『太平記』(47)

5月29日(金)曇り後雨が降ったりやんだり

 元弘3年(1333年)閏2月、播磨の赤松円心は、山陽道・山陰道をさしふさいで西国の軍勢を止め、兵庫の北の摩耶山に城を構えた。四国では土居・得能が挙兵し、長門探題の軍を破ったとの知らせが六波羅に入った。

 「畿内の軍未だ静まらざるに、また四国、西国、日を追つて乱れければ、人の心、皆薄氷を践(ふ)んで、国の危ふき事深淵の如し」(352ページ。畿内の戦いがまだ平定されないうちに、さらに四国、西国が時のたつにつれてさらに不安な情勢になってきたので、人々の心がますます薄い氷を踏むように先行き不透明を感じるようになり、国の将来の危うさもきわめて深刻なものとなってきた)。

 このように天下が乱れてきた原因は、前天皇の後醍醐が幕府を倒そうというお考えを抱かれたことによるものであるから、もしかして、その前天皇を警備の隙をついて隠岐の島に入り込み、奪い取ろうとするものが出てくると大変なことになると、幕府は隠岐の国の御家人たちに警備を厳重にするように通達する。それで隠岐の国を支配していた隠岐前司佐々木清高は隠岐だけでなく、出雲の御家人たちまで招集して厳重に警戒を続けていた。

 ところが、同じ佐々木一族のなかで現在の松江市玉湯町布志名に住んでいた武士である佐々木富士名判官義縄(綱とも)は閏2月に中門の警備にあたっていたが、何を考えたのであろうか、後醍醐帝を奪い取って幕府に謀反を起こそうと思うようになっていた。とはいうものの前天皇に自分の気持ちを伝える機会はなかった。それでどうすればよいのかと思い煩っていると、ある晩、前天皇は自分に仕えている官女をさし向けて盃を下された。盃を下されるだけだったのか、それとも一杯飲みなさいということであったのかはわからない。とにかく、前天皇から接触してきたので良い機会であると思った義縄は使いにやってきた官女を通じて天皇に自分の気持ちを伝えようとした。
 畿内では楠正成が金剛山に城を構えて幕府の大軍を相手に攻防戦を展開し、幕府方は攻めあぐねて次第に兵力を減らしている。備前では伊東大和次郎が、三石というところに城を構えて、山陽道を塞いでそれより西の兵力が京都に向かおうとするのを通さないようにしている。播磨では赤松円心が大塔宮の令旨を頂いて摂津の国まで攻め上り、兵庫の北の麻耶に陣を構えた。その兵力は既に3,000余騎に達し、都に攻めのぼろうとする勢いである。四国では土居、得能が宮方となって挙兵し、長門探題の北条時直が征伐に向かったが敗退して、行方不明になってしまった。四国の武士たちは皆土居、得能に従って、船を集めて隠岐まで前天皇をお迎えに上がろうとしているとも、京都に攻め上ろうとしているともうわさされている。「御聖運開くべき時すでに至りぬとこそ存じ候へ」(354ページ)。義縄が当番の間に、ひそかに脱出されて、出雲か伯耆のどこかの港まで船で行かれ、しかるべき(頼りになりそうな)武士を味方として、お待ちになっていれば、義縄が味方として参上する所存でおりますと自分の気持ちを伝える。

 官女からこの次第をお聞きになった主上(後醍醐)は、義縄の気持ちを量りかねておいでになったが、彼の気持ちがどこまで本当のものであるかを知るために、使いのものとなっていた官女を義縄に下された(官女の人権を無視している――などという発想はこの時代になかったのであるが、ここは現代の小説家なら想像力をめぐらせて、もう少し官女の気持ちや行動を膨らませて描くところではなかろうか)。とにかく、この官女というのが都から随行してきたのか、現地採用かは知らないけれども、いただいた義縄は感激して、彼女を寵愛してやまず、前天皇への忠誠心を募らせるのであった。

 主上は、これで大丈夫だと判断されて、ある夜の宵に紛れて、京都から随行してきた三位殿(阿野廉子)のお産が近づいてきたので、御所を出られるとおっしゃられて、輿をまわすように申しつけられ、六条少将忠顕(千種忠顕)だけをお連れになって、ひそかに御所をお出になった。都を出るときにはお供していた一条行房はすでに都に戻っており、前天皇の御近くに仕えていたのは忠顕だけであった。しかし、輿に乗ったままでは見かけた人々が怪しむに違いないということで、乗り物に乗らず、御自分で歩いて港に向かわれることになった。これは異例の、きわめてもったいないことであると『太平記』の作者は記している。

 それは3月23日のことであり、あたかも月待の夜であたりは暗く、どこを歩いているとも知らず、暗い夜道を辿り港までの遠い道のりを歩いていると、かなりの距離を歩いたつもりでも、まだ山中の瀧の音が聞こえてくるほどなので、先を急ごうとなさるのだが、もともと歩くということをされない御身分の方であっただけに一向に足は進まない。時々立ち止まってはお休みになっているので、忠顕も気が気ではなく、お手を引いたり、お腰を押したりして、この夜のうちに何とかして港の近くにたどりつこうとするのだけれども、忠顕の方もそれほど歩くことに慣れているわけではなく、露深い野道をさすらい続けるのであった。

 何とか隠岐の御所を脱出した後醍醐ではあったが、港にはまだたどりつけそうもない。御所ではそろそろ脱出に気付いているのではなかろうか。果たして、無事に島から抜け出すことができるか。それはまた次回。
 後醍醐天皇の脱出を阻止しようとしている清高も、脱出を勧めた義縄も同じ一族である。鎌倉幕府の御家人のなかでもすでに宮方に心を寄せるものが少なくなくなっていることがこのことによっても見て取れる。事態はかなり流動的で、強い意志をもって行動するものが強い影響力をふるうことができそうである。
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