『太平記』(54)

7月18日(土)曇り、時々小雨

 元弘3年(1333年)3月12日、赤松円心の率いる軍勢が京に迫り、桂川を挟んで六波羅勢と対峙したが、円心の子息である則祐が川を渡って馬を進め、六波羅勢を後退させた。下京一帯に火が放たれる中、光厳天皇と主だった皇族の方々は六波羅に避難され、多くの貴族がそれに従った。しかし、この夜、六波羅方の河野九郎左衛門尉と陶山次郎の活躍により、六条・七条一帯の戦闘で六波羅方が勝利し、赤松勢は後退を余儀なくされた。

 円心の子息である筑前守貞範と則祐の兄弟は、桂川を渡った際に敵が逃げたのを追いかけて、後に続く味方の兵がいないことにも気づかず、主従6騎で竹田から法性寺大路(奈良方面から京都の南東の方角に向かう幹線道路)を駆け上り、六条河原に達し、六波羅探題の館の西門の前に馬をとめて、続く軍勢を待ち、軍勢が整えば六波羅を攻撃するつもりにしていた。ところが東寺方面から攻め寄せた味方の軍勢が敗退し、自分たちは四方を敵に囲まれていると気付いて、こうなったら敵の中に潜り込んで見方をまとうと敵味方を区別する笠符(かさじるし)をかなぐり捨てて、目立たないところに控えていると、探題から防衛の指揮権を与えられている隅田と高橋が回ってきて、軍勢の中に赤松方のものが紛れ込んでいるかもしれない。彼らは川を渡ってきたので、馬や物の具が濡れていないはずがない。そういうものがいないか、よく調べてみよと触れ回ったので、貞範も則祐もこれはまずいと覚悟を決めて、6騎で轡を並べ、叫び声をあげながら敵の7,000の兵の中に駆け込んだ。そして名乗り声を上げたり、敵に紛れ込んだりしながら戦い続けた。六波羅方は、敵が6人しかいないとは気付かなかったために、大混乱に陥り、各所で同士討ちが起きた。

 それでも大敵を騙すには人数が足りなかったので、6人のうち4人は戦死し、貞範と則祐は離れ離れになった。則祐はただ1騎になってしまって、七条通りを西に、大宮通を南に進んで逃げていくところを、北条一門の印具(いぐ)尾張守の郎等8騎が追いかけて、敵ながらも殊勝な武士と見かけられる、名を名乗ってほしいと呼び掛ける。則祐は馬を急がせながら、名乗る程の武士ではないと言い、8騎との距離を巧みに保ち、逃げ続けた。西八条にある東寺の前を通って、南側に出ると、一族の信濃守範資と先ほど離れ離れになった貞範が300余騎の兵を集めて、平安京の南の入り口であったら城門の後の近くを流れるせせらぎで馬の足を冷やしながら、落ち延びてくる味方の兵を待ち受けていた。則祐はこれを見て、馬を急がせて、この兵士たちの群れの中に駆け込んだので、追ってきた8騎はせっかくいい敵だと思って追いかけてきたのに、とうとう討ち取ることができなかったのは残念だといって去っていった。

 しばらくたつと七条河原、西の朱雀で敗退した兵士たちが集まってきて、ほどなくその数が1,000騎を越えた。赤松はその勢を東西の小路から進ませ、七条あたりでまた鬨の声を上げさせたので、六波羅勢7,000余騎が六条院(伊勢の神官で歌人・風流人として知られた大中臣輔親(954-1038、能宣の子で、伊勢大輔の父)の邸跡)を背後に陣容を整えて迎え撃ち、約4時間ほど攻防が続いた。このままでは戦いの勝敗がつきかねると思われたその時に、河野と陶山の軍勢500余騎が東大宮大路を南に駆け下って赤松勢を包囲しようとしたので、敵に背後に回られた赤松勢は壊滅状態になって多数の戦死者を出し、山崎を目指して敗走する。

 河野、陶山は勝ちに乗じて作道のあたりまで追いかけたが、赤松勢がややもすると反撃に転じる構えを見せるので、これ以上の深追いは無用と鳥羽殿(京都市南区上鳥羽・伏見区下鳥羽の一帯にあった城南離宮)の前で引き返し、六波羅にかけ戻って、生け捕りにした20余人、とった首73人分を切っ先に貫いて披露する。光厳天皇は御簾を捲かせて御覧になり、六波羅両探題は毛皮の敷物に座してこれを改める。天皇は河野と陶山の働きを賞賛され、臨時に宣旨(天皇のご命令)を下されて、河野を対馬守に任命されて御剣を下され、陶山次郎を備中守に任命されて主馬寮の馬を与えられた。これを知った武士たちは、2人が面目を施したことを羨んだり、そねんだりしていた。(光厳天皇のご様子はやや落ち着きがないものに感じられる。)

 赤松の兵が去った翌朝、隅田と高橋は京都中を走り回ってあちこちで行き倒れたり、死んだりしたものの首を集めて、六条河原にさらし首にしたが、その数は873に及んだ。戦死者はそれほど多くなかったはずであるが、自分の功名を言い触らしたいために、無関係な人々の首まで集めて数をそろえたのである。その中に赤松円心入道の首というのが5つもあった。誰の首かわからなかったので、どうせなら敵の大将の首ということにしようということにしたらしい。「京童部(きょうわらんべ)、これを見て『頸を借りたる人は、子をつけて返すべし。赤松入道の討たれもせぬを討たれたると云ふ事は、武家の滅ぶべき相なり』と口々にこそ笑ひける」(394ページ、京の市中にいる口さがない無頼の若者たちは、これを見て、「にせ首を借りて手柄を申し立てる者は、利子をつけて返せ。赤松入道が戦死してもいないのに、戦死したというのは幕府が滅ぶ前兆である」と口々に言って嘲笑ったのであった)。

 今回は、京都市中における合戦の描写となり、地理がわからないと様子がわからないところがある。京都の町は家が建てこんで、道が狭いから、その中での市街戦となると軍勢の多寡よりも士気や作戦の優劣がものをいうことになる。六波羅方の河野、陶山の活躍、宮方の赤松勢の奮戦ぶりはこのことを物語っている。それにしても、勝手に火をつけられたり、家を荒らされたりする住民の迷惑はいかばかりであろうか。かれらが隅田、高橋のような実際にはへっぴり腰で戦いながら、手柄を立てたということについては臆面もなく言い触らす武士たちに厳しい批判の目を向けたのは当然のことであっただろう。
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