会話の難しさ

2月10日(日)晴れ

 2月7日にクリスティーの『シタフォードの謎(秘密)』について取り上げた際に、デヴォンのエクセターに行ったことがあると書いた。クリスティーの『死者のあやまち』もこのあたりが舞台で、篇中に出てくる大聖堂に出かけたことを思い出す。

 さて、この町の本屋で街の地図を買った時のこと、中国系らしい店員に「ハリー・ポッターの新しい本を読んだか?」と聞かれたので、「まだ、読んでいない」と答えてそのまま店を出たのだが、これはまずかったと思っている。英国の別の地方都市で暮らしていた頃、よく中国人と間違えられた。中国系の人からも中国人と間違えられたことさえがある。それで彼女が私を中国人と間違えた可能性もあるが、いずれにしても、ハリー・ポッターは主眼ではなくて、何でもいいからしばらく世間話をしたかったのであろう。それを読みとれなかったのは、こちらの会話力も大したことがなかった。会話というのは、(好意があれば)誤解や行き違いからでも発展する可能性をもっているからである。

 昨年見た映画『最強のふたり』のなかで金もちの白人の介護をやめた黒人青年が仕事を探すうちに、面接で美術の話になり、相手が画家のゴヤについて持ち出すと、歌手のシャンタル・ゴヤのことだと間違えてとうとうと話し出すという場面があった。場面はそこで終っていたが、そこから会話が発展した可能性が示唆されているように見受けられた。私が担当者ならばシャンタル・ゴヤが出演したゴダールの『男性・女性』に話を展開するところである。

 外国語教育で文法よりも会話を重視すべきであるという主張がなされて久しいが、会話は形式と内容がそろって実質化しうるものである。そして、形式は学校教育を通じて身につけることができるが、内容は個々人が自分たちの職業や趣味に合わせて開発していくべきものであろう。それに生活習慣の問題もある。自分たちの間で丁々発止の会話を楽しんでいない人が果たして外国語による形式的な会話教育を受けただけで堂々と自己の主張を展開する国際人になりうるのだろうか。会話重視を説く前に、自分たちの母語による会話経験を豊かにする必要がある。
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