岩元禎について

1月23日(金)曇り後晴れ、朝のうちはまだ雨が残っていたようである

 昨日の当ブログで取り上げた大野晋『日本語と私』の中の、旧制第一高等学校時代の教師たちの思い出を語っている中で、ドイツ語の教師で、厳しい点数をつけることで知られた岩元禎について「我々は明治32年以来つづいた先生の教室の、最後の生徒になった。先生は学年の途中で逝去された。明治時代、ヨーロッパの学問を輸入したころの、横文字を読む学者の権威に満ちた姿を見たように思う」(104ページ)という部分を引用した。

 岩元については、高橋英夫さんによる評伝『偉大なる暗闇 師岩元禎と弟子たち』(新潮社、1984;講談社文芸文庫、1993)がある。その中に『日本近代文学大事典』の長谷川泉の執筆になる岩元の生涯と業績をまことに簡潔にまとめた項目が紹介されている。そのまま紹介すると
 岩元禎 いわもとてい 明治2・5・3~昭和16・7・14(1869-1941) 哲学者。鹿児島県の士族岩元基の長男として生れた。第一高等中学校(のちの一高)をへて明治27年帝国大学文科大学哲学科を卒業、ケーベルに学んだ。高等師範学校から一高教授として哲学や独語を教え、落第点をつけることで有名な名物教授であった。漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。『哲学概論』(昭和19・4 近藤書店)の著がある。横浜市鶴見区の総持寺の墓所に哲学碑が建てられている。蔵書は鹿児島大図書館に岩元文庫として寄贈された。(講談社文芸文庫版、91-92ページ)

 この中で、漱石の『三四郎』の広田先生のモデルというのは、大野さんもそのように書き記しているが、一高生の間に広まった伝説であり、高橋さんが書いているように「広田萇のくろぐろとした内面の謎は、作者漱石自身が内部に抱えていた鬱々たる思いの方に近かった、というのが正しい見方だと思う」(同上、37ページ)。とはいうものの、広田の姿には、『三四郎』が書かれた明治41(1908)年頃に出現していた新しい知識人の姿の1つのタイプを認めることができるとも高橋さんは書いている。「漱石にとってすでに広田先生とは、新しい時代の一つの教師像を意味していた。近代国家をめざして休みなく進展を続ける時代から取り残されたような内面性、つまり『偉大なる暗闇』と呼ぶしかない内面性を秘めていることによって、広田萇はその時代の新しいタイプを逆説的に体現していた。草創期の教師には見いだせなかった内面的な精神性がそこにはあった」(同上、33-34ページ)。そして一高生たちは岩元にそのような教師=知識人の典型を見出したのである。一方、高橋さんも書いているが、仙台の第二高等学校の生徒たちはこの学校で英語を教えていた粟野健次郎が広田先生のモデルであるという伝説を造り上げた。

 「偉大なる暗闇」の意味をもう少し掘り下げると、こういうことになる。「ヨーロッパの学問芸術がはるかにも遠い奥行をもっていることを身にしみて知り、他のすべてを犠牲にしてもひたすらその奥の奥に迫りたいと念じた人間の中から、『偉大なる暗闇』と呼ぶしかない存在があらわれたのである。それは明治40年頃になって次第に各地の高校、大学などにその存在を顕著にしていった新しい探究者の像である。外からみればほとんど完全に自己表現の失ってしまった、ただ西洋の学問への沈潜に生きるほかは何もしなかった人間である」(同上、40ページ)。明治時代の初期に活躍した福沢諭吉や西周とは対照的なヨーロッパの文化への態度がある。冒頭に再度引用しておいた大野さんの岩元についての記述はこのあたりのことが抜け落ちているように思う。

 高橋さんの書物にはまた、岩元と同時期に東京大学にまなんだ西田幾太郎の回想が引用されている:
・・・・後に独特の存在となられたのは、近年亡くなられた岩元禎君であつたと思ふ。同君は…、そのころからギリシヤ語を始められ、いつも閲覧室で字引を引いて、少しづつソクラテス以前の哲学者のものを読んで居られた様であつた。あの人は何処かケーベルさんと似たところがあつた。
 ヨーロッパへの探求心が、ギリシャ語を学ぶところまで進んだところに岩元がその師ケーベルに近づこうとした努力を窺うことができる。「偉大なことをなそうとしたことが偉大である」という格言もある。「偉大なる暗闇」というが、少なくとも一部の生徒たちは彼の授業から西洋の古典的な精神の香気を嗅ぎ取り、それを自分の知的な探求の手掛かりとしていったのである。このことは忘れてはなるまい。

 岩元の著書『哲学概論』は彼の死後にその講義をまとめたものであるが、その冒頭の文が鶴見の総持寺の「岩元禎先生哲学碑」に刻まれている。
 哲学は吾人の有限を以て宇宙の無限を包括せんとする企図なり
(同上、93ページ) 名文句だとは思うのだが、気になる点がないでもない。宇宙が無限だというのはデカルト以後の認識であって、それまでのヨーロッパの人々の世界観では宇宙は有限であった。例えば、ダンテは『神曲』の中で地獄を地球の中に、煉獄を南半球に、天国を宇宙にあるものとして描いているが、それはあくまで有限な世界なのである。
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