織田作之助「木の都」

3月15日(日)曇り

 織田作之助『夫婦善哉 正続 他十二篇』(岩波文庫)を読み終える。この作品集に収められた短編小説の中で、「木の都」は1944(昭和19)年の『新潮』に掲載されたものであり、この文庫本の「解説」を書いている佐藤秀明さんによれば「淡い水彩画風のスケッチ」(371ページ)だというが、織田作の大阪への思いと旧制高校時代の思い出が重なりながら戦時下の大阪の庶民生活を描く完成度の高い作品である。この小説は同じ年に織田作と親交のあった川島雄三によって彼の監督昇進第1作である映画『還って来た男』の原作の1つとして使われている(もう1つ「清楚」という短編が原作として使われているのだが、こちらの方はこの短編集に収められていない)。「木の都」の完成度が高いのと対照的に映画『還って来た男』は監督の映画作家としての可能性を示している一方で、完成度はそれほど高くなく、散漫な印象を受ける。

 「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている」(333ページ)とこの短編は書きだされている。上町(うえまち)と呼ばれる高台の上にある町で生まれ育ち、高台の上の中学校(高津中学→現在の高津高校)を出て、京都にある旧制高校に進学したという語り手の経歴は、織田作の経歴と重なり合う。だからといってここに語られていることのすべてが彼の経験であるとは考えない方がよかろう。
 高台に富裕層が、低地に貧困層が住むという他の多くの都市とは違って、大阪の東の方の高台を称して言う上町は庶民の町である。「例えば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横丁などという町は、もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた。上町の私たちは下町の子として育って来たのである」(334ページ)と書かれている。高台の上にあり、貧乏人の住処が並んでいるために路地が多く、その結果として坂が多い。その中で特に語り手が愛着をもっているのは「口縄坂」である。
 「口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である」(同上)。余談になるが、高校の古文で『徒然草』を読んだ時に「くちなは」という言葉を知り、これが古語だと思っていたのが、関西の大学に進学して、まだ生きている言葉だと知った思い出がある。年少だった語り手はこの坂よりも、坂を登り切ったところにある夕陽丘女学校(現在の夕陽丘高校)があることの方に興味を抱いていたと回想する。しかし、両親が死んだあと、家を畳んだために、この一帯とは没交渉になってしまっていた。
 「天涯孤独の境遇は、転々とした放浪めく生活に馴れやすく、故郷の町は私の頭から去ってしまった。その後私はいくつかの作品でこの町を描いたけれども、しかしそれは著しく架空の匂いを帯びていて、現実の町を描いたとはいえなかった。その町を架空に描きながら現実のその町を訪れてみようという気もものぐさの私には起こらなかった」(336ページ)という語り手の独白は作者がどこまで正直に自分自身について語っているものだろうか。

 ところが、長く故郷に帰ることがなかった語り手は本籍地の区役所に用事ができて、そのために故郷の町を通っていくことになった。そして「足は自然に口縄坂へ向いた」(同上)。坂を登り終えて、彼は思い出の町筋を確かめる。「下駄屋の隣に薬屋があった。薬屋の隣に風呂屋があった。風呂屋の隣に床屋があった。床屋の隣に仏壇屋があった。仏壇屋の隣に桶屋があった。桶屋の隣に標札屋があった。標札屋の隣に……(と見て行って、私はおやと思った。)本屋はもうなかったのである」(337ページ)。
 善書堂という少年時代によく通ったその本屋の思い出が語られる。本屋は「矢野名曲堂」という看板を掲げた別の店になっていた。その店の前にたたずんでいると、標札屋の主人がこちらを見る。語り手はその顔をよく覚えているのだが、主人の方はそうではないらしい。挨拶しようと思ったところ、標札屋の主人は店の中に引っ込んでしまった。まだ、区役所に出頭するまでには時間があるので、語り手は矢野名曲堂の中に入る。ここから物語が展開しはじめる。

 実は矢野名曲堂の主人は語り手の旧知であった。どのような知り合いであったかは、次の機会に書くことにする。
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