晩秋から初冬にかけての蕪村の句

11月13日(木)晴れ

 NHKカルチャーラジオ「文学の時間」『蕪村の四季 交響する魂』の第6回「訪(おとな)ふこころ」の再放送を午前中に、第7回「老(おい)が恋」の放送を夜に聴く。印象に残った個所や句を思いつくままに抜き書きして、感想を付け加えてみた。

 「訪ふこころ」は、
猿どのゝ夜さむ訪行(といゆく)兎かな (『古今短冊集』)
という句の解釈の可能性を語る内容であった。
 この句は、ふつう、「兎が猿の夜寒の山居をたずねた」と解釈されている。しかし、「猿どのの」の「の」を主体を表す「が」とみて、「秋も深まって、肌をさすような寒さを感じる夜、猿どのが兎さんを訪ねて行ったよ」と解することもできると、講師の玉城さんは論じる。京都博物館で現在展示中の様子である『鳥獣戯画』を思わせるような情景である。(そういえば、先日京都に行ったのだが、このことを知らずにすぐに帰って来て損をした気分である。)
 江戸時代の民謡には、猿が「ささら」を鳴らして伴奏、タヌキが鼓を打ち、兎が踊って田植えの景気をつけているというのがあるそうで、猿と兎の相談も、来年の田植えの手はずを整えるためのものかもしれないと環さんは論じている。

 また、芭蕉の『野ざらし紀行』のなかの
猿を聞人捨子に秋の風いかに
を連想して、和漢の古典の中で、猿の声は悲しみの象徴として受け取る伝統があったことについて触れて、捨てられた猿が孤独に耐えかねて兎を訪問したと受け取ることもできるとも論じている。

 さらに「猿どの」の句を収載する『古今短冊集』を編んだ大夢庵毛越との交友について触れ、上洛してまず大夢を訪問したときに江戸で「さあ共にこの世を軽んじて髪を落とし、衣を墨染めに代えて、都(京都)の月に向かって詩を吟じよう」と約束した通り、頭を丸めて浮世の夢を見つくそうとしているのは頼もしいことだと語り合っていると、知人がマルメロをもってきてくれたので、
まるめろはあたまにかねて江戸言葉
と詠んだ。お互いに頭を丸めた二人。つるつるになった頭をなでながら、旧交を温め合っているという句である。玉城さんは「頭を丸めろ」という表現は江戸でしか使わなかったのだろうと推測しているが、そうではなくて、命令に「-ろ」という助詞を使うのが江戸言葉の特徴だったのである(当時の普通のいい方では「まるめよ」というように、「-よ」を使っていたのではないか)。猿どのは、俳諧の宗匠としてちょっとばかりうぬぼれのぼせていた蕪村自身のこと、兎は毛越のことという解釈もできるという。そして猿と兎は、俳諧のあるべき姿について寒さの中で熱く語り合っていたのかもしれないと想像をめぐらしている。

 蕪村に訪う句が多いのは、彼の人恋しい気分の表れであろうが、四季折々の風物に寄せて、その思いが絵画的に表現されているところに特徴が見出される。
木屋町の旅人訪(とは)ん雪の朝
貧乏な儒者訪来ぬる冬至哉

 「老が恋」では、蕪村が老齢になってからの恋心を堂々と読んだ、江戸時代ではまれな俳人であったという。
老が恋わすれんとすればしぐれかな
実際の体験から生まれた句であるかどうかはわからないが、いろいろと想像を掻き立てる作品ではある。江戸時代には老いの恋は恥ずべきもので、表立って人に語るべきものとは考えられなかった。それを蕪村はあえて作品の中で表現しているのである。さらに他の句、例えば
鍋下げて淀の小橋を雪の人
という絵画的な句に描かれた女性の姿を老いの恋に重ねてみるのも一つの文学的な可能性ではあろう。

 蕪村というと、高校時代に萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』と読もうかどうか迷って、結局読まずじまいになっていることを思い出す。朔太郎が教えていたころに、明治大学の学生であった田村隆一が自分はモダニストを気取っていたので、前時代の遺物みたいな萩原の授業には1度しか出なかったと書いていたのを思い出す。そうはいっても、やっぱり授業に出ておいた方がよかったかなという反省の気持ちも籠っていたかもしれない。玉城さんのテキストでも参考文献に挙げられている安東次男の研究が発表されている時期でもあり、こちらの方も読まずじまいになってしまっている。改めて探して読み直してみようかなと考えているところではある。
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