国木田独歩「富岡先生」

11月16日(日)晴れたり曇ったり

 蔵書を整理していたら、国木田独歩(1871-1908)の『牛肉と馬鈴薯 他三篇』(岩波文庫)を見つけた。「他三篇」というのは、「正直者」、「女難」、「富岡先生」であるが、ここでは「富岡先生」(1902)を取り上げてみたい。近代日本の文学者の中で、だれが一番好きかと質問されて1人を選ぶことはきわめて難しいが、国木田独歩がその候補者の1人であることは間違いない。この文庫本の解説の中で、片岡懋が書いているように、理想を目指す社会変革の志と現実的な立身出世の夢が自分の中にあることの矛盾を感じ、それを自分の文学の中に正直に反映させた文学者であった。

 「富岡先生」は吉田松陰の門人であり、明治維新の際にも尽力したが、その後不遇の人生を送った富永有隣(1821-1900)をモデルにしていることはよく知られている。独歩は1891年に有隣を訪ねているとのことである。
 維新の際に功績を立てて新華族に叙せられた人物を輩出したある県の話。「同じく維新の風雲に会しながらも妙なはずみから雲梯をすべり落ちて、ついには男爵どころか県知事の椅子一つにも有りつき得ず、むなしく故郷に引っこんで老い朽ちんとする人物も少なくはない。こういう人物に限って変物である。頑固である、片意地である、尊大である、富岡先生もその一人たるを失わない」(94ページ)。富岡先生は彼の住む地方だけでなく、東京でもその名を聞いて眉をひそめるものがずいぶんあるらしいというくらいの知名人である。

 彼は親族が世話をしようというのも拒んで郷里で私塾を開き、漢学を教えていた。同居しているのは末娘と家事を引き受けている老僕だけである。末娘の梅子は近所でも評判の美人であるが、富岡先生の塾の出身者で東京の大学に進学し、彼女に思いを寄せているものが3人いる。そのうちの2人である大津定二郎が法学士となって帰省した。大津は先生のところにあいさつに出かけたが、先生は例によって尊大な態度を取り、今は政府の顕職についている昔の仲間たちを罵倒する。気分を悪くして辞去した大津は程なくして地元の地主の娘と婚約する。

 婚礼の日に、祝儀の礼に招待されていた富岡先生は、出席せずに門弟で秀才ではあったが、家が貧しかったために師範学校に進学し、小学校の校長となっている(20代で校長というのは、今から考えると凄い話である)細川を連れて釣りに出かけている。2人が釣糸を垂れている向こう岸を大津が同行者と先生の悪口を言いながら通り過ぎていくのを、先生は怒鳴りつける。そして、道具を家に届けるように言って、先に帰宅してしまう。

 その夜、細川が先生の家を訪ねると、先生は娘を連れて東京に出発したという。何かあると相談に出かけている村長を訪問すると、彼は先生から手紙をもらい、留守中のことを託された、先生は門人で大学を卒業したばかりの高山と梅子をめあわせるための工作に出かけたのであろうという。ひそかに梅子に思いを寄せていた細川は気が気ではない。

 しかし先生は上京してから1週間ほどで梅子を伴って帰ってきてしまった。政府の顕職についている井下(井上馨が念頭にあるらしい)や江藤(伊藤博文が念頭にあるらしい)が自分を粗略に扱って偉そうにふるまうのはまだ我慢ができるが、門人であった高山や長谷川の態度には失望した。「小官吏(こやくにん)になればああも増長されるものかとおれも愛想が尽きてしもうた。業が煮えてたまらんから俺はすぐ帰国(かえ)ろうとしているとちょうど高山がやってきて驚いた顔をしてこう言うのだ。せっかく連れてきたのだから娘だけは井下伯にでも預けたらどうだろう、井下伯もせめて娘だけでも世話をしてやらんと富岡がかわいそうだと言って、大変俺を気の毒がっていたとこういうじゃアないか…なんだ貴様までおれをかわいそうだとかなんとか思っているのか、そんなつもりで娘をあずけるというのか、大ばか者!とどなりつけてくれた。」(105ページ) 先生の気焔はますます上がり、昔話やら、出世した仲間の悪口やら長く続いた。話を聞いていた村長は折を見て逃げ出したが、細川は辛抱強く先生の相手をしていた。

