『太平記』(31)

3月6日(金)曇り、時々晴れ

 大塔宮尊雲法親王は幕府の追及を避けて奈良の般若寺に身を隠していらしたが、ここも安全ではなくなったので、9人の供の者と山伏姿で熊野に向かわれた。途中、切目王子で夢の御告げを受けて行き先を変更され、十津川に赴かれた。十津川では土地の有力者である戸野兵衛を頼られ、次いで竹原八郎のもとに身を寄せられた。この間に還俗されて護良親王と名乗られていた。

 さて、護良親王が十津川に潜伏されているという噂を耳にした熊野別当定遍は、十津川は要害の地であり、兵力をもって攻め落とすことは難しい。地域の住民の欲心を利用して、大塔宮を殺害しようと考える。『平家物語』を見ても、熊野別当は全国的な勢力分野に影響を及ぼす有力者である。その地位にある定遍の意向は誰も無視のできないものである。さすがに、この地位にあるものらしく、巧みな計略を考えた。あちこちに高札を立て、大塔宮の命を奪ったもの、またその従者たちを殺害したものには莫大な恩賞を与えると触れ回った。

 このため、十津川の住民たちの気持ちも揺れ動くが、それでも竹原八郎入道は自分がお守りすると宮を引きとめていた。しかし入道の子息である弥五郎が父親の命にそむいて宮の命をつけ狙おうとしたために、宮は高野山に落ち延びようとされた。途中に勢力圏をもっている八庄司と呼ばれる8人の荘園代官たちは、最初は宮に味方しようとしていたのが心変わりをして、定遍に心を寄せ、宮を討ち取ろうと考えていた。その中の1人、芋瀬庄司は自分の館を訪れようとした宮に向かって使者を送り、幕府と定遍の言いつけが厳しいので、宮の一行と一戦交えた形にしたい、ついてはお供の中から1人を選んで身柄をあずけていただくか、一行の錦の旗を渡していただくか、どちらかの要望をかなえていただければお通ししよう、そうでなければ一戦交えるよりほかはないと伝えてくる。

 宮はどちらも受け入れることはできないと逡巡されるが、従者のうちの赤松則祐が自分が命を捨てましょうと言い出し、これを聴いた平賀三郎が味方を1人失うよりも名を捨てる方が被害は少ない、実際に戦場において武器や武具を失うのはありふれたことであると、旗を渡すことを主張する。そこで、宮は月と日の形を金銀の箔で打ち付けた錦の旗を芋瀬庄司に渡して、先へと進まれる。

 後方から遅れて従者の1人である村上彦四郎義光がついてきていたが(折よくか、折悪しくかはその人の立場によって判断がわかれるころであろう)、芋瀬に出会った。芋瀬が下人に錦の旗をもたせているのを見た義光はどうしたことかと尋ね、芋瀬がこれまでの経過を説明すると、義光が怒って朝敵征伐のための旗を粗末に扱うとは何事かと言って、旗を奪い取り、旗を持っていた芋瀬の下人は大男であったのだが、それを4,5丈ほど投げ飛ばす(4,5丈というのは12~15メートルなのでこれは誇張とみるべきである)。その大力に芋瀬は言葉を失って去っていく。

 義光はそのまま旗を肩にかけて宮の一行に追いつく。義光から事の次第を聞かれた宮は大いに喜ばれて、則祐の忠、平賀の智、義光の力は「三傑」というべきで、中国を統一した漢の高祖の「三傑」にも比すべき存在であり、それぞれの力を合わせれば天下を取る事も夢ではないといわれる。(宮ご自身が天下を治めようというお気持ちが背後にあると思われる。)

 前回、護良親王とその従者たちの描き方には義経伝説の影響があるという指摘を紹介したが、今回もそういう特色が窺われる展開となっている。従者たちが時として超人的な力で親王を助けていくからである。ここに紹介された挿話はどこまで歴史的な事実かわからないし、また事実だとしてもその意味をどのように求めるか、議論の分かれるところであろう。ただ、次のように考えることはできる。天下を二分するような争乱の際に、どちらか一方に全面的に協力することは、それなりの危険を伴う。対立の中心にいる人々にはそれぞれの大義があり、大塔宮とその一行の人々、熊野別当定遍の立場は明らかであるが、どちらに協力しても得失がある芋瀬のような在地の武士はどちらに味方するか、大いに迷うところである。大塔宮に対する態度にも、彼の迷いが現われている。しかし、それも歴史的な事実を反映するものなのだと理解しておくことにしよう。 
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