年号と西暦

1月2日(月)晴れ

 昨年1月2日付の当ブログ「新年雑感二題」のなかで、西暦2016年の2016は、平成28年の28で割り切れるが、このような組み合わせは平成に入って5度目(1990/平成2、1992/平成4、1995/平成7,2002/平成14と2016/平成28)であり、これは昭和に続いて多いと書いたついでに、「来年は平成29年、2017年になるはずであるが、29も2017も素数であって、こういう組み合わせが明治以降、いくつあるかは来年の楽しみに取っておくことにする」と書いた。それで、西暦と年号による年数がともに素数になる組み合わせを探ってみた。

 日本の年号の中で、一番長く続いたのは昭和(1926~89の64年間)、次が明治(1868~1912の45年間)、第3位が応永(1394~1428の35年間)で、平成は今のところ第4位であるということも以前に書いた。西暦の年数を年号の年数に換算するとき、その元年が対応する年の数を弾けばよいのだが、その数の性質によって西暦による年数と年号による年数の関係が左右されるということも書いておいた。

 平成に入って、5年(1993)、11年(1999)、23年(2011)、そして29年(2017)が両方とも素数という組み合わせで、合計4度ということになるが、明治は0、大正は1(大正2年/1913)、昭和も1(昭和2年/1927)ということで、平成はほかに比べて多い。これは西暦と明治の換算に使う1867、大正の1911、昭和の1925がすべて奇数であることによるもので、2以外の素数は奇数であるから、換算に使う数字が奇数の場合は2年以外に西暦の素数に対応することは無いためである(明治2年は1869年で、奇数ではあるが、3の倍数である)。

 それで、日本の比較的長く続いた年号について年号による年数と、西暦がともに素数になる組み合わせを洗い出してみると、
天平(奈良時代:聖武天皇729~749、3年/731、5年/733、11年/739)
貞観(平安時代:清和天皇~陽成天皇859~877、5年/863、11年/869、13年871)
延喜(平安時代:醍醐天皇901~923、7年/907、11年/911、13年/913、17年/917,19年919)
文明(戦国時代:後土御門天皇1469~1487、3年/1471,13年/1481)
天正(戦国~安土桃山時代:正親町天皇~後陽成天皇1573~1592、5年/1577,7年/1579、11年/1583、17年/1589,19年/1591)
ということになり、延喜と天正がそれぞれ5回で日本最高記録ということになりそうだ。

 これが中国の年号まで入れると、後漢の光武帝の時代の年号である建武は5年/29、7年/31、13年/37、17年/41、19年/43、23年/47、29年/53と7回もこの組み合わせを経験している。もっとも、この時代の中国人は西暦については知らなかったはずだし、素数という概念も持っていなかった。いわば意識されずに作られた記録ということになる。また、御承知の通り、この建武という年号は後醍醐天皇が鎌倉幕府が亡びたのちに、新しい時代の始まりを意識して選ばれたのである、日本では1度もこの組み合わせを見ることはなかった。
 逆に、唐の太宗の年号である貞観は3年/629、5年/631、11年/637、17年/643、23年/649と5回に終わっているが、日本でもこの年号が採用され、上に見たように3回素数同士の組み合わせを見ている。したがって2つ合わせれば、おそらくはこれが東アジア最高記録ということになるのではないか。おそらくというのは、私も全部の年号について調べてわけではないし、上にあげた数字の中には素数でないものも含まれているかもしれないということである。興味のある方は、歴史関係の本の年代表を点検してみてください。

年頭にあたって

1月1日(日)晴れ

 あけましておめでとうございます。
 私の住んでいる横浜では、よく晴れて、穏やかな元日を迎えることができました。皆さまはどのような元日をお迎えでしょうか。
 昨年中は、多くの方々にこの「たんめん老人のたんたん日記」へのご訪問を頂きました。厚くお礼申し上げます。
 今年は、さらに充実したブログづくりを心掛けていきたいと思います。これまで以上のご愛読・ご支援をお願いいたします。

 相変わらず、読んだ本、見た映画についての論評、歴史・地理にかかわる雑談、時々おもいうかぶ詩などを書き連ねていきたいと思っています。その中で、『神曲』と『太平記』についての連載も続けていくつもりです。『神曲』の方は既に天国篇の第9歌を終えて、どうやら、今年中に終りまでたどり着きそうですが、気持ちを緩めずに本文と解説をしっかり読みながら理解に努めていきたいと思っています。『太平記』の方は昨年の年頭に予想したよりも進み方が遅れていて、まだ第3分冊に進まないままです。おそらく今年中には第3分冊(16巻~21巻)に進むことになるでしょうが、第16巻で楠正成が戦死、第20巻で新田義貞が自殺、第21巻で後醍醐天皇が崩御と大変な展開が待っています。