 その翌々日、東京の高山法学士から村長に手紙が届き、自分としては梅子と結婚したいので、何とか富岡先生を説得してほしいと記されていた。「老先生の心底には常に二個(ふたり)の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡氏、その1人はその経歴が作った富岡先生、そして富岡先生は常に猛烈に富岡氏を圧服するに慣れている」(107-108ページ)ので、富岡先生が富岡氏を圧倒していない時を見計らってこの問題を持ち掛けてほしいという。

 しかし、3日ばかり経って村長が先生を訪問してみると、先生は細川を相手に気焔を挙げている。これでは話にならないとそのまま帰った。さらに5日ばかり経って訪問してみると、先生は娘をしかりつけている。例にないことであると老僕と校長は心配する。

 その一方で細川は先生を足しげく訪問していた。しかし、秋になって風邪をひいたため、暫く訪問しないでいたが、病気も治ったので出かけてみると、梅子が泣いている。心配して事情を聴こうとすると先生に呼びつけられ、お前は娘と結婚したいのだろうと問い詰められ、その通りだと答えると、帰れ、自分が呼びにやるまでもう来るなと言われる。

 そういう悩み事を抱えても、仕事に支障をきたすような細川ではなかったが、心中では煩悶を続けている。聞くところでは先生の老衰はますますひどくなり、梅子もふさぎ込んでいるという。それでもなかなか先生の見舞いに出かけられずにいると、梅子から先生の代筆をした手紙が届く。急いで駆け付けると、いよいよ自分も死期が迫っていることを自覚しているので、折り入って頼みたいことがあると言われる。
 村長は東京の高山に対して、梅子は細川に嫁すことになり、自分がその婚礼の媒酌を頼まれた、これは両者にとって良縁であり、高山もよく考えれば納得することだと思うという手紙を送る。

 婚礼も済み、梅子は細川のもとで暮らすようになった。富岡先生は11月に死去して、「何国は名物男一人を失った。東京の大新聞二三種に黒枠二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚細川繁、友人野上子爵らの名がずらり並んだ。/同国のものはこの広告を見て「先生とうとう死んだか」とすぐうなずいたが新聞を見る多数は、何人なればかくも大きな広告を出すのかと怪しむものもあり、全く気のつかぬものもあり。/しかしこの広告が富岡先生のこの世に放った最後の一喝で不平満腹の先生がせめてもの遺悶(こころやり)を知人によって漏らされたのである。心ある同国人の二三はこれを見て泣いた」(120-121ページ)。

 文学者であるとともに、ジャーナリストでもあった独歩の個性がよく出た結び方であると思う。「心ある同国人」とはどのような人々であったか、というのが読者に対する問いかけであるとともに、明治維新以後の日本の歩みをどのように評価するかと問いにもなっている。

 独歩を高く評価した文学者の1人である芥川龍之介は「独歩は鋭い頭脳を持っていた。同時にまた柔らかい心臓を持っていた。しかもそれらは独歩の中に不幸にも調和を失っていた。したがって彼は悲劇的だった」(「文芸的な、あまりに文芸的な」と指摘したという。自己の矛盾に苦しんでいる独歩は、同じような矛盾に苦しむ人々の同乗者、共感者でもあったと解説者は述べている。富岡先生はいろいろと考えた末に、自分と同じ悲しみを味わいながら、しかも黙々と誠実に生きる細川に自分と同じ人間を見て、娘を託すことにしたのである。

 富岡先生は欠点も多いが魅力的な人物である。彼のモデルになった富永有隣についてはあまり多くのことを知らないのであるが、その師である吉田松陰に比べると思考の柔軟性のない人物であるという印象がある一方で、自由民権運動に共感するなど、新しい時代の動きにも決して鈍感ではなかったように見える(自分より50歳も若い国木田独歩と交流があったというのもその一例であろう)。解説者は富岡先生の士族意識や頑固さを欠点として挙げているが、欠点が転じて長所として評価されることもある(その逆もありうる)。

 独歩はどれをとってもそれほど長くないが、驚くほどに多様な作品を残した作家であり、そのような作品を通じて「人間の教師」であろうとした。その作品のひとつひとつが多くの可能性を残しており、文学が人生にどのような意味をもちうるのかを改めて考えさせるのである。 
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