長谷川修一『聖書考古学』

2月23日(土)晴れ

 昨日(2月22日)、長谷川修一『聖書考古学』(中公新書)を買って読んだ。

 中学・高校時代をキリスト教の学校で過ごし、時々、聖書に書かれていることが考古学的にどのように裏付けられるかというスライドを見たり、話を聞いたりした。そこで展開されていたのはいわば護教的な立場からの聖書考古学であったが、オリエントの考古学に興味をもっていたことも手伝って、信仰とは別の興味をもったものである。そういう、聖書の内容を考古学的に実証しようとする本はかなり多く出回っているが、この書物は宗教的には「中立的な立場から」(まえがき)、つまり考古学研究に照らして聖書の内容を批判的に見ようとする立場から書かれたものである。そのような実証的な研究と、信仰は別の次元の問題であると著者は説いている。客観的な態度を取ろうとしているだけ、訴える力が抑えられている印象がないでもないが、これまでの学説の展開を踏まえながらも新しい研究成果を取り入れている分、読み応えがある。

 この書物では旧約聖書の「律法」(モーセ五書)の一部と、「前の預言者」(「ヨシュア記」、「士師記」、「サムエル記」、「列王記」)を中心として、そこに書かれていることを考古学的な研究成果から検証している。族長時代、土地取得時代、イスラエル王国時代、エルサレム帰還以後の時代に分けて記述がなされているが、イスラエル王国時代が一番面白い。聖書の記述が歴史的な詳しさを増し、考古学的な研究による検証がそれだけ重要性を増す時代だからであろう。ダビデやソロモンなどの統一王国時代の国王の実在はまだ確認されていない(「イスラエルに黄金期はあったか」、147~150ページ;「ダビデは実在したか」、150~155ページ)というのは初めて聞く話ではないが、「ダビデとゴリアトとの対決」(140~146ページ)をめぐり一騎打ちは西アジアにおいては行われず、ギリシア世界には古くからあったものだという指摘は興味深い。ホメーロスにおける西アジア的なものについて指摘する研究を読んだことがあり、お互いさまの部分もあるような気がする。著者はダビデ実在説に傾いているようであるが、まだまだ慎重な書きかたをしている。

 王国が南北に分かれてからの時代については、考古学的な資料によって確認できる内容が多くなっているが、「列王記」における国王の政治の評価とは一致しないものもあるようである。このあたり、「列王記」本文と読み比べてみると面白そうである。特にヨシヤ王の死をめぐる著者の意見(180~183ページ)は独自のもので、他の論者の意見も調べ直してみたいと思った。

 さらに新しく、「ヘロデによる神殿建築とその崩壊」(200~204ページ)、「死海文書とクムラン教団」(204~209ページ)も読みごたえがある。キリスト教的な理解ではヘロデは悪い王様であるが、ユダヤ教の立場から見れば、ローマに対してユダヤ人の政治的な独立を確保し、30年以上の平和を実現したすぐれた政治家であったという評価もできる。またクムラン教団を「エッセネ派」と結び付ける考えに対して、著者が懐疑的な立場をとっていることも注目される。

 この書物では「サムエル記」「列王記」を取り上げて、「歴代誌」を取り上げていないが、その理由を説明してもよかったのではないか。さらに言えば、日本の古代における歴史編纂事業への言及などは最低限に切り詰めて、著者の留学体験についてもっと多くのことを語ったほうが内容が豊かになったのではないかという気がする。
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