映画について話すことと映画批評

3月7日(木)晴れ

 3月のNHKラジオ・まいにちフランス語応用編「映画の話をしよう!」は「映画批評って何だろう」という問題を取り上げている。本日はその第1回:講師である梅本さんがシネマテーク・フランセーズで上映する映画を選ぶ一方で『ル・モンド』紙に映画評を書いているジャン=フランソワ・ロジェと、文化雑誌『レ・ザンロキュップティーブル』誌の編集長であるジャン=マルク・ラランヌという2人のフランス人の映画批評家と行ったシンポジウムからの抜粋。梅本さんが一時期『カイエ・デュ・シネマ』誌の編集長であったセルジュ・ダネー(1944-1992)のPour ecrire une critique, il faut voir et parler et ecrire. (批評を書くためには、見て、話して、書くことが必要だ。なおecrireの初めのeにはアクサン・テギュがつく)という言葉を取り上げて、2人の意見を聞く。

 ラランスはダネーの友人であり『リベラリシオン』紙などで活躍する批評家であるとともに映画作家でもあるルイ・スコレッキのIl n'y a rien de plus vulgaire que de parler de cinema. (映画について語るほど下品なことはない。cinemaのeにはアクサン・テギュがつく)という言葉がboutade(皮肉)であると言いながらも「話す」ことを省く必要を感じているという。映画を観終わった後すぐに意見を言う人たちと話したくないというのである。これに対しロジェは話すかどうかよりも、話す相手がだれかのほうが問題であるという。

 わたし個人についてみると、話したい気分のときもあるし、黙って映画の感想をかみしめたいときもある。同じ人間の中でもどちらが正しいというものではない。映画の話ができる相手がいる方がいいというとも思うし、嫌な相手と話したくないとも思う。しかし同じ相手でも、時と場合によって印象が違うかもしれない。

 年間に3桁の映画を見ていたころ、そのどの作品にも批評を書こうとしていたし、事実書けたのだけれども、ろくでもない批評が少なくなかった。無理して映画を見る必要もないし、批評を書く必要もないと今になって思う。もう少し考え、話し合うことが必要であった。それでも映画を通じて、また映画について書き散らす中での友人は少なくなかったし、今でも友人であり続けている人もいる。試写会のあと、電車の中でずっと映画の話をして、相手が電車を降りて、それ以来会っていないという友人以前の存在もいた。数日後にアメリカに留学するということであった。

 映画について語ることの意味の一つは、映画の細部を忘れないということである。これは読書でも、スポーツ観戦でも同じことではないかと思う。先日、NHKBSで『パットン大戦車軍団』を見ていて、この映画をスクリーンで複数回見ているにもかかわらず、映画の細部をほとんど忘れていたことに気付いた。そういう映画は少なくないのである。『パットン』について、私はこの映画がかなり好きなのだが、この映画が好きだという友人・知人には恵まれなかった。繰り返し語りあうことで細部についての記憶が強められる。

 もちろん、細部を忘れないだけでなく、映画についての全く別の観点を学ぶという意義もある。ただ、これも程度問題である。一時期、映画の心理的な分析に凝っていた時期があり、ルネ・クレマンの『パリは霧に濡れて』について自分なりに分析した結果を話そうと思っていたら、相手の女性に「フェイ・ダナウェーがよかった」というような話をされて腰を折られ、理論を展開できずに終わった記憶がある。

 つまり「話す」と言ってもいろいろな質の会話があるので、その質を問題にすることが必要であろう。
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