 杉浦明平は岩波新書の『戦国乱世の文学』の中で、室町時代から戦国時代が日本の歴史における大きな変動期で、「一個の人間として他のどの時代よりも生きるに値するすばらしい時代であるというイメージを捨てることができない」(ⅲページ)と述べています。この本の中で、この時代を代表する人物の1人として、杉浦が高師直の名をあげていることから、彼が南北朝時代を『戦国乱世』の時代に含めて考えていると推測できます。しかし、文化は必ずしも「社会的行動の花々しさと一致しないものらしい」(同上)として、能や狂言の発達、雪舟の絵画などのすばらしい文化的な成果はあるにしても、文学史的には不毛の時代とされていると論じていることに目を向けています。

 そして、「軍記物語さえ『太平記』で叙事詩的性格を失って、『義経記』や『曾我物語』のようにフィクション化するか、それとも『明徳記』その他の局部的な戦争記録に分解してしまって、文学的に論じるに値しなくなる」(同上)と軍記物語の変質・衰退について指摘し、その変質・衰退の表れのひとつとして、『太平記』の前半には「日本の歴史全体を見渡す高い統一的な視点」(4ページ)がみられるが、後半になると「内乱と内紛の永久運動風の繰り返し」(同上)になってしまっていることを取り上げています。

 軍記物語の代表的な作品である『平家物語』を時代の転換期に現れた叙事詩として評価するのが、マルクス主義的な歴史学者であった石母田正をはじめとする人々ですが、これはさらに歴史の転換期には偉大な叙事詩が生まれるというヘーゲルからマルクス主義に引き継がれた文学史の理論に応えようとするもののようです。確かに、『平家物語』には、叙事詩といっても差し支えのないような性格があるのですが、『太平記』はそのような叙事詩といて構想され、作られていった作品といえるのかは疑問で、そのあたりのことにも目を配りながら、読み進めていきたいと考えています。それから、『太平記』が今後、どのようにその記述の対象とスタイルを変化させていくかも検討していきたいところです。

 このほか、昨年取り上げたジェイン・オースティンのその他の小説の紹介、また鷗外の『青年』に続いて、漱石の『三四郎』についての論評、この2作品から出発して、日本における<教養小説>の可能性についても探っていきたいと考えています。文学というものについて、もう少し広い視野から考え直そうと白川静『中国の古代文学』を読み始めているのですが、果たしてブログで取り上げることになりますかどうか…。

 もちろん、このほかの動機や関心から、また単なる楽しみのためにいろいろな本を読んだり、映画を見たり、その他の取り組みをしたりすると思いますが、それらはそれぞれの機会に発表していく(場合によっては発表しない)ことにするつもりです。

 付記:昨年、忘年会を開いてみようかと思っていたのですが、機会がなかったので、新年会を開こうと思います。1月18日シネマヴェーラ渋谷で16:25(~18:41)上映予定の『猫と庄造と三人の女』(豊田四郎監督)、あるいは1月19日神保町シアターで16:30(~18:18)上映予定の『煙突の見える場所』(五所平之助監督)の鑑賞後に集まるというのを考えているのですが、ご意見・ご関心のある方はコメントでご連絡ください。

ジョージ・バークリーの哲学とその周辺

12月14日(水)小雨が降ったりやんだり

 一昨日付の当ブログで木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』(講談社学術文庫)を取り上げたところ、<ささげくん>さんから(<ささげ>さんでいいのかな?)コメントを頂いた。そのコメントを読んで、私の文章の説明不足の部分が分かったので、お礼を兼ねて、補足的な文を書いておきたい。

