『福翁自伝』の行間

3月29日(日)曇り、一時雨

 NHKラジオの朗読の時間で菊池寛の「蘭学事始」を聴いて、幕末の日本で蘭学→洋学が社会に対してどのようなかかわりをもったのかということについて改めて考えてみたくなり、福沢諭吉が晩年に自分のそれまでの人生を振り返って語った談話をまとめた『福翁自伝』を読み返してみた。この書物は若いころから何度も読んできたが、これまでは書いてあることをそのまま受け取って、できるだけ正確に理解することを心掛けてきたつもりである。しかし、それだけでは蘭学→洋学と幕末→明治の日本の社会の関係について十分に知ることはできないのではないかと思い始めた。いかに福澤が偉大な人物であっても、わすれたり、誤って記憶していることや、真相を知っていても黙っていたり、嘘をついたりすることもあるかもしれず、語られている内容についてもう少し立ち入って検討を加えてみようと、気がついたことをいくつか記してみるつもりである。

父百助について
 諭吉の父、百助は豊前中津藩の下士であったが、ひとかどの学問を修め、多くの学者たちと交わっていた。諭吉は父親について、いくつか書き記している。一つは、学問に励む一方で、藩士としての仕事は大阪の金持から藩財政のための借金をすることであったのが不満で仕方がなかったであろうということ。「金銭なんぞ取扱ふよりも読書一偏の学者になつて居たい」(岩波文庫版、18ページ)と父親の気持ちを推察している。父親は倉屋敷の中で手習いを教える師匠が、九九を教えることに反対であったとも記されている。ここで重要なのは、諭吉自身は金銭にも金勘定を含む算術にも無関心ではなかったということである。
 父親は諭吉が幼少の時に死に(父親の死をめぐっては謎があるが、ここでは触れないでおく)、一家は大阪から中津に引き上げるが、中津に戻っても周囲の人々と気風が合わないので、あまりつき合うことをせず、「明けても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるやうなものです」(19ページ)という状態で育つ。しかし、諭吉の兄は父親同様漢学だけを学んでいたが、「豊後の帆足萬里先生の流を汲んで、数学を学んで居ました。帆足先生と云へばなかなか大儒でありながら数学を悦び、先生の説に『鉄砲と算盤は士流の重んず可きものである、其算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くと云ふのは大間違ひ』と云う其説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄もやはり先輩に倣ふて算盤の高尚なところまで進んだ様子です」(27ページ)という。諭吉の兄はこのあたりで止まっていたが、諭吉の方はさらに現実的で、兄からおまえはこれから先何になるつもりだと問われて、「左様さ、先づ日本一の大金持になつて思ふ様金を使ふて見やうと思ひます」(同上)と答えて、兄に苦い顔をさせたと語る。
 学問の世界と金儲けの世界の関係をめぐっては父親と息子では意見が違ってきていることを察知できる。

 その一方で、諭吉が生まれたときに父親が、この子は坊さんにするつもりであると言っていたことを母親から聞き、武士の場合はその家柄によって将来が決まるが、僧侶になれば元の身分にかかわらず出世できる可能性が開けると父親が考えていたのであろうと推測している。僧侶でも、実際のところ、高い家柄の出身の方が出世しやすいと思うのだが、漢学者であった諭吉の父親は別世界である僧侶の世界の方にあこがれを持ったのではないかという気がする。
 それと、諭吉の父親は中村栗園という漢学者と親交があったことが何カ所かで語られているが、この栗園はあまり高い身分の出身ではないのを、諭吉の父親が口をきいたりして、近江の水口藩の藩儒になったのである。諭吉の父親についても、朱子学のように当時の権力と結びつくような学問をすれば、学者としてそれなりの地位につく可能性はないわけではなかったはずである。それを潔しとしなかった理由が何かあるような気がする。
 いずれにしても、封建的な門閥制度への反発は父子に共通している考えである。

 父親の学問について、諭吉は「堀河の伊藤東涯先生が大信心で」(19ページ)と書き記している。これは注目すべきことで、古義学を唱えた伊藤仁斎(1627-1705)ではなくて、その学説を集成し、普及に努めただけでなく、中国の言語や制度についての研究を進めて、漢学の基礎固めをした息子の東涯(1730-1804)の方に傾倒していたのは注目すべきことである。仁斎ではなくて東涯ということの確かな理由は確かめようがないが、東涯の影響は、諭吉の方にも及んでいる可能性がある。
 また野田笛浦(1799-1859)という丹後田辺藩の家老をしていた学者と親交があった一方で、頼山陽とは付き合いがなかったと書いているのも気になるところである。『自伝』の後の方で出てくるが、頼山陽とは付き合いがなかったと書いている一方で、父親の遺品を整理・売却する際に山陽の書いたものもいくらかあったと記されているから、真相はまた別なのかもしれない。気になるというのは、頼山陽と親交があった学者の中に、大塩平八郎(1793-1837)がいて、大塩の乱が起きたのは百助が死んで、一家が中津に移動したその翌年のことだからである。百助と大塩を結び付ける証拠は何もないようであるが、時代の雰囲気を考えるのにはいい材料ではないかと思う。福澤は大塩平八郎については何も書いていないが、行間を読むというのはそういうことではないか。
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