『太平記』(25)

1月25日(日)晴れ

 元弘2年(1332年)3月、新帝(光厳帝)が即位され、先帝後醍醐の隠岐流罪が決まった。3月8日、先帝は隠岐へ向けて出発された。途中、備前の武士今木(児島)高徳が先帝の奪還をくわだてたが、事ならず、院の庄の宿所に変装して忍び込み、庭の桜の木に詩を書きつけて去った。その詩は、中国の春秋時代に覇を競った呉越2国の故事、越王勾践が賢臣范蠡の助けを得て呉を破って、会稽の恥をすすいだことを踏まえたもので、先帝は詩の意味を悟って笑みを漏らされた。

 『太平記』の作者は「そもそもこの詩、わづかに両句十字の内なりと云へども、その意(こころ)浅きにあらず」(204-205ページ)として、岩波文庫版で229ページまで、25ページ余りにわたって呉越の故事を語る。校注者の兵藤裕己さんは「以下、中国春秋時代の呉越合戦の話は、「史記」越王勾践世家、伍子胥列伝、「呉越春秋」などをもとに、異伝を交える」(205ページ)と脚注に記している。細かく見ていくと、興味深い発見があるかもしれないが、物語の大筋に関係がないので、省略したい。

 しかし、その中で、どうも気になる部分がある。それはこの故事を語っている最後の部分で、功績を挙げた范蠡に対して勾践が恩賞を与えようとすると、范蠡は「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず。功成り名遂げて、身退くは天の道なり」(229ページ、大いなる名誉のもとに長くいてはいけない。功績をあげて名誉を得たならば、身を引くのが天の道にかなった生き方である)として、范蠡のもとを辞して、名を陶朱公と改め、五湖(今の江蘇省・浙江省にまたがる太湖を中心とした湖沼地帯)に隠棲して、余生を静かに送ったと結んでいる。これは「呉越春秋」に基づくそうであるが、范蠡のその後については異伝もあり、『太平記』の作者がこのように物語を締めくくっているのは、作者の人生観の表れとみるべきではなかろうか。この後の『太平記』の展開を、果たして范蠡(のような人物)が現われたのか、そして、功成り名遂げたのち、潔く去っていったかという関心をもって見守っていくと、作者の意図がある程度わかるのではないかと思うのである。

 作者は「今木三郎高徳、この事を思ひ准(なずら)へて、一句十字の詩に千般の思ひを述べて、ひそかに叡聞に達したる、智慮の程こそ浅からね」(229ページ)。児島高徳=小島法師と考えるならば、これは自画自賛である。

 そうこうするうちに先帝は、出雲国三尾の湊に逗留されること十余日、ようやく順風が吹いたので、隠岐に向けて出航される。「兵船(ひょうせん)三百余艘、前後左右に漕ぎ並べて、万里の雲にさかのぼる」(230ページ)、まことに厳重な警護の様子である。こうして都を発って26日目に、一行は隠岐の配所に到着し、先帝は佐々木隠岐前司の厳重な監視のもとに置かれた。

 先帝のおそばに伺候するのは六条少将忠顕、一条頭大夫行房、それに女房として三位の御局(阿野廉子)だけであった。粗末な御所での寂しい生活となったが、毎朝の勤行と北斗七星を拝する儀式はつづけられていた。心ならずも譲位される形となったが、自分は依然といて帝位にあるというお気持であったのである。「天地開闢より以来(このかた)、未だかかる不思議を聞かず」(231ページ)と、この流刑について非難しながら、作者は第4巻を終えている。幕府側はこれで一件落着と思ったかもしれないが、動きはじめた事態はその時代に生きる人々の誰もが予想できないような動きを続けることになる。

 昨夜、パソコンがインターネットにつながらず、更新が遅れてしまいました。時々、こういう事故が起こるということをご理解の上、このブログをお読みくださるようお願いします。


 
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