東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』

12月29日(月)雨のち曇り、寒い

 東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』を読む。

 東大史料編纂所は1869(明治2)年に明治政府によって修史事業を行うために開設された史料編纂国史校正局が、1888(明治21)年に帝国大学(現在の東京大学)の研究機関となり、その後何度かの改編を経て、1950(昭和25)年に現在の形になった伝統ある機関で、1901(明治34)年以来刊行され続けている『大日本史料』『大日本古文書』に代表される、日本史の専門研究者たちの研究の土台となるような資料集を刊行することが主な仕事である。

 一口に史料の編纂というが、史料を見つけ出すこと、解読すること、その年代や歴史的文脈を考察し、位置付けることは高度な能力を要する研究活動である。史料編纂所には50人を超える専門の研究者たちが在籍し、史料編纂に携わるとともに、それぞれが個性豊かな研究活動を展開している。この書物は、史料編纂所の所員たちの資料集自体からはなかなか窺うことのできない、多様な研究テーマの様相を紹介することである。と同時に、そうした研究に触れることで、研究者に対する示唆を与え、さらに多くの人々に日本史研究の持つ魅力を知らせようというものである。

 この書物は、おおよそのテーマから、史料、対外関係、宮廷、幕府・武家、民衆の5章に分けられ、それぞれの章の中では、ほぼ時代順に配列された42編の論考から構成されている。それぞれについて表題をまず紹介しておくと:
 Ⅰ 文書を読む、ということ
「正倉院文書は宝の山」、「俊寛自筆書状をめぐって」、「『婆裟羅』から考える」、「史料は正しく伝えられるか」、「不完全な文書の魅力」、「明智光秀の接待」、「秀吉は「唐入り」を言明したか」、「手紙が返される話」、「歴史資料と言説」、「自分の花押を作ってみよう」
 Ⅱ 海を越えて
「鳥羽宝蔵の『波斯国剣』」、「杭州へのあこがれ、虚構の詩作」、「中世の航海図を読む」、「一休と遣明船」、「大航海時代、海を渡った日本人」、「オランダ人は名誉革命を幕府にどう伝えたか」、「出島と異国人女性」、「ロシアに持ち去られたフランキ砲の謎」
 Ⅲ 雲の上にも諸事ありき
「聖武天皇の葬列と純金観音像」、「『大内裏図考証』――京都御所をつくった故実研究」、「未婚の皇后がいた時代」、「中世一貴族の慨嘆」、「貴族の日記と朝廷儀礼」、「求む、お姫さま」、「財政から考える江戸幕府と天皇」
 Ⅳ 武芸ばかりが道にはあらず
「『東国の巌窟王』源頼朝」、「土地裁判から見た鎌倉時代」、「武士の文書作成――鎌倉時代の場合」、「南禅寺・西禅寺・北禅寺」、「室町幕府徳政令のかたち」、「天正十年の改暦問題」、「原城攻めに参陣した牢人たち」、「旗本野一色家の御家騒動」、「江戸五品廻送令を再考する」
 Ⅴ 村の声、町の声を聞く
「村祭りの光景」、「百姓は主張する」、「中世の赤米栽培と杜甫の漢詩」、「中世の薬師寺と地域社会」、「江戸城と江戸」、「『篠を引く』『篠引』の意味の変容」、「数珠がつないだ商人たち」、「戊辰戦争期のはやり唄≪トコトンヤレ節≫」

 正直なところ、興味のもてる話題とそうでないものがあり、これは私だけのことではなく、それぞれの読者が自分の興味で読めばよい論集だと思うので、各章から面白いと思った論考を抜き出して紹介することにする。

「『婆裟羅』から考える」(遠藤基郎)
 これは『太平記』を読んでいくうえで重要な言葉の解釈にかかわるので無視できない。通説によると、「婆裟羅」はダイヤモンドを意味するインドの言葉「伐折羅」に由来し、形式・常識から逸脱して、奔放で人目を引くようにふるまうのをさす語であるが、論者はこれが間違いで、「舞う人の衣服の袖が美しくひるがえるさま」である「婆裟」に接尾語がついたものと考えるべきであるという。興味ある論考であるが、『太平記』を「後醍醐方びいき」(18ページ)と簡単に言い切っている点は問題ではないかと思う。

