『太平記』(46)

5月22日(金)曇り後晴れ

 元弘3年(1333年)2月、幕府軍は楠正成の立て籠もる千剣破城(ちはやのじょう)を包囲していたが、正成は智略を用いて撃退、大塔宮護良親王の配下の野伏たちが道を塞いで幕府軍の補給線を絶ったために、包囲から脱落する武士たちが多くなって、さしもの大軍も次第にその勢いを失ってきた。その中で、寄せ手に加わっていた新田義貞は、後醍醐方につく決心をして、執事である船田義昌の働きで大塔宮の令旨を手に入れ、急ぎ本国の上野の国(群馬県)に帰っていった。

 楠が大軍を引きつけて奮戦しているために、京都を守護する兵力が手薄になっているという情報が入ってきたので、赤松入道円心はそれまで本拠としていた播磨の国の苔縄の城から打って出て、山陽道、山陰道の2つの道を塞ぎ、山里(兵庫県赤穂郡上郡町山野里)と梨原(兵庫県赤穂郡神郡町梨ケ原)の間に陣を構えた。

 六波羅からの指示によって中国地方の武士たちが上洛しようとやって来たが、三石の宿(岡山県備前市三石)から東へと進もうとしたのを赤松円心の次男である赤松筑前守貞範が梨ケ原と三石の間にある船坂山で防ぎとめて、主だった20名余りの武士を捕虜にした。しかし、赤松は捕虜を厚遇したので、捕虜になった三石の地頭である伊東大和次郎は武家方から宮方にその旗印を変えた。第6巻に出てくる赤坂城に立て籠もった平野将監以下の宮方の将兵を長崎九郎左衛門がすべて斬首したという話と大変な違いである。
 そして伊東は自分の館の近くの三石の山の上に城郭を構え、さらに西にある熊山にも勢力を伸ばしたので、幕府方と宮方の力関係が変わり、備前の守護であった加治源太左衛門が一度の戦いで敗退して、児島の方に落ち延びていくという結果となった。伊東が西の方から上洛を試みる兵力を食い止めることを確信した円心は赤穂郡上郡の高田台のあたりに住んでいた高田兵庫助の城を攻め落とし、そのまま休むことなく、山陽道を攻め上がろうとする。道々、加わる軍勢があって、間もなく7,000余騎になった。そのまま六波羅を攻略することも可能に思われるほどの勢いではあったが、慎重を期して、現在の神戸市の灘区麻耶山上にある名刹忉利天上寺に落ち着いてここに城郭を構えた。この寺は弘法大師が中国から持ち帰ったという釈尊の母麻耶夫人の像を本尊としており、麻耶夫人を本尊とする日本で唯一の寺だというが、円心はそんなことは頓着せず、おそらくは地理的な理由で城郭を構えたのであろう。

 六波羅では、頼りにしている兵力である宇都宮の軍勢は楠の立て籠もる千剣破に向かい、中国地方の兵力は伊東に阻まれて上洛できない、先ず四国の兵力を集めて麻耶に立て籠もる赤松を討伐しようなどと作戦を練っていた。ところが2月4日に、伊予の国(愛媛県)から早馬による使者が到着し、伊予の武士である土居次郎、得能弥三郎が宮方になって挙兵し、伊予の兵を集めて土佐へと向かおうとしたのを聞きつけて、長門探題の北条上野介時直が300艘余りの船で四国に渡って討伐しようとしたが、星岡(松山市星岡町)で大敗を喫してしまっただけでなく、時直親子も行方がしれないという。これで四国野伏はほとんどが宮方についてしまい、その勢既に6,000騎となって宇多津(現在の香川県)、今張(現在の今治)から船に乗って都に攻め上がろうとしているので、警戒が必要であるとの情報を伝えた。

 争乱はいよいよ全国的な規模に拡大する様相を見せている。物語は次から次へと新しい展開を見せ、新しい人物が登場する。次回は、どんなことになるか。 
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