ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(13)

11月6日(木)雨

 第12歌の末尾で、ダンテとウェルギリウスは半人半馬のネッソスに導かれて、地獄の第7圏第1小圏を流れている、煮えたぎる血の川を渡る。第13歌では、第2小圏の様子が描かれる。

いまだネッソスは向こう岸にたどりついていなかった。
その時に私達は小径の気配さえまったくない
ある森に足を踏み入れた。
(192ページ)
 改めて思い出してみよう。叙事詩の冒頭でダンテは、深い森の中に迷い込んでいた。「我らの人生を半ばまで歩んだ時/目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。/まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた」(26ページ)。
 「暗い森」は神の光が失われた世俗的、物質的世界の象徴。「森の中では道が人間性の象徴となる」(550ページ)と翻訳者の原さんは注記しているが、その道らしいものはまったく見当たらない。しかも、その森というのがきわめて異様である。

緑に茂る葉でなく、反対に、暗鬱な色をしていた。
しなやかに伸びる枝ではなく、反対に、瘤だらけでからみ捩れていた。
果実はなく、反対に、毒のある棘が尖っていた。

これほどに凄まじい、これほどに鬱蒼とした藪には
チェチナからコルネート一帯の原生林に散らばる耕地を
憎む、あの野生の獣でさえ生きていない。
(192ページ)
 「チェチナからコルネート一帯」というのは、当時トスカーナで最も密な原生林があったマレンマ地方であり、『野生の獣』はイノシシのことであるという。神話に出てくる怪鳥が枝に巣をつくり、いたるところから人間の苦悶の叫び声が聞こえてきたが、声を挙げているはずの人々の姿は見えなかった。ダンテの心の内を見透かして、ウェルギリウスはこれらの木々の枝を1本折ってみるように勧める。

そこで私は腕をわずかに前へと伸ばして
大きな茨の一枝を手折った。
するとその幹が叫んだ。「なぜ俺を引き裂く」。

そして血でどす黒く染まった後、
再び話しはじめた。「なぜ俺を折る
おまえには憐憫の情の欠片(かけら)もないのか。

我らは人間であった。そして今は茂みに変じられている。
・・・」
(194-195ページ)
 奇怪な樹木の姿に変えられているのは自殺者たちの霊であった。ウェルギリウスはダンテがその枝を手折った樹木が神聖ローマ帝国の皇帝フェデリコⅡ世の秘書官で、シチリア王国の宰相兼首席裁判官として権勢をふるったが、敵側への情報漏えいの嫌疑で逮捕され、目潰しの刑に処せられ、不当な嫌疑を晴らすため自殺したピエロ・デッラ・ヴィーニャの変わり果てた姿であることを知る。詳しくは原さんの解説を読んでいただきたいが、ダンテは文学者であり、政治家でもあったこの人物と自分との共通性を見出し、言葉を失う。「憐れみがあまりに心を苦しめるために」(200ページ)。(第1歌の森の描写と、この第13歌の森の描写が類似しているのもこのことと関連する。)
 最後の審判の後、自殺者の肉体は首つりをした姿のように、魂が変じた木に吊るされるとヴィーニャは言う。「それぞれが、その敵である影が化した茨から」(202ページ)。市民階層出身であるのに宮廷政治に深入りしすぎてしまったヴィーニャの悲劇を辿りながら、ダンテは市民階層の中の浪費傾向にも目を向ける。

 この小圏にはまた自らの家産を浪費して破滅した人々の霊も閉じ込められていた。その中にフィレンツェの出身者の姿を見つけて、ダンテはいたたまれない気持ちになる。

 講談社学術文庫版ではダンテの時代のイタリアとヨーロッパの政治状況の中でこの作品がどのように解釈されうるかという詳しい解説が施されていて、それはそれで価値のあるものではあるが、もう少し視野を広げて、より普遍的な視野から作品を観ていきたいと思う。とはいっても、まず作者の真意をできるだけ正確に理解していくことも必要であり、そうなると執筆の背景をなす当時のイタリアの政治・文化の状況を知る必要があるのである。
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