『太平記』(42)

5月3日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)閏2月(史実は正月)、幕府の派遣した大軍は3つに分かれて、それぞれが護良親王の立て籠もる吉野、平野将監入道が立て籠もる赤坂、楠正成があってこもる金剛山の千剣破(千早)城を包囲攻撃した。赤坂城は水利を見抜かれ、水に窮して落城し、平野将監以下の降人はすべて見せしめとして斬首された(第6巻)。良しの上は一進一退の攻防のなか、背後から奇襲をかけられた宮方は総崩れとなった。大塔宮は自害を覚悟されたが、村上義光に叱咤されて城を落ち延び、義光は宮の身代わりとして自害し、義光の子義隆は敵を防いで討ち死にした。

 千剣破城を包囲する軍勢はそれまで到着していた180万騎に赤坂、吉野が落城したので新たに加わった兵力を合わせ200万騎を超えたと『太平記』作者は記す。現在の大阪市の人口を考えると、これは途方もない数字であり、誇張があると思われる。兵力が多すぎて身動きが取れないし、兵站も十分には行えないだろうと思う。とはいうものの、大軍であったことは確かなようで、作者は「城の四方2,3里が間は、見物相撲の場の如く打ち囲みて、尺地をも余さず充満したり」(331‐332ページ)と記す。『相撲伝書』という書物によると、鎌倉時代には相撲を見物する人々が直径7~9メートル(4~5間)の輪を作り、これを「人方屋」といったという。相手を倒したり、この人方屋の中に押し込んだりすれば勝ちとなったが、見物人の中には自分のひいき力士を応援したり、ひいき力士が違う見物人同士が喧嘩を始めたりするので、現在のような土俵が工夫されるようになっていったそうである。とにかく、隙間がないくらいに武士たちが押し寄せ、取り囲んだという。

 「大軍の近づくところ、山勢これがために動き、時の声の震(ふる)ふ中、坤軸(こんじく)須臾(しゅゆ)に摧(くだ)けたり。この勢にも恐れず、わずかに千人に足らぬ小勢にて、誰を慿(たの)み、何を待つとしもなく、城中にこらへて防き戦ひける、楠の心の程こそ不思議なれ」(332ページ、大軍が近づいてきたので、山の形が変化し、鬨の声が響く中、大地の字雲一瞬にして砕け散るようである。この勢いにも恐れることなく、わずか1,000人にも満たない小勢で、誰を当てにし、何を待つともなく、城の中に立て籠もって防戦を続ける楠の心中は測りがたいものであった。)

 この千剣破の城は金剛山地の中で孤立した峯の上にあり、高さ2町(200メートル)あまり、周囲は1里もないという小さい城であり、攻囲軍ははじめから相手を呑んでかかって、「向かひ陣」といって城攻めの際に相手の城の向かいにつくる陣も構えず、われ先に崖を登って敵城へと攻め寄せた。場内の兵は少しも慌てず、上から大きな石を投げかけ投げかけ、攻め寄せる敵の防御用の盾を砕いてから、今度は上から矢を射かける。矢にあたって崖を落ちて来る兵士の下敷きになる者も出て、1日のうちに戦死するものが5千人から6千人を数えた。軍奉行の長崎四郎左衛門が戦死者、負傷者の点検をしたところ、書き役が12人がかりで昼夜ずっと筆を走らせて3日間働きづめとなった。そこで、長崎四郎左衛門は今後、大将の命令を待たずに出撃するものは軍紀違反として罪に問うと触れる。それで各軍勢はしばらく戦闘を断念して、人智をきずくことにした。

 攻囲軍の大将たちが集まって会議を開き、赤坂の城を攻め落としたのは、推理を見抜いたためであった。今回も、千剣破の城を見るに、この小さな山に用水があるとも見受けられず、よその山から樋で水を引いてくるような工夫もできそうにない。しかし、城内には水が余っているように見えるのは、夜になってから城の東側の谷川の水を汲んでいるに違いないと推測する。そこで、北条一族の名越越前守を大将として、その配下の3千余騎を谷川の水辺に配置し、敵が山を下りて来た時の用意に柵を構えて待ち受けた。

 楠はもともと勇気に富んでいたうえに、智略並びない武将であったので、城を構える際に、すでに水利について配慮していた。まずこの峰には「五所の秘水(5カ所の人に知られないように秘密にしてある水)」という山伏たちがひそかに利用している水源があり、この水はどんな日照りの時でも枯れることがないので、とりあえず城内の飲料水に困ることはない。しかし、合戦となると火矢が飛んできたのを消す必要も出てくるし、兵士が普通よりも喉が渇くことも考えられるので、200あまりの水槽をこしらえ、また兵士たちの小屋には雨どいを掛けて、雨水も含め水という水は活用できるように準備していた。雨が降らなくてもまずは40日くらいは持ちこたえられるだろうという心積りである。

 それで、谷川に水を汲みに行く必要はないが、幕府方の兵士たちが待ち構えているうちに、次第に油断しはじめたのを見計らって弓の名手をそろえて奇襲をしかける。名越の兵が慌てて逃げ出した後に、旗や幟が遺されているのを拾い集めて、城に持ち帰り、名越殿からこのようなものをいただきましたが、名越の御紋がついているので、われわれのようには立ちません。お返ししますので、取りに来てくださいと、からかいの言葉を発し、これには幕府側も名越殿の不注意による大失敗だわいと苦笑せざるを得ない。

 こうなると面目を失った名越一族は総出で猛攻を仕掛けて名誉を挽回しようとするが、崖が険しくて簡単には登れず、上を見上げていると、城のほうでは崖の上に横たえてあった大木を10本ばかり落としてきた。これに押しつぶされたり、逃げ惑ううちに上から矢を射かけられたりで、籠城軍から思うようにあしらわれて、多くの兵力を失って引き揚げなければならなかった。要害の地に智将が立てこもっているので、うかつに手出しをできないということがわかり、寄せ手はあえて攻め入ろうという元気をなくしてしまった。

 軍勢の数や、日時の記述に一貫性がかけていて、何をどこまで信じていいのかわからないが、楠の智略がいろいろと紹介され、少数精鋭で、地の利を生かして戦う楠軍と、大軍ながら統率がとれていない幕府軍とが対比されている。もちろん、幕府側もそれなりに頭を使ってはいるのだが、正成の方がその上をいっているということである。幕府が大軍を動員しないと安心できないところに、その焦りを認めることができる。しかし、大軍を動員していることがこれから次第に裏目に出ることになる。
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