『太平記』(32)

3月13日(金)晴れ

 前回の内容をめぐり護良親王が「切目王子からだと牛廻り越え(現「酷道」425号線)を越えていかれたのでしょうか」という拍手コメントを頂いた。和歌山県日高郡印南町にある切目王子神社から十津川方面に向かう道路というと、国道425号線ということになるのだろうが、この道路は昔からあったものではないし、その近くの山道を時には迷いながら歩いていったということではないだろうか。親王の一行が近畿地方の南部を潜行していたことはおそらく事実であろうが、切目王子で方向転換されたかどうかは確実な史料がないようである。実は切目王子は平治の乱の際に熊野詣に向かっていた平清盛が源義朝挙兵の知らせを聞いて、都に引き返した場所なので、そのことが『太平記』作者の念頭にあったとも考えられる。
 1975年に岡見正雄氏が『太平記』が護良親王の活動を十分に拾い上げなかったために、その事績が十分に吟味されていないという問題提起をされているそうである(市沢哲『太平記とその時代』4‐5ページによる)。岡見氏の校注した角川文庫版の『太平記』は読んでいるのだが、この指摘については見落としていた。とにかく、「十分に拾い上げなかった」にしても、親王の動きについてかなり詳しく述べているのは『太平記』だけであり、同じ時代を描く『増鏡』や『梅松論』にはこれほどの記述はない。コメントを受けて、調べてみたのだが、425号線は日本3酷道の一つであるとか、「死にGO」線であるとかいわれて、危険な道路として知られているようである。正確な道筋はわからないが、それがわからないほど険峻な山と谷の中、道なき道を、進んでいったと、ここは文学的に解釈しておきたい。
 
 一旦は十津川に落ち着かれた親王であったが、熊野の別当の策略で、熊野の八庄司が武家方についたため、親王は十津川を出て高野山に向かわれた。芋瀬庄司が宮の行く手に立ちふさがったが、赤松則祐、平賀三郎、村上義光の働きで難を切り抜けた。

 その夜は樵の家であるか猟師の家かはわからない(あるいはその両方であるかもしれない)が、民家で一泊され、さらに山中を北へと向かわれた。薪を背負って道をゆく山の住人達も、親王の噂を聞き知っており、道を尋ねられると、親王に敬意を表して背負っていた薪を下し、跪いて、これから先の道をゆくと玉木庄司という武家方に忠実な代官がいるので、この人物を味方にしない限り、通り抜けるのは難しいという。それで、一行のうちの1人か2人のものを使いに出して、玉木の意見を聞いたほうがよいとのことであった。親王は「「蒭蕘(すうじょう)の言(ことば)までも捨てざる」(266ページ、卑しい民の意見にも耳を傾ける。蒭は草刈り人。蕘はきこり)と昔の人が言ったのはこういうことだなと思われて、片岡八郎、矢田彦七の2人を玉木のもとに使いに出される。

 玉木庄司は2人に会って、事の次第を聞き、返事をせずに館のうちに入ったが、やがて若党、中間たちに武装させている様子が聞こえてきたので、2人は慌てて引き返そうとするが、玉木の家来たちの追撃に遭う。多勢を頼んでの攻撃であったが、武芸においては2人の敵ではなく、真っ先に進んできた武者が簡単に討ち取られてしまう。そこで、追っ手の者たちは遠巻きにして矢を射かけるが、その矢が片岡に当たり、もはや助かりそうもない様子である。片岡は矢田にこの次第を報告しに戻るように言い、矢田は片岡を見捨てるのは心苦しいとは思ったが、ここで2人とも討ち死にするのはかえってよくないと思い直して親王のもとに戻る。

 親王にこれまでの次第を復命すると「さては、遁(のが)れぬ道に行き迫(つま)りぬ。運の窮達、嘆くに詞(ことば)なし」(268ページ、さては逃げることのできない道に差し掛かってしまった。運がきわまるのと開けるのとは、天命によること絵、嘆いても仕方ない)と、親王だけでなく、御供の者までもあわて騒ぐ様子を見せなかった。とにかく、ここにとどまっていても仕方がない、行けるところまで行ってみようと、合わせて60人余りの者たちが親王を先頭にして、道を探りながら、山の中を進んでいった。

 すでに中津川の峠を越えようとしたところで、向かいの山の両方の峰に、玉木の配下の兵たち五、六百人が用意を整えて待ち構えるのが見え、彼らのあげるときの声が聞こえた。親王は落ち着いた様子で、付き従っている者たちに、最後まで戦い、親王ご自身よりも先に自害しようとは思うなと言われる。いよいよ最後になって助かる見込みがなくなったら自害するつもりであるが、その時は、「面の皮を剥ぎ、耳、鼻を切って、誰が首とも見えぬやうにしなして捨つべし」(269ページ)と命じられた。その理由は、自分の首が見つけられて獄門にかけられてさらされれば、宮方の兵たちの士気を失わせることになるだろう。「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」(269ページ)ということもある。「死して後までも威を残すを、以て良将とせり」(同上)と、その意思を伝えられる。一行はこの言葉に奮い立ったが、峠を登ってくる兵士たちを迎え撃とうと坂を下っていくものわずか32人。一騎当千の兵ばかりとはいうものの多勢に無勢。一行の運命は風前の灯である。

 市沢哲さんは護良親王が鎌倉幕府と戦い続けただけでなく、前後して幕府への戦いを続けていた楠正成、赤松円心らと連携し、また彼らの後方支援を続ける役割を演じたことを強調している。十津川から吉野に至る親王の一行の歩みは、小さな出来事に見えて、大きな意味をもっていたのである。
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