 木田の著書の関心はマッハとその影響を受けた人々の思想にあるので、『マッハとニーチェ』の第10回「レーニンとロシア・マッハ主義者たち」は、ボグダーノフに代表されるロシアの<マッハ主義者>たちの議論の方を詳しく述べていて、『唯物論と経験批判論』でどのようにレーニンが彼らの主張を論駁したかについてはあまり触れていない。わずかに
「レーニンが『唯物論と経験批判論』で、マッハ/アヴェナリウスを中心とする<経験批判論>をバークリー/ヒュームの主観的観念論の再来として攻撃していることはあらためて言うまでもあるまい」(193-194ページ)と述べている箇所があるので、そこを私のブログでは部分的に取り出したのだが、考えてみると、「バークリー/ヒュームの主観的観念論の再来」だというだけでは、批判にならない。マッハとバークリーやヒュームの考えの近縁性を指摘したうえで、それらがいかに間違っているかを論じなければならないはずである。もちろん、『唯物論と経験批判論』にはそのあたりの議論は書かれているけれども、木田はどうも理解できない部分があるらしく、口を濁しているし、私は読んだけれども忘れてしまったので、ここでは書かないことにする。むしろ、この書物の第1回で、木田が述べていることの方が真相を見抜いているのではないかと思われる:
「レーニンも一時期はこのいわゆる『マッハ主義』に共感を示したといわれるが、しかし彼は、労働者や農民を結集して革命を起こそうというときにこんな洗練されたイデオロギーは有害であり、もっと大ざっぱな分かりやすい理論が必要だと考え、マッハ主義、つまり経験批判論を批判の槍玉にあげたのである。」(22ページ)
 結局、レーニンが生き残って、ボグダーノフが消えたのは、ボリシェヴィキの中でレーニンが政治的に勝利したことと、(木田の本の211ページ辺りを読めばわかるように)ボグダーノフの側の自滅という側面があった、議論に負けたからではなかったようである。

 話を戻すことになるが、優れた思想は時空を超えて影響力を発揮する。とは言うものの、18世紀アイルランドの思想家であるジョージ・バークリー(1685-1753)やスコットランドのデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)と、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてオーストリア=ハンガリーとドイツで活躍したエルンスト・マッハ(1838-1916)の間にはちょっとした距離があり、その間の社会や科学技術の変化に伴っての問題意識や思考方法の違いがあるわけで、マッハの哲学を「バークリー/ヒュームの主観的観念論の再来」と決めつけるだけで物事が片付かないのは明らかである。それで、違いを論じるためには、1人1人の思想を確認する必要があると考えて、まずバークリーの哲学について勉強しなおすために、一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』(ちくま学芸文庫)を読んでみることにした。「まえがき」で著者が述べるところによると「「功利主義」と「分析哲学」という2つの哲学・倫理学の潮流について、両潮流の源流にあたる「経験論哲学」に沿いながら論じ、なおかつ「計量化への志向性」という見地から功利主義と分析哲学が融合していく様子を追跡していくこと」(9ページ)がこの書物の主題である。

 一ノ瀬さんの著書の第4章は「ジョージ・バークリの非物質論」として、バークリー(一ノ瀬さんは「バークリ」という表記をされているが、この書物の75ページに掲げられた肖像画の下には、「バークリー」と書かれている)とその主張の紹介に充てられている。全体で16章からなるこの書物の中で、1章(以上)を与えられている思想家はロック、ヒューム、ベンサム、(J.S.)ミル、ウィトゲンシュタインとバークリーの6人だけであるから、(一ノ瀬さんがバークリーの哲学についての著作を発表しているという事情を考えに入れても)その扱いの大きさが分かるだろうと思う。この章は次のように書き出されている:
 本章では、イギリス経験論の歴史の中で、いささか特異な位置を占めているアイルランドの哲学者、ジョージ・バークリの哲学について検討する。バークリは、20世紀になって、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドやカール・ライムント・ポパーによって形而上学や科学的道具主義という文脈で再評価がなされたり、数学の哲学の文脈で、その厳格主義とか微分法批判といった議論を通じて、現代の分析哲学にも改めて一石を投じるなどして世界的には哲学史上の大物の一人と目されているのだが、なぜか日本では研究者が少なく、せいぜいエピソード的に触れられるだけで、あまり紹介もされていない。
 けれども、バークリの哲学は経験論という思潮の揺らぎを指し示してもいて、経験論哲学の輪郭をとらえるのに最適な事例ともなるし、後の功利主義とも遠く連係もしていて、本書の方針にもしっくりと位置づけることができる。(74-75ページ)

