『太平記』(22)

1月3日(土)晴れ、昨日に比べて雲が少なく、三ツ沢グランドで全国高校サッカー選手権の試合を見たのだが、昨日は行きがけにしか見えなかった富士山が、今日は帰り路でも見ることができた。

 都を脱け出し、笠置山に立てこもったものの武運拙く敗れ、囚われの身となった後醍醐天皇とその側近たちは鎌倉幕府による処分を受けることになる。

 倒幕の計画を進めた後醍醐天皇の側近中の側近とみなされ、第2巻で既に鎌倉幕府から日野俊基や資朝とともに死罪に値すると断罪されていた源中納言(北畠)具行は、佐々木(京極)佐渡判官入道道誉に警護されて、鎌倉に向かうことになる。これは表向きのことで、前例から判断して、道中の途中で処刑されることは容易に推測できることであった。『太平記』作者は、「道にて失はるべき由、かねて告げ申す人やありけん」(190ページ、道中で殺されるはずだと、かねてから知らせる人がいたのであろうか)と記しているが、言われなくてもわかっていたのではないかと思われる。現在の京都市の山科区と大津市の間にある相坂(おおさか)の関を越えるときに、
 帰るべき時しなければこれやこの行くを限りの相坂の関
(同上、生きて帰るときがないので、この逢坂の関を超えるのもこれが最後だ。)と詠んだ。これは後撰和歌集に載っている蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」を踏まえた和歌である。
 さらに勢多(瀬田)の橋を渡るときには次のような歌を詠んだ。
 今日のみと思ふわが身の夢の世をわたるもかなし勢多の長橋
(同上、今日を限りの身と、夢のようにはかない世を渡るにつけても、この勢多の長橋を渡るのは悲しいことだ。)
都を離れ、近江の国(滋賀県)に入ったばかりのところではあるが、すでに覚悟は決まっていたのである。これまでの例に照らすと、もう少し旅してから殺害されていたようであるが、現在の米原市の一部である柏原まで来たときに、幕府から処刑の様子を見届けるために派遣された探使がやって来て急き立てるので、道誉もやむを得ず、中納言に自分としては何とか赦免の日を待ちたいと思っていたのだが、鎌倉からはやく処刑せよという通達がやって来たので、これも前世からの業とあきらめていただきたいと告げる。具行はこのほどの貴殿のご配慮には感謝している。天皇が隠岐に配流されることが決まった以上、下々の処分について自分がいうことではないといって、あとは口をつぐむ。

 そして硯と紙を取り寄せ、知人に手紙をしたため、その後、処刑の場へと向かう。辞世の頌は
 生死(しょうじ)に逍遥す
 四十二年
 山河一たび革まつて
 大地洞然(とうねん)たり
(192ページ、この世を思うがままに生きること42年。いま死に臨んで山河は様相を変え、大地は広々としている。)というものであった。さらに
 消えかかる露の命の果ては見つさて吾が妻の末ぞゆかしき
(同上、消えかかる露のようにはかないわが命の終わりは見届けた。それにしてもわが妻の将来と、東(あずま=幕府)の滅び行く末を知りたい。吾が妻と東をかけている。)との歌を記した。処刑されようとする身ながら、気持ちはまったく負けていないのである。
 こうして具行卿は首を刎ねられて命を失い、道誉はその菩提を丁重に弔った。具行卿は後醍醐天皇が帥宮であったころから近侍して忠勤をはげんできた人物であるので、おそらくは天皇もその死を深く悼まれたことであろうと作者は記す。

 ここでは北畠具行の自分の信念を貫き、生死に超然としている態度と、それに対して同情的な佐々木道誉を描くことで、この後の歴史の展開を暗示する内容となっている。なお、北畠氏は村上天皇を祖とする村上源氏の中院家の庶流で、北畠具行はそのまた庶流、有名な北畠親房が嫡流であるが、この当時ある事情から出家しており、その子息でこれまた有名な顕家が当主となっていたが、まだ若年ということで従兄の具行が後見する立場にあったそうである。それを護送する佐々木道誉は「婆裟羅」大名として有名で、足利尊氏の生涯の盟友としてこれから『太平記』で活躍することになるが、宇多源氏の流れをくむ武家である。

 関白二条良実の孫で大塔宮の執事であった殿法印(とののほういん)良忠も捕えられるが、後醍醐天皇やその側近の行動が理にかなったものであり、幕府がそれを弾圧することこそ非道であると弁じたために六波羅のほうもたじたじとなり、しばらく処分が保留される。平宰相成輔は倒幕計画に積極的にかかわった1人であったが、鎌倉に連行される途中の相模国早川尻(早川の河口付近)で殺害される(宰相というのは参議のことを言う)。三条公明と洞院実世は命を助けられたが、監視下に置かれることになった。

 こうして幕府による反対派の公卿たちの処分が進むが、公卿たちも(人によって違いはあるだろうが)決して負けてはいないし、それに同情する武士もいないわけではない。何よりも、鎌倉幕府の政治が民心を失おうとしているのが一番の問題であるが、そうはいっても事態が展開するまでにはしばらく時間がかかりそうである。
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