『太平記』(16)

11月8日(土)曇り、雨が降りそうで降らなかった。あるいは家の中にいる間に降っていたのかもしれない。

 笠置山に皇居を移し、勤王の兵を集められた後醍醐天皇のもとに集まった武士の数は多くはなかったのだが、要害の地であり、立てこもっている兵の士気が高かったので、幕府方は攻めあぐねていた。この状況を心配した六波羅探題は鎌倉に早馬を送って援軍を要請する。得宗の相模入道北条高時は驚いて、すぐに軍勢の派遣を決断し、北条一門とその他の63人の大将に出動を命じる。大将軍に任じられたのは北条貞直、貞冬、阿曽治時、足利高氏(後の尊氏)であった。以下、軍記物語ではおなじみであるが、大将となる武士の名が列挙される。総勢20万人を超えるという大軍である。「九月二十日、鎌倉を立って、同じき晦日(つごもり)、前陣はすでに美濃、尾張に着けば、後陣は未だ[三河の]高志、二村の峠にぞ支へたる(滞っていた)。

 笠置山を包囲している軍勢の中に備中の国の武士である陶山藤三義高、小見山次郎がいたが、関東から大軍が派遣されるという情報を得て思うところがあり、一族郎党を集めて檄を飛ばす。これまでの攻囲戦で命を落としたものは少なくないが、大した手柄も無しに死んでしまったのは情けない。どうせ死ぬのであれば、大きな手柄を立てて後世に名を残そうではないか。これまでの合戦で功名を立てた武士の話を聞いても、それぞれ案内人がいたり、いい馬に乗っていたり、大軍があとからやってくるのを知っていたりしたためで、ご本人の勇武のほどはたかが知れている。今、ここで笠置山の要害を突破すれば、われわれの武勇は後世に語り継がれるだろう。ということで、当夜の風雨を利用した夜討ちの奇襲を思い立つ。

 そこで50人余りの武士が決死の覚悟で急な斜面を登っていく。しかし屏風を立てたような崖に行き着いてどうしようかと思っていると、陶山の中間で平五郎というものがいて、岩の上をすいすいと上っていき、上から縄を下す。兵士たちはこの縄を伝って崖を上り、守備が手薄であった笠置山の北の方からの侵入に成功する。防御の兵たちに怪しまれても、うまく言いのがれて皇居に近づき、あちこちで放火する。攻め込んだのはわずか50人ほどであったのだが、官軍は混乱して逃げ惑うばかりである。

 火の手が広がって後醍醐天皇がいらっしゃるところまで近づいてきたので、皇族方、公卿の面々が天皇をお守りしてとりあえず安全なところに逃げようとするのだが、敵の様子が分からないまま混乱してしまい、散り散りになって、天皇の御側にいるのは万里小路藤房、季房の兄弟だけになってしまう。「忝くも十善の天子の、玉体を田夫野人の形に替へさせ給ひて、そことも知らず(行く先も知らず)、迷い出でさせ給ひける御有様こそあさましけれ」(158-159ページ)。

 とにかく夜のうちに楠正成が立てこもっている金剛山の方にたどりつこうとするのだが、天皇はこれまで歩くという習慣がなかったために、一歩、一歩と歩まれることすら大変なことで、なかなか道のりが進まない。ようやく、現在の地名で京都府綴喜郡井手町の多可にある有王山の麓までたどり着いた。飲み食いもしないままに山の中をさまよっていたので、一行はフラフラになってしまう。この様子を天皇がご覧になって
 さして行く笠置の山を出しより雨が下には陰(かく)れ家もなし
(160ページ、笠をさすという名の笠置山を出てからは、天下に身を隠すところもない。笠をさすと目指す、笠と笠置、雨と天(あめ)を掛ける。さす、笠、雨は縁語と注記されている)という和歌を詠まれる。進退窮まったはずであるが、遊び心がこもった歌を詠まれるのは一種の余裕の表現と解すべきであろうか。
 これに対し藤房が涙をおさえて
 いかにせん憑(たの)む影とて立ち寄ればなほ袖ぬらす松の下露
(同上、たよりになる木陰と思って立ち寄ると、涙に濡れた袖を一層松の下露が濡らす、どうしたらよいだろう)と返歌をする。心情をそのまま詠んだ歌である。

 そうこうするうちにこのあたりの六波羅方の武士である三栖入道と松井蔵人が地元の地理に詳しいために一行の行方を突き止め、都に連れ戻すことになる。「殷湯夏台に囚はれ、越王会稽に降りし昔の夢に異ならず」(161ページ、殷の湯王が夏の桀王のために夏台という獄に囚われ、越王勾践が会稽山の戦いで敗れて囚われた昔の夢と異なることはない)。こうして天皇と側近の人々が都に連れ戻され、その様子を見てゆかりのある人々は涙をおさえることができないのであった。

 後醍醐天皇の鎌倉幕府に対する挑戦は敗北したかに見える。しかし、笠置山という要害の地に立てこもる戦術、あるいはその要害の地を奇襲によって攻略しようとする陶山・小見山の戦術、新しい時代の新しい戦いの様相が見える。城塞が突破されても、歩いてでも逃げようとする後醍醐天皇の意思にも新しさがある。『太平記』が転換期の文学と評される所以である。その一方で、中国の古典への言及・引用が多くなってきていることも注目されてよい。新しい時代に見合った表現として、漢文に近い文体が選ばれているのである。もっとも、どの時代にあっても、新しいことがいいことだと単純に評価してしまってはいけないことも認識しておくべきであろう。
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