ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(8-1)

7月7日(火)雨が降ったりやんだり

 煉獄山の入り口を求めてさまようウェルギリウスとダンテは第6歌で、ウェルギリウスと同じくマントヴァ出身で、ダンテよりも少し前の世代の吟遊詩人ソルデッロの霊にであう。第7歌でソルデッロは、道を急ごうとする2人を引きとめ、王侯の谷で一晩を過ごすことを勧める。そこには自分たちの政治的な任務を完全には果たさなかった王侯たちの霊が、自分たちの罪を許されて天国に向かう日を夢見て祈り暮らしていた。

親しい友に別れを告げてきた日、
船出したものは思いを振り返らせて
心をやわらげる。

あるいはその日一日が死を迎えるのを
悼んで泣いているかのような鐘の音が遠くに聞こえれば、
旅に出たばかりのものを故郷への愛が刺すその刻限、
(118ページ) 人生の岐路に直面して苦しんでいたダンテはウェルギリウスを案内人としてこの大旅行に旅立つことになった。叙事詩の中の彼は、故郷のフィレンツェから追われて旅をする作者自身の反映である。彼は故郷への思いを感じ、その一方で谷から聞こえてくる終祷の聖歌の歌声に耳を奪われる。

「創造主よ、光が消え去る前に、あなたへ」と
その唇からいかにも敬虔に発せられ、その心地よい響きに、
我が知性は己を忘れてそれに惹きつけられてしまった。
(119ページ) これは夜に人間を襲う悪魔的な誘惑を遠ざけ、肉体が穢れぬよう万物の創造主に祈る詩句である。それは天国を窮する声であるとともに、ダンテにとってはフィレンツェの政治に復帰し、平和と安定を実現する希望と重なるものであった。

 ダンテは、
読者よ、ここで鋭い視線を真実へと向けよ。
というのもその覆いの膜はごく薄く、
軽々と中を見通すことができるからだ。
(120ページ)と歌い、読者にアレゴリーの解釈をするように求めている。
 王侯たちのへりくだって恐怖している姿は、髪による救済のためには生前の映画は何の意味ももたないこと、彼らが天空を見つめる姿は神と直接の関係を結ぼうとする希望の表れであり、ただ神を思うことだけが救済をもたらすということが表現されている(ようである)。

 そして、彼は2人の天使が剣を携えて、煉獄に死者の霊を誘惑しようとやってくる蛇から霊たちを守ろうとやってくる姿を見る。一方、ソルデッロは谷を下って、王侯たちの霊に交じり、彼らと話し合うことを勧める。

 ダンテがまず出会ったのは彼がニーノと呼びかける旧知のピサ教皇党の貴族ニーノ・ヴィスコンティ(1265-1296)の霊である。
彼は私に向かって歩み寄り、そして私は彼に向かって歩み寄った。
高貴なる裁き手ニーノよ、どれほど私がうれしかったことか、
邪悪なる罪人どもに混ざらぬ君を見たあの時には、

私達は互いに歓待の言葉をことごとく言い尽くした。
(122-123ページ) そしてニーノはダンテがいつから煉獄にやってきたのかを問い、ダンテは彼がまだ生きていること、そして神の特別の計らいによりこの旅行を続けていることを打ち明ける。すると、ニーノは、もし地上に戻ったら自分の娘のジョヴァンナに自分のために祈ってくれるように伝えてほしいという。死んでも、自分の娘、一族への愛着は残っている。翻訳者である原さんはジョヴァンナの運命について語る。彼女は祖国ピサから追放され、父の死の際には政治的な理由から遺産を剥奪され、トレヴィーゾ僭主の妻となるも、夫は暗殺され、ついには貧窮状態に陥り、フィレンツェ政府の援助で暮らすようになった。王侯たちは、一族の現世的な交流を目指したのだが、その結果として一族のものさえ幸せにできなかったという事実が踏まえられているという。

 ニーノはミラノのヴィスコンティ家、ピサのヴィスコンティ家の対立や自分の妻と娘の運命について嘆かわしそうに語る。ヴィスコンティ家は、ミラノと北イタリアで勢力をふるい、ローマ教皇を出しさえしたのであるが、そういう地上における勢力も魂の救済とは無関係である。封建的な身分の束縛が、この世だけでなく来世にも及ぶという通念に異議を唱えながら、ダンテの叙事詩はつづいていく。

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