『太平記』(17)

11月15日(土)晴れ

 元弘元(1331)年、笠置山に立てこもって勤王の兵を募った後醍醐天皇であったが、武家方の奇襲に敗れ、楠正成の立て籠もる赤坂に向かう途中、南山城で幕府方の兵にとらえられる。10月1日、六波羅の北探題が3,000余騎の兵力を動員して天皇を宇治の平等院へと移す。この日、鎌倉から派遣された2人の大将、北条一門の大仏貞直と金沢貞冬は天皇への拝謁を求め、三種の神器を渡していただいて、持明院統の皇位継承者として新たに即位すべき天皇(量仁親王=光厳天皇)のもとに移すようにと伺いを立てる。

 天皇が万里小路藤房を通じて仰せられたのは、「三種の神器はむかしから位を継ぐ帝が即位のときに前帝が自ら授けるものである。昔から天皇をないがしろにして天下の政治を動かすものはいても、三種の神器の受け渡しについて介入し、前帝から奪い取って新帝に渡すことをしたものはいない。しかも神鏡を置いていた内侍所は臨時に笠置の本堂に設けてあったので、夜討ちの際の火災で焼けてしまったのではないかと思う。神璽は山中を迷い歩いているときに木の枝にかけたまま置き忘れてしまった。宝剣はもし武士たちが天の罰など考えずに天皇に近づくことがあれば、天皇みずからがその刃の上に付す御覚悟であるため身近に置かれているのだと」の答えが返ってくる。とぼけたり、居直ったり、相手の要求を巧みにかわしているのは、藤房の知恵であろう。とにかくこの答えを聴いて、六波羅探題も、鎌倉から派遣された大将もいったんは引き下がる。

 翌日、天皇の乗り物を用意して、都へ帰還されることになるが、都といっても行く先は北条氏の根拠地である六波羅である。ここでも天皇とその側近(おそらくは藤房)が前例に従うべきだと最後の抵抗を試みて、時間稼ぎをする。しかし、ついに天皇とそのお側にいた公卿たちは六波羅に送られることになる。「日頃の行幸に事替はつて、鳳輦は数万の武士に打ち囲まれ、月卿雲客は怪しげなる籠輿、伝馬にのせられて、七条を東へ、河原を上りに、六波羅へと急がせ給へば、みる人涙を流し、聞く人心を傷ましむ。
 悲しいかなや、昨日は、紫宸北極の高きにましまして、百司礼儀の粧(よそお)ひを刷(かいつくろひ)しに、今日は、白屋東夷の卑しきに下され給ひて、万卒守禦の厳しきに御心を悩まさる」(163-164ページ)。
 天皇ご自身のご意志であったのか、藤房がうまく立ち回ったのか、天皇は面目をそれほど失わずに六波羅に向かうことになったが、公卿たちはみすぼらしい籠や輿にのせられて、七条通を東へ、鴨川の河原を上って六波羅へと急いでいく。 皇居で玉座にすわられていた天皇が、今や粗末な白い茅葺きの東夷の住処へと移され、厳重な警護に囲まれている。天皇は六波羅からそれほど遠くない皇居のことを思い出されることが多くなり、時雨の音を聞いて、
 住みなれぬ板屋の軒の村時雨音を聞くにも袖は濡れけり
(164ページ、住みなれぬ板葺の家の軒を降りすぎてゆく時雨の音を聞くにつけても、涙で袖が濡れる)と詠まれる。
 4,5日あって、中宮(西園寺禧子)から琵琶が送られ、それに添えて返歌がある。
 思ひやれ塵のみつもる四つの絃(いと)に払ひもあへずかかる涙を
(同上、引く人がなく塵ばかりつもり琵琶にかかる私のなみだを思いやってください。塵を払うに、絃を払う(鳴らす)、涙を払うをかけている。)
 これに対して天皇はすぐに返歌をされる。
 涙ゆゑ半ばの月は曇るともともに見し夜の影は忘れじ
(同上、空にかかる半月が涙で曇って見えなくても、以前ともに見た月の光(月影)とあなたの面影は忘れない。半月に琵琶の半月(半月形の穴)を掛けている。) 天皇と中宮の愛情を感じるか、両者の間の微妙な距離を感じるか、二通りに解釈できそうなやり取りである。『太平記』の作者は禧子に同情的で、彼女をかなり美化して描いている。天皇が阿野廉子を寵愛せずに、中宮を大事にされれば、その政治はもっとうまくいったと言いたげである。そういうことも考えて読むべきであろう。

 この月の8日、高橋と糟谷の2人の検断が六波羅にやって来て、捕えられた皇族・公卿を1人ずつ大名に引き取り預からせる。その中で万里小路藤房と千種忠顕は天皇の身近で仕えているべきであるとして、六波羅にとどめ置かれた。
 同じ月の9日、三種の神器を持明院の新帝(光厳天皇)に渡す。10月1日のやり取りはそれではなんであったのかという感じがしないでもない。堀川大納言(源具親)と日野中納言(日野資名、資朝の兄)がこれを受け取り、持明院統の根拠地の一つであった長講堂にこれを送る。13日、新帝が即位されることになり、長講堂から内裏へと移られる。「供奉の諸卿、花を折って行粧を引き刷ひ、随兵の武士、甲冑を帯して非常を戒めむ」(165ページ)。華やかな外見の反面で、警戒は厳重である。

 後醍醐天皇にお仕えしていた公卿たちは、この先、どういう目に遭うかと気が気ではない。一方新たに即位された光厳帝にお仕えする人々はわが世の春と浮かれている。「窮達時を替へ、栄辱道を分かつ。今に始めぬ浮世なれども、ことさら夢と幻(うつつ)とを分かちかねたりしは、この時なり」(166ページ困窮と栄達は時とともに変わり、栄誉と恥辱は所を変える。無常の世は今始まったことではないが、ことさらに夢と現実とが分けがたかったのはこの時のことである)と作者は時勢について評している。皇統をめぐる争いが、その周辺の貴族たちの去就にも影響を及ぼしているのである。新しい帝が即位されて、それで一件落着というわけにはいかない。いくはずがない。おそらくこの後の事態の展開が既に作者の頭の中にあったのだと思われる。政治の風向きの変化に連れて一喜一憂する人々が少なくないのは、この時代も現代も同じではないかと思われる。
 
 今回は、前回に比べると、後醍醐天皇が六波羅勢に囚われ、帝位を奪われる次第が描かれ、笠置山の攻防と天皇一行の逃亡を描く前回に比べて動きも波乱も乏しく、その一方で、(おそらくは)藤房の智謀や、天皇と中宮の歌のやり取りなど多少とも王朝風のエピソードが、あまり十分とは言えないながら、興味深く描きだされている。「平家なり 太平記には月も見ず」(其角)というが、『太平記』は決して、無味乾燥で風流と無縁の文学作品ではないのである。もっとも、新しい時代の新しい表現ということを考えるならば、「月も見ず」を徹頭徹尾貫いてみてもよかったのではないかという気もしないではない。さて、赤坂の楠正成は依然として幕府への抵抗を続けており、物語はその動きに目を向ける。正成がわずかな軍勢をもって敵の大軍と戦う様子については、また次回に紹介していくことにする。 
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