 「なぜか日本では」というのは、一昨日のブログでも触れたように、私にも実感がある。私が主に滞在した外国というのが英国で、次がアイルランドということも関係しているとは思うのだが、書店の哲学書のコーナーで見ると、バークリーの著作、あるいはバークリーについて論じた著作というのはかなり多い。日本とは段違いという感じがある。この違いを生みだした一つの理由は、やはり、レーニンが『唯物論と経験批判論』でバークリーを批判したことであろう。一ノ瀬さんの著作にも
一般にバークリの「ペルキピ原理」は、物質は存在せず、すべては観念であるという観念論の典型的なスローガンとして理解されており、例えばウラジーミル・レーニンは『唯物論と経験批判論』の中で観念論を批判することで唯物論を正当化しようかとするとき、バークリを観念論者の代表としてやり玉に挙げている。」(79-80ページ)と記されている。ここで指摘されているのは、バークリの「ぺルキピ原理」というのは<観念論の典型的なスローガン>として理解されているけれども、それは浅薄な理解であること、その浅薄な理解に乗っかって、レーニンが(<経験批判論>を)観念論と決めつけて批判した(つもりになった)ということである。マッハとともに、バークリーもレーニンの決めつけの被害にあった思想家であるといえそうである。

 バークリーの生涯と業績、特にここで問題になっている「ぺルキピ原理」については、また機会を見つけて書くつもりであるが、彼の哲学がスウィフト(1667-1745)の『ガリヴァー旅行記』(1726)に与えた影響として指摘されているのは次の箇所である。
 ガリヴァーは第2篇の最初の部分で、見知らない土地にたどり着き、そこでは何もかもが巨大であるのに驚きつつ、リリパット(小人国)が懐かしくなってきて
Undoubtedly philosophers are in the right when they tell us, that nothing is great or little otherwise than by comparison.(疑いもなく、比較によらなければ何事も大きくも小さくもないと、哲学者たちが言うのは正しい。) かなり大げさで大真面目な表現であるが、これはバークリーの『視覚新論』(New Theory of Vision, 1709)が物の大きさの判断の相対性を強調している議論に影響を受けているといわれる。中野好夫訳では「大小は要するに比較の問題だと哲学者はいうが、まことにもってそのとおり。)

 物質は存在しないというのは、生活実感からかなり離れた議論であるが、その一方で、物事の見え方、聞こえ方…はそれぞれの受け取り方によって違いがあるということも否定できない。ごく単純に考えても、バークリーは重要な問題に取り組んだ哲学者の1人であったと考えてよさそうである。
(入力ミスで、書きかけの状態でこの記事を公開してしまいました。不手際をお詫びします。)

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)

11月20日(日)晴れ、温暖

 七森さんのブログ『あちこち神社』には熱田神宮探訪の記録が掲載されていて、興味深く読んでいたが、その最後に日割御子(ひさきみこ)神社が紹介され、その祭神が天忍穂耳尊であると記されていたので、七森さんにこの神様を祀っている神社にはほかにどのようなところがあるのかと質問のコメントを出したところ、丁寧な回答を頂いた:

天忍穂耳尊(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)が御祭神の神社といいますと
京都宇治の許波多神社や福岡県の英彦山神宮、
静岡県の伊豆山神宮や長野の戸隠神社日之御子社などが有名だと思います。

別名の五男神、五男三女神ですと境内社としてお祀りしている神社が多いですね。

私がお参りした神社で印象深いのは滋賀県の太郎坊宮です。
ご参考になれば幸いです。

 とにかく、七森さんの回答でこの神様をおまつりする神社が相当数あることを知った。天忍穂耳尊は、天照大神の長子で、高天原から葦原中国に下った瓊瓊杵尊の父親という神様である。いわばつなぎの役割の神様で、高天原に留まったままなので、それほどこの神をおまつりする神社は多くないと思ったのだが、そうでもないようである。自分でも少し調べてみたところ、英彦山神宮や太郎坊宮は山岳信仰との関係が深いようで、太陽の神の子=日子である天忍穂耳尊が山岳信仰とどのように結びつくのかということなど、さらに調べてみたいことは多い。が、まず天忍穂耳尊について調べてみよう。

