎馬の戦闘は得意でないから、このまま一気に小笠原勢を蹴散らそうと考えていた。ところが僧兵たちが小笠原勢と向かい合って陣を張っていた豊郷(とよさと)の四十九院に早朝6時頃から小笠原勢の先鋒が攻め寄せてきた。比叡山側も応戦して激しい戦いになったが、小笠原勢の先鋒が優勢になり、比叡山の方が少しばかり退却したのにつられて、その後ろにいた雑兵たちが逃亡をはじめ、僧兵の中の主だったものを含む30人余りが戦死したので、琵琶湖を船で渡って、堅田へと逃げ帰ったのである。〔比叡山の方は2万余人、小笠原勢は300余騎で、数的には比叡山の方が優勢であったが、比叡山は歩兵中心、小笠原は騎兵中心であるうえに、小笠原が機先を制したことが結果的に勝敗の分かれ目になったようである。ここでも比叡山=宮方は適当な指揮官がいないことが重要な敗因になっている。〕

 このように小笠原貞宗は宮方と戦って戦功を立てたのであるが、北近江の豪族であり、足利尊氏が六波羅を陥落させた時以来の盟友である佐々木道誉にとって、これは面白いことではなかった。彼は尊氏のもとに出かけ、次のように述べた(『太平記』流布本によると、道誉は勝手に東坂本に向かって、後醍醐天皇と義貞に対して降参してから、述べたことになっている):「近江は我々の家の名の由来となった佐々木の荘の所在地であり、一族のものが代々守護を務めてきました。小笠原が都に向かってきて、思いがけず2度にわたり宮方と対戦し、勝利しましたが、その功績によって近江の守護に任じられるということになると、私が面目を失うことになります。私を近江の守護に任命していただければ、すぐに近江に出かけて、国中の朝敵を平らげ、比叡山の麓の坂本からの補給路を塞いで、敵を兵糧攻めにしてみせます」。尊氏も(おそらくは、道誉とのこれまでの関係から、『流布本』に従えば、後醍醐天皇と義貞は道誉のこの口上に騙されて)この意見に同意し、彼を近江の管領(守護)に任じ、さらにちょうど領主が不在になっていた荘園を数か所、彼に恩賞として与え、近江に赴かせた。
 宮方との戦いで功績を上げた小笠原に対し、道誉が横車を押した形になるのだが、佐々木一門にとって近江は先祖代々勢力を張ってきた土地であるから、何としてもここは守りたいという気持ちもわからないではない。道誉の先祖である佐々木秀義は平治の乱において源義朝を助け、その子の定綱、経高、盛綱、高綱、義清の兄弟は頼朝(と範頼、義経)に従って、平家との戦いに功績を挙げた。その後、定綱の孫の泰綱から六角氏が出て南近江を、泰綱の弟の氏信から京極氏が出て北近江を支配してきた。それまでどちらかというと、六角の方の勢力が強かったので、京極家の当主である道誉が強引なことを言いだすのにはこのような事情も影響しているようである。(林屋辰三郎『佐々木道誉』もこの点を論じている。)

 さて、道誉は京都からひそかに若狭路{京都市左京区大原から途中峠(竜華越:りゅうげごえ)を越えて滋賀県に入り(流布本では、ここで後醍醐天皇に降参したふりをして、近江の守護職に任じられ)、今津から福井県小浜に至る道}を回って(琵琶湖の北側から東側に出て)小笠原に会い、尊氏から近江の守護職を得たと告げた。小笠原は2度にわたり大敵を撃退し、大きな戦功をあげたのだが、それもむなしく上洛したのであった。
 その後、道誉は野洲郡の三上山の麓にある東光寺に陣を取り、近江の守護となり、寺社やその他の所有者の荘園を、自分の配下の武士たちに料所(兵糧を調達する領地)という名目で支配させ、坂本(と比叡山)を遠巻きに兵糧攻めにした。「諸国の料所と云ふ事は、これよりぞ始まりける」(第3分冊、172ページ)と『太平記』の作者は記している。この時点で道誉はそれほど優れた武勲をあげているわけではないのだが、政治的な能力は大したものである。
 比叡山の僧侶の縁者たち、親類、宮方の家来のゆかりのものまでも、それぞれの土地や家を奪われ、近江の国中にはとどまることができなくなってしまった。

