原武史『沿線風景』

2月18日(月)曇り、これから雨になると予報されている。今日は二十四節季の雨水である。

 毎日新聞の地方欄に紅葉坂の県立音楽堂が還暦を迎えるという記事が出ていた。まだできて間もない頃であった、私が小学生の時に、音楽会で大勢の中の1人としてピアノを弾いたことがある。その過去は現在の自分とほとんど関係がない。人間の自己決定は早い場合と遅い場合があり、遅い場合は子ども時代の経験がその後の人生に持つ意味はきわめて多様なものとなる。中には無駄なものも出てくることは否定できない。そのことを考えても年長者が年少者に対して一律の自己決定を強いるような教育制度は適切なものではあるまい。

 原武史さんは日本近・現代の政治思想史学者として活躍する一方で、鉄道ファンとしても知られ、多くの鉄道エッセーを書いている。この書物を読んでいると分かるが、慶応義塾普通部(中学)、高校、早稲田大学、日本経済新聞社、東京大学大学院(中退)とかなり出入りのある経歴の持ち主であり、その経歴を通してであろうか、「Fくんは私と同様、普通部出身ながら、慶應特有の一貫教育に対して冷めた眼をもっている。教師よりも生徒のほうが、よほど学校教育の問題点を見抜いているのがわかる。私も一教員として自戒しなければと思う」(241ページ)という教育観を述べている。多感な時代の原さんにも、一貫教育の予定されたレールへの不満があったのであろう。政治思想史研究、鉄道、麺類に対する嗜好を中心とする駅(近)グルメというこの引き出しの多いエッセー集を読んでいると、原さんの歩みには曲折と苦労が多かったが、その過程の中で豊かな知的財産を蓄積してきたことが推察される。

 まえがきにも書かれているように、この書物の大半は編集者とともに行った東京近郊の鉄道旅行についてのものであるが、関東以外に足を延ばしたり、大学のゼミ合宿で近畿地方の天皇陵を回ったり、ポーランドのワルシャワ大学で集中講義を行った際のポーランドの鉄道についての記述も含まれていて、なかなか多彩である。本来「書評」の性格をもった連載を書物にしたものであったようであるが、書評を離れて愉しんで読むこともできるし、様々な発見にであう。もちろん、言及されている書物に興味をもつことができる。麺類と書いたが、そば、うどん、ラーメンとわけへだなく食べているようで、その雑食性には共鳴できるが、その一方で「関西ではそばを食べないのが私の主義である」(199ページ)というこだわりには疑問がある。関西にも優れたそば店があるので、これはもったいないと私は思う。)

 特に注目される個所を以下に列挙する:
第3話 「昭和天皇とラーメンの記憶」で取り上げられている神武寺。寺の名前に興味があったのだが、京急逗子線の同名の駅よりも、JR横須賀線の東逗子駅の方からの方が近いこと、この寺の境内が変形菌(粘菌)の宝庫であり、昭和天皇が3度も訪問されたことなどを初めて知った。

第12話「秩父で輿論と世論を考えた」は佐藤卓巳『輿論と世論』(新潮選書、2008)の書評として書かれたものであり、秩父旅行もその意図で行われたのだろうが、「埼玉県の県庁所在地から遠く、群馬県や山梨県に近い秩父地方は、麺文化から見てもマージナルなところだ。一方では群馬県の『おっきりこみ』が、他方では山梨県の『ほうとう』が、それぞれ古くからこの地方に進出している」(151ページ)などという本題とは関係がなさそうだが面白い観察が展開されている。秩父神社の祭神や秩父宮についての記述も興味深い。

第20話「軽井沢に残ったのはおぎのやの『駅そば』だった」は新幹線開通以前に3年間ほど信越本線を利用することが多い時期のあった私には懐かしい内容である。原さんは1971年に父親と行った旅行について書いていて、私は1978年から1981年の間に信越線に乗ることが多かったので、少し時代は違うのだが、既に成人していたこともあり、横川の駅で釜めしとそばの両方を手に入れて食べていたりしたことを思い出す。現天皇と辻井喬(堤清二)と不破哲三が三題噺的に登場するのがこの著者らしい語り口である。さらに浅間山荘を見た遠山啓が「千早城みたいだ」とその日記に記した(246ページ)という記述など、引用は縦横無尽である。

 おまけを書いておけば、原さんが「あとがき」で触れている滋賀県彦根市は私が生まれた町である。

 というわけで、いろいろな知的な示唆(その大部分についてここでは触れていない)をこの書物から受け取ることができるが、一番考えさせられたのは、学校教育がどのように人間の自己決定とかかわるかということである。自己決定が早い方がある領域の専門家としての能力は増すかもしれないが、遅い方が人間としての引き出しが多くなり奥行きは深まるのではないか(決定の遅れが怠惰によるというのではお話にならないが・・・)。原さんは後者の一つの例ではないか(もちろん専門についても立派な研究者であることは間違いない)と思うのである。
 
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