 この神様がどのような方であるかは『古事記』と『日本書紀』では多少違った描き方がされているのだが、とりあえず、手元ですぐ見つかったのが『古事記』だけなので、『古事記』に従って書くことにする:
 イザナミノミコトを訪ねて黄泉の国に出かけたのちに、イザナキノミコトは九州に戻ってきてみそぎをする。すると、様々な神々が生まれ、最後に左の目を洗ったときに天照大神、右の眼を洗ったときに月読命、鼻を洗ったときにスサノヲノミコトが生まれる。イザナキノミコトは大変喜んで、「私は子を次々に生んで、最後に三柱の貴い子を得た」とおっしゃり、天照大神は高天原を、月読命には夜の世界を、スサノヲノミコトには海原を治めるように命じられた。
 天照大神と月読命はそれぞれ委任を受けた世界を治め始めたが、スサノヲノミコトはそのままイザナキノミコトのもとに留まって泣き叫んでいた。「その泣く状(さま)は、青山は枯山如(な)す泣き枯らし、河海は悉に泣き乾しき。」(『古事記(上)』、講談社学術文庫版、75ページ、そのはげしく泣く有様は、青々とした山が、枯れ木の山のようになるまで泣き枯らし、川や海の水は、すっかり泣き乾してしまうほどであった。) そのために災いを起こす悪神が騒ぎ出した。
 そこでイザナキノミコトがどういうわけでお前は泣きわめいているのかと尋ねられると、スサノヲは自分は亡き母のいる根の堅州国に行きたいと思って泣いているのだと答える。(スサノオは、イザナキとイザナミの間から生まれたのではなくて、イザナキがみそぎをした際に生まれたのだから、母をしたって泣き叫んでいるのは、理屈に合わない。) それでイザナキはひどく怒って、お前はこの国に住んではならないと仰せられ、ただちにスサノヲの命を追放してしまわれた。この後、イザナキは近江の多賀に鎮座された。

 そこでスサノヲノ命は天照大神に事情を説明してから、根の国に出かけようといって、天に上っていったが、その際に山や川がことごとく鳴動し、国土がすべて振動した。その様子を見て天照大神は、弟が私の国を奪おうとしてやってきたに違いないと仰せられ、武装して待ち受け、どういうわけで上ってきたのかと問いただす。スサノヲは、自分が母のところに行きたいと思って泣きわめていて、父親の怒りに触れて、これから母のところに行こうと思うが、その事情を説明にやってきたのだという。

 天照大神は弟神にどうやって自分の潔白を証明するつもりかと尋ねる。これに対してスサノヲは「それぞれ誓約(うけひ)」をして子どもを産みましょう」という。そこで天照大神は弟が見に帯びていた剣を3つに折って、水で清めた後、噛んで砕き、息を吐きだすと3柱の女神が現れた。タギリヒメの命(別名オキツシマヒメノ命)、イチキシマヒメノ命(別名サヨリビメノ命)、タキツヒメノ命である。(この三柱の女神は宗像神社の神々である。)
 スサノヲノ命は天照大神が髪と手に着けていた勾玉の玉の緒を受け取って、同じようにかみ砕いて、息を吹き出すと、マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホノミミノ命、アメノホヒノ命、アマツヒコネノ命、イクツヒコネノ命、クマノクスビノ命の五柱の男神が生まれた。
 アマテラスは、この後で生まれた5柱の男神は、私の持ち物から生まれたので、私の子である。先に生まれた3柱の女神はあなたの持ち物から生まれたので、あなたの子ですと区別された。

 こうして「うけひ」の結果、スサノヲが嘘をついていたわけではないことが分かる。(勝ち負けの判定の解釈をめぐっては諸説あるようである。) とにかく、この「うけひ」で最初に生まれた(『日本書紀』の中には2番目とする説も記載されているようである)神様がアメノオシホノミミノ命である。

 これからいろいろな出来事が起きるのだが、スサノヲノ命は葦原中国に下ってヤマタノオロチを退治したのち、根の国に去ってゆく。その後を、スサノヲの子孫で出雲を拠点とする大国主命が少彦名の命と協力して国作りに励む。しかし、葦原中国はもともと天照大神の子孫が治めるべきであるということで、高天原と出雲との交渉が始まる。そこで再びアメノオシホノミミノ命たちの出番がありそうな形勢となる。さて、どうなるかというのはまたの機会に。

 なお、『古事記』ではイザナキは近江の多賀大社に鎮座されることになっているが、『日本書紀』では淡路島に鎮座されることになっているそうで、両者が同じ内容を伝えていないことに注目してほしい。イザナキは淡路島を中心として活動した海人たちの信じた神であるという説が有力であることはすでに述べた。スサノヲについてもある地方、集団の信じていた神であることに違いなく、日本の古代神話は、そういう様々な集団の神話が組み合わされて作り上げられているようである。だとすると、天忍穂耳命はどういう存在であるのか…と言うことを考えてみたいと思っているのである。 

モミの木

11月19日(土)雨、夜になってやむ。

 クリスマスまであと1か月以上あるというのに、クリスマス商戦が始まっている。昨日(18日)だったと思うが、横浜駅西口のJOINUSを歩いていたら、ドイツ民謡「モミの木」のメロディーが聞こえてきた。この歌はもともとクリスマスの歌であるから、聞こえてきても不思議はない。この歌というと思い出すことがいくつかある。