 これを聞いて、坂本からすぐさま退治しようと、義貞の弟の脇屋義助を大将にして2千余騎の軍勢を派遣した。この軍勢が船で琵琶湖東岸(草津市内の)志那にわたって、船から降りようとしているところに、道誉が3千余騎を率いて押し寄せ、船から岸にあげさせないようにと防戦した。湖が遠浅で岸の近くまで船を寄せられずに立ち往生したり、船から岸に上がろうとするときに馬を下すことができず、矢にあたったり、切り伏せられたりする兵は数が知れなかった。この日の戦闘にも宮方の軍はまた敗北して、生き残ったわずかな塀が船で坂本へと漕ぎ戻ったのであった。
 この後は比叡山と言わず、その麓の坂本と言わず、兵糧がいよいよ不足してきて、将兵の数も次第に減ってきたのであった。

 今回の箇所は、比叡山の宮方による都の攻囲戦の失敗と、後醍醐天皇の比叡山から都への帰還という重要な箇所のつなぎということになるが、その中で近江の国の支配権を巧みに手に入れ、新しい領国支配・経営に乗り出す佐々木道誉の姿を描いていて、それなりに興味深い。『太平記』の異本によって、道誉の行動の描き方が違っているというのも注目してよいことである。

『太平記』(182)

10月30日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、宮方は京を囲み、新田義貞は足利方の本拠である東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は母方の従兄弟である上杉重能の諫めで思いとどまった。宮方の公家である二条師基と洞院実世の率いる軍勢が弱体であると見抜いた土岐頼遠がこの軍を追い散らしたことから、宮方の軍勢は総崩れとなり、新田義貞・脇屋義助兄弟は血路を開いて辛くも逃走、名和長年は戦死した。〔『太平記』には長年は大宮通で戦死したと記されているが、『梅松論』では三条猪熊とされているそうである。京都市上京区大宮通中立売上ル糸屋町に長年の殉難碑が建てられている。〕

 京都を包囲して四方から攻撃すれば、今度はきっと勝てるだろうと攻撃を頼もしげに期待していた宮方であったが、攻撃側の手違いがあって、寄せ手がまた敗北してしまったので、都の南の八幡に陣を取っていた四条隆資は、この陣地を捨てて坂本へと戻った。東山の阿弥陀峯に陣を取っていた阿波、淡路の武士たちも、細川定禅に打ち負かされて、坂本に帰った。都の西北の方面の入口である長坂を固めていた新田一族の額田為綱らの軍勢も打ち破られて、比叡山に戻っていった。こうして宮方の京都包囲は破られ、今日の足利勢は籠の中を出た鳥のように喜び、宮方は檻に籠る獣のように縮こまったのであった。

 比叡山では奈良の興福寺の大衆たちに、味方するようにと通牒を送り、興福寺の側も同意の返牒を送ってきていたので、その力を借りて反撃しようと待っていたのであるが、足利尊氏から興福寺に数か所の荘園を寄付して味方に引き入れようとされたので、目の前の欲にくらんで恥を忘れてしまい、比叡山に味方するというこれまでの議事を覆して、武家方と同盟する約束をしてしまった。こうなってみると、後醍醐天皇が頼りとされる様な味方としては、備後の桜山(備後の国一の宮の吉備津神社の社家)、備中の那須五郎(那須与一の弟、宗隆の子孫という)、備前の児島、今木、大富らの武士たちが、兵船をそろえて、近日中に参上いたしますと言ってきているのと、伊勢の愛曽(あそ、伊勢・紀伊に住んだ清和源氏武田一族)が、透谷の敵を退治して、豪州に向かうつもりですと連絡してきただけである。

 比叡山では衆徒たちがその財産を尽くして、宮方の士卒の兵糧を賄ってきたのではあったが、武士たちと彼らの従者たちを合わせて20万人という人々を6月の初めから10月の中旬まで養ってきたので、家財がほとんどなくなり、飢餓のために生命の危険に陥りそうになった。それだけでなく、北陸地方からの補給路を足利一族で越前守護の斯波高経が遮断して人を通さず、近江の国では、清和(甲斐)源氏で信濃守護の小笠原貞宗が、野路(滋賀県草津市野路町)、篠原(野洲市大篠原、同小篠原)に陣を取って、琵琶湖を往復する船を止めたので、宮方の軍はイナゴの害による飢えを味わうだけでなく、叡山へのすべての衆徒へのお供えの米を運ぶ道もふさがって、聖教講演の学問も絶え果て、付属する神社の祭礼も行われなかった。

