『太平記』(30)

2月27日(金)晴れ

 奈良の般若寺に潜伏されていた大塔宮尊雲法親王は幕府方の探索を受けたが、大般若経の唐櫃に隠れて危うく難を逃れることができた。しかし、長くとどまっていては危険なので、付き従っている僧や武士たちとともに、熊野の方に落ち延びようとされた。宮を始めとして、一同山伏の姿に身をやつし、「田舎山伏の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(251ページ)。

 法親王は高貴の御生まれであるので、長い距離を歩かれるのは定めしご苦労の多いことであろうと、供のものは心配していたのだが、案に相違して元気に歩を進められた。一行は宿場ごとの勤行と神社ごとに幣を手向けて神をまつることを怠りなく続けていたので、道中で出会う修行者たちから正体を怪しまれることもなく、旅を続けることができた。尊雲法親王が仏道の修行よりも武芸の修練に明け暮れていたという話が第2巻に出てくる。父である後醍醐天皇が笠置山の落城後、楠正成の楯籠もる金剛山に向かわれようとして、なかなか先に進むことができなかったと第3巻に書かれているのとは大違いである。

 こうして一行は切目の王子(きりめのおうじ=和歌山県日高郡印南町にある熊野神を分祀した末社)に到着した。ここで法親王は熊野の神に終夜祈りをささげられた(神仏が分離していないのである)。「丹誠無二(たんぜいむに)の御勤め、感応もなどかなからんと、神慮も暗に計られたり」(252ページ、この上ない真心を込めたご祈祷であり、神仏の感応もないはずがないと、神慮もそれとなく予測できた)。夜を徹してのご祈祷の中でお疲れになったので、しばらくうとうとされていると、神を左右に分けて耳のあたりで束ねた天の御使いの童子が夢に現れて、熊野三山の一帯は人心が落ち着かず、安全とは言えない。十津川(=奈良県吉野郡十津川村)の方に向かわれて、そこで時節の到来を待たれるのがよいだろうと告げる。これぞ熊野の神の御告げと法親王は喜んで奉幣をささげ、十津川をさして山道に分け入られた。

 約30里ほどの道のりであったが、人家もなく、険しい山と谷が続き、数日間に及ぶ山道の旅で、一行は疲れ果ててしまう。それでもようやく十津川にたどりつき、法親王を道端のお堂で休ませて、お供の者たちがあたりの民家を訪ね、熊野参詣の山伏が道に迷って難儀をしているというと、人々も同乗して粟飯や橡の粥などを分けてくれた。一行はそれでどうやら飢えをしのぐことができ、2・3日を過ごした。

 一行の中の光輪坊源尊は比叡山から法親王にずっと従ってきた僧侶であるが、このあたりで最も有力な人物の家だと思われるところに出かけて、ここは誰の家かと尋ねると、竹原八郎入道の甥の戸野兵衛という武士の家であるとわかる。かねてから武勇に秀でた武士として聞こえたものである、ぜひ、この人物を頼ろうと、案内を頼むと、この家に物の怪に取り付かれた病人がいるので、何とかしてほしいといわれる。そこで法親王こそ「効験(こうげん)第一の人」であるといって、祈祷をしてもらうと、忽ちにつき物が落ちて、病気が快癒する。戸野兵衛の一家では喜んで、何日でも逗留してほしいと申し出る。田舎山伏に姿をやつしてはいるが、もとは天台宗の頂点にいた僧である、その祈りが通じないわけがないというわけであろう。

 こうして10日以上がたったある夜、主人の戸野兵衛が一行を相手によもやま話をしている中で、大塔宮が熊野の方に落ち延びようとされているという噂があるが、熊野三山の別当(三山を統括する僧)である定遍僧都は「二心(ふたごころ)なき武家方」(257ページ)なので、宮を見つけたらすぐに幕府に通報するであろう。このあたりは要害堅固な土地であり、人々は信頼できるものばかりで、しかも勇猛である。むかし平家の大将であった平維盛もこのあたりに身を隠して源氏の世の中になっても無事に過ごしたほどである(そういう伝説もあったと注記されている)という。宮は喜ばれて、もし大塔宮がこのあたりの人々を頼りにしたら、どうだろうかと質問されると、私が一声かければ、手出しをするものはこのあたりにはおりますまいと答えた。

 それで安心した一行は自分たちの身の上を明かす。始めは信じなかった兵衛も、彼らが本来の山伏ではないことに気付き、慌ててこれまでの無礼を詫びる。そこでさっそく粗末ではあるが、御所となる建物を建てて、宮をお守りする。兵衛の叔父である竹原八郎入道がやがてこのことを知って、宮を自分の館に招き入れてお守りするようになった。宮はここで過ごすうちに安心されて、還俗された。入道の娘が宮の御寵愛を受けるようになり、入道の一族だけでなく地域の人々全体も宮方に心を寄せるようになった。

 南北朝時代の歴史を研究している森茂暁さんの近著『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書)を読み終えたところである。直義は兄尊氏を助けて室町幕府の基礎を築くのに大きな功績を立てたが、幕政の矛盾が深化する中で兄と対立して殺害され、幕府にとって「不吉な」存在とされた。森さんは「このように考えてくると、直義によく似た歴史的立場の人物として、後醍醐天皇の皇子護良親王が想起される。護良は仏門から俗世間に立ち返り、父後醍醐天皇の片腕として鎌倉獏討伐に大きな功績を残した武人親王であるが、最後は権力闘争に敗れてその輝かしい功績に不似合いな悲惨な最期を遂げている。この護良が背負った歴史も同様に「不吉」として封印された」(同書、20ページ)と直義と護良親王の運命の共通性を指摘しているが、その直義に護良親王が殺されるのはどういう運命の皮肉であろうか。いずれにしても、そうなるのはまだまだ先の話である。今のところ護良親王には悲劇の影はないように見えるが、『太平記』の作者は親王の従者の中に武蔵坊、片岡八郎と源義経に従った郎党と同じ名前の者を入れている。「大塔宮の物語には、義経伝説の影響がみられる」(251ページの脚注)ということは、すでに悲劇を予告しているのであろうか。なお、この書物の41ページには鎌倉市二階堂理智光寺跡の護良親王墓所の写真が掲載されていることも付記しておこう。

 以前、奈良で学会があったときに、時間的な余裕があったので、般若寺か不退寺のどちらかに出かけようと思って、結局不退寺の方に出かけたことを思い出す。そのころは『太平記』よりも『伊勢物語』(不退寺は在原業平ゆかりの寺である)の方に興味があったのである。 
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