 中学・高校の6年間を過ごした学校は(外国人の先生が多い学校であったが)、ドイツ人の先生が3人もいらっしゃった。いや、私が中学に入学した時には4人だったのが、そのうち1人の先生が他の学校に移られたので3人になったのである。卒業後に知ったことだが、その3人のうち2人の先生は、ドイツにいらっしゃったときにヒトラー・ユーゲントと対立するカトリックの青年運動に参加されていたそうである。

 それで、専門家ではないから偉そうなことは言えないのだが、学校文化の中にドイツの青年運動の影響がかなり持ち込まれていたように思う。学校の創設当時は毎月遠足をしていたというのはどうもすごい話である。私の時代にはさすがにそういうことはなかったが、いろいろな息抜き場面があったことを懐かしく思い出す。学校で独自に作成した歌の本があり、遠足や海の家や山の家やその他の行事の際に歌う(ことを推奨される)歌が掲載されていた。その中にはドイツの青年運動の中で歌われていた歌がかなりあったようである。詳しく検討したわけではないが、ドイツの大学生の歌のCDを買ってきて聞いたことがあったが、知っている歌がほとんどなかった記憶があって、ということは我々が歌っていた(あるいは、歌わされた)歌は青年運動関係の歌だったようだと考えている次第である。そういう歌に日本語や英語の歌詞を付けて歌ったが、中にはドイツ語の歌詞がそのまま残っているものもあった。その1つが「モミの木(O Tannenbaum)」で、学芸会の際にこの歌を先輩方がドイツ語の歌詞で歌っているのを聞いたことがあるが、我々の学年は歌ったことがないはずである。高校時代に芸術の科目としては音楽を選択したが、イタリア語の歌は歌っても、ドイツ語の歌は歌わなかった。(もちろん、イタリア語を習っていたわけではない。)

 先輩方が「モミの木」をドイツ語の歌詞で歌ったのは、どなたかこの歌を教える先生がいらしたということであろう。ドイツ人の先生がいらっしゃったのだから、中学あるいは高校でドイツ語を勉強したことがあるかというと、そういうことは全くなかった。ドイツ語を教えるくらいならば、英語を余計に教えようというのが学校の方針であったように思う。ある先生は、ドイツ人といっても、アメリカの大学で、英語を母語としない外国人にどのように英語を教えるかということを専攻されていたのであるし、テレビの英会話の時間にゲストとして出演されたことがあるくらいで、ドイツ語は大学に入ってから勉強すればよいと考えられていたのであろう。
 
 これは別のドイツ人の先生の話であるが、日本の学校でよく歌われている「気のいいガチョウ」という歌に「スワビア民謡」と注記されているのはおかしい、「ドイツ民謡」とすべきであるといわれたことがあった。スワビア(Swabia)というのは、ドイツのシュヴァーベン(Schwaben)地方(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州とバイエルン州の西部)のことを英語でこういうので、今、考えてみると、この歌を日本に紹介した人は、アメリカの歌の本からこの歌をとったからこうなったのであろう。アメリカにはドイツからの移住者が少なからずいたし(かのトランプ氏もドイツ系である)、ドイツの歌も入ってきたのであろう。

 ということで、学校文化におけるドイツ(の青年運動)の影響というのは、遠足と歌、山の家、あとはサッカーがその当時は強かったことなどであろうか。
 
 「モミの木」という歌には別の思い出がある。大学に進学してから、高安国世先生のドイツ語の時間でこの歌に出会った。先生が著者であるドイツ語の読本の中にこの歌が収められていて、授業中わざわざこの歌を歌ってくださった。ドイツ語はあまり熱心に勉強しなかったので、どうもそんなことしか授業中の思い出がないのは、困ったことである(同期会の時に、先生から発音を直されたという思い出を語っている友人がいたが、そういう記憶は全くないのである)。先生はついでに、この歌がメーデーの時などに歌われる「赤旗のうた」の原曲であるということにも言及された。

 調べてみると、この歌はアメリカでもクリスマスの歌として歌われているだけでなく、独自の歌詞をつけて、ニューヨーク州にあるコーネル大学(アイヴィー・リーグの一校)の校歌、メリーランド州の州歌(Maryland, O Maryland)、さらにアイオワ州の州歌になっているそうである。それだけ歌いやすい歌だということであろう。日本ではあまり歌われないが、メロディーはよく聞かれる歌になっている。
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