『太平記』(55)

7月26日(日)晴れたり曇ったり、蒸し暑い

 元弘3年(1333年)3月12日、赤松円心の率いる軍勢が京都に迫って、桂川を渡り、その将兵の一部は一時六波羅の近くにまで押し寄せたが、六波羅方の河野九郎左衛門尉と陶山次郎の活躍により、六条・七条一帯の戦闘で赤松勢は撃破され、都から退いた。

 とはいうものの、世の中は大いに乱れ、兵火は天を焦さんばかりである。光厳天皇は位につかれてから、年中穏やかな時はなく、武臣たちは戦闘を続けている。これは仏法の威力をもって反乱の鎮定を図らなければ天下の平和は得られそうもないと、各地の有力寺院に、さまざまの大法秘法を行うことを申付けられた。

 天台座主である梶井宮親王は、光厳天皇の弟宮でいらっしゃったので、内裏に修法の壇を作って、仏眼尊を本尊として息災の祈祷を行われた。上皇御所においては裏辻の慈什僧正が壇を立てて、薬師如来を本尊とした厄難消除の修法を行った。武家もまた山門(比叡山延暦寺)、南都(興福寺)、園城寺(三井寺)の僧兵たちの支持を得、仏のご加護を頂くために各地の荘園を寄進し、さまざまの宝物をささげて祈ったのであるが、公家がこれまで行ってきた政治は正しいものとは言えず、武家も悪事を重ねてきたために「神は非礼を享けず」という言葉通り、これらの寺院を味方に引き入れようとする試みはうまくいかず、時がたつにつれて、地方における反幕府の動きは盛んになる一方だとの知らせが相次いだ。

 3月12日の合戦直後に、赤松勢は相当な痛手を蒙っていたので、すぐに追撃の兵を出して、討伐すればよかったのに、都から撃退したことで油断して、そのまま放置しておいたために、あちこちから敗軍の兵が集まってきて、ほどなくその勢いを取り戻したので、赤松は中院貞能を起用して後醍醐天皇の第4皇子聖護院宮と偽り称し、山崎と八幡に陣を張り、木津川、宇治川、桂川が合流して淀川となるあたりを閉鎖して、西国との交通往来を遮断した。「これによつて、洛中の商賈停(しょうことど)まつて、士卒皆転漕の助けに苦しめり」(396ページ、このために洛中の商売は停滞し、士卒は兵糧運搬に駆り出されて苦労した)。ここで中院貞能とあるのは、花山院師賢が後醍醐天皇になり代わって、比叡山に向かわれた際に随行した公卿の1人で、このいきさつは『太平記』2巻に記されているが、そこでは貞能ではなく、貞平とその名を記されている。後醍醐天皇の身代わりを立てるという戦術は護良親王の周辺から出たものであったが、今回の聖護院宮の擁立も護良親王の周辺から出た作戦であった可能性は、赤松と護良親王の関係を考えるとますます大きくなる。

 六波羅の2人の探題は、この事情を知って、3月12日の戦況から判断しても赤松の兵はそれほど大勢ではないのに、大暴れを赦してしまったのは不覚であった。今回は六波羅側から戦いを仕掛け、相手を追い詰めて壊滅させようと5,000余騎の兵を編成して、3月15日に山崎へと向かわせた。この軍勢ははじめ2手に分かれていたが、久我縄手は道が細く土の深い田であるので、進退が不自由であるとの判断から八条から合流して、桂川を渡り、川島(京都市西京区川島)を経て、物集女(もずめ、京都府向日市物集女町)、大原野(京都市西京区大原野)のあたりから押し寄せようとした。

 赤松円心はこの情報を得て、3,000余騎を3手に分けて、1手は足軽の射手をそろえて500余騎、大原野の西の山である小塩山(京都市西京区大原野南春日町)に忍ばせ、別の1手は野伏に騎馬の兵を少々交えて1,000余騎、八幡と山崎の間の渡し場である狐川のあたりに待機させる。もう1手には刀、槍などの武具だけをもった800余騎の兵力をそろえて向日明神(向日市向日町の向日神社)の後ろにある松原に潜ませた。異能集団をそろえての攪乱戦の構えである。

 六波羅勢のほうでは敵がここまで来て迎え撃つとは予想しておらず、むやみに深入りしてあたりの民家に放火をして、先頭の兵が既に向日明神の前を通り過ぎようと過ぎるところに、小塩山の東南の山である吉峰(西京区大原野小塩町、山頂に善峰寺がある)、岩蔵(いわくら、西京区大原野石作町のあたり、西岩倉山金蔵寺がある)の上から足軽の射手たちが一枚の板で作った軽い楯を手に麓の方に駆け下りてきて、散々に射掛けてくる。寄せ手の兵士たちは馬で駆け上って蹴散らそうとするが、山の傾斜が急で昇ることができない。平地へとおびき出して叩き潰そうとするが、その手には乗らない。この連中はそのまま放置して、行きすぎ、敵の主力と戦おうということに決して、西岡(向日市一帯)を通り過ぎようとすると、西岡の武士である坊夫左衛門尉が50余騎のせいで思いがけずも向日明神の近くの小さな松原から攻めかかってくる。これは小勢なので、取り囲んで討ち果たそうとすると、赤松一族の田中、小寺、八木、神崎の兵が100人、200人の小部隊で思い思いに攻め入り、こちらが魚鱗の隊形(敵陣を突破する先頭を細くした鱗形の隊形)で進めると、相手は鶴翼(鶴が翼を広げた形で敵を包囲する陣形)で囲もうとする。これを見て狐川に控えていた500余人が、六波羅勢の背後を絶とうとあぜ道などの一直線の道を伝って道を遮り、包囲しようとするので、六波羅勢は不利を悟って退却した。

 1時間ほどの戦闘だったために六波羅勢の戦死者はそれほどのものではなかったが、美々しく着飾って威風堂々と出発した兵士たちが、ひどく汚れた格好で戻ってきたために、京の町の小路に立って見物していた人々はひどいねぇ、陶山と河野を討伐に向かわせたら、ここまでひどく負けて帰ってくることはなかっただろうにと評判しあいながら、あざ笑った。負けたことで、陶山と河野の名前が上がるという結果となった。

 もともと京都の町は六波羅のある鴨川の東が武士たちの世界で、鴨川の西の洛中は公家たちの世界というすみわけがなされていた。鎌倉時代の末になるとこの秩序が次第に崩れ、洛中の人々が武士を目にすることが多くなった。洛中の庶民たちが武士たちに厳しい目を向けるのには、彼らにとって迷惑な戦闘を展開しているだけでなく、そもそも自分たちの世界に不法侵入してきた連中だという意識があったことも手伝っているようである。

 赤松勢は(数が少ないこともあって)京都を攻略することができず、六波羅勢は反幕府の兵を滅ぼすことができない。個別的な戦いではそれぞれ勝利を収めることがあるが、決定的な勝利は得られないままである。この膠着した戦況に、いつどのような形で転機が訪れるのであろうか。

 
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