悪童日記

11月28日(金)曇り

 横浜シネマジャックで『悪童日記』を見る。アゴタ・クリストフの原作小説(ハヤカワepi文庫)を途中まで読んでいたのだが、映画を見た後、こちらも読み終えた。原作を読みかけのまま、映画を見て、その後に原作を読み終えるというような接し方をしたのは、これが初めてのことである。

 第二次世界大戦末期、双子の少年が、「大きな町」から「小さな町」へと母親に連れられてやってくる。戦局の激化で都会での暮らしが難しくなってきたので、自分の子どもだけでも「小さな町」の外れに一人で住んでいる母親のところに預かってもらおうというのである。ところがこの母親=双子たちから見れば祖母というのが周囲から孤立して暮らす頑固者で、周囲の人々からは「魔女」と呼ばれている。自分の娘とも20年ほど連絡がなかったらしいのである。

 祖母は双子に対して、仕事をしなければ何も食べさせないといい、まき割りや水汲みから始めて、家畜の世話や行商の手伝いなどとこき使う。そういう生活の中でも、双子は、「大きな町」を出るときに父親から渡されたノートに自分たちのしていることを記録し、読み書きや数学の勉強を続け、どんな困難にあっても生き抜けるようにと身体の鍛錬を忘れない。彼らの住まいのすぐ近くを流れている小川のむこうは、外国である。戦争は彼らの生活を様々な形で脅かし続けている。

 祖母の家の隣に住む、目と耳の不自由な女性と少し頭が弱いらしいその娘、娘のいうところでは彼女にみだらなことをした司祭、司祭館の女中、町の親切な靴屋、酒場で芸をしたり、司祭を脅したりして、双子の世界は良くも悪くも、少しずつ広がっていく。空襲に襲われ、ユダヤ人たちが収容所に送られるのを目撃する。森の中であった脱走兵が飢え死にしているのを見つけて、彼の持っていた武器を自分のものにする。さらに、祖母のところには占領軍の将校が週末になると利用するために部屋を借りにやってくるが、なぜかこの将校に双子は気にいられているらしい。祖母が「魔女」と呼ばれているのは、彼女にその夫(双子の祖父)を殺したという疑惑がかけられているかららしい。彼女はいろいろなものをため込んでいて、それなりに豊かな生活をしているのだが、自分ではそうは思っていないようである。奇妙な生活の中で双子と祖母の距離は次第に縮まっていく。

 第二次世界大戦後にハンガリーからフランス、スイスへと亡命・移住したクリストフがフランス語で書いた原作小説は「大きな町」、「小さな町」、「外国」というように双子の少年たちの環境を漠然と、抽象的に描き、そのことで戦争の中で育つ少年たちの問題をより普遍的なものとして描きだそうとしているようである。ところが、映画はハンガリー語で作られているので、われわれはそれをハンガリーのかなり特殊な問題として理解してしまうのではないか。実際、ナチス・ドイツの支配、それが終わると今度はソ連の支配によって、自由を奪われた状態が続いた国というのは他にも少なくないし、物語はそのどこの国で起きても不思議ではない物語なのである。
 映画は、原作の登場人物や挿話を相当削っている。死体の描写など気味が悪いので、削ってくれた方が有難いというのが正直なところである。その一方で雪の場面など、寒さを強調している画面が双子の置かれている環境をよく説明していたと思う。さらに映画である以上、(原作には風景の描写がほとんどないのだが)物語の背景である風景が映し出され、その美しさが物語の異常さを引き立たせることにもなっている。おそらくそうした風景が多くの場所で第二次世界大戦前から手つかずで残っているのではないかなどと余計なことも考えていた。もっとも、映画の映していないところで破壊された環境や景観があるのかもしれない。

 原作の翻訳者である堀茂樹さんによると、クリストフはこの作品が子ども時代というものを描いていると述べているそうである(原作は抽象度が高い作品であると私が書いたことを裏付けるような発言である)。一方で過酷で、残酷なエピソードに満ちているようであるが、他方で生きぬいていくことの喜びも秘められている。原作に比べて、映画はいろいろな点で具体性が強くなっている分、わかりやすく、戦争と子どもという問題をめぐり、いろいろと考えさせてくれるのである。 
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