『太平記』(38)

4月17日(金)晴れ後曇り

 近畿地方の各地で宮方に味方する武士たちが蜂起する事態について宮方からの注進を受けた鎌倉幕府は、討伐のために大軍を派遣する。

 元弘3年(1333年)閏2月3日、鎌倉幕府軍は大軍を3つに分けて、大塔宮の立て籠もる吉野、河内の豪族である平野将監入道が立てこもった上赤坂城、楠正成の立てこもる金剛山へと向かわせた。吉野に向かったのはこれまでも何度か登場した幕府穏健派の智将二階堂道蘊が率いる2万3千余騎。道蘊対大塔宮。ここは政治折衝による打開策を講じほしいところだが、歴史の女神は時として非情である(第7巻をご覧ください)。赤坂に向かったのは赤橋右馬頭を大将とする8万余騎。赤橋は北条一門の支族で、『太平記』の最重要人物の1人足利尊氏の正室赤橋登子はこの家の出身、鎌倉幕府最後の執権となった盛時の妹であるが、この赤橋右馬頭というのが誰かは特定できないそうである。攻める相手は楠正成ではないのだが、とりあえず天王寺、住吉に陣を取る。そして、楠正成が立てこもる金剛山には北条一門の阿曽弾正少弼を大将として20万余騎が向かう。阿曽弾正少弼というのは北条時治(あるいは治時)だという。さらに、北条一門の大仏武蔵将監(これもだれか特定できないそうである)、名越遠江守(北条宗教)、伊具駿河将監(北条時邦)を大将として、30万騎を搦手(後ろ側)から攻撃させた。中でも悪四郎左衛門と呼ばれる長崎高貞は、侍大将に任じられていたが、特別に派手ないでたちで軍勢に加わった。「わが朝は申すに及ばず、唐土、天竺、大元、南蛮にも、未だこれ程の大軍を動かす事はあり難しとぞ見えたりける」(302ページ)。ものすごい大軍による包囲戦であるが、播磨で蜂起した赤松円心の軍は放置されているのはどうしたことであろうか。

 赤坂城に向かった大将赤橋右馬頭は、後から援軍が追いついてくるのを待とうと、天王寺に2日間滞在し、抜け駆けを固く戒める通達を出す。これは理にかなった指示であるが、にもかかわらず、指示の背後にある指揮官の意図を読み取らず、自己流に勝手に解釈したり、わかっていても別の行動をとる者がいたりして、事態を悪化させる恐れがないわけではない。
 幕府方の軍勢の中に武蔵國の住人で人見四郎入道恩阿というものがいたが、同僚の本間四郎資頼に向かっていうことには、兵力を比べてみて味方の軍の有利は動かし難い。とはいうものの、幕府も七代にわたって政権を維持してきて、満ちたるものは欠けるという天の道理を考えると、幕府がどこまでもつかはわからない。しかも臣下であるのに主君である帝を島流しにするような悪行が積み重なって、いつ罰を受けても不思議ではない。自分も幕府の恩を受けて73歳になってしまった。幕府がその悪行の報いとして滅びるのを見るよりも、ここは明日の合戦にさきがけをして死ぬのが武士としての本望であるという。話を聞いた本間はもっともなことだと思ったが、自分も一番乗りの功名を立てたいと思っていたから、つまらないことをおっしゃいますなぁ、大勢の者が入り乱れての乱戦になってしまえば、さきがけの功名などといっても大したことではありますまい、私は人並みに行動するつもりですと受け流す。話を聞いた恩阿は非常に興ざめた様子で本堂の方に出かけたので、本間は不審に思って配下の者に跡をつけさせたところ、天王寺の西側にある石の鳥居に何事か書きつけて、宿舎へと戻っていった。これを聞いた本間は、思ったとおりである、このままでは人見に明日の先陣を抜け駆けされてしまうと用心して、ただ一人、出陣の準備を整える。

 本間は大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原で夜を明かし、朝霧の中で南の方を見ると、1人の武士がやってくる。紛れもなく人見恩阿である。人見は本間を見て、昨夜貴殿が言われたことを真に受けていれば、私にとっては孫といえるほどの方に出し抜かれるところでしたなぁと笑い、馬を進めていく。本間はこうなった上は、それぞれの功名を考えることなく、2人でともに討死しましょうといって、その後を追う。人見は、言うまでもないことだと本間の提案を受け入れて、2人は後になり、先になりして赤坂に向かう。そして赤坂の城の近くにたどりつくと、大音声に名乗りをあげる。

 城の中の者たちは、これを見て、いかにも坂東の武士たちらしい振る舞いである。源平の一ノ谷の合戦の際に、熊谷直実と平山季重が先陣を争ったのに倣って、自分たちも同じように武勲をあげようとしている連中らしい。後に続く者もない様子であるし、それほど有力な武士とも思われない。「溢(あぶ)れ者の不敵武者、跳(おど)り合うて、命失うて何かせん。ただ置いて、事の様を見よ」(306ページ、落ちこぼれの無鉄砲な武士と渡り合って、命を失って何の得があろう。このまま放置して、成り行きを見よう)と、全く静観・無視して返事をしない。
 人見は腹を立てて、われわれ2人が朝早くから名乗りを上げて挑戦しているのに、それを無視して矢の1本も射てこないのは、臆病風に吹かれたのであろうか、われわれをバカにしているのか。どれどれその心つもりであれば、手柄の程を見せてくれようと馬から下りて、城を取り巻く堀の上に渡された細い橋を渡り、出塀(射撃や物見のために、城の塀の一部を外へ突き出したもの)の陰に隠れて、城門を破ろうとしたので、城の中の兵たちもこれには驚いて、櫓の上から矢を雨のように射かけた。人見も本間ももともと戦死する覚悟であったので、矢を全身に浴びて、命の限りに戦い、死んでいったのである。
 ここで注意してよいのは、武勇をふるって名を残そうとする坂東武士と現実的な上方武士の気質が対照的に記述されていること、平家物語に記された源平合戦の故事が武士たちに記憶されていることである。既に70を越えた人見は平山季重に、若い本間は熊谷直実になぞらえられている。しかも物語のこの続きには、本間の嫡男が登場し、ますます平山・熊谷の物語が思い出されるのである。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR