エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

12月8日(月)晴れ

 エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』(新潮文庫)を読む。ケストナー(1899-1974)は詩人・小説家で、とくに児童文学作品によって知られる。子ども向きに書きなおされたもの、また英訳を読んだことはあるが、しっかりした翻訳(池内紀さんによる)で読むのはこれが初めてである。なお、当ブログですでにふれたが、NHKまいにちドイツ語のテキストにこの作品の主要部分が独和対訳で連載されている。

 ドイツのキルヒベルクという地方都市にある寄宿制ギムナジウムの5年に在学するジョニー(ヨーナタン)・トロッツ、マルティン・ターラー、マティアス・ゼルプマン、ウーリ・フォン・ジンメルン、ゼバスティアン・フランクの5人は、学校のクリスマス祝いにジョニーが書いた『飛ぶ教室』という劇を上演しようと準備している。未来の学校では地理の時間は現地で行うことが決まりになり、生徒たちは教師とともに飛行機で現地に赴くことになるというのである。
 作者であるジョニーは父親に棄てられて、親切な船長に引き取られて成長してきたが、本を読んだり文章を書いたりするのが好きで、作家を目指している。その親友のマルティンは学年きっての秀才で絵がうまく、この劇の美術を担当している。いつも腹を空かせているマティアスは喧嘩が強く、ボクサーになるつもり。彼と仲良しのウーリはチビで自分が臆病なことを気にいている。劇の中では教師の役を演じるゼバスティアンは頭が鋭いことでほかの連中から一目置かれ、科学が好きで科学者になることを夢みている。

 劇の準備が進む一方で、少年たちの間、あるいは周りでは様々な出来事が起きる。同じ町にある実科学校の生徒たちによって、同級生が襲われ、採点のために教師の自宅に届けることになっていた書き取りのノートが奪われる。ギムナジウムの生徒と実科学校の生徒はことあるたびに小競り合いを続けているのである。どうすれば人質とノートを奪回できるか。幸い、学校の近くに隠者のようにして暮らしている禁煙さんという相談相手がいる。禁煙さんというのは鉄道の禁煙車両を払い下げてもらい改造して住まいにしているからで、本人はタバコ好きなのである。彼は何か不幸な目に遭ったらしいが、少年たちには頼りになる存在である。

 5人を中心とするギムナジウムの生徒たちは、禁煙さんの助言もあって人質の奪回には成功するが、ノートは燃やされてしまう。寄宿舎を無断で抜け出すことは規則で禁止されているのだが、事情を聴いた舎監のヨーハン・ベック先生は、生徒たちから道理さんと敬称されるだけあり、寛大な措置をとってくれる。先生はこのギムナジウムで学んだときに、母親の見舞いのために無断で寄宿舎を抜け出した過去があり、その時に自分の身代わりになってくれた親友がいたが行方不明になっているという。

 生徒たちの学校生活とその中でのそれぞれの個性が生き生きと描きだされている。マルティンは奨学金を受けて学校に通っているが、父親が失業中で家計は苦しく、そのことが彼の心に影を落とす。ウーリは自分が臆病であることを気にしている。そういえば、ウーリが同級生からいたずらされたときに、それに気付いたクロイツベルク先生(生徒たちが奪われたのはこの先生の授業のノートである)は言う:「すべて乱暴狼藉は、はたらいた者だけでなく、とめなかった者にも責任がある」(125ページ)。翻訳者の池内さんもこの言葉を解説で書き留めているが、作者はこの先生をたえて笑ったことがない変わり者だと記しながら、見識ある人物としての一面も描きだしているのである。
 劇の上演は成功するか、少年たちはどんなクリスマス休暇を過ごすことになるのか、そしてベック先生は親友に出会うことができるのか…

 当時のドイツの学校制度ではギムナジウムは学問的な教育を中心とする9年制の学校で、実科学校が商工業に重点を置く教育をしていたのと対照的な教育をしていた。単に教育的な違いのほかに、社会階級の違いも生徒間の反目を促していたと思われる。9年制ということは小学校を卒業したばかりの10歳の子どもから大学入学直前の青年までが同じ後者の中で学んでいた。登場人物たちは5年生なので、ちょうど中間の段階にある。今の日本で言えば中学3年生か高校1年生というところ。この時代のドイツの学校は(日本でもそうだが)男女別学であった。ウーリが鬘をかぶって女装する役になるのもこのような事情からである。現代の日本の学校や少年たちと、当時のドイツの学校や少年たちには共通するもの、しないもの、両方があるが、それぞれに考えをめぐらせてみるのも一興であろう。

 この作品が発表されたのは1933年、ヒトラーが政権が誕生し、ナチスが全権を掌握していった年である。少年たちのあいだの、そして周りの小さな出来事を描きながら、作者はこんな感想をすべり込ませている。「知恵のない勇気は暴れ者にすぎないし、勇気のない知恵はたわごとにとどまる! 世界の歴史には愚かな連中が恐いもの知らずで、知恵あるものたちが臆病である時代がくり返しめぐってきた。それはゆがんだ状態なのだ」(25ページ)。

 池内さんはケストナーが時代の証言者の役割を果たし続けようとしたことを解説で語っている。マルティンやウーリの問題も個人的なものであるとともに、時代の病の反映でもある。そして、マルティンとジョニー、ウーリとマティアスは親友であるといっても、それぞれに秘密の悩みをもち、ゼバスティアンは孤独である。物語は一応めでたしめでたしと相成るが、それほどめでたくはない背景も暗示しているように思われる。先に引用した個所の、少し前でケストナーは書いている:「ただ自分を騙さず、人に騙されずにいてほしい。不運はしっかり見据えることを学んでほしい。うまくいかないことがあっても、たじろがず、運が悪くても、しょげないことだ。元気を出せ! 打たれ強くあることを覚えてほしい」(24ページ)。
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