『太平記』(34)

3月26日(木)晴れ

 十津川に潜伏されていた護良親王は、熊野別当の策略で身辺に危険が迫ったため、十津川を出て高野山に向かわれた。途中、芋瀬庄司、ついで玉木庄司が行く手を遮り、とくに玉木庄司の軍勢に出会ったときには、宮はすでに自害を決意され田ほどの危機に直面されたが、野長瀬兄弟の加勢によって救われた。その後、宮は吉野山に入り、城郭を構えて三千余騎の軍勢で立てこもられた。
 玉木は玉置とも書くのではないかというコメントを頂いたが、玉木庄司は奈良県吉野郡十津川村玉置にあった荘園の代官(266ページ)と脚注にあるのを書き落としていた。同じコメントに野長瀬一族の墓が和歌山県田辺市中辺路町近露にあるのを訪問したと記されていたが、この墓のことも校注者である兵藤裕己さんが270ページの脚注に書き留めている。物語に取り上げられている場所について、土地勘のある方々からのコメントを頂くと、具体的なイメージが固まってくるので、今後ともいろいろとご意見を頂きたいと思う。

 さて、第6巻に入り、第5巻の物語を引き継いで、大塔宮の母君である民部卿三位局という女性が登場する。この女性について、岩波文庫版の校注者である兵藤裕己さんは北畠師親(もろちか)の娘親子と記しているが、森茂暁『太平記の群像』(角川文庫)は「『太平記』に「民部卿三位局」として見える女性にはなぞが多い。『本朝皇胤紹運録』は民部卿三位を権大納言源(北畠)師親の娘とし、名は親子とされてきたが、これは誤り。・・・/筆者は、京都府立総合資料館所蔵(東寺旧蔵)の『天台座主記』に尊雲法親王の母として「三品藤原経子」が見えることと、日野氏系図の記載事項とによって、日野経光の娘経子ではなかろうかと推測している。もしそうだとすれば、経子は後醍醐をはるかに上回る年齢だったと考えられる。/『増鏡』によれば、民部卿三位は、はじめ亀山院に仕えて子までもうけた女房で、のち中宮禧子に仕えていた頃に後醍醐天皇の目にとまり、その子を生んだと記されている。彼女が生んだのは、護良親王(尊雲法親王)・妣子内親王などである」(森、33-34ページ)と記す。北畠家の出身と考えるか、日野家の出身と考えるか、また年齢についてもかなり出入りがありそうで、それによって解釈も大きく分かれることになる。森さんは親子説を「誤り」と断定しているが、その根拠が示されていなので、私としてはどちらとも判断を下せない。今のところは、わからないなりに、『太平記』の記述を追っていくことにしよう。

 後醍醐天皇が廃位されて隠岐に移されたことで、その後宮の女性たちの運命も変わったが、そういう女性たちの中に、先帝の寵愛が深かった民部卿三位局がいたと第6巻は語り始める。先帝後醍醐の御身の上の転変を考えるにつけても、心静まらない日々を過ごされていたが、日ごろから信仰されている北野天満宮に7日間にわたり参籠しようというご意向を、神社の社僧に打診された。神社の側としては、幕府に知られるのを、恐れないわけではないが、無情にもお断り申し上げるのもはばかれるので、拝殿の傍らにちょっとした空間を設けて、身分の低い若い女房が参籠しているような様子に見せかけておくことにした。

 民部卿三位局は、大宰府に左遷された菅原道真に、隠岐に配流された後醍醐帝の御身の上を重ねて経文を読まれていた(神様の前で仏教の経文を読むということは、神仏が混淆して信仰されていた時代には奇妙なことではなかった)が、それを暫らく中断されて、
  忘れずは神もあはれと思ひ知れ心づくしのいにしへの旅
(277ページ つらい古えの筑紫への旅をお忘れでないならば、神も先帝をお哀れみください)
という歌を詠み、さすがに疲れが出たのかしばらくまどろまれていると、夢をご覧になった。その夢の中に、衣冠を正しく身にまとった80歳余りに見える老翁が、左の手に梅の花を一枝捧げ持ち、右のてに鳩の杖をとって、苦しそうな様子で局が眠り込んでいる枕元に立った。(梅は天神=菅原道真が愛した植物である。鳩の杖というのは、頭部に鳩の形を掘った老人用の杖で、鳩は食べ物にむせないことにあやかってこのようにしたのである。確かに、年をとってくると、食べ物にむせることが多くなる。)
 局は夢心地ながら、奇怪なことであるとお考えになり「ほんの短い間でも私のもとを訪れる人がいるとは思えないような都を離れた荒れ果てた場所に、不思議にもどなたかが迷ってお立ち寄りになったのでしょうか」と老翁に問いかけられると、この老翁は何か言いたそうな様子であったが、何も言わずにいて、しばらくして帰っていった。その時に、もっていた梅の一枝を局の前に差し出した。局がそれを見ると、一首の歌が書かれていた。
  廻り来てつひにすむべき月影のしばしくもるを何嘆くらむ
(278ページ、日数がたてばやがて澄み渡る月の光が、暫く雲に隠れるのを何の嘆くことがあろう。月影が澄むと、月の都(京)に住むを掛けている。) これは先帝がまた都に戻られることを予言した歌と受け取ることができる。末法の世となっても真心の力は強く、局の参籠が天神の心を動かして、先帝の都への帰還と復位を予告させることとなった。

 前回、『太平記』の作者が大塔宮を天神=菅原道真になぞらえているという読み方を紹介したが、ここではその大塔宮の母親が北野天神に参籠するという経緯が語られている。老翁が天神様ご自身なのか、その御使いなのかなど、わからないことは多い。また、彼が何も告げずに、歌だけを残したのも、大塔宮のその後の運命を考えると意味深長である。あるいは局が菅原道真と後醍醐帝を重ね合わせて歌を詠んだのは、不適切な類推であったのかもしれない。

 物語はここまで護良親王とその周辺の出来事を追いかけてきたが、この後は楠正成の活躍に目を向けることになる。もっともすでにほのめかしたように、正成は後醍醐天皇よりも護良親王と関係が深かったとする学説もあることに留意すべきであるかもしれない。 
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