大野晋『日本語と私』

1月22日(木)雨が降り続く。寒い。

 大野晋『日本語と私』(河出文庫)を読み終える。1996年から1999年にかけて書き継がれた自伝的エッセーが、1999年に朝日新聞社から単行本として発行され、2003年に新潮文庫に収められたもので、改めて河出書房新社から文庫本として発行されることとなった。2度も文庫化されているだけのことはあって、いろいろな意味で面白い本である。その反面で、もっと面白くできたのではないかという気もする。このあたり、人によって評価の分かれるところであろう。

 東京の下町で商家の息子として生まれ育った大野さんは、生家の没落にもかかわらず、明治小学校、開成中学、旧制第一高等学校、東京帝国大学という輝かしいといってもよい学歴を重ねる。一高の文乙(ドイツ語を第一外国語とするコース)には28人の合格者中28番目で合格したというような経緯はあるけれども、小学校、(旧制)中学校)、(旧制)高等学校と「よき師、よき友」に恵まれる。一高時代の国語の先生であった五味智英に『万葉集』について質問に出かけたことからかかわりをもち、その後一緒に仕事をするというようなめぐりあわせもある。同級の直木孝次郎とともに一高の国文学会の委員を務める(後に古代史学者となった直木も『万葉集』にかかわる著作を残している)。太平洋戦争中に在学した大学では生涯の師、橋本進吉に出会う。橋本の退官後は時枝誠記と遠慮のないやり取りを交わす。

 話を元に戻すが、専門を離れたところでの師友の顔ぶれもなかなかのものである。一高では岩元禎のドイツ語の授業を受けた最後の学年の生徒となり(「我々は明治32年以来つづいた先生の教室の、最後の生徒になった。先生は学年の中途で逝去された。明治時代、ヨーロッパの学問を輸入したころの、横文字を読む学者の権威に満ちた姿を見たように思う」 104ページ、本当にその通りならば、岩元が「偉大なる暗闇」にならなかったのではないかという気がする)、名教頭三谷隆正や一高のプリンスといわれ、戦後の創作である『ビルマの竪琴』の作者として知られる竹山道雄の授業に出席する。戦後、横須賀に開校した清泉女学院の教師をしたときに、『ビルマの竪琴』を教材として使ったという逸話も興味深い。

 橋本進吉は古代の日本語には母音が8つあったということを万葉仮名の研究をもとにつきとめ、その研究を進めるが途中で死去する。大野さんはその研究をさらに進めるためには『日本書紀』の万葉仮名の研究が必要だと考えるようになる。戦後のある時期、天才的な国語学者であった有坂秀世のところに出かけた折にこのことを言うと、「アーソレハ、イケナイ」(246ページ)といわれたために、やめてしまったが、その後、大野さんが考えたのとほぼ同じ道筋を辿って森博達さんが『日本書紀』の万葉仮名の分析から、奈良時代の日本語の母音体系を推定する研究を発表した。なんとなく、残念そうな口ぶりがうかがわれる。

 しかし、国語学者としての大野さんの戦後日本における活躍には目を見張るものがある。定家仮名遣いの研究、国語辞典の編纂、『万葉集』や『日本書紀』の信頼できるテキストの確定作業への参画などなど。一時ジャーナリズムを騒がせた日本語とタミル語との同系説は、今後の研究の展開を見ないと何とも言えないだろう(服部四郎が何とも言えないといったのが、さすがにプロの見解であると吉本隆明が書いていたのを目にした記憶があるが、そういっている吉本はプロではないから、この言葉をもって決定的な意見とするわけにはいかない)。

 大野さん自身の自伝として、戦前の東京の下町の生活の記憶として、旧制の中学や高等学校の実態の証言として、国文学、国語学の研究史、さらには戦後の教育改革・「国語改革」の経緯についての論評として、興味深く、また貴重な内容を含む。しかしながら、それらが雑然と羅列されていて、一貫性、系統性に欠けるところに、著者よりも編集者の努力の不足を感じるのであるが、これは私だけのことだろうか。岩波新書に入っていた高木市之助の『国文学五十年』にも橋本進吉と時枝誠記についての記述があって、読み比べてみると世代の違いによる人物評価の違いを実感することができて興味深いはずである。
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