『太平記』(41)

5月1日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府軍は大軍を派遣して、大塔宮護良親王の立て籠もる吉野、平野将監入道の立て籠もる赤坂城、そして楠正成の立て籠もる金剛山の3つの城砦を攻囲した。このうち、赤坂城は水利を見抜かれて、水不足に陥ったために落城し、平野将監以下、降伏した将兵はすべて見せしめとして斬られた。それを知った吉野、金剛山の軍勢はますます戦意を募らせていた。というところで、第6巻が終わり、第7巻に入る。

 元弘3年(1333年)正月16日、二階堂出羽入道道蘊が6万余騎の軍勢を率いて大塔宮の立て籠もる吉野へと押し寄せたと第7巻は語り始める。史実とも、第6巻の記述とも整合しない。第6巻には閏2月とあり、二階堂道蘊の率いる軍勢は2万3千余騎と語られている。脚注では、史実に即すと2月であるという。どれが真実かにわかには判断しがたい。

 二階堂道蘊はすでに何度か登場しているが、鎌倉幕府の政所執事の職を世襲する家の出身で、朝廷に対しては融和的な態度を主張する穏健派として描かれてきた。山中に立て籠もる護良親王率いる軍勢は地の利を得ており、式も高く、そう簡単に攻略できそうもない。正月18日に戦いの火ぶたが切られたが、籠城する側は地元の地理に通じており、他方、攻め寄せる側は命知らずの坂東武者たちなので、一進一退の攻防が続く。

 しかし、この時点では幕府方に心を寄せていた吉野の金峯山寺蔵王堂の執行(しゅぎょう=寺務を司る僧)が自分たちが幕府に味方をしているのに城を攻略できないのでは面目がたたない。よく考えてみると、この城は正面から責めるのは困難であるが、背面は地形が厳しいので警備が手薄になっている。奇襲戦に慣れているような足軽(軽装備の歩兵)を使って夜、忍び込ませて、鬨の声をあげさせれば、相手は混乱状態に陥るに違いない。その時を狙って、攻め寄せ、城を陥落させて、大塔宮を捕虜にしようと言い出す。それで夕方から150人ほどの兵士を敵方の背後から忍び込ませ、そのまま夜明けまで待機させる。

 夜が明けて幕府方は3方から攻め寄せ、それを吉野方の500人が防ぎとめようとするが、背後から幕府方の歩兵500人が時の声をあげて押し寄せてきたので、籠城軍は混乱状態に陥る。搦手から攻め寄せた兵士たちは、大塔宮のいらっしゃる蔵王堂に攻め寄せ、大塔宮は形勢の不利を悟られたものの、もともと武勇に秀でた方なので、自ら武器をとって応戦され、敵を蹴散らされる。

 敵がいったん撤退したので、大塔宮は最後の酒盛りを催された。「宮の御鎧に建つ所の矢七筋、御頬先、二の腕二所突かれさせ給ひて、血の流るる事斜めならず(血がおびただしく流れている)」(325ページ)。それをかまわずに、杯を交わし、一座の中に加わっていた赤松一族の木寺相模(頼季)がその太刀の切っ先に敵の首を刺し貫いて、勇壮な歌を歌い、舞ったのは漢の劉邦と楚の項羽が対面した鴻門の会の際に活躍した樊噲を彷彿とさせるものであった。

 自害を決意された大塔宮であったが、これまでずっと宮に従ってきた村上義光が多くの手傷を負いながら御前に参り、まだ血路を開いて落ち延びる道はあるので、恐れながら宮の武具をいただき、身代わりになって敵を防いで、時間を稼ぐので、その間に落ち延びてほしいと申し上げる。宮は、どうしてそんなことができようか、死ぬなら一緒に死のうとおっしゃられたが、義光は漢の高祖(劉邦)が危機に陥ったときに部下の紀信が成り代わって高祖を助けた故事を持ち出し、「これ程に云ひ甲斐なき御所存にて、天下の大事を思し召し立ちける事こそうたてけれ」(327ページ、こんなふがいないお考えで、天下統一の重大事を決意されるとはなさけないことです)と宮を叱咤したので、宮も物の具を御脱ぎになって義光に与えられた。そして、南の方に落ち延びていかれたのを見届けると、義光は櫓の上に上って、われこそは大塔宮護良であると名乗りを上げて自害を遂げる。

 義光の子息である義隆も一緒に自害をしようとしたのを、父親がとめて、宮の逃亡を助けるようにと命じたので、吉野から落ち延びようとする宮方の軍勢を吉野の執行の一隊が追撃しようとするのを、義隆が1人とどまって食い止めようとする。重傷を負って命長らえることはできないと知ると、「細道の真ん中に、太刀ずくみに死したりける」(330ページ、立ったままじっと動かずに死んだのであった)。校注者の兵藤裕己さんは大塔宮は源義経に擬せられていると書いているが、村上義光の最後は弁慶の立往生を思わせる。

 こうして、虎口を逃れた大塔宮は高野山に落ち延びられ、宮のものだと思っていた死体は義光のものであったので、二階堂道蘊は高野山を包囲して、宮の行方を捜索したが、ついに見つからず、やむなく、金剛山の攻囲軍に加わることになった。

 敵とは勇猛に戦いながら、自分の従うものには温情を隠さない護良親王は皇族とはいいながら、武士的な気質をあらわにしている。だからこそ、周辺の武士たちは命を捨てて、身やを守ろうとするのであろうが、このような宮の気質を警戒する人も出てくるだろう。大塔宮はひとまず無事に姿を消したとはいうものの、宮方の3拠点のうち2つが陥落し、残るは楠正成の金剛山だけになった。大軍を相手に、正成がどのように戦うか、それがこれからの関心事である。
 
 
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