 山門もこのままではいられない、豪州の敵を退治して、美濃、尾張との連絡の道を開こうというので、9月17日に東塔・西塔・横川の三塔の衆徒5千余人が、志那(草津市支那町)の浜から上がって、小笠原が陣を構えている野路、篠原へ押し寄せる。小笠原は、山門が大軍で押しかけてきたのを見て、さしたることもない平地の城に立て籠もって、敵に取り巻かれたらかなわないだろうと判断して、逆に自分の方から攻め寄せた。平地で攻めあって戦ううちに、これまでも宮方の衆徒として活躍してきた道場房猷覚がたちどころに退却し、入れ代わって成願坊源俊が戦ったが、彼の率いる僧たちも全滅した。

 山門はいよいよ怒り狂って、同じ9月の20日、三塔3千人の衆徒の中から500坊の勇猛な僧兵を選び出し、2万余人が、兵船を連ねて押し渡る。これを見た小笠原の軍勢では、山門が大軍を集めてまたもや押しかけてきたと聞いただけで怖気づき、大半のものが逃げてしまって、残った軍勢はわずかに300騎になった。これを聞いて、比叡山の大衆たちは、後続の軍が到着するのを待って陣営を整えることなく、我先に進んだ。一方、小笠原の方で残ったものは、大軍であっても踏みとどまろうという勇猛な武士たちだけなので、気後れするようなことはなく、かくては勇ましく戦って戦死しようと、犬上郡多賀(滋賀県犬上郡多賀町)というところに陣を取った。〔小笠原軍は、草津の辺りから、彦根近くまで北の方に後退していることになる。〕

 この後、比叡山の衆徒と小笠原勢の戦いの次第が記されているのだが、量的なバランスを考えて、今回はここで打ち切ることにした。もともと宮方は数において劣勢なので、都への補給を遮断して苦しめるという作戦は正しかったのだが、奪回を焦って総攻撃をかけたのは性急であった。しかも、その結果として包囲網を破られ、逆に比叡山への補給路が遮断されて苦境に陥り始めた。呉座勇一さんの『応仁の乱』が論じるように、長期の戦いになると食料や武器の補給が勝敗の鍵を握ることになる。宮方の不利はいよいよ深刻なものとなってきた。

トマス・モア『ユートピア』の周辺

10月29日(日)雨、一時激しく降る

 蔵書の整理をしていて、Marie Louse Berneri, Journey through Utopia (Freedom Press) を見付けた。日本では『ユートピアの思想史』としてその翻訳が発行されている。著者のマリー・ルイーズ・ベルネリ(1918-1949)はイタリアのアレッツォ生まれで、8歳の時にファシストの迫害を逃れて家族とともにパリに移り、ソルボンヌで児童心理学を勉強したが、1937年にさらにロンドンに移った。1949年に急死するまで、一方でファシズム、他方でソ連におけるスターリンの独裁を批判し、無政府主義者としての文筆活動を続けた。このJourney through Utopiaは、プラトンの『国家』からザミャーチンの『我ら』、オルダス・ハックスリーの『素晴らしい新世界(Brave New World)』や『浮浪者のユートピア(A Tramp's Utopia)』に至る各種のユートピア文献を概観し、その特徴と問題点をまとめたもので、この種の著作としては最も読み応えのあるものではないかと思う(他に、ルイス・マンフォードの『ユートピアの系譜』という書物があるが、ベルネリの方が分析が鋭い)。一般にはマンフォードの著作の方がよく読まれているのは、彼の方が長生きしたうえに、著述家としての名声が高く、さらにベルネリの思想的な立場が特異であることのためであろう。

