『太平記』(52)

7月3日(金)雨

 元弘3年(1333年)閏2月、倒幕の意思を明らかにした播磨の国の赤松円心が勢力を増し、摂津の国の摩耶城に拠点を築いて都を窺う勢いになっていたのに対して、六波羅は5千余騎の兵を差し向けるが緒戦に敗退し、3月にも軍勢を送ったが、酒部・瀬川で戦って大敗した。円心は摩耶城に引き上げようとしたが、子息で護良親王と気脈を通じている則祐が「この勢ども、今4,5日は毎度の負け戦にくたびれて、人馬ともに用に立つべからず。臆病神のさめぬ前に、続いて攻むるものならば、などか六波羅を一戦の中に攻め落とさでは候べき」(377ページ、幕府方の兵は、ここ4,5日は度々の負け戦に疲れはてて、人馬ともに使い物にならないでしょう。臆病神が憑いているうちに、続いて攻めたてれば、どうして六波羅を一度の戦いで攻め落とせないことがありましょう)と勧めるので、幕府方の軍勢を追撃して京都まで攻め寄せることを決心した。

 「六波羅には、かかる事をば夢にも知らず、摩耶城へは大勢を下しつれば、敵を攻め落とす事日を過ぐさじと、心安く思はれて、その左右(そう)今や今やと待ちたりける処に、寄せ手打ち負けて逃げ上りぬと披露はあつて、実説は未だ聞かず。何とある事やらんと、不審端多き処に、3月12日の申刻ばかりに、淀、赤井、山崎、西岡の辺30余ヶ所に火を懸けたり。「こは何事ぞ」と問ふに、「西国の勢、すでに三方より寄せたり」とて、京中上を下へ返して騒動す」(378ページ、六波羅では、そんなこととは夢にも知らず、摩耶城へは大軍を派遣したので、敵を攻め落とすのにそれほどの時日はかからないだろうと、安心してその知らせが今届くか今届くかと待っていたところに、派遣した軍勢は負けて逃亡したという報告はあっても、まだ真相は明らかにならない。どういうことだろうかと不審な点が多い中で、3月12日の午後4時ごろになって、淀(京都市伏見区淀)、赤井(伏見区羽束師から淀の桂川西岸の地)、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)、西岡(伏見区羽束師の西、向日市の一帯の総称)に火が放たれた。「これはどうしたことだ」と問うと、「西国からの兵がすでに三方から押し寄せてきたのだ」というので、都中が上を下にの大騒ぎとなった)。

 両六波羅、つまり南探題の北条時益と北探題の北条仲時は六波羅蜜寺の地蔵堂の鐘を鳴らして、京都市内の兵力を集めようとしたが、主だった兵たちは摩耶城攻撃に参加して敗北した結果、散り散りになっており、そのほかは奉行、頭人などと日頃は武芸とは関係のない武士たちばかりで、右往左往するだけで、大した力にはなりそうにもない。

 六波羅の北探題の北条時益(と、本文にはあるが、実際は仲時であったと脚注に記されている)、都の中で戦うよりも都の外で戦うほうがよいと判断して、配下の検断である隅田、高橋にその頃在京していた2万余騎の兵をつけて、今在家(京都市伏見区今在家町)、作道(朱雀大路の南端から鳥羽へ一直線に南下する道)、西八條(朱雀大路より西側の八条大路)、西の朱雀(下京区朱雀)の一帯に派遣した。これは雪解けによる増水で川の流れが急なのを利用して水辺の合戦をせよという謀である。

 そこへ赤松円心が3,000余騎の兵を二手に分けて、大手は久我縄手(鳥羽から山崎へ至る桂川西岸)、搦手は西七条(朱雀大路より西側の七条大路)から攻め寄せた。大手の軍勢が、まず桂川の西の岸から川向こうの六波羅勢を見渡すと、思いのほかの大軍がひしめいている。とはいうものの、六波羅勢は桂川を前にして防げという指示が出ているので、川を渡って攻撃しようとはしない。赤松勢は敵兵の数が予想以上に多いので、むやみに攻め寄せようとせず、お互いに川を挟んで、矢軍を続けるだけであった。

 その中で円心の息子の則祐は、矢軍を続けていたが、馬に乗って桂川を渡ろうとする。父親の円心はこれを見て、むかしの勇士たちが馬で川を渡って功名を立てたのは、川が増水していなかったからである、それに大軍の中に単身乗り込むのは無謀であると止めようとする。しかし、則祐は敵の不意を突く攻撃が肝要であると川に馬を乗り入れる。これを見て、何人かの主だった武士たちが続いて馬を川に乗り入れ、5騎が敵陣に切り込む。対岸にいた赤松方の兵士たちも、この5騎を犬死させるなと続いて攻め寄せたので、その勢いに押されて六波羅勢は敗走する。

 この間に赤松の配下のものが京都市内の大宮、猪熊、堀川、油小路のあたりの50カ所に火をつけた。さらに何カ所かで小競り合いが起き、市内は騒然とした状態になった。このような騒ぎの中で日野中納言資名とその弟の左大弁宰相(参議)資明の2人は牛車で内裏に向かったが、内裏の四方の門は空いたままで警固の武士もいない。これでは光厳天皇の身辺は危ないと判断した2人は、天皇に六波羅へと移っていただくことにする。天皇が六波羅に向かわれるうちに、大納言堀河具親、三条源大納言(三条通顕、脚注によると実は内大臣であった)、鷲尾中納言(不詳だそうである)、宰相(参議)坊城経顕らが途中で追いついてお供申し上げた。この情報をお聞き及びになって、後伏見院、花園院、東宮の康仁親王、皇后の寿子内親王、光厳天皇の弟で天台座主の尊胤法親王までが六波羅に移られた。六波羅のほうでも驚いたが、とりあえず北庁の館を空けて、上皇と天皇の御所とした。

 どうも大変な事態になってきた。それでも六波羅探題、持明院統に忠義を尽くす日野兄弟はまだまだ思案を巡らすだけの余裕をもっている。六波羅に移った方々の中では鎌倉幕府によって皇太子とされた大覚寺統の康仁親王が異色の存在である。幕府はまだ両統迭立の決まりを重んじて、持明院統の光厳天皇の後継者には大覚寺統の後二条天皇(後醍醐天皇の兄)の孫の康仁親王を立てていたのである。一方、光厳天皇の母である広義門院(西園寺寧子)の名がないのは、実家である西園寺家に身を寄せられていたのか、西園寺家のような大貴族の家柄になれば、自分の邸宅を守るだけの武士は身辺にいたと考えられる。あるいはすでに出家されていて無関係ということであったのか。この後、広義門院は非常に重要な存在となられるだけに注目しておいてよいことである。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR