鹿鳴館と文化接触

5月24日(日)晴れ

 蔵書の整理をしていて、中野好夫『英文学 夜ばなし』(岩波現代文庫)を見つけた。英文学徒でもなく、英語の教師でもない私がこんな本をもっているのは中野の子息の1人と面識があったからである。戦後の日本を代表する文化人の中で、その子息と面識があり、伝手をたどっていけば話を聞けたかもしれないのに、そうしなかったことを後悔している人が2人いる。1人が竹山道雄(1903-1984)であり、もう1人が中野好夫(1903-1985)である。竹山と話ができるほどドイツ文学や思想に造詣があるわけではなく、中野と話ができるほどに英文学や英国の文化を知悉しているわけではなかった。今となってみると不勉強が恨めしいが、まあ過ぎたことは仕方がない。

 この書物は中野の死後少したって1993年に発行されている、ということは所収の論考がさらに古い時期にかかれているということであるが、日本文化がその近代化の過程でヨーロッパ、とくに英米圏の文化と接触することによって生じた問題を論じている部分は、あまり古くなっていないような気がする。特に印象に残っている部分は、鹿鳴館時代についての著者の論考である。引用が少し長くなることを我慢していただきたい。
「…明治20年代あたりを中心にして、いわゆる鹿鳴館時代なるものがあったことは、読者諸氏もすでに御承知であろう。今の千代田区内幸町、旧薩摩藩上屋敷跡に建てられた官設迎賓館、社交場であったわけだが、元をただせば、どうせ田舎者下級武士上りの伊藤博文、井上馨、いや、あの山県有朋、大山巌、等々といったお歴々までが、柄にもない洋風仮装舞踏会や夜会、慈善パーティなどに、さかんにここで憂き身をやつしたものであった。それというのも、明治日本が、文化的にも、風俗的にも西欧風に追いついたことを、なんとかして見てもらいたい、もちろん条約改正なる大問題への道を少しでも切り開きたいという、いじらしいばかりの苦肉策であったのはわかるにしても、どうせ猿真似の模倣文化であったことには間違いない。当時のある新聞(時事新聞)による情景描写を、いささか長くはなるが、珍文だから引いてみよう。
 「天勾践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ずと十文字を、背旗に黒々と筆太に記したるを背負ひ、鎧上に蓑を着け、冠り笠にて備後三郎に打扮(うちいでた)るは、是れなん、三島通庸警視総監にして、腰蓑に汐桶を荷ひて松風村雨に擬したるは、同氏の令嬢姉妹と聞えし、…頭巾鈴懸金剛杖を突き鳴らし、安宅の弁慶かと見紛ふ山伏は、これぞ渋沢栄一氏にして、同氏の令嬢は胡蝶の舞に扮し最も美麗なりき。・・・素袍(すおう)烏帽子の三河万歳は井上(馨)外務大臣にて、才蔵は杉(享二)内蔵頭なり。佐々木(高行)顧問官は上下を着し、頭にはチョン髷の仮髪を戴き、榎本(武揚)逓信大臣は通常の麻上下を着し、大山(磐)陸軍大臣はチョン髷にして大小を腰に構へたり。古き唐服を着て吉備大臣かと思はしきは、山田(顕義)司法大臣にして、行脚飄然たる富士見西行は、渡辺(洪基)帝国大学総長とぞ聞えし。・・・・・・山県(有朋)内務大臣は、其の昔一隊を引率して幕軍を所々に悩ましたる奇兵隊々長の打扮(いでたち)にて、日本服の筒袖に韮山笠の一種を冠り、両刀を横へ、・・・・・・伊藤(博文)総理大臣は伊太利ベニスの貴族に擬し、同令嬢は同国の田舎娘に……三条(実美)内大臣の令嬢は欧州の花売娘に粧ひ・・・・・・松方(正義)大蔵大臣は烏帽子直垂(ひたたれ)を着して、其の令嬢は稚児の姿に扮し……中にも意外に出でたるは、英国公使館附某が紺の法被に紺股引、刺底の足袋を穿ちて別当の姿に扮したると、ラウダー氏が寿老人に擬したるにぞありき(下略)」
 とにかくこの有様で外国使臣たちを前に、洋楽バンドによる舞踏会をやったのだから、いまから見れば百鬼夜行、とうてい正気の沙汰とは思えぬが、それはどうも思えぬ方が無理なので、わが国だけとはかぎらぬ、先進文化と後進文化とが接触し、もっぱら前者が後者を模倣、吸収しようという場合には、えてして起こり勝ちの戯画的風景なのである」(「異文化接触と国語の問題」、181-182ページ)

 日本史の教科書に登場するような有名人が何をやっていたのかが彼らの思考の中身を含めてよくわかる個所である。『時事新聞』とあるが、福沢諭吉が創刊した『時事新報』のことではないかと思う。最初に登場する三島通庸は福島事件で自由党を弾圧した張本人であるが、なぜか児島高徳に扮している。その令嬢の1人が牧野伸顕の妻となり、その娘が吉田茂の夫人であり、さらに吉田健一が生まれたという関係になる。吉田健一が欧米の文化に通じていたのは先祖伝来の年季が入っていたのである。なお、吉田健一が若くして死んだ自分の母が美しく思えたと回想しているが、三島の娘の写真が残っていて、吉田健一の母方の祖母がそこそこの美貌であったことを確認できる。

 この舞踏会が珍妙であるのは、明治の指導者たちが(たとえばアメリカ風とか、日本の王朝風とかいうように)仮装の基準を決めるという発想をもっていなかったからではないかと思う。先ほど述べたように、この舞踏会の写真が残っており、参加者がかなり苦労して真に迫った仮装をしていることが分かる。しかし、それはしなくてもよい苦労であったと思われる(もっともご本人たちはそれなりに楽しんでいたのかもしれず、だとすると庶民サイドから見ればけしからんことである)。例えば欧米の学校ではトーガ・パーティーというのをやるけれども、これはローマ時代の服装をしてラテン語で会話するパーティーである(服装だけはローマ風で、ラテン語をしゃべらない、というよりも喋れない連中が集まるというのもあるようである)。そういうしゃれっ気が日本に伝わってくるのにはだいぶ時間がかかったというのが中野のいいたいことには含まれているようである。

 その一方で、鹿鳴館というと芥川龍之介の短編「舞踏会」を思い出すという人も少なくないのではないか。江藤淳と三島由紀夫が激賞したというこの作品のこれまでの受容のされ方には問題を感じるけれども、日本人の若い貴族の令嬢が、フランスの海軍士官と踊って、その経験が生涯忘れることのできない思い出になるというこの作品の雰囲気は異文化交流が盛んになってきた今でこそ、さらに改めて噛みしめてみる必要があるのではなかろうか。鹿鳴館を作った政治家たちの思惑とは別のところで、新しい時代の動きが芽生えてきたという解釈も可能なのではないかと思っている。
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