 昨日の当ブログでエンゲルスの『空想より科学へ――社会主義の発展――』を読み直したと書いたが、ベルネリを読み直すにあたって、マルクス主義の側からのユートピア論を改めて検討してもいいかなと思ったからである。エンゲルスのこの本の原題はDie Entwicklung des Socialismus von der Utopie zue Wissenschaft (ユートピアから科学への社会主義の発展)であって、マルクス(とエンゲルス)による「科学的社会主義」以前の社会主義的な思想についての批判的な論評がその重要な一部をなしているという記憶があった。ところが、実際に読んでみると、エンゲルスが論じている「空想社会主義」はフランスのサン・シモン(Henri Saint-Simon, 1760-1825)、フーリエ(Charles Fourier, 1772-1837) ,それに英国のオーウェン(Robert Owen, 1771-1858)3人の思想の特徴と問題点を取り上げているだけで、ベルネリのようにユートピア文献一般を論じているわけではない。しかも、ベルネリの方はこの3人の著述をユートピア文献としては取り上げてはいないのである。つまり、両者まったくかみ合っていない。

 ところで、エンゲルスは『空想より科学へ』の中で、産業革命とフランス革命以前の社会主義的な思想についてはほとんど触れておらず、したがってトマス・モアについては触れていないのであるが、モアの『ユートピア』は読んでいたはずである。というのは、彼の僚友であったマルクスは『資本論』の第1巻23章、24章の中でモアの『ユートピア』の「羊は非常におとなしく、また非常に小食だということになっておりますが、今や〔聞くところによると〕大食で乱暴になり始め、人間さえも食らい、畑、住居、町を荒廃、破壊するほどです」(澤田昭夫訳、中公文庫版、74ページ)という箇所を援用しているそうである。〔第一次囲い込み運動について触れたモアのこの個所は、私が受験生時代、よく入試問題として出題されたという記憶がある。〕

 トマス・モアの『ユートピア』は作者であるモアが公務出張中のブルージュでラファエル・ヒュトロダエウスという旅行家に逢って、彼が訪問した国々の中で最も優れた政治が行われていると考えられるユートピアという島の様子を聞くという物語である。このヒュトロダエウスという語り手であるが、澤田さんの注によるとギリシア語の「ヒュトロス」(ばか話)と「ダイオス」(熟達の、焼く)から合成された言葉で、専制君主には恐ろしいばか話の大家、話で焼く人を意味し、エラスムスの「痴愚神」に相当するという。ペンギン・クラシックス版の翻訳者であるポール・ターナーはHythlodaeusは”dispenser of nonsense"という意味だとして、彼の名前をNonsensoと英訳している。だから、モアは語り手の名を借りて、これから展開する物語は作り話ですよ、と断っていることになる。

 この物語はヨーロッパ中の知識人の間で回覧され、様々な人々がこの物語にかかわる詩や書簡を付け加えた。その中で注目すべきものの1つが「ユートピア島についての六行詩」である。
われ孤島なればこそいにしえに無可有郷(ユートピア)とぞ呼ばれける。
されどわれいまプラトンのくにとともども競いあう。
いな、そをしのぐともいうべきや、そはいにしえの哲人が、
言の葉のみにて示せるを、あらわにせるはわれひとり、
人材、浄財、良法の形にあらわにせしものは、このわれひとりなればなり。
そればこそわれ楽園(エウトピア)の名もてよばるべかりけり。(澤田訳、中公文庫版、27ページ)
 つまり、ここでは「ユートピア」は「どこにも無い国」であるけれども「理想郷」でもあるというその2つの意味が要約されている(その存在について話している人が、ばか話の名人であるという留保が付いている)。どこにもないはずの国だけれども、その社会制度のすぐれた性質が、現実に影響を及ぼし始めている。現実にはないはずの国だけれども、現実に影響を及ぼしているとも説かれている。

 「ユートピア」にはこのような、どちらにでも取れる意味の二面性が付いて回る。このような性格は、プラトンは読んでいないから分からないが、モア以来のユートピア文献に付きまとっているものである。問題は、そういうユートピア文献が積み重ねて形成してきた意味とは違った意味合いでエンゲルスが「ユートピア」という言葉を使っていることである。これは誤解を招きやすい。エンゲルスは「現実的な力をもたない」という意味合いで、「ユートピア」という言葉を使っているのに対し、ユートピア文献が積み重ねてきたのは「現実的な影響力をもっているかもしれない虚構である」という意味合いである。エンゲルスは自分たちの社会主義が「科学的」なものであるというが、それもまた「現実的な影響力をもっているかもしれない虚構」であるかもしれない。

 「ユートピア」には二面性がついて回ると書いたが、以上述べてきた以外の二面性、あるいはあいまいさというものが各種のユートピア文献にはついて回っているのである。そのことについては、また機会を改めて書くつもりである。
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