須賀敦子『塩一トンの読書』

10月18日(土)晴れ

 10月17日、須賀敦子『塩一トンの読書』(河出文庫)を読み終える。著者の死後に読書に関するエッセーや書評を集めて編集され、2003年に単行本として出版されたものを文庫本にしたものである。単行本も買ってはいたのだが、その時は読む気分になれなかった。須賀さんの本には独特の雰囲気があって、その雰囲気に引き付けられて読みまくっているかと思うと、なぜか敬遠したい気分になることもあった。今は、わりに落ち着いた気持ちで読めそうな気分である。

 巻頭に収められている「塩一トンの読書」というエッセーの中で、須賀さんは「塩一トン」という表現の由来を語っている。ミラノで結婚して間もないころ、夫の母親がこんなことを言ったという:
「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩を一緒に舐めなければだめなのよ」(11ページ)。
 その人間と一緒に苦労を重ねないと本当には理解できないということだが、彼女はこのたとえをよく使い、そのニュアンスは時によって異なったという。
「文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を思い出すことがある。・・・すみからすみまでりかいしつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮なおどろきに出会いつづける」(12-13ページ)と菅さんは書く。さらにカルヴィーノのこんな言葉を引用している:
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ」(13ページ)。
 本は自分で読んでみなければ理解できない。当たり前のことではあるが、読まないでわかっているような気分になっていることが少なくない。古典を読むべしという主張は、読書論として特に新しいものではない。読書指導の言葉で良書主義という言い方がされるが、その場合良書とは、古くから伝統的、あるいは習慣的に良書とされてきた古典的な書物である。しかし、そういって推薦している人が本当にその書物を読んでいるかどうか怪しい場合がある。須賀さんの場合は自分の読書経験を通して、古典を語り、古典を読むことを勧めているので説得力がある。
 読書経験といえば例えば、こんな個所がある。「学生のころ、古典だからという理由だけのために、まるで薬でも飲むようにして翻訳で読み、感動もなにもなかったウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』を、ほとんど一語一語、辞書を引きながらではあってもラテン語で読めるようになって、たとえば、この詩人しか使わないと言われる形容詞や副詞や修辞法が、一行をすっくと立ちあがらせているのを理解したときの感動は、ぜったいに忘れられない」(15-16ページ)。
 まず、ご本人は謙遜した書き方をしているが、ラテン語で『アエネイス』を読むということがすごい。「ほとんど一語一語、辞書を引きながら」と書いているが、その辞書というのはおそらく「羅伊」か、「羅仏」か、「羅英」であって、そういう辞書を使って読んでいくというのは簡単な作業ではないことを理解する必要がある。それから「この詩人しか使わないと言われる」という知識をもつには、ウェルギリウスについての研究書を何冊か読んだり、あるいは大学で講義を聞いたりしていなければならないはずである。「一行をすっくと立ち上がらせている」という表現には、叙事詩を実際に読んでいるという実感があふれている。

 そういう須賀さんの読書の日常の姿を垣間見せているのが「読書日記」。須賀さんが早くからポルトガルの詩人ペソアの文学的営為を評価していたことに、いまさら気づくのは間の抜けた話ではあるが、やや畑違いに思われるジュール・ベルヌやフェリーニや、丸谷才一に目を通している。そして、ガートルード・スタインの女ともだちであったアリス・B・トクラスの料理書を東横線の中で読んでいたら、「となりにすわった若いアメリカ人が、ぼくもその本、だいすきです、といって、名刺などくれてしまった」(60ページ)というなんとなく楽しいエピソードも記されている。

 「作品の中の『ものがたり』と『小説』――谷崎潤一郎『細雪』」は須賀さんの文学者としての読みの深さ、鋭さをいかんなく発揮している作品鑑賞であるとともに、関西で生まれ育った須賀さんの思い出も語られていて、読み応えのある文章である。作品の中に登場する蒔岡家の三女である雪子の伝統的な生き方が「ものがたり」、四女である妙子の奔放な生き方が「小説」として描かれているという。この文章を読んで、本当にそうなのか、自分で『細雪』を読んで確かめてやろうと思い至るほどに魅力のある作品論である。この作品、映画化もされていて、そういう場合、映画を見てから原作を見るというのが私の主義なのだが、先日観た藤村の『夜明け前』のような古典は別であり、『細雪』もやはり古典と考えることにしようと思う。

 ジェラール・フィリップについて、あるいはトーマス・クックについて、須賀さんは思うままに語っている。収められているエッセーのひとつひとつが、須賀さんの読書遍歴と生活経験の両方から味付けさせられて、塩一トンどころか、他の調味料も一トンずつ積み重ねられいたのではないかと思ってしまったのである。 
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