『太平記』(29)

2月21日(土)晴れ後曇り

 異例であるが、2日続けて『太平記』の内容を紹介することにする。

 大塔宮二品親王(=尊雲法親王、後に還俗して護良親王)は、奈良の般若寺に身をひそめながら、笠置山に立てこもられている父=後醍醐天皇の安否を気遣っておられたが、笠置城は落城し、天皇も囚われの身となったことを聞き、自分自身の身の安全もおぼつかなくなった。山野の中に身を隠すことも、どこかの村里に紛れ込むことも安全とは思われず、やむを得ず不安を抱きながらも寺にとどまっておられた。

 そうこうするうちに興福寺の門跡寺である一乗院の僧である好専という僧が、どこからか宮の噂を聞きつけて、500人ほどの部下を引き連れて未明に般若寺へと押し寄せてきた。いつもならば大塔宮につき従うものが何人かいたのだが、この時に限って一人もいないので、防戦して、何とか時間を稼いで逃げるということもできない。押し寄せた僧兵たちが寺の中を固めているので、逃げようにも隙間がない有様である。こうなれば自害をするよりほかはないと、上半身裸になられたが、事態がきわまってから腹を切るのはたやすい、まだ助かる見込みが万が一にでもあるのならば隠れてみようと考え直されて、仏殿の方をご覧になると、般若寺の僧侶が読みかけてそのままにしておいた大般若経を収める唐櫃が3つ並んでいた。唐櫃というのは脚の付いた中国風の長櫃である。

 そのうち2つの櫃には経典が入っていてふたが閉まったままであり、残る1つは半分ほど経典を取り出してあって蓋が空いたままであった。この蓋が空いたままの櫃の中に、体を縮めてお入りになり、その上に経典を引きかぶり、その下に隠れて体が見えなくなる呪いである隠形(おんぎょう)の呪(しゅ)を唱えられた。もし探し出されてしまえば、そのときは自害しようと、氷のような刀を抜いて腹に押し当て、「ここにいたぞ!」という声が聞こえれば、すぐ様刀を突き立てようという覚悟をされていた。その心中は測るべくもない。

 僧兵たちは仏殿に乱入し、仏壇の下、天井の上までもくまなく探したが、宮の姿を見つけることはできない。どうしても見つけることができず、般若経の入っている櫃を開けてみようということになり、蓋の閉まっている2つの櫃を開けて、経典を取り出して、底までも調べたが、宮はいらっしゃらない。蓋が空いている櫃や見るまでもないと、いったん外に出ていった。宮は不思議にも命が助かり、「夢に虎の尾を踏む心地して、なほ櫃の中におはしけるが」(249ページ)、もし僧兵がまた戻ってきて、詳しく探すことがあるかもしれないと思案されて、先に兵たちが探していた櫃の中に隠れ場所を替えてお入りになった。

 案の定、兵たちはまた戻ってきて、「この前は、蓋の空いていた櫃を詳しく見なかったが、気がかりであるぞ」と、この櫃の中の経典を全部出して調べていたが、やはり宮を見つけることができず、からからと打ち笑って、「大般若の櫃の中をよくよく探したれば、大塔宮は入らせ給はで、大唐(おおとう)の玄奘三蔵こそありけれ」(250ページ、大塔宮は入っていらっしゃらず、同じ「おおとう」でも大唐の玄奘三蔵が翻訳した大般若経が入っていたという洒落である)と冗談を言って、みんなで笑いながら、外へと出ていった。こうして命が助かったのも神仏のご加護のたまものであろうと、大塔宮は感涙にむせぶのであった。

 大塔宮の機転が身を守ったという話であるが、宮の身柄を捜し出し損ねた兵たちの飛ばしたしゃれが秀逸で、中世を通じて有数のものとしてよく引用される。大塔宮が助かったのは、宮の機転に加えて、神仏の加護、あるいは時の運が宮方に有利に働いていたためであると作者は言いたいようである。とはいうものの、奈良も安全でないことははっきりしたので、大塔宮は新たな隠れ場所を捜して、般若寺を立ち去ることになる。 
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