石田英一郎『一寸法師』

4月13日(月)雨

 4月10日、渋谷の丸善ジュンク堂で、1948年からその後約10年にわたり弘文堂から刊行されていたアテネ文庫の復刻版を見かける。何冊か目にとまった本があり、どれを買おうかと迷ったのだが、結局石田英一郎のこの書物を買った。2010年ごろから復刻が始まったようで、だとすればもっと早く気付いてもよかったのだが、なぜか気づかなかった。アテネ文庫はいわば「幻の文庫本」である。その理由は2つある。石田英一郎のこの書物について紹介・論評する前に、アテネ文庫について少し書いておきたい。

 アテネ文庫は私が中学生のころに、伊勢佐木町の有隣堂の本店で見つけ、またこの文庫に見るべき本が少なくないと書いた辰野隆の文章を読んで、何冊か買い集めた思い出の文庫本である。奥付に記された「刊行のことば」に言う:「むかし、アテネは方一里にみたない小国であった。[とはいえ]…人類文化永遠の礎石を築いた。明日の日本もまた、たとい小さくかつ貧しくとも高き芸術と深き学問とをもって世界に誇る国たらしめねばならぬ。…最低の生活の中にも最高の精神が宿されていなければならぬ。…本文庫もまたかかる日本に相応しく、最も簡素なる小冊の中に最も豊かなる生命を充溢せしめんことを念願するものである」。
 「復刊にあたって」には次のように記されている:「はじめ、アテネ文庫は不足する紙を探すところから始まり、64頁の薄い本として、スタートを切った。何ゆえ、64頁であったのか。一枚の紙に一冊の本を凝縮させて、可能な限り多くの読者に本をお届けする。このことが編集子の強い願いであったからである。(因みにA版全紙1枚は、文庫本64頁になる)
 わずかA版全紙1枚の中に、
「最も簡素なる小冊の中に、…」と高潮した文章で念じた編集子の初志や諒たり」。

 アテネ文庫が「幻の文庫本」であるというのは、1つにはその刊行期間が短く、しかも1冊1冊が100ページに満たない小冊子であったために読者の目につきにくく、広く知られることなく姿を消したことのためである。しかし、この文庫はその一方でキルケゴールや西田幾多郎門下の学者たちの哲学書、青木正児の『抱樽酒話』のような良質の随筆、中村光夫の『小説入門』のような文学評論、かと思うとぬやまひろし(西沢隆二)の『編笠』のような多彩な書目をそろえ、読書家にとって見過ごすことのできない文庫となったのである。(これらのために本泥棒の被害が絶えなかったと言われる)

 ということで、現在、私の手元にあるのは、中村光夫の『小説入門』など数冊だけであるが、復刻を見つけたので、さらに何冊か買い足すつもりでいる。全体では300冊前後が刊行されているが、どの程度復刻されているのかはわからない。もともと30円で売られていたものが、復刻されたものは800円という定価になっていて、時間の推移というものを実感させられる。

 さて、石田英一郎(1903-1968)は日本における文化人類学研究の先達として、柳田国男の民俗学研究と欧米の民族学・文化人類学研究の橋渡しを試みた1人である。この『一寸法師』にしても、前半はおとぎ話の一寸法師と関連する民話と、これらの民話をめぐる柳田の「小サ子」物語についての論考の紹介、そして後半になるとユーラシア大陸に分布している類似性をもつ民話との比較により、この物語が大地母神の信仰に発端をもつのではないかとの考察を展開している。少し強引ではないかという気もするのだが、小冊子の中にその一端が紹介されている個々の説話の面白さがこの書物に大著に匹敵する価値を与えているように思われる。

 私は文化人類学を専門としてはいないが、大学に入学したときに米山俊直先生の自然人類学というなぜか、教養科目の中で自然系列に位置づけられていた授業を聴講して以来この分野に興味をもち、また大学院の受験勉強をしていたころの仲間の1人が文化人類学の研究を目指しており、マーガレット・ミードについての卒業論文を書いたが、これからはフィールドに出て研究したいと抱負を語っていたことなど、身近に文化人類学研究への空気を感じて研究生活を送ってきた。したがって、この友人は石田英一郎を尊敬しながらも、すでに古くなった書物だけの研究者として、乗り越えるべき対象と考えていたようである。

 私はというと、大学院受験時代にはあまりはっきりと自覚していなかったのだが、もともと柳田の影響力の強い環境で教育を受け、大学に入学してまず読んだ本が『遠野物語』であるという一方で、マルクス主義に関心をもちということで、この両者が繋がらないままに、というよりも繋げようとしないままに時を過ごしていた。フィールド研究か書物による研究かという選択を迫られるのは、文化人類学研究に限られるわけではなく、ほかの分野にもあてはまるのだが、どうもそこまで考えが及ばなかった(結局、だらだらと書物中心の研究を続けてきた)のは悔やまれることである。

 『一寸法師』の説話の背景をなす問題を大地母神の信仰に帰着させようとする石田の論考はどうも強引に思えてならないのだが、その一方で日本列島の南北に伝わる「炭焼き小五郎」伝説と八幡信仰の関連について示唆したり、各国の女人国伝承を紹介しながら、その中に日本の女護島伝承を位置付けている個所など、細かい考察には見るべきものが多いように思う。みじかい論考の中に様々な説話が要約・紹介され、それぞれの魅力が読者を惹きつける。石田が結論を焦らずに、個々の説話についてその比較検討を試みていった方がよかったのではないかという気がする。それだけ取り上げられた一つ一つの説話の魅力が豊かでさまざまな要素を含んでいるのである。石田の業績を文化人類学の文脈の中で評価することも1つのやり方ではあるが、より文学的な方向、例えば比較説話学とか、比較神話学の文脈の中で再評価していくことも意味があるのではないかと思っている。
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