『太平記』(43)

5月9日(土)曇り

 元弘3年(1333年)2月、楠正成の立て籠もる金剛山の千剣破(ちはや)城は幕府の大軍に包囲されたが、正成は智略を用いて再三敵を撃退した。

 包囲軍の大将は阿曽弾正少弼(=北条一門の時治、あるいは治時)であったが、侍大将の長崎四郎左衛門高貞が指揮権を握っていた。高貞は得宗北条高時のもとで勢威をふるっている高資の弟である。彼が千剣破城の有様を見たところでは、力ずくで攻め立てることは、戦死者を多く出すばかりで、成功は期しがたい。ただ、取り囲んで兵糧攻めにせよ」と指示して、戦闘を停止したので、包囲する将兵たちは退屈で仕方がなくなる。そこで、専門の連歌師たちを呼び寄せて一万句の連歌を始めた。

 その最初の日の発句を長崎四郎左衛門の弟の九郎左衛門が
  開きかけて勝つ色見せよ山桜
(338ページ、他の花に先駆けて咲く山桜よ、早くその美しい色を見せてくれ。開(さ)きかけてと先駆けて、且つ色と勝つ色とを掛けている)
と詠んだのに続いて、脇の句に伊豆の国の武士である工藤次郎左衛門(高景)が
  嵐や花のかたきなるらん
(同上、山桜が咲いても、花のかたきの嵐がそれを散らせてしまうだろう)とつけた。「誠に両句ともに、言葉の縁巧みにして、句の体(てい)優なれども、御方をば花になし、敵(かたき)をば嵐にたとへけるは、禁忌なりける表事かなと、後にぞ思ひ知られける」(同上、発句も脇句もともに縁語・掛詞などは巧みで、句の風情も優美だが、味方を花に、敵方を嵐にたとえたのは、口にしてはいけない不吉な前兆であったと、後に思い知らされた)。

 大将の下知に従って、軍勢は戦闘をやめたので、気晴らしの手段がほかになかったのか、将棋、双六などのゲームをして時間をつぶすか、百服の茶(=百服の茶を飲み、京都栂尾の茶や宇治茶などの本場の茶をいう本茶と、その他の茶である非茶とを言い当てる遊び)や褒貶の歌合せ(詠んだ歌の良しあしを批評し合う歌合せ)に日夜興じて時を過ごしたのであった。そうなると、千剣破城内に立て籠もる兵士たちはかえって困惑してしまい、気を晴らす方法もなく、やるかたのない思いをして過ごすことになった。武士らしくない優雅な遊びに興じる包囲軍と、それに当惑する籠城軍の描写はユーモラスだが、幕府と宮方の気分を表しているとも受け取ることができる。

 そうこうするうちに正成は「いでさらば、また寄手に謀して眠り醒まさせん」(339ページ、さあそれならば、寄せ手を欺いて敵の眠りを覚ましてやろう)と藁屑で等身大の人形を2,30体も作り、鎧を着せて武器をもたせ、夜中に城の麓においてその前に畳楯(じょうたて=面が広く、大きい盾)を並べた。その後ろに選り抜きの兵を500人ばかり配置して、夜明けの朝霧の中で、鬨の声を上げさせる。これを聞いて、包囲軍は「それ、城の中から打って出てきた。これこそ敵の運が尽きて死に物狂いでの攻撃だ」と立ち向かおうとする。籠城軍としてはあらかじめ計算していたことなので、矢いくさを少しするように見せかけて、大軍が近づいてくると、人形だけを木の陰に残しおいて、兵隊たちは城へと引き上げてしまう。寄せ手は人形が本物の兵だと思って集まってくるが、そこを狙って上の方から籠城軍は大きな石を落とす。包囲軍はまたもや大量の戦死者、負傷者を出し、強い敵兵だと思っていたのは人形だったので、どう考えても体裁が悪い。「ただとにもかくにも、万人の物笑ひとぞなりにける」(340ページ)。

 この後はいよいよ戦闘状態に入ることなく、諸国の軍勢は何もしないで城を見上げているだけとなり、何か仕掛けようとすることもしない。誰が詠んだのだろうか、新古今和歌集の「よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山の峰の白雲」(あなたをよそにのみ見ては終われないと思いながら葛城の高間の山の峰の白雲を見ている)という歌を翻案して
  余所にのみ見てや休みなむ葛木の高間の山の峰の楠(340ページ、幕府軍は楠を見上げているだけで終わってしまうのだろうか)と詠んで、その歌を大将の前に置いたものがいた。

 鎌倉幕府の御家人たちが北条高時のもとで、都の文化にあこがれるだけでなく、それに染まってしまっている様子がうかがわれて興味深い。これでは大軍で包囲してもなかなか成果が上がらないのは当然かもしれない。その一方で、武略に優れた楠正成の活躍が依然として続く。攻防戦は今後どのような展開を辿るのか。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR