『太平記』(56)

8月2日(日)晴れ後曇り、一時雨が降ったかもしれない

 元弘3年(1333年)3月12日、播磨に本拠を置く赤松一族は京都に進撃、その一部は六波羅付近まで迫ったが、幕府方の河野九郎左衛門尉と陶山次郎の活躍により撃退される。12日の合戦に敗れた赤松勢は、中院貞能を聖護院宮と称して大将とし、山崎・八幡に陣を置いて西国への道を塞いだ。15日、六波羅勢は西岡で赤松勢と戦った。

 京都で合戦が始まったものの、赤松勢がややもすると不利になる場面があることが伝わってきたので、大塔宮から使者が比叡山延暦寺に派遣され、廻し文が届けられた。大塔宮は以前、天台座主として比叡山にいらっしゃったので、まだ残る影響力を利用して、比叡山の僧兵たちを味方に引き入れようというのである。これを受けて3月26日に比叡山の僧侶たちが大講堂に集まってっ協議した結果、比叡山はもともと皇室を守る垣根の役割を果たしてきた寺院であり、仏法の道場であるとはいえ、その一方で仏敵を滅ぼすために武装を固めてきた。現在の状況を見ると、幕府が横暴をきわめて天皇が苦しまれている。我々は僧侶ではあるが、国家と朝廷のために立ち上がるべき時であるという結論を得る。

 3月28日には六波羅に攻め寄せようと決議され、その知らせが末寺末社だけでなく、付近の武士たちにも届き、3月27日に集まった兵を数えると10万6千余騎に達していた。これだけの大勢で攻めれば、そのうわさを聞いただけで六波羅勢は逃げ出すだろうと勝手に判断して八幡、山崎に陣を構えている赤松勢と連絡を取り合うこともせず、28日の卯の刻(午前6時ごろ)に岡崎の法勝寺で勢揃いをすると決めたので、しっかり武装も整えず、兵糧を食べておくということもせずに、比叡山を東の方へと下る今路、あるいは西の方へと向かう雲母坂を通って都へと向かって行った。

 六波羅の2人の探題はこの情報を得て、比叡山の衆徒たちは大勢ではあるが十分な武装も整えていない烏合の衆である。騎馬の射手をそろえて、三条河原のあたりに待機させ、馬を散開させたり集合させたり自在に動かして、射まくれば追い散らすことができるだろうと判断する。

 比叡山の衆徒の方はそうとは知らず、都に入ったら適当な民家を見つけて宿として、略奪してやろうと(ロクなことを考えていない)集まってくる。前の方の僧兵たちが岡崎の法勝寺、浄土寺の真如堂に到着したころに、後ろの方の僧兵たちはまだ坂本を出発していない。六波羅を圧倒的に上回る兵力であるので、大勝は疑いなしとすでに敵を呑んでかかっている。

 先方の僧兵たちが法勝寺にともかくも到着したころに、六波羅勢7千余騎が三方から攻め寄せて、鬨の声をあげる。急なことで慌てて1,000人余りの兵が西門から迎え撃とうとすると、攻め寄せてきた武士たちは退き、僧兵たちが戻ろうとすると、また進んで攻め寄せようとする。こういうことが何度か続いて、徒歩の僧兵たちがつかれてきたころを見計らって六波羅勢は矢を射かける。僧兵たちが法勝寺に逃げ込もうとすると、西門のあたりに佐治孫五郎という剛勇の武士が待ち構えていて、約1.6メートルというそれまではなかったような長大な刀をふりまわして、僧兵3人を胴切りにして、刀が少し曲がったのを門の扉に宛てて押し直し、さらにやってくる敵は切り捨てるぞと馬上でにらみを利かせている。僧兵たちはこれを見て、その勢いに圧倒され、法勝寺にさらに敵がいるかもしれないと思い、そのまま真如堂の前、神楽岡の後ろを二手に分かれて比叡山へと敗走する。

 敗走する僧兵たちの中に豪鑑、豪仙という比叡山中に名を知られた荒法師がいた。いったんは北白川を目指して逃げかけたが、このまま敗走しては比叡山の名折れになるだけだ、勇ましく戦って名誉を挽回しようと申し合わせて、法勝寺の北門の前に建ち並んで大声で名乗りを上げ、武士たちに勝負を挑む。こうしてしばらくは戦い続けたが、後に続くものもいないまま、雨がfるように矢を浴びせかけられたので、2人とも10カ所以上の傷を負い、今はこれまで、冥途までも同道しようと腹を十文字にかき切って最期を遂げる。これを見て、「日本一の剛の者かな」と惜しまない人はいなかったという。豪鑑、豪線のこのような働きはあったが、比叡山の僧兵たちは、そのほとんどが山上に逃げ帰ったのであった。

 比叡山の衆徒が護良親王の廻し文を受け取って展開する議論は、なかなか形が整っているのだが、肝心の六波羅攻撃になると、指揮系統がはっきりせず、作戦もなにもなくただ押しかけて、経験豊富な武士たちの防戦にあっさりと敗走してしまう。赤松が京都と西国との連絡を遮断したように、北陸地方や東海地方との連絡を遮断するとか、ゲリラ戦で六波羅を挑発して疲弊させるとかいう作戦が取れないところに、優れた指揮官を持たない比叡山の弱点があらわれているようである。

 法勝寺という寺は今はなく、法勝寺町という地名が残っているだけだが、真如堂は今でもあるし、神楽岡、北白川など、私が学生時代を過ごした京都大学近くの地名が登場し、だいたいどのあたりで何が起きたかが想像できた。この時代、鴨川よりも東の一帯に住む人は現在に比べてはるかに少なく、野原や畑であった土地も少なくはないのだろうが、僧兵たちや武士たちの戦闘のために生活を蹂躙されるのはひどい苦しみであっただろうとも思う。
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