『太平記』(24)

1月18日(日)晴れ

 元弘2(1332)年3月、新たに光厳天皇が即位され、先帝である後醍醐天皇の隠岐への流罪が決まった。中宮(西園寺禧子)が六波羅に行啓して別れを惜しまれた翌日の3月8日に、先帝は隠岐へ向けて旅立たれ、3月13日に出雲国見尾の湊に到着されて、隠岐へと渡ることになった。

 そのころ、備前の国に今木三郎高徳という武士がいた。後醍醐天皇が笠置山に立てこもられていたころに、呼応して挙兵しようとしていたが、準備をしているうちに笠置は陥落し、楠正成も行方がわからなくなったという噂を聞いて、力を落としていた。しかし、後醍醐天皇が隠岐国に流されることになると知って、一族の中でも裏切る恐れのない者たちを集めて議論をした結果、命がけで天皇に忠誠を尽くすべきだという結論に至る。そこで、「義を見てせざるは勇なし」と、先帝を護送する集団を襲撃して奪い返したうえで、倒幕の大軍を起こそうと申し合わせて、道中の難所に待ち受けて、相手の隙をつこうと、備前と播磨(現在の地理で言えば岡山県と兵庫県)の境界にある船坂山の峠に隠れ潜んで、一行の到着を待ち受けた。

 しかし、待てども待てどもそれらしき一行はやってこない。偵察のものを出して情報を集めてみると、警固の武士たちは山陽道を経由せずに、播磨の今宿(姫路市今宿)から山陰道に向かって進路をとったので、高徳の目論見ははずれてしまったのである。しかし、この程度のことで挫けるわけにはいかない。これからの道中で差し掛かるであろう美作の杉坂がことを行うのに好都合の深山であると、杉坂に向かったが、そこでも先帝の一行は既に院庄(岡山県津山市院庄)に到着されたという情報に接する。そこで、仲間のものは力を落として、みな、散り散りになってしまうが、高徳だけは何とか自分たちの気持ちを天皇にお届けしたいと、卑しい身なりに変装して一行の様子を窺っていたのだが、なかなか隙を見つけることができない。

 そこで先帝のお泊りになっている宿の庭に、大きな桜の木が生えているので、その幹を削って、大きな文字で一句の詩を書きつけた。
 天勾践を冗(いたず)らにすること莫かれ
 時に范蠡無きに非ず
(204ページ、天は中国の春秋時代の越の王であった勾践の命を虚しくしてはいけない。勾践を助けた范蠡のような忠臣が必ずやいるのだから。呉と越が戦い、忠臣范蠡の活躍で越王勾践が呉王夫差を破った故事を踏まえ、後醍醐天皇を勾践になぞらえている。なお、岩波文庫版は『太平記』の古い姿を残しているといわれる「西洞院本」を使っているが、一般に読まれている流布本の系統では「天勾践を空しうするなかれ」となっており、私もそのように記憶していた。)

 朝になって、警固の武士たちがこれを見つけて、誰が何のためにこのような落書きをしたのかと、意味が分からないまま騒いでいたのが、後醍醐のお耳に入った。先帝は即座に市の意味を理解されて、晴れ晴れとした表情でにっこりとされていたが、武士たちはその意味が分からなかったので、これ以上の詮索をしようともしなかった。

 今木高徳は、太平記のこの後の箇所では児島(小島)、和田、三宅などという姓で登場する(ふつうは児島高徳として知られる)が、彼の活躍を語る同時代の文書はなく、明治時代の歴史学者重野安釋はその実在を否定した。あるいは何人かの武士たちの事績を一人の人物にまとめたという可能性もないわけではない。鎌倉幕府は東日本では強い勢力をもっていたが、中国地方では京都の朝廷に心を寄せる武士が少なくなかったであろうことは容易に推測できることである。

 また『太平記』の作者だという説のある小島法師が、実は児島高徳と同一人物であるという説もあって、これはこの岩波文庫版の『太平記』の「解説1」に詳しく論じられているので、興味のある方は読んでみてください。確かに、地方の武士である児島高徳が、幕府の武士たちが知らないような中国の故事を知っているのは不自然であるし、『太平記』第4巻のこの後の部分で、呉越の故事が長々と語られるのも奇妙である(ここでは省略することにしたい)。そういう『太平記』の構成の奇妙な点は、児島高徳=小島法師と考えると納得がいくというのであるが、さてどうだろうか。
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