「杭州へのあこがれ 虚構の詩作」(須田牧子)
 15世紀から16世紀の中葉まで明の土地を踏むことは、朝貢使節団として北京に朝貢儀礼に赴く使節たちのみが享受した稀有な体験であった。その中で使節として2度入明した禅僧策彦周良(1501-79)の日記と詩集を取り上げ、彼の中国体験の意義について考えている。彼の場合、単に外交儀礼として詩を詠むだけでなく、「明を旅したその証として、しかるべき所でしかるべき詩を詠むということが重視されていたようである」(61ページ)という。そして、李白・白居易・蘇軾らの詩に取り上げられた杭州はそのしかるべき場所の最たるものであった。さらに中秋の風物詩として現在も有名な銭塘江の大海嘯(河口から数キロにわたって海水が勢いよく逆流する現象)を日記による限り見ていないのに、詩集の中ではみてきたことにして作品を作っている。「彼の中国体験は、当該期日本社会で価値あるものとされていたものを着実に『追体験』売ることに重きの置かれたものであったといえよう」(64ページ)と論じ、同じ時代に日本を訪問した朝鮮官僚宋希璟の経験したものをありのままに詩に詠んだ態度と対比しているのは興味深い考察である。

「貴族の日記と朝廷儀礼」(本郷恵子)
 宮廷貴族にとって日記はきわめて重要な意義をもつものであった。宮中やその他の場所での儀式の手順や作法の基準となるのは、「先例」と呼ばれる過去の事例である。そこで「自分の体験を詳細に記録するとともに、できるだけ多くの先例を収集して、子孫に伝えることが求められた。すぐれた日記は家の財産であり、所蔵者の価値までを高めてくれる意義をもったのである」(116ページ)。
 朝廷と室町幕府の間を仲介する武家伝奏という地位にあった中山定親(1401-59)の日記『薩戒記』は重要な史料と考えられている。しかし彼は武家伝奏の地位に着くまでは政治的に不遇で、朝廷儀礼の研究に没頭していた。しかし、彼が先祖である中山忠親(1131-95)が残した日記『山槐記』を深く研究し、家説に基づくとして決然とふるまっているうちに、次第に儀礼の専門家であるという評価が高まり、ついには重要な役職を得ることになったのである。
 中世の貴族にとっての日記の意義を改めて確認させる論考である。

「『東国の巌窟王』源頼朝」(高橋慎一朗)
 源頼朝は岩窟(洞窟)とのかかわりが深い。石橋山の合戦で敗れたのちに洞窟に身をひそめたというが、彼が幕府を開いた鎌倉には洞窟を中心とする信仰の場がある。洞窟は、現世と来世とが繋がる聖なる場所だという考えは中世の日本、とくに東国で広く信じられていた。洞窟を中心に発展した信仰の場である江の島に弁財天を勧請するなど頼朝は洞窟信仰の発展を推進する役割も果たしたのであった。「さらに頼朝は、鎌倉郊外にある『岩殿観音堂』(逗子市久木の岩殿寺)を深く信仰して、度々参詣していたことが『吾妻鏡」に見えている。『岩殿』もまた、洞窟を意味し、岩殿観音堂は洞窟に安置された観音菩薩を中心とする寺だったのだ」(136ページ)。論者は触れていないが、この岩殿寺は坂東三十三か所観音霊場の第2番で(第1番は杉本寺)私も参拝したことがある。泉鏡花ゆかりの寺でもあるので、関心のある方は是非お参りしてください。少し脱線してしまったが、坂東三十三か所の寺院のかなりの部分が洞窟信仰と結びついているような気がする。私にとっては身近だし、改めて身近なところでの信仰の在り方について考えさせられる論考でもあった。

「中世の赤米栽培と杜甫の漢詩」(川本慎自)
 中世以前に実際に赤米がどこで栽培されていたかを明らかにすることは困難であった。ところが中世の禅宗寺院で行われた漢文の講義の場で、赤米の分布状況の話がされていた。中国の詩人の詩について論じながら、講師である禅僧は聴衆の中に含まれる朝廷や幕府の実務を担う吏僚たちの日常的な関心にも目を向け、日本中世の農業にかかわる話も織り交ぜている。「それは漢詩の解釈の講義としては脱線した『雑談』であるが、聴衆の禅僧や吏僚たちにとっては、生きた貴重な知識だったに違いない。/室町時代、漢詩を学ぶ禅僧たちの眼差しは、遠く異国の詩人に向けられているようでいて、実は脚下の農業生産の現場にも注がれていたのである」(192ページ)。

 こうやって自分なりに興味を持っているところを抜き出してみると、こちらが本を読んでいるのではなくて、本に読まれている、自分の興味のありかを見透かされているような気分になるから奇妙であるが、それも読書の妙味と考えるべきであろう。歴史、とくに日本史に興味のある方にはぜひ読んでいただきたい書物である。


 
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