ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(10-2)

8月4日(火)晴れ後曇り

 煉獄の門をくぐって岩山の急な斜面の左右に折れ曲がる裂け目を登り、ダンテとウェルギリウスは斜面がいったん終わって山の周辺に平坦な土地が広がっている場所にたどりつく。そこには高慢の罪を矯正するために謙譲の美徳の例を示す浮彫が、刻まれていた。まず、天使ガブリエルが処女マリアのもとに遣わされる<受胎告知>の場面が
私たちの前に、真に迫って、
物言わぬ像とは見えぬほど
優美な姿でそこに彫られていた。
(149ページ) ダンテがそれに見とれていると、
「知性を一所に留めておいてはならぬ」。
人の心臓がある側に私を
おいて、心優しき師はおっしゃった。
(150ページ) ウェルギリウスの言葉に従って、ダンテは視線を動かし、別の物語を刻んだ浮き彫りに向かった。
そのため私はウェルギリウスを追い越し、
私の目にさらにそれがはっきりと映るように近寄った。
(150-151ページ) 

 そこには旧約聖書に出て来るイスラエルとユダヤの王になったダヴィデがペリシテ人を滅ぼしたのち、神の聖櫃をエルサレムに運び込もうとしたことが描かれていた。聖櫃に触れられるのは神官だけだったが、運搬中に牛がよろけ、ウザという男が聖櫃に手を触れ、神の怒りの雷撃で死んだ(聖櫃に触れるのが神の怒りに触れる越権行為だというのだが、どうも納得できないところがある)。
 3か月後、聖櫃はエルサレムに運び入れられ、
そこでは、祝福された器の前を
服を跳ね上げて踊りながら、謙虚な詩篇の作者が進んでいた。
その時の彼は王以上でもあり以下でもあった。
(152ページ) 「祝福された器」は聖櫃のこと、「詩篇の作者」はダヴィデのことである。旧約聖書の「詩篇」はダヴィデ1人の創作によるものだとは考えられないが、長らくそのように信じられてきたし、ダンテもそう考えていた。彼が喜んで踊る姿は、神に仕える姿であり、人々には召使のように見えたが、神に仕えるが故、神にとっては王以上であった。
 ダヴィデの妃であるミカルはダヴィデの踊る姿を見てさげすんだが、その報いで彼女は子を持てなかったと旧約聖書の『サムエル記』には記されている。ダンテはミカルがダヴィデをさげすむ姿を見たと歌っているが、その後の運命については記していない。(もっともダヴィデの正室であるミカルに子どもができなかったことで、ダヴィデの死後、側室の子どもたちの間で王位継承をめぐり血なまぐさい宮廷内の闘争が起きるのだが、それはこの場面の主題とは無関係である。)

 ダンテが最後に見た浮彫は、ローマの五賢帝の1人であるトラヤヌスの逸話を刻んだものである。トラヤヌスが身寄りのない未亡人の殺された自分の息子の仇をとってくれという訴えを聞き届ける話は、ローマの皇帝が神の定める正義である法と慈悲の精神を実行した例として、ローマ教皇グレゴリウスⅠ世を感動させ、この教皇の祈りを受けてトラヤヌスは生き返って、教皇から洗礼を受けて、天国へ行ったという伝説が中世になると語られるようになった。歴史上のトラヤヌスはキリスト教徒を迫害したのであるが、それは忘れられたのである。そしてダンテは、皇帝であっても神の法の前には謙虚であったとして、ここにその行為を描きだす。新約聖書に基づく物語、旧約聖書に基づく物語、そしてローマ帝国の物語が取り上げられているところに、ダンテの世界観が現われているとみるべきであろう。

 ダンテがこれらの謙譲の徳の例に接して喜びの気持ちに浸っていると、
「ついに現れた。遅々とした歩みだが、
――詩人は呟いていた――大勢の人々が、
この人々が高く連なる階段へ続く道を我らに示してくれるだろう」
(155ページ) 煉獄で現世における罪を清めようとしている人々の霊の群れが現われる。彼らが岩に押しつぶされそうになりながら、地面に這いつくばって進もうとする姿にダンテは驚く。それらの魂は
涙を流しながらこう言っているかのようだった。「もう耐えられぬ」。
(159ページ) 翻訳者である原さんは「ゴシック建築の聖堂の中には、天井や屋根を支える持ち送りや柱の柱頭などに、それを支える彫刻が施され、その中に「私にはもう耐えられません」と記されているものがある」(159ページ)と注記している。たとえ、そう思っても、耐え抜かなければ天国への道は開かれないのである。
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