『太平記』(15)

 10月27日(月)曇り後晴れ

 後醍醐天皇が笠置山に御座を定められ、心を寄せる武士たちが集まっているという情報が京都に伝わり、一度は勢いを失った比叡山の大衆がまた力を取り戻して六波羅を攻めてくることもあろうかと、佐々木時信らを大津に派遣する。また六波羅の検断(探題のもとで警察・裁判を司る役職)である糟谷三郎宗秋と隅田次郎左衛門尉が500余騎を引き連れて宇治の平等院に向かうと、最速もしないのに軍勢が集まってきて10万余騎に達した。

 翌日の午前10時ごろに「矢合はせ」といって、双方が鏑矢を射交わす儀式を行ってから合戦に及ぼう説いていたのだが、六波羅方の高橋太郎という武士が抜け駆けの功名を狙ってわずか300余騎で笠置の麓に押し寄せた。笠置さんに立てこもる天皇方の兵はそれほど多くはなかったが、士気盛んで、3,000騎あまりの兵力で高橋の軍勢を包囲し、圧倒したので、高橋は最初の勢いはどこへやら、逃げようとするが木津川の流れに押し流されて命を落とすものが多数出た。「わづかに命ばかり助かるものも、馬、物具を捨てて赤裸になり、白昼に京へ逃げ上りければ、見苦しかりし有様なり。これを悪し(にくし=みっともない)と思ふものやしたりけん、平等院の橋爪に一首の歌を書いてぞ立てたりける。
  木津川の瀬々の岩浪速ければ懸けて程なく落つる高橋<(木津川の流れが速いために架けてもすぐ落ちる橋のように、あっさり逃げた高橋であるよ。橋を架けと馬が駆ける、橋が落つと高橋が逃げ落つとを掛けている。142-143ページ)
 
 これは油断できないと慎重になった糟谷と隅田は軍勢を分けて笠置山を包囲する。「大手、搦手、都合7万5千余騎、笠置の山四方2,3里が間尺地も残さず充満したり 」(144ページ)。とはいうものの「かの笠置の城と申すは、山高くして、一片の白雲峰を埋み、谷深くして、万刃の青厳路を遮れり。攀(つづら)折たる路、廻り上ること18町、岩を切って堀とし、石を畳みて塀(かべ)とせり。されば、たとひ防がずともたやすく上る事を得難し」(144ページ)という天然の要害である。守っているのは3,000余騎に過ぎないが、「その勢ひ決然として、あへて攻むべき様ぞなかりける」(145ページ)ということで、寄せての方は攻めあぐねてしまう。

 天皇方の武士である足助次郎重範は三河の国の出身で、同じ東海地方の尾張の武士である荒尾九郎を弓矢で倒す。さらにその弟である弥五郎も足助の強弓に命を落とす。これをはじめとして両軍が入り乱れた戦うが、奈良の般若寺からやってきていた本性房という僧侶が豪傑で「尋常(よのつね)の人の百人しても動かし難き大磐石のありけるを、軽々と脇に挟み、鞠の勢に引つ欠け引つ欠け(鞠の大きさに砕いて)、2,30が程続け打ちにぞ抛つたりける」(148ページ)という大活躍を見せて、寄せ手に損害を与え、その攻撃を食い止める。それにしても、落語の「うそつき弥次郎」ではないが、大岩をちぎっては投げ、ちぎっては投げということが可能なのだろうか。さらに大岩を脇に挟むというのも眉唾物ではある。

 こうしてなかなか勝機を見いだせないまま、寄せ手は笠置山を遠巻きにして様子をうかがうだけになった。

 同じころ、楠正成が赤坂城で挙兵し、桜山四郎入道が備後で挙兵した。「前には、笠置の城強く(こわく)して、国々の大勢日夜攻むれども、未だ落ちず。後ろには、楠、桜山の逆徒大きに起こって、使者日々に急を告ぐ」(150ページ)。六波羅では東国からさらに兵力を動員しようと考える。

 今回の笠置山の攻防の描写には『太平記』の特色がよく出ているのではないか。よかれあしかれ、『平家物語』に比べると殺伐としているのだが、その一方で、勇猛さが見かけ倒しに終わっている武士を描いたりする批判精神とユーモアが感じられるところがある。だから私は『太平記』が好きなのである。
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