『太平記』(14)

10月19日(日)晴れ

 明日(10月20日)は、大学時代の友人たちと集まるために、京都まで日帰りで出かける予定で、明日の分のブログは明後日に書くつもりである。もっとも、この原稿を書いているうちに、20日になってしまいそうではある。

 今回から『太平記』の第3巻に入る。全部で40巻(ただし22巻が欠けているので、実は39巻)あるので読み終えるのはだいぶ先のことになりそうである。岩波文庫版では6冊に分けて刊行される予定で、こちらがまだ第1分冊の半分までいかないうちに、第2分冊が発行された。こちらはこちらで焦らずに読み進めることにしよう。

 元弘元年(1331年)8月27日に、後醍醐天皇は笠置に臨幸され、笠置寺の本堂を皇居とされた。最初のうちは、鎌倉幕府の威勢を恐れて天皇のもとに参集する人もいなかったが、比叡山東坂本の戦いで六波羅の軍勢が敗走したという知らせが伝わってくると、笠置寺の僧侶たちをはじめとして、近隣の武士たちがあちこちから少しずつ集まってきた。とはいうものの、名の知れた武士、百人、二百人という部下を従えた武士は一人も見当たらない。

 このようなことで皇居を守りきることができるのかと、天皇は思い悩まれているうちに、うとうととされ、不思議な夢をご覧になった。内裏の正殿である紫宸殿の庭と思しき場所に、大きな常盤木=常緑樹が立っている。この木は橘であると注記されている。紫宸殿の前には右近の橘、左近の桜が植えられていたというし、橘は常緑樹であるが、さくらは落葉樹であるから橘とも考えられるが、橘はあまり巨木にはならない。一考を要する点である。「緑の陰茂りて、南へ指したる枝、殊に栄えはびこり、その下に、三公、百官位によって列座す」(137ページ、「三公」は太政・左右大臣、「百官」はすべての官人)。南に向かって天皇の座るはずの座席が設けられているが、空席になっている。天皇が、夢の中で誰のために設けられた座席なのであろうかと怪しんでいらっしゃると、突然、2人の童子が現われて、次のように告げて、天に戻っていく:
「一天下の間に、暫くも御身を隠さるべき所なし。但し、かの木の陰に、南へ向かへる座席あり。これ、御ために設けたる玉扆にて候へば、暫くここにおはしまし候へ」(138ページ、「玉扆」は天子の御座。「扆」は御座の後ろに立てるついたてのことだそうである)。
 夢から覚めて、天皇は木に南と書くと楠という字になる、南に向かって坐るというのは天子は臣下に対して南面して座を占めるのであるから、帝位を保つことができると思い至られた。そこで笠置寺の僧にこのあたりに楠という武士がいないかと尋ねると、僧は、このあたりにはいないが、河内国金剛山の麓に楠多聞兵衛正成という武名の高い武士がいると答える。先祖は橘氏であり、彼の母が若いころに、信貴山の毘沙門天に参詣して、夢のお告げを得て産んだ子どもであり、幼名を多聞といったと彼の噂を語る。天皇は彼こそ夢に見た人物に違いないと考えられて、中納言万里小路藤房卿を正成のもとに遣わされる。藤房は既に登場しているが、天皇が最も信頼されている、また信頼されるべき近臣である。

 天皇の仰せを承った正成は、武士としてこれ以上の名誉はないとすぐに天皇のもとに参上する。天皇はこれを喜ばれて、藤房を通じて、どのようにして幕府を倒し、また平和な世の中をきずくことができるか、考えを述べよと言われた。これに対して正成は、幕府が朝廷にそむくのは天の道に反することであり、これと闘って罰するのは当然のことである、天下草創のためには武略と智謀が必要である。今のところ、鎌倉方の武力が圧倒的に優勢であり、武力の点から言えば全国の兵を集めても武蔵・相模の精鋭を集めた幕府軍に勝てるとは思えないが、 幕府軍は武力だけに頼り、智略に欠けているので、そこに勝機を見出すことができる。「合戦の習ひにて候へば、一旦の勝負は必ずしも御覧ぜらるべからず。正成未だ生きてありと聞し召し候はば、聖運はつひに開かるべしと思し召し候へ」(140-141ページ、勝敗は時の運ですから、一時の勝ち負けにこだわるべきではありません。正成がまだ生きているとお聞きになれば、最後には陛下のご運は開くものだとお思いになってください)とまことに頼もしげに述べて、河内の国へと戻っていったのであった。

 楠正成と楠氏の出自についてはいろいろ説がある。これから余裕があるときに紹介していきたい。源平藤橘というが、橘氏を名乗る一族はあまりないのではないか。後醍醐天皇が夢に見た常緑樹を岩波文庫版の兵藤裕己さんの注では橘としているが、楠と考えてもよいのではないか。大木ということを考えると楠の方が似つかわしい。

 信貴山は大阪府と奈良県の境にある山の1つで、大阪側からも、奈良側からもケーブルカーが設けられている。それだけ険峻な山である。朝護孫子寺に伝わる『信貴山縁起絵巻』は有名で、昔、あることでこの絵巻の一部を撮影したプリントを拝借しに、お寺に出かけたことがある。毘沙門天は多聞天ともいい、持国天、増長天、広目天とともに四天王として仏法を守護する神である。そういえば、七福神の中にも数えられている。楠正成が多聞天の申し子だということもあってか、昔は男子に多聞という名前をつけることがあった。私の中学・高校時代にも1人、多聞という名の同期生がいた。 

 この後で触れることになるが、正成は天皇に合流せずに、自分の地元で挙兵することになる。幕府方の勢力を分断・かく乱するためにも、自分が勝手を知った場所で戦うほうがいいという考えからであろう。正成が登場することによって、物語としての『太平記』はさらに大きく動き始める。事態はこの後、どのように推移していくのであろうか。
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冒頭の記念同窓会、楽しかったですね。貴兄はじめ懐かしい皆さんにお会いでき、ハッピーでした。ご活躍を祈ってます。(先ほど、メールで写真が届きました。)
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