『太平記』(33)

3月19日(木)曇り後雨が降ったりやんだり

 身辺が安全とはいえなくなってきたために、十津川を出て高野山に向かおうとした大塔宮一行は芋瀬庄司に行く手を阻まれたものの、側近の僧侶や武士たちの働きで切り抜けた。ついで、中津川の峠で玉木庄司の軍勢に襲われ、宮はすでに自害を決意されるという危機に陥った。

 押し寄せてくる玉木の兵は700人余り、迎え撃とうと32人が坂を駆け下りてゆく。坂を登りながら攻め寄せる兵たちは楯を撞き並べて頭上にかざして相手の武器を防ごうとし、坂の上を駆け下りながら迎え撃つ兵たちは太刀やなぎなたで上から相手を攻撃しようとする。両者がいよいよ接近して、いざ交戦という時に、北の山の方から6,700人の兵が赤い旗を立てて駆け寄ってきた。彼らは3手に分かれて、玉木庄司の軍勢に戦いを挑もうとする。

 新たに押し寄せた軍勢の先頭に立つ武者が大声で名乗りをあげるところによると、紀伊の国の住人、野長瀬六郎と七郎の兄弟で、3,000騎の部下を引き連れて大塔宮を迎えに参ったという。玉木庄司に向かい、「ただいま滅ぶべき武家の運命に随つて、即時に運を開かせ給ふべき親王に敵対申しては、一転の間、いづれのところにか身を置かんと思ふ。天罰これを行はんこと、われらが一戦の中にあり」(270-271ページ、間もなく滅ぶはずの幕府の運命に従って、すぐにもご運を開くことになる親王に敵対するというのでは、天下のどこに身を置こうと思うのか。この一戦で既に天罰が下ることになるだろう。)といい放って、攻め寄せる。これを見て、玉木庄司の率いる500騎あまりは、形成が悪いと思って四方八方に散らばって逃げてゆく。

 その後、大塔宮が野長瀬兄弟に向かい、危ないところを助けに来てくれて、まだまだ自分が運に見放されていないことがわかった。しかしなぜ、おまえ達は味方に駆けつけたのかとお尋ねになると、兄弟は、昨日の夕方に、14,5歳ばかりの童子が自分の名前は老松であると名乗りながら、大塔宮が明日十津川を出発されて、小原へおいでなされようとするが、途中必ず妨害に会われるだろう。味方しようとするものは、急いで迎えに参れと触れ回ったのを聞いて、これは宮様の御使いであると思い、はせ参じた次第であると申し上げる。

 大塔宮は、これは人智の及ばぬことであると気付かれ、日ごろ肌身は出さず身につけられているお守りを見ると、口が少し空いているので、不思議なことだとお思いになって、あけて御覧になると、北野天神の神体を金銅で鋳造したものの中で、その眷属神(従者の神)である老松明神の像の体中に汗が滴り、足に泥がついているのが見えた。それで、日ごろ信仰されていた北野天神がその従者の神である老松明神を使いとして、援軍を呼び寄せたのだと気付かれ、「佳運神慮に叶へり。逆徒の退治、何の疑ひかあるべき」(272ページ、われらの幸運は神のおぼしめしにかなっている。逆徒の退治が成功するのは、疑いのないことである)と自信をもたれた。

 それから宮は槇野上野房聖賢が拵えた槇城に入られるが、どうも地理的な条件が悪いうえに狭いとして、吉野の僧兵たちを味方に引き入れたうえで、安禅寺蔵王堂に3,000余騎の兵を集めて立てこもられた。当初は高野山を目指されていたはずであるが、還俗されたとはいえ、天台座主までされた方が、真言宗の本山を頼るというのは筋が通らないと思われたためであろうか。このあたりの事情を『太平記』の作者は語っていない。

 八木聖弥『太平記的世界の研究』(思文閣出版、1999)によると、『太平記』の作者は後醍醐天皇=醍醐天皇、菅原道真=護良親王、藤原時平=足利尊氏という構想をもって、この物語を執筆しているという。だとすれば、天神の眷属神が護良親王を助けるというのはごく当然の成り行きということになる。

 『太平記』5巻はこれで終わり、次回より第6巻に入る。一旦は鎮圧されたかに見えた倒幕の動きであるが、わずかながらその勢いを増し始めてきているようにも思われる。さて、どのような展開が待っているだろうか。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR