『太平記』(50)

6月19日(金)雨

 元弘3年(1333年)3月、後醍醐帝は警護役の佐々木義縄の手助けで、幽閉先の隠岐から六条忠顕を供として脱出、舟で伯耆の国名和湊に到着された。土地の有力者である名和長年に勅使を送ると、長年の弟長重の意見により一族は衆議一決し、天皇を船上山(ふねのうえやま/現在では「せんじょうさん」と呼んでいる)にお迎えし、城郭を構えてここを拠点として追っ手の攻撃に備えることとした。

 3月29日に後醍醐天皇を監視していた隠岐前司佐々木清高の兄弟3人と佐々木弾正左衛門が3,000余騎の兵を率いて船上山を攻略しようと押し寄せた。鎌倉時代、山陰地方には宇多源氏の佐々木一族が勢力をふるっていたが、すでにみたようにその内部では対立があったのは、後醍醐天皇の脱出をやはり一族の佐々木義縄が助けていることでもわかる。
 この船上山というのは中国地方の最高峰である大山に連なり、その名のように舟の底のようななだらかな山容をしているが、3つの方角に断崖が続いて要害の地である。とはいうものの、急に天皇をお迎えしたので準備が十分ではなく、濠を掘ったり、塀をめぐらしたりする余裕はなく、あちこちで大木を切り倒して防御の柵とし、この山の中にある船上寺(智積寺)の僧房の屋根を壊してその板を垣楯のように並べただけである。

 押し寄せてきた3,000余騎の兵が坂の途中まで昇って、城塞の様子を窺うと、深い森の中にどのくらいの兵が潜んでいるかわからず、前回に触れたように土屋彦三郎の計略であちこちに中国地方の武士たちの家紋を記した旗が翻っているので、近国の兵士たちが既に加勢に駆けつけているとすると、自分たちの兵力だけでは攻略できないと足取りも鈍りがちになった。立てこもっている兵士たちは自分たちが小勢であることを知られないように、森の木々のなかに隠れて時々遠矢を射かけて時間を稼いでいた。

 一方の寄せ手の指揮をとっていた佐々木弾正左衛門尉は、はるか麓の方に控えていたのだが、どこから飛んできたのかわからない流れ矢に目を射抜かれて、そのまま死んでしまった。このため彼が率いていた500騎は恐れおののいて戦線を離脱してしまった。一族の佐渡前司は800余騎で搦手(背後)に向かったが、急に気が変わって降参してしまった。そんなこととは知らない隠岐前司は正面から全力で戦い続けていた。
 ところが夕方になって天候が急変し、風雨があれ狂いだしたために寄せ手が臆病風に吹かれてその身を隠し始めたところに、山中に潜んでいた名和一族の武士たちが襲い掛かり、寄せ手の軍勢を壊滅させた。

 隠岐前司は命からがら逃げのびて、小舟に乗って隠岐の島に逃げ帰ろうとしたのだが、隠岐の島の人々もすっかり心を宮方に寄せるようになっていて、戻ってきたら討ち取ろうと待ち構えていた。そういう事情なので、上陸できず、日本海を漂流して敦賀にたどりつき、その後(第9巻で語られる)六波羅探題の一行が近江の国の番場で自害する時に、運命を共にすることとなった。「世澆季になりぬと云へども、天理も未だありけるにや、余りに君を悩まし奉りける隠岐前司が、三十余日が間に滅び果て、結句、、首を軍門の幢(はたほこ)に懸けられけるこそ不思議なれ」(366ページ、世は末世になったとはいうものの、天の正しい道理も未だあるということあろうか、天皇を苦しめた隠岐前司が、30日あまりのうちに身を滅ぼして、挙句の果てに首を旗鉾に刺し貫かれて曝されたのである)。

 主上が隠岐国から戻られて、船上山にいらっしゃるという知らせを受けて、中国地方各地の武士たちがはせ参じることとなった。まず、出雲の守護である塩谷判官高貞が、1,000余騎を率いて駆け付け、続いて脱出の手助けをした富士名判官(佐々木義縄)が隠岐から500余騎を率いて加わった。その後、島根県出雲市朝山町に住んでいた武士である朝山次郎が800余騎、鳥取県日野郡日野町金持(かねじ)に住んでいた武士である金持の一党が300余騎、大山の修験道場である大山寺の僧兵たちが700余騎というように、出雲、伯耆、因幡の3か国の武士たちで名のあるものはほとんどが結集したのである。

 さらにそれだけでなく、石見の国では島根県邑智(おおち)郡の沢(佐波とも)一族、浜田市三隅町の三角一族、安芸の国では源平の合戦で活躍した熊谷直実の子孫である熊谷一族、同じく土肥兼平の子孫である小早川一族、美作の国では菅原氏族の武士団で岡山県美作市江見に住む江見、久米郡美咲町垪和(はが)に住む方賀(はが)、津山市に住む渋谷、真庭市に住む南三郷(なんさんごう)の武士たち、備後の国では広島県三次市に住んでいた江田、広沢、三吉、福山市新市町の備後一ノ宮吉備津神社の社家である宮、備中では岡山県新見市の新見、高梁市の成合、三村、井原市の那須、浅口市鴨方の小坂、川村、小田郡の庄、総社市の真壁、備前では岡山県瀬戸内市邑久町の今木、大富、玉野市和田の和田、岡山市藤井の藤井、倉敷市児島の児島(既に4巻に、隠岐に配流されようとする後醍醐天皇を救出しようと企てたことが記されている)、中吉、岡山市北区一ノ宮の備前一宮吉備津彦神社の社家である美濃権介助重(佐重とも)らの武士が参集し、さらに四国、九州の武士たちまでも噂を聴いてわれ先に懸けつけてきたので、集まった軍勢は船上山に収まりきらず、山麓にも兵士たちがひしめいていたのである。
 集まった武士たちについて、岩波文庫の脚注を頼りにできるだけ詳しくその素性を記したが、面倒ならば読み飛ばしていただいて結構である。とにかく、北条氏得宗が支配する鎌倉幕府に対する反発が中国地方、そして四国、九州の武士にまで行き渡り、それが後醍醐天皇を支持する力となって船上山に結集することになった。後醍醐天皇が都に戻り、再び帝位につくことも夢ではなくなってきたのである。こうして、大きな力のうねりを記しながら、第7巻が終わる。次回からは第8巻に入る。 
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